白蚊の赤子
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うげっ、くせー! つぶらやてめえ、なんてものを部屋にぶちまけやがったんだ!
――蚊がぶんぶんうるさいから、死の霧を巻いてやっただけ。
それにしても限度があるだろ……なんで、本とか服とか部屋に置いたまま殺虫してんだ! ああん? 虫をヤルより、そっちのほうが圧倒的に手間じゃねえか。これがお前の部屋じゃなかったら、張ったおしているところだぞコラ。
――人の部屋を気に掛けるぶん、ぞんがいお人よし?
ふん、俺がくつろぐスペースまで汚されるのが、気に食わないだけだ。少なくとも、私物はキッチン側に退避させてもらうぞ。
それにしても、まだ冬だってのに羽虫たちは熱心に活動中か。ひと昔前なら考えがたい光景だなあ。蚊の羽音なんていうのは、夏の風物詩のひとつだったのに、今やこのあたりじゃあ、年がら年中耳にする。季節の風情ってやつが失われ始めている証拠かねえ。
この虫の気配。人間にとっちゃ、おうおうにして面倒ごとととられがち。だが、相手によって変える、電話の着信音設定みたいによ。羽音の違いが。思わぬものを呼ぶきっかけにもなり得るんだ。
それに関する俺の昔の体験、聞いてみる気はないか?
俺がまだ小さくて、弟もまだ赤ちゃん用の柵つきベッドから、卒業していないころの話だ。
当時の俺は、親がご飯を作っているとか、弟に構っていられない際の遊び相手になっていた。
弟はまだ、歩くことができない。その場でいないないばあをしたり、ベッドから出してハイハイさせたりするのが俺の主な仕事だった。下の世話に関しては、俺自身が嫌がったこともあって、やらなかったけどな。
そうしてお守りをする俺だが、任務のひとつに虫よけも混じっている。まだ小さい弟に、殺虫剤は毒だといわれてな。俺は迫る虫を倒すガーディアンでもあった。
あくまで人力だ。取りこぼしだってままある。幸い、といっていいかどうか、弟は痛がりでな。刺されるとすぐ「わあわあ」泣いて知らせてくれる。
あいつの刺されたあとは、いつも大きくぷっくりと膨れていたっけな。
それからしばらく経って。その日はたまたま、俺と弟だけで留守番を任された。子供を連れていけない用事だったらしい。
俺とて、哺乳瓶に粉ミルクを用意して飲ませることくらいはできる。弟がいきなり泣き始める原因の大半がこれだったが、残りは虫たちの襲来だった。
朝に家を出た母親は、数時間で帰ってくると話していたが、昼になっても音沙汰がない。お客さんが来ても居留守を使い、電話にも出なくていいといわれたものの、どうにも気が抜けなかった。
今日は格別、虫たちの羽音をよく聞いたからだ。プーンと飛んでくるのをパチン、と俺が仕留めにかかる。これがほぼ10分や20分おきくらいに繰り返された。どうも俺自身より、弟のほうに引き寄せられていることもわかる。
血液型がA型だらけの我が家において、あいつは唯一のO型だ。「蚊ってO型が食われやすかったっけなあ」などと思いつつ、先ほども一匹を仕留める。静かになった空間でほっと一息ついた。
座り込む俺のわきには、広げたティッシュが何枚か。その一角に、先ほど手にかけた蚊の亡骸をこすりつけてやる。まだほとんど血を吸っていないようで、手やティッシュにつくのは黒ずんだ体液と、つぶれた身体。叩いた時にとれた二本の足のみだ。
蚊はメスのみが血を吸うと、当時の俺は聞いたばかり。それも産卵を控える時に限られるとか。自分の子供のために他のやつの子供を狙うとか、なんとも嫌な関係だ。
弟はすやすや眠っている。泣かれる心配がないだけありがたく、俺は適当に持ってきた携帯ゲーム機のスイッチを入れた。一ゲームが数秒で終わる、どこで中断しても惜しくないタイプだ。
やがてゲームとは別の、聞きなれた音が耳に届く。
救急車のサイレンだ。親にけが人や病人を運ぶ車と聞いてから、少し身構えるようになっちゃったよ。通りがかりに、いけないウイルスでもまかれるんじゃないかと思ってさ。
じょじょに大きくなってくるサイレンに、俺はゲームの電源を切り、弟のベッドの柵へよりかかりながら息を潜めちまう。いよいよ音は頭いっぱいに響くほどになり、後は遠ざかるのを待つだけ……とはいかなかった。
音が止まない。それどころか、近づくのといっしょに聞こえてくるエンジン音や、タイヤとアスファルトがこすれる音がやってこないんだ。ただサイレンのみが、勢いを強めていく。
――救急車じゃない?
そっと俺は弟のベッドの裏手、タンスとふすまの間へ手を伸ばす。ここには護身用の木製バットがしまってあった。久しく握っていなくて、ほこりだらけのバットの柄を掴みかけた時、やつが姿を見せたんだ。
真っ白な蚊。部屋の入口のわずかなすき間から、まっすぐ入ってきたんだ。
これまで仕留めてきた蚊よりも、ひとまわり大きい。羽をはばたかせながら、俺の目の前に対空。わずかな上下動すらせず、じっと俺を見据えているかのようだ。そしてけたたましいまでのサイレンは、どうやらこいつから発せられている。
先手必勝。俺はバットを放すと、その手で蚊を挟み込もうとする。今朝から3匹はこれで葬ってきた、死のサンドイッチ。
かわされる。すっと上昇した蚊よりわずかに下で、俺は手を打ち鳴らした。
追いかける。二段、三段。
繰り出される必殺のプレスをことごとくかわすが、白い蚊は落ちついている。普通の蚊ならあわてふためいて、空中をやみくもに飛ぶか、距離をとるかのいずれかだろう。
それがいずれの回避も、俺の手のわずかに上でとどまり、またも滞空。「おめえの動きは見切ってんだよ」といわんばかりの挑発だ。
俺はそれからも次々と攻めたが、あいつは逃げず捕まらずの、絶妙な距離を取り続けている。自分でも顔が熱く感じるほど、カッカしながら追い回して、不意に背後でサイレンの音。
振り返った。弟のでこの上に、あの白い蚊が止まっている。俺が追い回している蚊とは別にもう一匹いたんだ。
ぐっと針が突き立てられると、風船のように蚊の身体が急激に膨らんでいく。
あっという間にピンポン玉、ゴルフボール、ビリヤードの球……とぐんぐん増す図体。それにともない、赤く染まっていく蚊の身体は。まるでだるまの背中を見ているようだったよ。
もしあれが血であるなら、相当な量を奪われているはず。なのに弟は目を覚ましたり、泣き出したりする気配を見せない。
そこを突かれた。俺の頬にチクンと、刺さるものがある。
「やべ!」と手で反射的に、かゆみの源らしきところを叩いた。刺されてからの反撃は、仕留める確率も高い。確かにとらえたと思ったさ。
だが俺の手は弾かれた。ゴムボールを押した時のように、ぼんと柔らかい手ごたえとともにな。横目で見る頬の上には、あの身体を赤らめながらぷっくりと膨らむ蚊の姿があったんだ。
そこからはもうだめさ。目の裏、鼻の裏が、何か強いものに引っ張られ頬へ集まっていく。ちょうど鼻をすする時の勢いを、何倍も強めたかのようだったよ。
目の前が一気に真っ白になった。上下左右、どちらを向いているかわからなくなっちまってさ。つい後ずさったところで何かにつまずいて、うなじをゴチン。そっからは体中がしびれて動けない、声も出せないときたもんだ。
どれくらい経っただろう。母親の悲鳴と共に、視界が戻った。
電灯の笠がついた天井。見慣れた部屋のものだったが、いうことを聞くようになった身体をひょいと起こして、俺は絶句する。
俺の立っていたであろうところ。そして、弟のベッドの柵の下から部屋の外へ続くのは、まあるく、真っ赤な足跡だった。右左、右左とほぼ同じ間隔を置いて並ぶ、合計二対の跡からは、垂れ落ちたばかりの血の臭いが漂っている。
母親は玄関にいた。足跡はそこまで続いていて、ティッシュで懸命にこすっているところだったよ。俺も手伝おうとしたが、その顔を見て母親は一瞬、ぎょっとした表情に。鏡を見るよう促される。
のぞいた鏡の中には、バレーボールを頬張ったように腫れあがる、俺のほっぺがあったんだ。もしやと弟の様子を見に行くと、あいつもおでこに同じものをこさえていたよ。ほとんど顔が隠れちまうほどだったのに、あいつはいまだ起きようともせず、眠りこけていた。
母親には事情を話したけど、半信半疑だったなあ。俺と弟の異様に膨らんだ頬がなければ、完全にいたずらだと思われただろう。
この腫れも、一時間のうちにみるみる引いてしまい、他の家族は俺たちの異状を見ることはなかった。
蚊は産卵のために血を吸う。ひょっとしたら、あの白い蚊たちの子供はこの場で生を受けたのかもしれない。ごっそり奪い取った、俺と弟の血をエサにしてさ。