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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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九十三、真耶佳と皇子

 大王(おおきみ)は一眠りすると、慌ただしく元始祭に出て行った。大王を見送った閨に残されたのは、皇子(みこ)真耶佳(まやか)。皇子はしんなりと俯いて、いつもの言葉尻の鋭さも忘れて居る。真耶佳は敢えて話し掛けず、寝た振りを決め込んだ。月葉(つくは)の綿入れは、真耶佳の味方だ。

「ははうえ…」

 不意に、皇子が真耶佳の肩を揺すった。力無い声、心細げで母の心に刺さる。けれど真耶佳は振り向く事はしない。今、宮は寝静まっているのだし、側女(そばめ)達も各々の間に一度戻り休みを取っている。(いお)(もり)では亜耶も八和尊(やかずほ)に厳しく接する事にしたと云う。真耶佳も其れを真似て、皇子に厳しく接する事にした。其の方法が、良いか悪いかは別にして。

「ははうえ」

 振り向かない真耶佳の背で、皇子は泣き出した。先程の様な(やかま)しい泣き声で無く、押し殺した小さな啜り泣き。流石に真耶佳は腹が重い乍らも振り向いた。

朝霞(あさか)、何なのです。母は産女なの、休ませて頂戴」

 其れがどんなに冷たく響くか考えず、真耶佳は小さく溜息を吐いた。すると、真耶佳の背から離れた皇子が、表情をくしゃりと歪ませる。

「ははうえも、同母妹(いろも)しか要らぬのか…」

 真耶佳は少し、杜子(とうこ)の子生みが近付く事に浮かれていた。自分で乳を遣れる姫、杜に連れ帰れる姫と。其れ故、皇子に厳しく当たり過ぎたかも知れぬと此の朝を悔いる。

「朝霞、杜子しか要らない事は無いわ。只貴男が、少し甘え過ぎだと…そう感じて仕舞ったのよ」

 年明けて二つに成ったばかりの皇子に、甘えるなとは言い難い。真耶佳はやっと、其の事実に気付いた。厭々が始まる前に、皇子を遣り込めようとした思いも有った。厳しく育てるのと遣り込めるのとは、違う。

「ははうえに、甘えてはならないか」

「然うね、時と場所を考えてくれれば、良いわ」

「今は」

 其処で真耶佳は、少し迷った。未だ眠って居たいのも事実、腹が重いのも事実。

「では、一緒に眠る?」

「我は眠くない…でも、ははうえが眠いというなら手を繋いで寝たい」

「悪くないわね、そうして頂戴」

 真耶佳が起き上がり、綿入れの位置を変える。皇子の方を向く為だ。其れに腹を乗せて、皇子に手を延べた。思っていた以上に小さな手が、真耶佳の手を掴む。温かい、と。真耶佳は素直に然う思った。

「朝霞、貴男が二つならば母も母になって二年なの。慣れぬ事は、此れからも有るわ」

「ちちうえには、あねうえが居るであろう?」

悟織(さとり)は母妃が育てたのだもの、父様も父になって二年よ。悟織と遊馬(あすま)の方が父母になって長いわ」

「我は、真尋(まひろ)が嫌いだ」

「真尋は秀真(ほつま)の定められた人。嫌いだとて遠離ける事は許しません」

「しかし真尋は、我に従わぬ上に我を愚かだと言う…!」

 其処で真耶佳はふふっと笑って仕舞った。途端に皇子が、哀しげに目を見開く。真耶佳は空いた手で皇子の頭を撫で乍ら、今までの皇子の行いと真尋の言葉の辻褄を合わせて行く。

「黒い針に魅入られた貴男は、愚か。従う必要は無いわ」

 最後に然う結んだ真耶佳の言葉に、皇子は只唇を噛むのみだ。己が愚かだったから、指摘していて呉れた。従わずに、也耶(やや)も秀真も守り乍ら。

「真尋は(あま)(かみ)様に愛された巫覡(かんなぎ)霊力(ちから)は底知れずよ。嫌いと云う前に、一度きちんと考えなさい」

「はい…ははうえ」

 真耶佳には、其の後の記憶が無い。皇子を置いて、眠りに就いて仕舞ったらしい。朧気に目を開いた真耶佳を待っていたのは、眠れなかったらしい皇子の問いだった。曰く、亜耶と御爺(おんじい)も我が嫌いかと。




 宮に側女達が来て、皆が起き出した頃。真耶佳は皇子を抱いて水鏡(みずかがみ)の前に居た。皇子は巫王(ふおう)にも亜耶にも嫌われて居無いと言っても信じず、水鏡を繋ぐ様請うたのだ。

 勿論、真耶佳には魚の杜の様子を闇見(くらみ)する事は出来無い。居るか居無いか分からないが、繋ぐと決めた。其処に、(みお)が遣って来る。

「真耶佳さま、如何したのです?」

「朝霞が水鏡を繋ぎたいらしいのよ…。お父様と亜耶、今女御館(おなみたち)に居るかしら?」

「お義父(とう)様は居られないかも知れませんね。(くが)に新年の言祝(ことほ)ぎに行くと見えています…」

「もう間に合わぬか!?」

 其処で突然、皇子が話に割り込んできた。如何(どう)しても御爺にも訊きたい、と言い募って。

「朝霞、陸に行ったからと言ってお父様が果敢無(はかな)くなる訳では無いのよ?」

「しかし…」

「亜耶だけでも良いじゃない。お父様のお心も闇見為て呉れるわ」

 皇子は、納得したのかしないのかむう、と唇を尖らせた。けれど亜耶の霊力は言い含めて有るので、最後は其れで揺らせと言う。澪と真耶佳は目を合わせて、我が侭は健在だ、と確認為合った。まあ真耶佳自身亜耶に訊きたい事が有るので、どちらにせよ水鏡は繋がれただろう。澪が手を翳すと、也耶が走ってきて加わる。結局、明け方の面々と皇子と云う構図で宮では水鏡の前に座るのだった。

 水鏡が繋がると、亜耶は大蛇(おろと)と共に八和尊を膝に乗せていた。皇子は八和尊を睨むが、八和尊は気にしない。也耶に向かって手を伸ばし、也耶が其の手を掴む。指を絡め合う二人を見て、皇子は言葉を失っていた。水鏡の向こうでは、八和尊に飛沫(しぶき)が寄って来て刻限を見ている。

「触れる」

「触れるね」

 幼い二人が楽しげに笑い合うのを、皇子は良しとしなかった。両の手を水鏡の器に向かって延べ、水面を揺らそうとする。すんでの所で真耶佳が止めたが、皇子は暴れるばかりだ。

「皇子」

 亜耶が静かな声で皇子に呼び掛けた。皇子は途端にびくりとして亜耶の方を見る。其の声に滲む怒りに気付いたのだ。

「二人は異世(ことよ)を越えて手を繋いで居るのです。水鏡を動かしたら、指が落ちるかも知れない。お考えに有りましたか?」

「そ…そんな、こととは…」

「もし八和尊と也耶の指に何かあったら、私は皇子を嫌いになるかも知れませんよ」

「………」

 皇子は亜耶の言葉に瞠目為ていた。其れは、未だ嫌いでは無いと言って呉れたから。妙な所で頭の回る皇子は、亜耶の言う真の意味に気付いたのだ。

「皇子がお聞きになりたかったのは、其れでしょう?」

「そう、だ」

「御爺はもっと可愛がりたいと思って居りますが、私は貴男に忠言を届け続けなければ成らない。適度な距離は必要です」

「届けて呉れるのか…」

「ええ、大抵は秀真を通してですが、皇子を水鏡の前にお呼びする事も有るでしょう」

「分かった」

「本気で怒る事も、有ります」

「…覚悟する」

 皇子が膝の上に手を置き、少し大きい袴をぎゅっと握る。手には、厭な汗がじわりと浮かんだ。

「亜耶」

「何です、皇子?」

「我は、困った存在か」

「時折然うですね。特に、此の時期と妻を問う時期は」

 突然、水鏡の向こうで飛沫が動いた。八和尊の肘に頭を擦り付け、手を離せと迫る。八和尊と也耶は、仕方無しに手を離して母の膝に鎮座した。

「…何故、山猫の云う事を聞くのだ?」

 皇子にとっては、途轍もない疑問だったらしい。手を離したくないのなら、其の侭握り合っていれば良いと。

「霊力の足りない侭手を繋ぎ続ければ、手だけが異世に落ちて仕舞う。其れを互いに知っているのですよ」

 巫覡だから。その言葉は不要だった。皇子も察したらしく、己の未熟さを恥じる表情に変わる。そして、也耶には如何しても八和尊なのか、と今更の問いを口にした。

「もうずっと前に誓ったの。也耶には、八和尊。巫覡の誓いは絶対」

 不意に横から也耶が応えて、皇子は鼻白む。定められた仲なのは間違いない、と云う亜耶の説明も相俟って、皇子は二度目の恋に破れた。皇子が何も言う気を無くしたのを幸いと、真耶佳が口を開く。

「ねえ亜耶、八和尊を厳しく育てると言って居たけれど、其れはいつから?」

「厭々が終わってからよ。厭々の前には信じて貰わなければ」

 真耶佳は、思わず呆気に取られた。もう厳しくしなければ、とは、真耶佳の独り相撲だったのだ。

「朝霞、御免なさいね…」

「何故、ははうえが謝るのだ?」

「真耶佳、もう厳しくしようと為ていたのね。未だ早いわ」

「甘えさせる事と甘やかす事を、混同していたみたい」

 苦笑いを浮かべた真耶佳に、亜耶も苦笑する。見れば、澪も苦笑している。

「真耶佳さまの垂乳根(たらちね)像は羽張(はばり)さまなのでしょう?慈愛に溢れた方と伺いました」

「其れは…時記(ときふさ)兄様から?」

「はい!」

 澪の無邪気で元気な答えに一同絆されて、笑い合う。皇子は羽張など知らずとも、流れで笑顔になっていた。

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