十五、妻求ぎ
私の憂い事はお前だ、と巫王は口を開くなり言った。澪を傷付けやしないか、泣かせやしないか、と。
「そ…その様な事は、私は憂いて居りません、巫王さま…!」
「澪……」
健気な澪の言葉に、八反目が息を飲む。手首に付いた痕を見て仕舞えば、二の句が継げないのだろう。
「兄様、何を呆けて立ち尽くして居られるのです」
速く澪の隣へ行け、と亜耶が促す。言葉尻がきつくなって仕舞うのは、もう直しようも無い。
「八反目、そちらに座す事を赦す」
巫王が痺れを切らして、亜耶の逆側を指さした。弾かれた様に動き出した八反目が、隣に座して顧みた澪の美貌に息を飲む。
「妹背に成る事で、異論無いな」
「も、勿論です…!」
互いに顔を赤らめた二人が、初々しい。八反目で無ければ、亜耶も手放しで喜んだだろう。けれど、何か一抹の不安が残る。
今宵の宴では、澪を時記にも目通しして置いた方が良い。何故か、そう思った。
「ところで澪」
「はい、巫王さま」
亜耶の物思い癖を知る巫王が、不意に口を開いた。
「正式に妹背と認めたのだから、お義父さまと呼んでは呉れないだろうか?」
「え、えっ、は、はいお、お義父さま…!」
此れには亜耶も力が抜けて、腹を抱えて笑って仕舞った。今宵の急な宴の話が族に走ったのは、此の直後の事である。
昼過ぎに、陸から使いが来た、と亜耶は呼び出された。陸の長は亜耶に好い感情を抱いて居無いし、何の用だ。折角、澪と真耶佳と三人で、女御館で涼んで居たと云うのに。
不機嫌に為りつつも足早に宿り木の結界を越えると、其処には巫王も居た。
「お父様…?」
「亜耶、お前は一体何をしたのだ…?」
「はい?」
周囲を見渡すと、あのいけ好かない陸の長と、従者が数人片膝を付いて巫王に平伏して居る。巫王の横には供物に使われる櫃、手には八角形の小さな銅鏡が在った。
「妻求ぎだそうだ、亜耶。此れを、どうしてもお前にと」
言って、巫王は銅鏡を亜耶に差し出した。
「妻求ぎ…?一体誰が…」
心当たりも無く、戸惑う亜耶に俺だ、と声を上げたのは、徐に立ち上がった陸の長だった。
「無駄よ、貴男は私に触れられない。港で弾かれたのを忘れたの?」
「…其れでも、言挙げはして置きたかった」
「愚かね」
言い捨てて背を向けようとする亜耶に、長は待て、と声を上げた。
「手を出せ…掌を、上に」
「………?」
不愉快を前面に押し出し乍ら、亜耶が言われた通りにする。すると、手の上に黄金の鎖に繋がれた何かを落とされた。
「姉姫の輿入れの見送りに着けろ。陸は魚の杜に従う、其の証だ」
落とされた鎖を取り上げると、天青石の付いた額飾りだった。天青石は雫型に成形されて黄金の台座に据え付けられて居り、一つ一つの罅の濃淡が美しい、が。
此の男は自分だけで無く、女も飾りたいのかと惘れて仕舞う。
「亜耶、長どのの言われた通りに」
気に入らない訳では無いが、贈り主が気に食わない。巫王が言わなければ、受け取らなかったかも知れない。
「其れでは長どの、娘への妻求ぎには魚の杜は応じないと云う事で宜しいですかな?」
「はい、巫王どの。供物は、今宵の宴の足しに」
「お心遣い、痛み入る」
亜耶の苛立ちを余所に、長同士の話は纏まった。拒まれるのが必然の妻求ぎ、其の意味が亜耶には分からない。
今回は平穏に陸の者達は帰って行ったけれど、巫王の名の有ってこそだろう。巫王が居無ければ、陸の長は亜耶の手を掴もうとしたかも知れない。
次の長として、もっと霊力を。亜耶はそう、思った。