八十七、謗り
也耶は疑問に溢れていた。明日から次の年だと聞いて、更には今宵を過ぎれば齢三つと言われて。澪が言訳為ても埒が明かないので、真尋が寄ってきた。
「也耶、大晦の後には皆一つ年を取る。也耶も数えで三つ、真尋は四つだ」
「明日から次の年ってなあに?」
「年が明けるのだ。一番鶏が鳴けば、新しい年の合図だぞ」
納得がいかない様子の也耶だが、そんな物だと飲み込みはしたらしい。分かった、と真尋に言うと、真尋はにかっと笑った。
「也耶、真尋、明日の朝は大王の帰りは遅いですが、時記さまが剣舞を披露して下さいますよ」
「父様が?」
「独りで舞うのか?御翁には見せなくて良いのか?」
「大王はお疲れでお戻りになります。見て下さるかどうか…」
真尋は少し目を閉じて、見る、と言い切る。目を閉じている間に、魂離りしたのだ。大した霊力だ、と澪は感心した。
「澪、秀真が泣き出すぞ。乳母の間に行こう」
確かに、澪と真尋が也耶に言い含めている間に乳遣りの刻だ。澪は真尋に礼を言って、喬音に乳母の間に下がる事を告げた。乳母の間に下がった途端に秀真が大きな声で泣き出して、其処からは乳遣りの時間。興味津々に見入る也耶と真尋を両脇に、澪は男子の旺盛な食欲に両の胸乳を空にする。しかし、其れでも未だ秀真は愚図る。
「襁褓だ」
的確な真尋の指示に従って、澪は普段は同時には訪れない其の二つを片付けた。
「真尋、有り難う御座います」
「礼には及ばぬ、義母さま」
義母さまと云う響きがくすぐったくて、澪は思わず微笑んだ。すると真尋は頬を染めて目を逸らし、義母さまが澪で良かった、と言った。
「さあ今宵、大人達は夜通し一番鶏を待ちます。眠くなったら三人で此の寝座で眠って下さいね」
澪が乳母の間の寝座をぽんぽんと叩くと、也耶と真尋から歓声が漏れた。也耶はまた真尋に言葉を教わるだろうし、真尋も秀真と居られる。魚の杜の八和尊の言葉数が増えているのも、水鏡で話す也耶の影響だと亜耶が言って居た。
真尋は巫覡が故に、禍つ言霊は吐かない。少々横柄だが、綺麗な大和言葉を話す。其れは澪と時記の安心の種でもあった。
逆に、皇子は何処で言葉を覚えて来るのか。階の行き来は自由では無いし、大王が従者と話している所を見た事も無い。尖った言葉は禍事に繋がる。巫覡の掟に従うならば、禍つ言霊は早めに摘んで置くべきだ。
「朝霞の事か?」
少し考え込んで仕舞った澪を見て、真尋が心配そうに問う。秀真が仕える王なのだから、二人とも心配なのは当然。小さく頷いた澪に、真尋は此の宮に飛んで来る黒い針との関係を教えた。
「あの黒い針は、嫉み、妬み、謗り、諍いの声。朝霞は其れを聞いて仕舞う。禍つ言霊となって、朝霞の口から出てくるのは其の為だ」
「妻籠の姫達の声が…?」
「愛されもしなかった女達の声を、都合良く聞き変えて尖らせている。朝霞には、御翁の仕置きが必要だ」
「霊眼を塞ぐ事も出来るらしいのですが…」
「其れを為て仕舞うと、亜耶の声さえ聞こえなくなる。もう一人の御翁と御翁は話した方が良い」
「もう一人の御翁…お義父さまの事でしょうか?魚の杜の長の…」
「そうだ。来るのだろう、二月に?」
「はい。従兄弟君を連れて」
澪の答えを聞いて、真尋は満足げに笑った。其の従兄弟、大した者だぞ、と言って。
魚の杜には、二人の妹を持つ習慣が無い。巫王は男長で女子に恵まれなかったから、仕方なく二人目の女を孕ませただけだ。元々魚の杜の掟には在る。同じだけ愛せないのなら、二人の女に通ってはならないと。
族が始まった時から、女子が持って生まれてくる勾玉によって婚いを決めていた者達だ。勾玉が選ぶ男は、一連玉に一人。決して重なる事は無い。王族以外で勾玉を持った女子が廃れた今も、男達は定めに従って妹を選ぶ。在る者は自分で見付けて。在る者は巫覡の予言に依って。
そんな話を、澪は以前時記から聞いた。聞いた上で、皇子は如何様に成るのだろうと心配している。妻籠には代替わりした途端、大王の知らない女が日々増える。姫、采女、妃。
后は五つで決まると亜耶が闇見為たが、沢山の女に囲まれて皇子は如何己を保つのだろう。澪が心配しても詮無き事なのだけれど、真耶佳と大王はもっと心を磨り減らしているだろうと思うのだ。
澪は乳母の間を出て直ぐに、真尋の闇見の内容を話した。あの黒い針が、皇子の言葉にまで影響しているなんて、と真耶佳は言葉を失う。
「嫉み、妬み、謗り、諍い…皇子の耳には届いて仕舞っている様です。大王に言うより、お義父さまに言った方が良いと真尋は言いました」
「そうね、私も其れに賛成よ。ただ…」
「真耶佳さま?」
「暁の王も、どうにか為ようと動くとは思うの」
「小埜瀬さまも重要だと…」
「真尋が?」
はい、と澪が頷くと、真耶佳は何かを察した表情になる。小埜瀬は族を異にする妹を、魚の杜の女として扱ったと聞いた。妹背の間は迚も穏やかだったと。
「小埜瀬さまが重要ならば、遊佐の元にも行かせねばね」
急に変わった話題に付いて来られなかった澪が、視線を泳がせる。族外の女を杜の女として扱う方法に長けている。そんな言訳が、真耶佳からあった。其れは正に、時記と婚ってからの澪。八反目には出来なかった事だ。
「器の問題ですね…」
「そうね…」
皇子の器に未だ疑念を持つ真耶佳は、昏く答える。澪は、其の姿に何も言えない。
「私、偶に思うの。朝霞と八和尊が、逆だったら、って」
母として、心の片隅にも置いては為らぬ事。故に真耶佳は言葉を句切って小声で言う。けれど、澪には其の気持ちが良く分かるのだ。澪の場合は、実父に対してだが。
「真耶佳さま、皆心の内にはその様な秘密を持っていますよ」
澪に言われて真耶佳は、分かってくれるの、と唇だけを動かした。頷いた澪は、努めて明るく笑う。思っても詮無き事だからだ。真耶佳も其れは分かって居るらしく、ふ、と哀しげな笑みを浮かべた。
冬は日が短い。刻々と太陽が動いているのが、宮の中からでも分かる。そろそろ灯りを、と思った時には時記が油に異世火を入れていた。
「時記さま」
「澪、真耶佳は何を考え込んで居るんだろう?」
「ああ…」
澪は昼間話した皇子の言葉の無為な鋭さの原因について、時記に細かく報告する。時記は考え込んで、大鏡の向きを若干ずらすかと言った。
「其れとも、父上が来た時に黒い針を完全に逆凪ぐ様に変えて貰った方が良いのかな」
「逆凪ぎは…妻籠に影響が大きいのでは」
「大王は妻籠を掃討しようとしてる。ご理解頂けると思うんだけど」
「何もかも、大王がお戻りになってからですね…」
「然うだね。でも原因が分かって良かったよ」
時記は灯り、月葉は火瓶に異世火を入れ終わった。どうやら二人で分担していたらしい。敷物の上の火瓶の前に、時記が澪を導いて、言った。どうか体を冷やさないで、と。




