十八、帆立の粥
宴が終われば、本来澪は八反目の御館に行くべき所。しかし輿入れまでに澪に孕まれては困る為、巫王は其れを許さなかった。最初から分かって居た事、だが八反目は不服そうだ。
澪も宴が終われば女御館に戻る積もりで居たので、八反目の態度が意外であった様だ。
ただ八反目も、巫王の前でごねても仕方無い。名残惜しげに八反目が澪の手を取って、小指に赤い糸を結んだ。
「此れは…?」
「私の妹である印だ。出立まで、外さぬ様に」
澪が素直に頷いたのが幸いか、八反目は其れで引き下がった。
「じゃあ、湯殿に行きましょう」
八反目が去ったのを見計らって、亜耶が言い出す。上から見て居て気付いたのだが、湯殿の女達は入れ替わり立ち替わり火の番をしていた様だ。
此の時期に髪に油を付けて眠るのは、気持ちが悪い。折角湯が沸いているなら、と二人を誘うと、二人共異論無しだった。
湯を使ったからと言って、朱は落ちるが紅は落ちない。植物の汁から作られた其れは、幾日か残って仕舞う物だ。髪を解しても、化粧の跡は隠せない。
「そうなのですか、道理で崩れない筈です…」
「落ち着かない?」
そんな事は無い、と澪が微笑む。今宵の宴で、少しは肝が据わったか。
衆目に晒される事は、慣れるしか無い。亜耶や真耶佳は生まれた時からの事なれど、唐突にあの場に据えられて耐えろと云うのは荒療治だ。澪は熟して見せたが、並の娘ならば逃げ出しかねない。
矢張り神夢は、正しい娘を選んだのだ。あの港で、途方に暮れて泣いて居た船巫女の面影は、もうほんの少ししか見当たらない。
出立まではそう日が無い。慣れるが早いのは良い事だ。澪は、もう立派に魚の杜に護られるべき者なのだから。
もう直ぐ、女御館には亜耶独りになる。誰も口には出さないが、皆がそう思って居るだろう。一抹の淋しさを打ち消して、亜耶は悪戯に湯を弾いた。
湯殿から戻ると、舎人と何者かが揉めている。何事かと足を止める三人に気付いたのは、闖入者の方だった。
「亜耶、真耶佳、此の舎人は何とかならないのか!?」
松明の下から聞こえて来たのは、先程追い払った八反目の声。
「一の兄様こそ、何をしてお出でですか?此処は女御館。貴男が入れる筈が無いでしょう」
「みっ澪に、此れを…!宴の席で、冷めた物しか口にして居無かったから…」
声の主を追い払いに前に出た亜耶に、八反目は粥の器を示す。一人分には大きい、きっと三人分の粥が入った器だろう。
「帆立の粥だ、冷めないうちに…」
諍う声を聞き付けた澪が前に出て、洗い髪の侭八反目の手から器を受け取った。
「温かいですね、嬉しいです。三人で頂きますね」
淡紅の残った唇で笑われれば、八反目も黙るしか無い。澪は其の侭女御館に入って行き、八反目は拍子抜けした様だ。
「兄様、此の様な事は次から、使いの者にお任せになられませ」
「あら、初妻に格好を付けたかったのよね、兄様」
真耶佳が最後に毒の無い声で八反目を拉いで、今宵の騒動は収まりを見せた。
蓋を開けた粥が思いの外温かく、亜耶と真耶佳も歓声を上げた事、澪が美味しいと顔を綻ばせた事。八反目の独り善がりで終わらなかった事だけは、付け加えて置こう。