二、大蛇
綾の足は、海から上がると或る程度の時間で人の物に成る。そう云う種なのだ。幼い頃から見慣れて居る亜耶は、其れが当然と思って居る。しかし、其れでも身に着けるのが長衣だけと云うのは頂けない。
高床式の神殿の階に共に腰掛けながら、亜耶はすんなりと長くて白い脚を複雑な思いで見つめた。
普段なら此処に亜耶は居なくて、大龍彦が神殿の奥から綾を迎えに来る。亜耶が生まれるよりずっと前から妹背で居続ける二人には、決まり事が有る。神籬を食らい、綾の鱗を濡らす。そして足が元に戻ってきた所で、大龍彦が迎えに来る。そんな共寝に至る駆け引きをしているのだと、気付いたのはいつ頃だろうか。
綾の鱗を濡らさないといけないのは確かだが、そう頻繁で無くても良い。神籬を求められる度、亜耶の胸は痛くなる。
大龍彦は綾しか見ない。其れを突き付けられるからだ。
「綾」
神殿の中から、大龍彦の声がした。亜耶が此処に居過ぎたのだろう。
「…じゃあ、行くね」
「亜耶、」
淋しくて来たのでは無いの、と綾は言葉を接ぐけれど、神殿は亜耶の居場所では無い。
直ぐに、大龍彦が綾を抱き締めに来る。知らない振りをして、亜耶は己の御館へと向かった。
途中、何かに沓を取られて転んだのを良い事に、蹲って少し泣いた。
亜耶に取って大龍彦は、特別だった。乳母が去った後、母代わりには気付くと綾が居た。父たる巫王は連綿と亜耶に愛情を注いで呉れた。
ならば、大龍彦は?彼は綾と共に亜耶を愛して呉れるけれど、其の存在を消化するには、亜耶は幼過ぎた。
大龍彦に抱き上げられる度に胸は高鳴り、嬉しさに顔を綻ばせた。綾は横で、其れを喜んで居た様に思う。
まさかこんな年端も行かぬうちから、娘と可愛がる亜耶が吾が夫に幼な恋を抱くなど、あの頃の綾は思いもしなかっただろう。
真耶佳が幸せで在り続けるのは、幼い亜耶にも見えていた。母が果敢無くなっても、族の者達から愛され、嫁しては大王に愛される。
僻みが有った訳では無い。ただ、亜耶は己の未来が見えない事に漠然とした不安を持って居た。
其処に、人ならざる妹背が介入してきた事に恨みは無い。闇見の対象で無くても、亜耶に知らなかった沢山を呉れた。
異世の幻を常世に呼ぶ方法、簡単な薬の作り方、禁じられた神山へも連れて入るを良しとした。邑に流れる川の源流で、綾とは違う蒼に光る鳥も見せて呉れた。
綾が先導して、その後を肩車で連れて行って呉れたのは、いつも大龍彦だった。不安を、打ち消したいが故の幼な恋だったのかも知れない。大龍彦も、子が出来ぬ綾との間に娘を持った気分だったのかも知れない。知れない事ばかりで、口に出すは叶わないけれど。
そして亜耶が長じて女に成ってからは、大龍彦も手を触れる事は無くなった。彼等の生きていく年月に、人の命は矢張り短い。
亜耶ももう十五、月の忌みを迎えてからは二年に成る。束の間の親子遊戯も、もう終わって仕舞ったのだ。
気付けば、薄昏闇だった。そんなに亜耶は泣いて居ただろうか。
御館の目の前までは来ていたけれど、真耶佳と二人で住まう此処に、今独りで入るには気分が重過ぎた。
「亜耶」
呼び掛けられた声は、亜耶の受け容れられない人の物。八反目、巫王の長男にして亜耶の異腹の兄だ。
「一の兄様、女御館に何の御用です?」
出来る限り声を低くして、亜耶は応じた。招かれざる客、そう言外に示す為に。
「八反目の王子と呼べと言っているだろう。私との別れも近いのだ、そう冷たくするな」
名と身分で呼べ、と云う事は、妻問いを繰り返す気だと言挙げしている様な物だ。馬鹿馬鹿しい、亜耶はそう思うが、八反目はそうは思って居無いらしい。
どうせ八反目は亜耶には触れられない。勾玉が夫と認めない。だから、振り返る事無く亜耶は御館への階を上ろうとした。
瞬間、左手首に走った衝撃。周りの空気を鳴らす、雷の様な轟音。だから、無駄だと云うのに。
「一の兄様、御用は其れだけですか?」
代々の巫女姫の夫は、勾玉が決める。其れを知らない八反目でもあるまいに、最後の賭けと出たか。
亜耶が大した物と感じない衝撃波で弾かれた異母兄を初めて振り返り、未だ起き上がろうとする彼を睨め付ける。
と、同時に、亜耶の背後には無数の矢が顕れ、一斉に八反目へと放たれた。
「ひ…っ」
無論、当てる気は無い。其れでも八反目は、恐怖の剰り目測と違う方向に逃れようとする。
けれど其れは、許されなかった。ひらりと木の上から降りてきた固い沓が、八反目の額を思い切り蹴飛ばしたのだ。勿論其れは、亜耶が醸す幻で八反目を殺めさせまいとしての事。八反目にしてみれば、山歩き用の沓で蹴られて二重の災難と云った処か。
「大蛇…!」
沓の主は、亜耶に名を呼ばれてにいっと笑った。気を失った八反目をもう一度蹴飛ばして、ふん、と満足げだ。
「此れじゃ殺しちまう、って綾に習っただろ?」
異世の幻は、使い方を間違えれば禍つ霊だ。綾にはきつく教わったが、どうも綾は八反目に手加減を出来ない。受け付けない、其れが一番しっくりくる。
「…分かってる」
「分かってる、とは言え手加減が出来ない、か」
大蛇と呼ばれた男は、八反目をずるずると木の下に引き擦って行って放り出し、亜耶の元へと戻ってきた。
「どうした、真耶佳が輿入れの支度してんの見るのが厭なのか?」
「違う…」
「なら、また兄者か」
溜息交じりに呟いた大蛇の顔は、大龍彦の生き写しだった。
「それも、違う…」
唯一大龍彦とは違う真っ黒な髪を掻き上げ、大蛇は困った顔に成って天を仰ぐ。月明かりの入った瞳は、矢張り暗い赤だった。勿論、大蛇も只人には見えて居無い。
見えない何かに蹴飛ばされた八反目は、目を覚ました時には恩人の顔を知らぬのだ。
「大蛇、今夜…来て」
「は?共寝の誘いにしては時期が…」
「だから、寝入るまで一緒に居て欲しいの」
「ああ、そう云う事か」
合点が行った様子の大蛇は、朝まで一緒に居て呉れると言った。其れは亜耶が望んでいた事で、察して呉れる大蛇が嬉しい。
「分かった、…甘えるのが少し、巧くなったな」
つい先程八反目が弾かれたのは幻か。大蛇は亜耶の頭を撫で、いとも容易く口づけた。
其処には、幼な恋の亡骸が在った。