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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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九十二、食欲

 亜耶と大蛇(おろと)は、遅い昼餉が届くまで眠って仕舞った。其れさえも、氷冴(ひさえ)が預けられて途方に暮れている始末だ。大蛇が気付いて受け取りに行き、氷冴は漸く四人分の昼餉を捧げ持つ係から解放された。

「此の結界も、こう云う時は困りもんだな」

「せめて、廊下まで入れる様に為て頂ければ有り難いのですが…」

「然うすると八津代(やつしろ)が入ってくるしなぁ…」

 其処で氷冴はあ、と言った。巫王(ふおう)はもう来て、外で震えていると云うのだ。

「亜耶…」

「聞こえているわ。お父様も入れるわよ」

 布連を潜った亜耶が、寝起きの姿其の侭に氷冴の目に触れる。氷冴は慌てて目を逸らして、大蛇の歓心を買っていた。

「確かに氷冴は廊下まで入れる様に為た方が良いわね。結界を組み替えて置くわ」

「あ…有り難う御座います、亜耶さま!」

「では、お父様を呼びに…」

「行って参ります!」

 主の寝起き姿が気まずかったのか氷冴は、脱兎の如く巫王の元に駆け寄って行く。礼を言う間も、亜耶の方は見なかった。

「私が行く、と言おうとしたのだけれど…」

「お前、其の格好で出てくんな。せめて(おすい)を羽織れ」

「…ああ、御免なさい大蛇。氷冴にも謝って置いてね」

 大蛇はううともああとも付かない声で返事を為、亜耶は布連の中へ消えて行く。着替えるならば、巫王をもう一度足止めしなければならないだろうかと大蛇は思案を巡らせた。

(うら)通りに来たのに二人とも起きて居無いとは…」

「八津代、此処で少し待って呉れ。ほら、火瓶(ひがめ)なら有るぜ」

「暖かい…」

 巫王は、泣きそうな顔で火瓶に当たる。亜耶の着替えが終わっていないだけだとは、大蛇は如何(どう)しても言えなかった。




 亜耶の着替えは直ぐに済み、巫王は布連の中へ招き入れられた。亜耶は用件を知っているものと、巫王は話し出す。

「卜で出たのだ、坐安王(いましやすおう)から鼈甲(べっこう)なる物が届くと」

「夢で見たわ。宮の女達の為、(みお)の為でしょう?細工は翡翠より易いわ」

「うむ…だが、何に細工する?」

 其処で、少し亜耶が目を閉じた。澪、真耶佳(まやか)月葉(つくは)悟織(さとり)には櫛、側女達と汰木(ゆるき)には一粒の首飾り。蕩々と述べて、亜耶は目を開く。

「先方は亜耶にもと言うだろう。亜耶にも櫛か?」

「そうね…」

 何の気なしに返事をしたら、亜耶にも櫛の像が見えた。海亀の甲羅一枚分が届くのだから、其れぐらいは容易いだろう。ただ、勾玉にするには向かない。

也耶(やや)真尋(まひろ)には良いのか?」

「澪と悟織に預けて置くべきね。今は未だ、玩具にして仕舞うから」

「其れに、皇子(みこ)がな…」

「然うよ」

 巫王と亜耶は、渋面を作る。黒い針を拾わなくなっても、皇子の厭々は続くからだ。也耶は耐えようが、真尋は怒る。そんな宮の有様が、見えるのは善し悪しだ。

「他には、此の後(くが)に何を持って行くかでしょう?」

「ああ」

魚醤(うおひしお)二瓶(ふたかめ)で充分よ。お父様は一晩帰れないけれど、酒は断ってね」

「当然だ」

 自信満々の巫王だが、陸の(おびと)にはだいぶしつこく酒を勧められる。断り切れる巫王だとは思うが、宴は夜通し続くと言うと昏い目になった。

「私は酒を飲まないけれど、夜通しの宴も苦では無いわ。酔っ払いが滑稽で」

「陸の若長どのが酔うのを見て、笑えとでも云うのか…」

「笑わずとも良いのよ、土産話に持って来て。其れから若長どのは、今年初妻(はつつま)を迎えられるわ」

 亜耶の其の言葉に反応したのは、大蛇だった。此れで亜耶に色目を使わなくなるか、と云うのだ。妻求(つまま)ぎを断って以来、色目などは使われて居無い。亜耶は然う言うが、(しも)(こい)は続く物。亜耶は自覚が無いだけだ、と大蛇は言い募る。

「私も大蛇の意見に賛成だ」

「お父様まで…」

「あれは粘っこい男。亜耶を見て美しいと思う度に、下つ恋を思い出すだろうて」

 大蛇が、苦虫を噛み潰した様な顔になった。粘っこい、其れは陸での交易の時に会った若長の印象を良く表している。

 そうこうしている内に、亜耶と大蛇の腹が鳴った。昼餉の前に、巫王が話し始めて仕舞ったからだ。続く話は後、先ずは昼餉を食べる。亜耶がそう決めると、巫王は直ぐに詫びた。以前の巫王とは、少し違う。亜耶も大蛇も然う思った。

「大蛇、八和尊(やかずほ)、昼餉は温める?」

「俺は良い。八和尊の(あつもの)と粥だけ温めて遣って呉れ」

「分かったわ」

 亜耶は手早く八和尊の椀だけ人肌に温め、未だ眠りに就いていた八和尊を起こす。

「八和尊、爺が食べさせて呉れるって」

「良いのか、亜耶?」

「ええ、羹は未だ、一人で食べられないの」

 飛沫(しぶき)が真っ先に専用の大きな粥の椀に顔を突っ込み、腹の空き具合を知らせていた。少し、巫王に怒って居る様だ。

「飛沫…悪かった…」

 巫王は飛沫にまで詫びるのだが、其れは届いて居無い。飛沫が粥に夢中だからだ。巫王は八和尊に促され、羹を食べさせるのに腐心した。




 八和尊の椀は小さい。其れで足りるのか、と云うくらい。しかし粥が薄めてあるので、其の場は腹一杯になるらしい。対照的に、飛沫の椀は大きい。そんなに食べるのかと巫王が見ていると、見事に平らげた。

「飛沫の食欲は凄まじいな…」

「魚が有れば、もっと食べるわよ」

 気にした様子の無い亜耶の言葉に、巫王は只唸る。大蛇も気にする素振りは無く、いつもこんな物なのだと知らせた。

「其れでお父様、年明けの宴に持って行く魚の話でしょう?」

 一足早く食べ終えた亜耶から、声が掛かる。綾と大龍彦(おおつちひこ)には訊いたのか、と。巫王は其れをすっかり忘れて居た。

神殿(かむどの)に訊かなければ、魚の話は出来ないわ。此の後行く?」

 綾と大龍彦は、元始祭を終えた頃だ。今行けば、魚の話は出来るだろう。しかし、巫王は首を横に振った。未だ時間がある、と言うのだ。膝の上に乗せた八和尊を構いたいだけなのは、亜耶と大蛇の目にも明らか。ただ、今日は巫王に怒りは沸いて来ない。此れから冬の風の中、陸に赴く巫王には好きにさせて遣ろうと云う心地だ。

「御爺、襲、暖かい」

「お、八和尊。其方の(てて)が縫ったのだ。暖かいぞ」

「此れ脱いだら、風邪、引く」

「あら八和尊、闇見(くらみ)?」

「うん」

「ですって、お父様。陸では気を付けて頂戴ね」

 死に至る病の殆どは、風邪だ。此れで巫王は今夜、襲を脱がない。うっすらと青くなった巫王を見て、亜耶は笑った。

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