十四、巫王の御館
巫王の右耳には、翡翠の勾玉が下がっている。行く道すがら、亜耶は澪に説いた。杜の男児にも勾玉を持って生まれる者が居り、八反目の弟である時記にも其れは下がっている、と。
巫覡の力を継いだ者である証であるが、八反目には其れが無いとも。女児の物の様に婚いに支障を来す物では無いが、一つの目印だと亜耶は言った。
「男を弾くのは、女子の勾玉のみなのですか?」
「ええ。杜では女に長を継がせる慣例が有るの。長たる女から生まれた子であれば、血筋は確かでしょう?」
「確かに…子の父は、女にしか分かりませんからね…」
話の飲み込みが早いと、亜耶も助かる。巫王が例外中の例外なのだと、理解さえして呉れれば良い。
「禍つ恋を…避ける為なのだわ、きっと」
亜耶が己の勾玉を翫び乍ら言うと、澪は納得した様だった。
巫王の御館は邑の中央、魚の杜と白浜を分ける二本の宿り木の間から神殿を中央に見られる位置に在る。周囲の御館より階は長く、亜耶は澪に注意を促した。
「此処が、長の御館…」
「緊張しなくても良いのよ。長と云ってももう、澪の義父なのだから」
女御館と違って、舎人は居無い。階を登り切った所で、勝手に沓を脱いで御館に入る。
入口には大きな鉾が飾られ、格式の高さを示しているが、亜耶は何ら気にしない。
「あ、亜耶さま…!」
戸惑う澪の手を引き、巫王気に入りの間へと向かう。其処に、巫王は座して訪いを待って居るだろう。
「澪だね」
巫王の間に着く直前に、中から声がした。
「は…はい!」
足を止めようとする澪を急かし広い一間に入ると、巫王が明らかに上機嫌で待って居た。亜耶と澪を交互に見、己の前へと座る様促す。
「矢張り、私の娘達は美しいな」
美髯を撫で、満足げな巫王は八反目ももう直き来ると言った。途端に、澪の顔が赤くなる。
「夕べの、八反目の無礼を赦してお呉れ。怖い思いをさせただろう」
「そっそんな、赦すだなんて…私が勝手に怯えただけです。後程お話しさせて頂いた八反目さまは、お優しい方でした」
「そう言って呉れると、幾何かは心が安らぐ。善い娘だね、亜耶」
「ええ、優しく、情の深い娘です。既に私や真耶佳にも溶け込んで居りますわ」
心根の善さが無ければ、魚の杜には受け容れて居無い。そう言外に滲ませて、亜耶は澪に笑い掛けた。
「其れに、もう御使いにも気に入られた様じゃ無いか」
「はい、綾などは手放したくない様子でした」
其れは困った、と巫王が笑う。輿入れに付いて行くのだから、暫くは我慢して貰わねば、と。
「其れはとそうと澪、故郷が無いと思って居るだろう」
「え、はい…何故、其れを」
「ひしひしと伝わって来る、此れまでの孤独とこの杜への愛情だよ。一晩居ただけで、此れだけ杜を愛しんで呉れている。此の杜は、もう澪の故郷だ。帰る場所だよ」
出立まで存分に、此の杜での記憶を増やして行くと良い。其れは、巫王と亜耶、真耶佳の同じ思い。年が近くて言えなかった事を、巫王は代弁して呉れている。
「そうよ、私に初めて出来た妹姫だもの」
涙の溢れそうな目で、澪は巫王と亜耶に何度も何度も礼を言った。
「化粧が崩れて仕舞うわ。泣くのはもう少し待って?」
亜耶が手拭いを出して、目頭に溜まった澪の涙を吸い取って行く。良い子ね、と頭を撫でると、澪は鼻を啜り上げた。
「さあ、もう一の兄様が階を上って居るわ」
「はい…」
必死で涙を堪えて、澪が頷いた。其れと時を同じくして、裸足が廊下を歩く音が聞こえ始める。
「八反目」
巫王の呼び掛けに、八反目が深く頭を下げた。