一、魚の杜の巫女
海は凪いでいた。碧い、碧い海。
亜耶と名を同じくする綿津見神の御使いと、同じ色の碧。
「こんな処で神籬なんて」
亜耶は気紛れな杜の主に、干した猪肉を差し出し乍ら小言を言う。
其れはそうだ、此処は白砂美しい浜辺なのだから。
「だって、僕は此の姿では杜に帰れないでしょう?」
小言を受けた綾が、平然と乾し肉を囓る。海に住まう一族の綾の歯は鋭く、目を見張るばかりの美貌とは対照的だ。碧い髪、碧い瞳は人ならざる者と顕しているのに、気を抜けば心引かれそうになる。
けれど一つ。長衣こそ纏っている物の、足が魚の尾鰭なのだ。
「もう、今日は陸から船が来るのよ。こんな処で魚の足になられては困るわ」
「そう云えばそうだね。大龍彦、高浜の方に行こう」
亜耶もご苦労様、と綾は笑う。普段は出し惜しみする笑顔を、惜しげも無く晒して。
「おら、行くぞ」
会話にまるで入って来なかった大龍彦が、軽々と綾を肩に担ぎ上げる。大龍彦の髪は白波の色だ。伸ばしっ放しの髪の中から角が生えている。あまり目立たないが目は暗く赤いので、此方も綿津見神の使いだ。本来海には居無い、鬼と云う種類らしい。
「綾を担いで高浜を降りるなんて…災難ね」
「そうだな」
意見の一致を見たところで、大龍彦も乾し肉を強請る。はいはい、と最後の一片を渡して仕舞ってから、気を付けて、と大龍彦にだけ声を掛けた。
綾を担いで居るのは、大龍彦なのだ。其れに高浜は崖が切り立った下に白浜が在る。只人が降りようとすれば、命を落とすであろう場所だ。だから、大龍彦にだけ。そう胸に言い聞かせて、亜耶は陸からの船を迎える為に邑の者を呼びに行った。
此の様に綾や大龍彦と言葉を交わす亜耶を陸の族の者が見たならば、不審に思うだろう。何故ならば、彼等は只人には見えない。見て居るのは、杜の族の神人と巫覡くらいだ。
陸の者達には見えぬ二人を追い払ったのは、其の所為も有る。
陸からの船には、普段に比べて豪奢な積み荷が多かった。其れもその筈、もう幾度か月が形を変えれば、亜耶の姉が纏向の大王に輿入れするのだ。
品の受け渡しは総て浜で行われる。魚の杜の者以外、神殿の奥に在る宿り木の結界を破れないからだ。櫃や籠、其れからはみ出した上等の衣。
真耶佳の名を頂く姉は頗る美しく、亜耶の闇見に依れば大王の元に此れ程の女は居無い。其れを更に飾り立てて送り出すのだから、魚の杜の族も気合いが入ろうと云う物だ。
「ねえ亜耶、この衣の色は派手では無い?」
自分の間に運ばれた衣に袖を通して、真耶佳が問う。真耶佳は、己の見た目に大した興味も抱かない。母に溺愛されて育ったが故自主性が乏しく、母亡き今頼るのは妹姫の亜耶だ。美しい子、愛しい子。母が口を酸っぱくして言っていたそれらの言葉は、全て父への当て付けだと思って居たそうだ。
「真耶佳に似合わない衣なんて無いわ。裳は此方の方が良いと思うけど」
巫女姫である亜耶は、普段見慣れない沢山の色に目が輝く。己が身に着ける訳では無い、けれど心躍る物だ。
「亜耶も着てみて、自分が着るのでは色の合わせ方が分からないわ」
「え…っ」
普段白しか纏う事を良しとしない亜耶に、真耶佳は悪戯っぽく笑う。貴方も着てみたいんでしょう、秘密にしてあげるわ、と云う笑みだ。
誘惑に負けた亜耶は、美しい藍色に染められた深衣に袖を通す。しかし、落ち着かない。
「亜耶は美しいのに、着飾らないのよね。装飾品も其の勾玉だけ」
「………」
天青石の連珠に、菫青石の勾玉が三つ。亜耶が母の腹から生まれ出でた時、腕に巻き付いて居た物だと云う。
「耳飾りも、付ければ良いのに」
真耶佳が、亜耶の耳元で纏められた一房の髪に手を伸ばす。真耶佳の耳には、美しい瑠璃の耳飾りが踊っていた。
亜耶が生まれ持った勾玉しか付けぬのは、母への意地だ。真耶佳が生まれた時、何れ大王に輿入れすると予言されて泣いて喜んだと云う母。亜耶が生まれた時には、此の勾玉を見て産屋で半狂乱に為ったと聞いた。
人ならざる物、化け物の子、と。
其れ以来、母は真耶佳への溺愛を深めた。乳母を付けないこの一族の慣例に反して、亜耶は他人の乳で育てられた。亜耶には、母に抱き上げて貰った記憶すら無い。
反対に、父である巫王は喜んだ。巫女姫を長とする此の族で、女子が生まれず巫王と成った父は異質だったのだ。次代の巫女姫、それも強い霊力を持つ大闇見の誕生だと、三日三晩宴を催したと云う。
「亜耶?」
物思いが過ぎたのか、真耶佳が不思議そうに呼びかけてくる。姉妹の間に、母の蟠りは存在しない為、亜耶が勾玉の意味を話す事は無い。
「何でも無い…裳はどれを着ければ良い?」
「そうねえ、此れかしら?」
真耶佳が選んだのは、清々しい若草色の裳。
「真耶佳、其れでは采女の様だわ。何でこんな色が混ざっているのかしら」
じゃあ此れかしら、と真耶佳が手に取ったのは、鬱金から染めたであろう色の裳だった。
今度は大人しく着けて、どう?と真耶佳に見せる。
「迚も綺麗なのだけれど…私には派手では無いかしら?」
真耶佳の紅を刷いた唇が紡ぎ出したのは矢張り、実に自覚の無い言葉だった。
「真耶佳…私の闇見を信じないの?」
慌ててそんな事は無い、と首を振る姉に、亜耶は惘れて仕舞う。男も女も美しい者ばかりと評判の族で、更に抜きん出て美しいと云うのに。
慣れぬ色の衣を脱ぎ乍ら、亜耶は小さく溜息を吐いた。