十一、神殿
神殿の前で火を焚いて居たのは、大龍彦だった。霊力の潰えた澪に見えるか、と危惧した亜耶だったが、澪が足を止めた事で杞憂に終わったと知る。
「鬼…鬼神さま、ですか…?」
澪の表情が、怯えた物に変わった。西では鬼は禍事を起こすとされる、と澪は言う。
「大龍彦は、そうね…半分はその鬼と云う物かも知れないわ。半分は人だけれど」
「では、此処では禍つものでは無いのですね…」
「ええ、杜に居る鬼は大龍彦と大蛇だけだわ。一つ腹の双子なのよ」
「大蛇…?その方も、祀られて居るのですか…?」
いいえ、と答え乍ら、亜耶は澪の肩を抱いて大龍彦に近付いて行く。
「大龍彦は綿津見神さまの御使いだけれど、大蛇は違う。神山に塒が有るの」
大龍彦は聡耳だ、多分此の会話も聞こえて居るだろう。振り返った赤い目と目が合ったか、澪が小さく会釈する。
「もう一人居るのよ」
大龍彦の妹。そう言うと、澪は驚いた顔をした。
「妹背で祀られて居られるのですか?」
「ええ、今は多分神殿の中に…」
言うが早いか、綾が神殿の階に現れた。今日はきちんと袴を履いて、碧い脚結も着けて居る。
「紹介が、遅い!」
今度こそ出て来た海の者、綾の高い声が、亜耶と澪の耳朶を打った。
「碧い…鮫人?」
どうやら此方も、澪の知識の中には怪として在ったらしい。
鮫じゃないよ、鱗が在る。澪の疑問に、綾はそう答えた。
綿津見神に仕える一族で、地方によっては無病息災をもたらす善き者で在るとも。其れに、鮫にしては綾は大きい。
「亜耶も澪も、髪を濡らさないで来て呉れれば嬉しかったんだけど」
大龍彦の予感が当たったね、と。綾は、焚き火に乾いた枝を放り込んだ。
「亜耶は自分で乾かせるでしょ?澪はほら、拭いて上げるから」
「あっ、有り難う御座います…!」
碧い御使いに髪を拭かれて梳かれ、澪はまた恐縮して居た。己の常識の中では悪しき者達だと云うのも有るのだろうが、其の肩は寒きと見紛うばかりに震えて居る。
「怯えないで。澪に危害を加えたりしないよ、僕も大龍彦も」
「けれど私は、奴婢の出です…此の様な扱いを頂くには…」
澪が、知られたくない秘密を絞り出す様に言う。其れには亜耶も、少し驚いて仕舞った。
「まあ、そんな事を気にして居たの?」
此の杜には奴婢は居無いのよ、と亜耶は澪の秘密を軽く退ける。
「え…?」
「そうだよ、澪。此の杜で族人以外と交われるのは、巫王の血筋だけだよ」
「そうよ、だから誇りなさい。色々な族の血が入っている事は、此処では敬われるわ」
以前は巫王の血筋も、勾玉に導かれつつも族人との婚いを重ねていた。けれど、或る時から巫女姫には神々の愛児しか生まれなく為って仕舞ったのだ。
予言は当たるが、長じても幼子の様。魂離りして居無ければ子供の様に怯えて泣き喚き、此れでは婚いにも支障を来す。どうにか魂離りと婚いの時機をを合わせた祖父だったが、巫王以外は乳離れの前に果敢無くなった。
事態を重く見た祖父は、血族の先を卜わせた。そして出たのは、重ね過ぎた婚いと、濃過ぎる血の弊害と云う神託。長の血筋の者は、二代ごとに外の族から伴侶を取る様に、と。二代族外から伴侶を得、次の二代は族内で伴侶を決める。そうすれば、血は濃過ぎる事も薄過ぎる事も無く連綿と続いて行くであろうと。
巫王の代には、長に成るべきは一人しか残らなかった。だから巫王は、陸の族から八反目と時記、亜耶と真耶佳を生んだ女をそれぞれ娶ったのだ。
「そう…だったのですか…」
「ええ。だから澪は、自分を卑下する必要は無いの。杜の族の王子の、立派な妹だわ」
杜の話を聞いて居る間に、澪の震えは止まっていた。綾と目と目で合図して、亜耶はやさしく微笑んだ。
さて、服も髪も乾かさねば為らない。此の後は髪を結って化粧をする。そうして二人で巫王の元に行き、八反目に妹背の言挙げをさせるのだから。
幸い禊衣は簡単な貫頭衣である為、多少の無茶は出来る。亜耶は大龍彦に火を借りる事にして、両手を火の上に焼べた。
「わあ…!」
両手の先から亜耶に燃え移った火が、全身を赤く包んで静かに消えてゆく。ふうわりと暖かな風が追い掛けて、裳裾や長い髪の先を揺らした。
「ね、綺麗でしょ」
「はい…!」
背後で、綾と澪がはしゃいだ声を上げる。異世火を呼んでも良かったが、折角火を熾して呉れたのだから使わない手は無い。
「亜耶、澪にも遣って上げて」
綾が何でも無い事の様に、澪の背中を押して階から下ろそうとした。しかし澪は、恐怖が先に立つのか中々下りようとしない。
「熱くは無いわよ」
「そう、なのですか…?」
恐る恐る、と云った足取りで澪が階を下りて来る。亜耶の指示で同じように両手を火に焼べさせ、幾度か澪の方を手で扇いだ。
矢張り澪の体も火に包まれたのだが、澪は驚いた顔をしてされるが侭。熱く無いのは本当だった、と見開かれた目が言って居る。
澪も緩やかな風と共に裳裾を揺らして火から戻り出でたが、言葉を無くして両手を見るだけだ。
「さあ、髪を結うよ」
綾が和やかに言って、手の中の簪をちりん、と鳴らした。