六十九、霊眼
澪が子を生んだ、翌朝。亜耶は徹夜はするなと寝かされ、澪との会話に出遅れた。賑々しく水鏡に向かって話し掛ける巫王と大蛇の声で、亜耶は目を覚ます。
「起こして呉れるのでは無かったの…?」
亜耶が怒りに満ちた面持ちで後ろに立つまで、巫王と大蛇は澪との会話を楽しんでいた。水鏡に映る、澪の赤子。鼻筋は澪に似ていて、時記の面影も在る。不思議な物だ。
「亜耶さま、お早う御座います!」
澪の元気な声に、少し救われる。すると時記も澪の隣に座り、嬉しさを隠し切れない面持ちだ。
「亜耶が起きたら名前を教えるって言ってるのに、父上が強引なんだよ」
「まあ…其れでも私を起こさなかったの?いい加減にして」
巫王は、何としても先に名が聞きたくて…と慌てて居る。亜耶が此処まで怒るとは、想像して居無かったのだろう。
「澪は子生みの後よ、疲れているわ。時記兄様だって、寝て居ないのよ」
其れを言われて仕舞うと、巫王も落ち込んだ様子になる。ぐい、と巫王と大蛇の間を割って、亜耶は水鏡の正面に座った。
「其れで、名は何と云うの?」
「也耶です」
「亜耶と真耶佳から、一字貰ったんだ」
「まあ…!」
亜耶の顔が、喜びに輝く。自分の名を継いでくれる子など、其の由来故に出来る訳が無いと思って居たからだ。
「嬉しいわ、澪、時記兄様。也耶、宜しくね」
言った途端ぱちゃん、と水鏡に返事が来る。也耶は喋れる様になるまで、こう遣って返事をするのだろう。
「霊力は、既に強いわね。真耶佳の子に乳をあげる時、嫉妬するかも知れないわ」
「そうなんだよ、今でさえ泣き出すと、私か澪が抑えなければならないんだ」
「兄様、宮勤めになって良かったわね」
本当だよ、と時記が笑う。すると、時記の後ろからにゅっと大王が顔を出した。
「此れが、水鏡なる物か…映るのは亜耶姫と夫、父君か?」
「え、大王、霊眼をお持ちで?」
幼い頃に少し鍛錬した、と言う大王は、水鏡に映る物をしっかり見分けて居る様だった。
「成る程、亜耶姫は真耶佳とはまた違った美し姫。澪に少し似ているな」
「恐れ入ります。可愛い妹姫に似ているなんて、光栄ですわ」
亜耶が笑顔を向けると、大王は満足した様に頷いた。そして、亜耶の子は真耶佳の子と同じ時期に生まれるか、と問う。
亜耶は、恐らくは、と答え乍ら、難産の卦が見える事を大王に伝えた。
「真耶佳の、命は…」
「そちらは心配御座いません。月葉が護ります。少し、寝付くかも知れませんが」
ふうむ、と大王は少し考え込んだ後、亜耶姫、と呼び掛けた。
「真耶佳も、現在を見るだけの霊眼は持って居るよの。何故、塞がっている?」
其れは、亜耶も知らない。母が果敢無くなった頃には、塞がっていたのだ。話を聞いて居た巫王は、其の説明は私が、と言い出した。
「元々、真耶佳と亜耶の母は杜の女では在りませんでした」
亜耶を生んだ後、真耶佳に神殿での祈りを固く禁じて居た母は、真耶佳にも亜耶と同じ物が見えて居るのに気付いた。真耶佳は見た侭を言ったのだろうが、母には辛抱為らなかったらしい。
こんな不気味な目など要らぬ。巫王にそう詰め寄って、母は真耶佳の霊眼を塞がせた。だから、都合の良い時だけ開ける霊眼の欠片が、真耶佳に残って仕舞ったのだ。
「ふうむ…」
大王は話を聞き終わった後、何かを思案する様に腕を組んだ。
「亜耶姫、真耶佳の子生みも近い。あれにも、見える様にしておくべきでは無かろうか」
「鏡も、握り石も、護りの額飾りも腕輪も、真耶佳は持って居りますが…」
「子が生まれれば、黒い妬み嫉みは益々増える。我は長く其れを見て来た。子を護る術を、与えても良いのでは無いかと思う」
今度は、亜耶が考え込む番だった。ああ見えて、真耶佳は恐がりだ。黒い針を見せた時には動転しなかったが、果たして其れが毎日続いても耐えられるのか。
「大王、其の件は真耶佳と相談をさせて頂けますか?」
「勿論だ。此方こそ、突然済まなかった」
では也耶、我は執務に行くぞ。そう言って大王は也耶の頬をつつき、水鏡から消えて行った。
「此方では皆が夜を徹して私達を待っていて呉れたのです…大王も、お疲れでは…」
澪が、少し不安そうに言う。真耶佳の大事な人が、倒れでもしたら、と。
「側女達は?」
「皆起きて居たので、昼まで休みを出しました。真耶佳さまと月葉は、眠って居られます」
そう、と亜耶は満足げに笑った。澪も眠れる時には眠りなさい、と亜耶は優しく言う。流石に眠かったのだろう澪が、では眠れる内に、と言って大蛇と巫王にも礼を言った。