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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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八十八、八和尊と羹

 巫王(ふおう)御館(みたち)に着くと、珍しく準備万端整えた巫王が居た。身嗜みを整えて、相変わらず流木を脇息に為ている。

「ああ、亜耶、大蛇(おろと)八和尊(やかずほ)は…随分厚着だな」

「お父様、珍しいですわね。もう宴の準備が出来ているなんて」

「早く起きる様になったからな。従者(ずさ)達も慌てて居た」

八津代(やつしろ)が酒を飲まなくなった事より、早起きになった事の方が周囲を慌てさせるのか」

 大蛇に然う言われて、巫王は頭を搔いた。自分の寝起きの悪さは、娘達にも従弟にも迷惑を掛けたと。酒癖の悪さも然うだと言われると、巫王は弱い。目出度い宴の前で在るのに、只管(ひたすら)亜耶と大蛇に詫びていた。

「八津代兄、もう用意が出来たのか!」

 其処に来た小埜瀬(おのせ)が、同じように驚きを口にする。立つ瀬が無くなった巫王だが、此れからは全てに先んじる、と従弟に誓っていた。誓いを聞いた小埜瀬は、頼むぞと圧を掛ける。其処に昼餉が運ばれてきた。

「あら、今日は此処で昼餉が出るのね」

「いつも宴の食事は中々食えないだろう?腹に入れて置いた方が良いかと思ってな」

「八津代にしちゃ気が利くじゃねえか」

「有り難く頂きましょう」

 昼食は赤粥と焼いた鶏肉で、亜耶には好みの笹身が運ばれて来た。今年の冬は去年ほど胃が迫り上がって居無い為、亜耶は残さず美味しく頂く。小埜瀬と大蛇は脂の乗った股肉、巫王は少し軽い胸肉を所望した様だ。鶏と魚醤(うおひしお)は合わないと思うかも知れないが、塩で焼くよりずっと風味が良い。食べられない八和尊はじっと皆の手元を見ていたが、大人しく薄い粥を食べ切っていた。

「母様、八和尊はいつ其れ食べられる?」

「そうね…来年の冬かしら。母が噛み砕いた物をあげますからね」

「はい…」

 幼い内の一年は長い。少し気落ちした様子の八和尊は、じっと空になった皿を見ている。厭々が始まらなくて良かった、と亜耶と大蛇は目配せした。

「八和尊、今夜は少し冷めた(あつもの)を遣るからな」

 大蛇が言って、八和尊の視線は漸く皿から離れる。八和尊に取って羹は、偶に貰えるご褒美なのだ。上機嫌になった八和尊は、今夜舞台から笑顔を振り撒いて呉れそうだ。皆が微笑ましく見詰める中、八和尊はにこにこと為ていた。




 巫覡(かんなぎ)の子供は、総じて言葉が早い。けれど八和尊の言葉の早さは、亜耶が予想していた以上だった。思えば、歯が生え始めるのも早かった。此れなら三つにならねで薄い粥から普通の食事になるかも知れぬ。

 そんな会話を巫王としていたら、巫王は寂しそうな様子を見せる。八和尊から遠ざけられた日々が、可愛い盛りだったのではと不安になったらしい。巫王が心を亜耶達妹背に添わせたなら、武尊(ほたか)の可愛い盛りに遠ざける様な事はしない。亜耶は其処で、巫覡の誓いをした。

 巫王も負けじと、元には戻らぬと巫覡の誓いをする。そんな事は誓わずとも闇見(くらみ)で分かって居るのだが、亜耶と大蛇は受け容れた。

 そんな事を為ている内に短い日は落ちて、さあ宴だ。王族は皆、火瓶(ひがめ)で暖められた舞台に出た。




 相変わらず、長老達は良い席を取っている。綾と大龍彦(おおつちひこ)は後ろの方に居るが、ちゃっかりと馳走の席に着いている。周りは、綾と大龍彦が見える者達の様だ。既に酌をされている。その中に菜摘(なつみ)氷冴(ひさえ)の姿を見付けて、亜耶は微笑んだ。大蛇に教えると、笑いを噛み殺して居た。

「氷冴には見えねえんだから、不思議だろうよ」

「見えない者が居ると云う事は、氷冴も知っているわ」

 けれど氷冴は喜入(きいれ)を抱いてきょろきょろとしていて、落ち着かない風情。喜入は見えているらしく、大龍彦の衣に興味津々だ。今宵は綾も大龍彦も、仕立ての良い物を着ている所為だろう。邑内(むらうち)で暮らす喜入には、珍しい物なのだ。

 此処で、巫王が亜耶に合図をする。巫王と二人で立ち上がり、舞台の下の人々に異世火(ことよび)を飛ばす為。火瓶が其処此処に置かれているとは言え、大晦(おおつごもり)の夜は寒い。宴が終わるまで消えぬ異世火は、人々を沸かせる。触れようとする者が多いのは、異世火は只人(ただびと)にも見えるから。

 亜耶は態と菜摘と氷冴に異世火の一つを贈ったので、喜入が喜んでいる。氷冴もやっと自分にも見える霊威を見て、安堵した様だ。熱くは無いかと手で触れてみて、喜入に触れて良いと言ったのが分かる。

「八和尊、貴男にも」

 大きな異世火を貰った八和尊は、にこにこを通り越してきゃっきゃと騒ぐ。此れで羹までの間は持つだろう。亜耶は座り直して、綾と大龍彦に手を振った。




 宴も(たけなわ)、皆が酔ったところで舞台の上では夕餉が始まる。大蛇が約束通り八和尊に少し冷めた羹を遣る。八和尊は二口三口と欲しがって、大晦の宴を最大限利用している。

「八和尊、父様の分が無くなるわ。母の分もあげるから、此方を向きなさい」

 亜耶は卵の羹を掬って、八和尊の口許に近付ける。すると八和尊がげっぷをしたので、お断りが来ているわね、と引っ込めようとする。

「厭―――!」

 八和尊が大きな声を出したので亜耶は仕方なく最後の一口だと言って匙を傾けた。八和尊は其れを飲み干すと、眠たげに目を擦る。

「八和尊、眠って良いわよ」

「いいの?」

「ええ、母が見ていてあげる」

 言い終わるか言い終わらないかの内に八和尊は仰向けになり、とろとろと目を閉じかけた。王族の宴の作法は、長じれば身につく物。今の八和尊には、此れで良い。亜耶は八和尊の額に手を当て、眠りを誘った。

「眠ったか?」

「ええ、羹の為に必死だったみたい」

 大蛇と亜耶が笑い合うと、酔った長老が階の下から亜耶に向かって叫んだ。

「此度こそ女子ですか!?」

 亜耶は、静かに首を振って艶然と笑う。口出しなどさせない。その決意を込めて。叫んだ長老は、明らかに鼻白んだ様だった。

 こんな叫びが生まれて仕舞うのは、亜耶が自分の事、大蛇の事、八和尊の事全てに目隠しをしている所為だ。最初の頃の水鏡(みずかがみ)の様に、族内(うからうち)の噂になる様な事は為ない。勿論、水鏡の内容にも目隠しをしている。巫王も其れは同じで、他の巫覡達が覗き見る事の許されない空間を作っていた。

 長老の叫びには興醒めだが、東の空が明るく色付いてきたのはその頃。丁度餅米を蒸す匂いがしてきて、亜耶の腹はもぞもぞとする。孕んで居無い時には好むも好まざるも無かった物。只習慣だから口にしていた物が、先年に続いて酷く食べたい。一番鶏が鳴けば、皆に配られる紫色の餅。

「亜耶、今年も食いてえんだろ」

 大蛇がからかう様に言うが、其れが的を射ている。

「食べたいわ。可笑しいわね」

「未だ時間がある。腹空かせとけ」

 大蛇は否定はせず、産女の食の好みについて考えて居る。亜耶に何を捕って来るか。亜耶には手に取る様に分かるのだが、大蛇は亜耶を喜ばせたいのだ。そんな(つま)を持って、良かったと亜耶は思う。大蛇が秋に採ってきた木の実は美味しかった。其れだけ伝えると、大蛇は喜ばしげな表情になった。

 ふと巫王を見ると、酒を飲んだ小埜瀬より宴を楽しんでいる。巫王に取っても新たな発見となった事だろう。小埜瀬は運ばれて来る侭に酒を飲んだらしく、巫王の禁酒の煽りを食っていた。

 一番鶏が鳴いたのは、美味そうな餅の匂いが最高潮になった頃。八和尊が飛び起きるが、未だ眠そうだ。王族に先に配られる餅に、亜耶は嬉しく齧り付いた。

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