八十六、宴の前
悟織と真尋は巧く遣った様だ、と離れた魚の杜で亜耶は感じた。真耶佳は水鏡を繋ぎたがって居る様だが、亜耶にも準備が有る。勿論、此の後の年越しの宴に出る為だ。
今年は去年より冷え込みが強く、舞台の上の火瓶の数も増して貰った。八和尊の時の様に生まれる寸前では無い為、少し気楽なのもある。
「大蛇、私は化粧場に行ってくるわ」
「おう。…俺も男湯殿に行かねえとな」
「舞台の上では身綺麗に、よ」
「分かってる」
「お父様が酒を飲まなくなってる事、皆如何思うのかしら」
「気にする奴なんて居ねえよ、各々酔ってんだろ」
其れも然うだ、と亜耶は思い、重い腰を上げる。物理的に重いのだ、腹の子が大きくなってきているから。ふらついた亜耶に、大蛇が手を延べる。有り難う、と言って亜耶は女御館を出た。
今年の八和尊は、婆の作った綿入れで動きにくそうだ。活発になってきたので丁度良い。
長じて振る舞いを覚えるまでは、成る可く動きにくい衣を頼もうと亜耶は誓った。婆はと云えば、澪が次は双子を生むと聞いてまた針を忙しく為ている。御館の階に手摺が付くと言ったら、婆は心底喜んでいた。
「亜耶さま、お待ちして居りましたよ」
先ず湯殿の女に声を掛けられる。湯には明け方浸かったから、此の侭化粧場まで伴われて行くのだろう。魚の杜の姫が減ってから、湯殿の女達の仕事は目減りしている。どんな事でも逃すまいとする気概を、亜耶は女から感じた。
「亜耶さま、今宵の宴には皆交代で参りますからね」
「まあ、湯を見ていて呉れるの?冷えるから有り難いわ」
「八和尊さまも、冷えるでしょう?」
「そうね…」
亜耶は先程の綿入れを着た八和尊を思う。冷えるかどうか疑問だが、湯殿が好きな八和尊だ。きっと喜ぶ。
「何なら大蛇さまもお連れになりますか?」
「然うね、偶には其れも良いわね」
どの程度大蛇が抵抗するかは知れないが、結局は親子水入らずで湯に入るのを亜耶は知っている。断片的な闇見の中、大蛇が八和尊の成長に目を輝かせていた。
「亜耶さま、着きましたよ」
「まあ…私ったら霊離り為ていたわ」
「ええ、お声掛けはどうしようかと思ったのですけれど…」
「気を遣わせて悪かったわね。では、紅を刷いて来るわ」
湯殿の女の付き添いも此処まで。亜耶は独りで化粧場へ入った。此方でも歓迎は相当なもので、婆が縫った新しい衣や華やかな菫青石の簪が待っていた。今宵は髪を下ろして臨む。近頃結い上げるばかりだった髪を、輪髷は其の侭に婚った頃の様に蝶髷に。化粧場の女達も楽しそうだった。
菫青石の簪が大王から贈られた物であると聞いた亜耶は、化粧場を出た後足早に女御館に向かう。大蛇とは交代で身形を整えに行く事になっていて、其の隙に水鏡を繋いで仕舞おうと思ったのだ。
「大蛇、戻ったわよ」
「じゃあ今度は俺の番か。八和尊、母様に構って貰え」
「…水鏡を繋ぐわ」
「は?」
此れ、と亜耶が簪を指さすと、大蛇も何か察した様だ。大王からか、と訊かれて、亜耶は頷く。
「八和尊を也耶に会わせて遣ってくれ」
然う言い残して大蛇は男湯殿に向かった。綿入れでむちむちとした八和尊は抱き辛かったが、膝に乗せて水鏡を揺らす。向こうに居たのは也耶で、見よう見まねで水鏡に手を翳した様だった。
「八和尊!」
「也耶、元気になった?」
「ええ、迚も」
幼い二人に会話をさせて遣りたいのは山々だが、亜耶は大王を呼んで来て呉れる様に也耶に頼む。直ぐに夜着の侭の大王が来て、此れから湯殿に行くところだったと言う。
「大王に一言、簪のお礼を申し上げたくて…」
「何の何の。亜耶姫にして貰って居る事の方が大きい。偶然には其れしか手に入らなかったが、どうか納めて欲しいわ」
「偶然は必然、ですからね」
大王と亜耶が笑い合っていると、真耶佳が気付いた。大王の隣に座して、亜耶に先程思い付いた事を訊こうとする。皇子の湯殿問題だ。
「真耶佳、落ち着いたら皇子は大王と時記兄様に湯殿に入れて貰って。襁褓は誰が結ぶのかと言われると思うけれど、時記兄様が出来るわ」
「亜耶…訊きたい事が分かって居たのね」
「時間が無いから先程霊離りした侭だわ、私。宴の準備で忙しくて」
「ああ、杜は夜通しの宴ね。御免なさい、引き留めて」
「良いのよ、皇子には薬が必要だもの」
「そうね」
姉妹でくすくす笑い合って、大王は除け者だ。夜着だった事は秘しておく、と亜耶に言われ、大王は安堵していた。
大蛇は漆黒の衣と袴に身を包み、身綺麗になって帰って来た。少し髪が伸びた所為か、頭頂部で纏めた髪には此れ又黒い布が被せられている。
「こうしてみると、本当に人の身に落ちたのね…髪が伸びるなんて」
「可笑しいか?」
「いいえ、佳く似合っているわ」
「今年も朝まで居るのか?」
「ええ。女湯殿で湯を見て呉れているから、宴が終わったら三人で温まりましょう」
其の提案に、大蛇は一瞬固まった。女湯殿に自分が入るとは、と。亜耶は化粧場に行くまでの女との会話を掻い摘まんで聞かせ、大蛇をどうにか説得する。
「でもその頃には、八和尊は寝てんじゃ無えのか?」
「起きるわ。一番鶏が鳴くもの」
「なら良いけどよ…」
少し照れ臭そうな大蛇と共に、亜耶は昼餉を待ち乍ら飛沫に宴の趣旨を説明した。飛沫も、舞台の上に上るから。飛沫は八和尊を守る為と聞いて、胸を張った。




