十七、言挙げの宴
日が暮れ始めると、邑の至る所から美味そうな匂いが立ち込め始めた。赤粥だけで昼餉を済ませて仕舞った三人には、魅惑の香りだ。
「羹だけでも呉れないかしら…どうせ皆が酔うまで、私達は食べられないのだし」
真耶佳が腹を押さえ乍ら言うと、澪が食べられない?と聞き返した。
「そうよ。私達が座すのは巫王の御館の階の上の舞台よ。皆から見られるわ」
「あの、階の上…」
確かに目立ちそうだと思ったのだろう、澪が気落ちした声を出す。
「皆の目的は澪を一目拝む事。真耶佳も杜に居る最後の宴だし、大変ね」
ぼんやりと亜耶が二人を労うと、思いも拠らない反撃が来た。
「他人事の様ね、亜耶。貴女も次の長として私達と舞台に上がるのに」
「え…?」
「亜耶、独りで下に居る気だったの?」
「亜耶さま、酷いです…」
神の御使い達と共に美し姫を愛でる気だった亜耶は、二人から散々責められる。中座を防ぐ為、と。仕方無く澪と真耶佳の間に座す事を了承した頃には、迎えの者が女御館を訪れていた。
迎えの者に付いて訪った巫王の御館の周りでは、既に数人の族人が場所取りをしていた。長老達が一番良い席を取っている。亜耶達は一旦御館に入り、最後の身嗜みを整えた。
「ああ、そうだわ。澪、此方に来て」
御館を好き勝手に動き回る亜耶と真耶佳に戸惑う澪を、亜耶が手招きする。時記が階を上ってきた為だ。
「此方が、時記兄様よ」
「み…澪と申します」
茶色い髪に茶色い目、白に近い翡翠の勾玉。色合いの薄い時記が澪を見ると、澪はびくりと身を震わせた。
「盲いては居無いよ、澪。暗くて顔は見えないけれど、清浄な空気に包まれて居る。美しいのだろうね」
「御免なさいね、澪。兄様は夜目が利かないの」
「は、はい…お見知り置きをお願い致します」
「うん、兄上を宜しく」
兄上と聞いてまた顔を赤くした澪の頭に、時記がぽんぽんと触れる。妹姫達によくする仕草だから、澪は時記にも受け容れられたのだろう。
「では、後でね」
時記も身支度を終えて居無い。此の後、巫王の間で着替えるのだ。引き留めた事を亜耶が詫びると、逆に礼を言われる。清浄な気に触れられて、好かったと。亜耶の頭にも序でに触れて、時記は去って行った。
「時記さまは…亜耶さまに触れられるのですね」
澪は、何故か時記が気に掛かると云った様子で目で追って居る。胸が高鳴ったのを、亜耶に気付かれぬ様にと。
「ええ、巫覡としてだけれど」
族の神人も幾人かは触れられるわ、と。亜耶の答えは簡単だった。だから分からないのだ、大龍彦が亜耶に触れられなく為った理由が。
少しして、歌い部の声が響いて来た。宴の始まりだ。先ず巫王が先導し、八反目に続いて澪が舞台に出て行く。其の後を追って時記、亜耶、真耶佳と左右に分かれながら座した。
「澪さま!」
いつの間に知れ渡ったのか、盛んに澪の名が呼ばれ当人は狼狽して居る。隣に座す八反目が、手を振って遣れと教えた様だ。小さく澪が手を振ると、名を呼ぶ声は歓声に変わった。
八反目が澪を妹とすると言挙げして、歓声は最高潮を迎える。澪の手を取り、八反目は満足げだった。
祝りの酒の回りは速く、其処此処で族人達が歌い部の声に合わせて騒いでいる。杜には巫覡に伝わる舞しか無い為、皆好き勝手に踊る。
亜耶が澪にもう食べても良いと伝えると、澪は嬉しそうに冷めた羹を口に含んだ。
遠くに、綾と大龍彦が見える。大蛇は族人に混じって、魚を食らって居た。
此れが、杜の宴。此処が、亜耶の愛する魚の杜。