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切り裂き屋の憂鬱な日曜日 ACT8(完結)

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 ―――18年前、私は2歳年上の男の子を好きになった。

 

 初恋……だったと思う。

 私は同年代の子供達に比べて相当ませていたけど、『彼』に出会うまで色恋沙汰に関して全く縁が無かった。

 

 だから、最初は自分の中に芽生えた『何か』がクラスの女の子達がよく口にする『好き』とか『恋』とか呼ばれる感情だとは全く気付かなかった。

『彼』を好きになった切っ掛けが何だったのかさえ良く覚えていない。

 

 逆上がりが出来ないせいで、教師に馬鹿にされた『彼』が半べそかきながら真夜中まで鉄棒の練習をしているのを見た時か。

 川に落ちた犬を見て、自分が泳げない事も忘れて水に飛び込み、溺死しかけた挙句に助けるはずだった犬に逆助けられたの見た時か。

 

 とにかく、気がつい時には私はいつも『彼』を目で追うようになっていた。

 両親に相談をして、初めて自分の本当の気持ちに気が着いた。

 お父ちゃんは『極道の娘がいも引いたらあかんでぇ!』と発破をかけてくれた。

 お母ちゃんは何も言わずにそっと私の背中を押してくれた。

 二人の応援を受けた私はその日から、彼の気を引こうと果敢なアタックを開始した。

 

 最初に女の子の嗜みとして、バレンタインデーに手作りのチョコを送ってみた。

 私は『彼』がどんなものが好きなのか分からなかった。

 なので、とりあえず彼の好物が入っているはずの弁当を拝借して、その上に生チョコをかけてみる事にした。

 最後まで食べてくれたので、多分嫌いじゃなかったと思う。

 でも、『彼』の気持ちが私に向くことは無かった。

 

 チョコ作戦が思ったよりも効果が上がらなかったので、私は次にトラップ作戦を決行した。

 まずは、帰り道に罠を仕掛けて『彼』を捕まえる。

 そして偶然をよそって通りかかった私が『彼』を助けて、親密になろうと考えたのだ。

 本で読んだ『つり橋効果』なるもので、私達の感情は激しく燃え上がるはずだった。

 

 でも、この作戦も失敗した。

 仕掛けた罠で『彼』は捕まらず、代わりに全然関係のない人や小動物達が犠牲になった。

 それ以来、私の罠を警戒して『彼』は頻繁に通学路を変えるようになったので、トラップ作戦は断念せざるをえなかった。

 

 しかし、私はめげなかった。

 あい続く失敗は『彼』への恋心に水を指すどころか、かえって油を注ぐ結果になった。

『彼』の誕生日で私は一発逆転を狙った。

 私は『彼』が動物好きなのを知っていた。

 そして、大人しい外見に似合わず、危険な動物や毒のある動物が好きな事も。

 だから、私は誕生日プレゼントに地球で最も強烈な毒をもつヤドクガエルを送ってあげる事にした。

 

 期限の『彼』の誕生日までにお父ちゃんの友達であるマフィアの叔父さんにヤドクガエルの密輸を頼んだり、

 私のプレゼントを受け取った彼が毒で倒れないように蛙の毒を抜いたり、

 蛙の飼育や毒抜きに必要な資料を全部自分で翻訳して読みふけったりと、

 最初から最後まで大忙しだった。

 でも、全然辛くなかった。

 むしろ、とっても楽しかった。

 幼い情熱に私は燃えに燃え上がっていたのだ!

 

 そして決戦当日。

 私のプレゼントに『彼』は悲鳴を上げて飛び上がってほど喜んでくれた。

 感無量だった。

 でも、やはり彼の感心が私に向くことは無かった。

 気のせいか、私から目を逸らし、私と会う事さえ避けるようになった。

 きっとこっそりプレゼントを彼の机の引き出しに入れたのがいけなかったのだろう。

 どんなに恥ずかしくても、プレゼントは直接自分の手で渡すべきだったのだ。

 

 私達の関係が新しい展開迎えるためには、神様にもう少し背中を押してもらう必要があった。

 

 ある日、通学路の帰りで大きな犬に襲われた。

 私は一緒にいた小さな子達を逃がすために、その場で踏みとどまって犬と戦った。

 後で友人達は皆、私の勇気を褒め称えてくれた。

 しかし、当時の私には今にも泣き出しそうな恐怖しかなかった。

 あの時、私達の中にはクラスで一番成績の良い子がいた。

 学年で一番運動神経の良い子もいた。

 でも、彼らは最初に逃げ出して、『彼』だけがやって来てくれた。

 

 最初、夢じゃないかと思った。

『彼』はただ一本の傘だけを武器に、巨大な犬に挑みかかった。

 私のために……。

 私だけのために!!!

 

 ここで、ときめかない奴は女の子じゃない!

 恐怖なんて一瞬でアンドロメダ星雲まで吹き飛んだ。

 心を通じ合わせた私達にとって犬はもう敵じゃなかった。

 勝つべくして、私達は勝った。

 それは後に私達が無数に積み重ねる事になる勝利の最初の一つだった。

 

 その日を境に、私達の関係は大きく変わった。

 一緒に強敵に立ち向かった後で、二人の感情は激しく燃え上がったのだ!

 まだ『好き』だとも『愛してる』とも言ってくれなかったけど、『彼』の気持ちが私に向いた事ははっきり分かった。

 

 私は良く『彼』の家に遊びに行くようになった。

『彼』も良く私の家へ遊びに来てくれた。

 それまでお父ちゃんの家業のせいであまり友達を家に呼ぶことが出来なかったからなおさら嬉しかった。

 だけど、その喜びも私の誕生日がやってくるまでだった。

 

 私が11回目の誕生日を迎えたあの日。

 私は生まれて初めて家族以外の人間を自分の誕生パーティに招待した。

 お母ちゃんは気合を入れて、ご馳走を作ってくれた。

 お父ちゃんはいつもより早く帰ってくるって約束してくれた。

 私は自分の衣装箪笥を全部空にして、今までで一番女の子らしい格好をした。

 自分が納得できるまで、三回も着替えなおした。

 

 準備は全て整って、後は男達がやってくるのを待つだけだった。

 最初に帰ってきたのはお父ちゃんだった。

 そして、お父ちゃんはお腹を刺されていた。

 

 あの頃はまだ携帯なんて便利なものは無かった。

 もし、携帯電話があったら、お父ちゃんは私達に警告するため真赤に染まったお腹を抑えながら、何十キロも車を運転しなくて済んだかもしれない。

 もし、携帯電話があれば、お父ちゃんはすぐに病院に駆け込むか、救急車を呼んで、今ごろ三つに増えたお腹の傷を自慢していたかもしれない。

 

 お父ちゃんはそれまで他の組の鉄砲玉に二回お腹を刺されていた。

 でも、三回目は駄目だった。

 お母ちゃんは冷静だった。

 私も冷静だった。

 自分でもびっくりするぐらいに……。

 

 私達は逃走用に買っておいた新車に隠し口座の通帳や美術品等の金目の物、そしてお父ちゃんの体を詰め込んで全速力で逃げ出した。

 私は泣かなかった。

 血で真赤に染まったお父ちゃんを見た時も、

 ぐったりと力のないお父ちゃんの身体を車に積み込んだ時も。

 車が動き出して、住み慣れた我が家がゆっくりと遠ざかり始めた後、私は血で二度と使い物にならなくなったお洋服の裾を掴んで始めて涙を流した。

 

 自分のためではなく、『彼』のために。

 家の中の惨状を見た時に『彼』が抱くであろう感情のため。

 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ無人の家。

 陽だまりの中で静かに佇むその姿が幼年期の私達の最後の思い出になった。

 

 東京で私達は新しい戸籍と名前を手に入れた。

 間もなく、誰がどうしてお父ちゃんを嵌めたのも分かった。

 下手人はお父ちゃんの舎弟の一人だった。

 たまに家に遊びに来ては良く小さかった私を抱き上げ、可愛いねと言って頭を撫でてくれた。

 

 絵に描いたような優しいおじさんだった。

 せこくて、ずるくて、ネズミのようにくだらない男だった。

 でも、そのくだらない男が跡目争い等というくだらない理由のために(おとこ)の中の(おとこ)だったお父ちゃんを殺したのだ。

 

 お父ちゃんは昔かたぎの侠客で、優しくてとてもとても強い人だった。

 私は子供の頃お父ちゃんが世界で一番強い男だって信じて疑わなかった。

 お父ちゃんの死は本当に色んな事を私に教えてくれた。

 

 お父ちゃんを殺した男は嫌な奴だったけど、陰険で執念深い人間でもあった。

 お父ちゃんが死んだ後も、あいつは私とお母ちゃんを執拗に探しつづけた。

 先代組長の娘であるお母ちゃんと、その子供である私を警戒していたらしい。

 あいつがお母ちゃんに惚れていたと言う噂を聞いた事もある。

 どちらにしても馬鹿な理由である事には変わりはない。

 お父ちゃんを殺したからと言って、彼に成り代われるはずもないのに……

 

 あいつに追い掛け回されて、私とお母ちゃんは日本を離れるしかなくなった。

 12歳になる頃に私はアメリカの日系移民の一人になった。

 合衆国での生活はそれなりに快適だった。

 もともと英語は得意だったので、言葉はすぐに覚えた。

 喧嘩は数え切れないほどしたけど、その度に友達も一杯出来た。

 でも、私が友達以上のボーイフレンドを作る事は二度と無かった。

 

 思い出は色あせる事は無かったが、『彼』に会う事も出来なかった。

 何度、空を飛んで日本へ帰る夢を見た事だろう。

 何度、彼が新しいガールフレンドを作っている事を想像して悶絶しただろう。

 でも、日本へ帰れば『あの男』が私達を待っている。

 私が会いに行けば、何も知らない堅気の『彼』を闇の世界の争いに巻き込む事になるのは間違いない。

 飛行機で行けばたった8時間の距離。

 それなのに、まるで何光年もの隔たりが私達の間に横たわっているように思えた。

 

 やがて私は一本道を歩くように、普通に大学に入学し、普通に博士課程に進み、普通に博士号を取って普通に就職した。

 収入は安定していたし、仕事もそれなりに充実していた。

 何事もない平穏な時間が田舎の列車の風景みたいに通り過ぎていく日々。

 私は自分がこのまま、荒れ野に生えた一輪の花のように種も残さずに朽ちていくのだと思っていた。

 だが、それは間違いだった。

 

 今から2年前、革命の炎が全世界で一斉に立ち上った。

 EX=Geneと言う名の変革が私の古い世界を完璧に焼き尽くしたのだ。

 

 私の変異に要した時間はたったの一晩。

 『強化人類(イクステンデット)』の中でも最も短かったが、その影響は極めて重大だった。

 俗にEX=Sensitiveは感覚器官を強化された能力者だと認識されている。

 しかし、それは間違っていないが、決して正しいとはいえない。

 確かに感覚器官も変異するが、感覚器官に付随する脳もまた変異を起こす。

 私達はただ強力なセンサーを得るだけではなく、そのセンサーがもたらす莫大な量の情報を捌ききる脳力をも手に入れるのだ。

 

 この旧人類や他の能力者達を圧倒的に突き放した処理能力こそ私達、EX=Sensitiveが最強の変異能力者と呼ばれる由縁だ。

 EX=PhysicalやEX=Chemicalの能力も確かに凄いけど、それはただ肉体に余計な器官が一つ、二つ増えただけの事。

 しかし、EX=Sensitiveへの変異は文字通り、能力者の世界そのものが覆る事を意味する。

 

 詰まる所、人間の現実は感覚器官が作り出したバーチャルリアリティに過ぎない。

 それは科学がどれほど進歩しようとも決して覆す事の出来ない事実だ。

 EX=Sensitiveの能力に目覚めた者達は、まず自分の前に現れた全く新しい世界(げんじつ)に打ちのめされる事になる。

 

 私の場合、変異を起こしたのは鼻孔の奥にある嗅覚細胞、嗅神経、一次中枢である嗅球、そして本能を司る視床下部や大脳皮質嗅覚野等だ。

 その結果、私の嗅覚は人間の数万倍と言われている犬のさらに数百倍にまで高められた。

 

 通常、人間は眼球を主な感覚器官とし、視覚に重点をおいている。

 しかし、視覚が感知する光とは電磁波の一種類でしかない。

 それに対して、人間の嗅覚は空気中に漂う何万種類もの臭い物質を嗅ぎ分けることができる。

 

 変異が終った日の朝、私は目覚めると同時に気絶して再び枕に沈んだ。

 何百万倍も拡張された感覚から流れ込む情報に変異したばかりの脳がオーバーヒートを起こしたのだ。

 再び覚醒した後、私は仕事にも行かずに家に閉じこもり、続く一週間の時間を自分の能力を掌握する事に費やした。

 

 一週間後、寝不足の腫れぼったい目で出社した私を怒り狂ったボスが出迎えた。

 彼は解雇をちらつかせながら、会社への忠誠心と勤労精神について長々と一席ぶってくれたけど、私は彼の言葉なんて聞いちゃいなかった。

 ボスが長話をしている間に、私は彼の体臭から15〜16歳程度の愛人と付き合っている事、昨日もその愛人と逢引した後そのまま出社した事、おまけにその愛人が最近ボス以外の同年代の恋人を作っている事等を読み取るに大忙しだったからだ。

 そう、家に篭っていた七日の間に私はついに膨大な嗅覚情報を分類分別し、不完全ながらも言語化する事に成功したのだ。

 

 一度こつを掴んでしまえば、後は簡単だった。

 まるで自分を取り巻く現実の世界がインターネットのプラウザに代わってしまったみたいだった。

 一つ対象を選んでクリックすれば、情報がまるで洪水みたいにとめどなく溢れ出す。

 出社してから僅か1時間足らずの間に、私は自分と同じチームに属する人間達を私生活の裏の裏まで知り尽くしてしまった。

 

 情報を読み取る事ができるようになれば、次は書き換えてみたいと思うのが人間の性というもの。

 運の良い事に、当時の私はアメリカでもかなり大手の化粧品会社の研究開発部門に勤めていた。

 能力に目覚めた私にとって会社の仕事はほとんどお遊びも同然だった。

 目立ちすぎないようにそこそこヒットする商品を数種類開発して予算を稼ぐと、私は会社の設備をフルに活用して自分の能力の開発に没頭した。

 

 有史以前から、人類は自分達の嗅覚を刺激するために数多の香料を生み出した。

 しかし、私ほど深くこの分野に人間は誰もいなかっただろう。

 私の前には今だ征服されざる未知の大陸が果てしなく広がっていた。

 そして、私は最新の設備を利用してその荒れ野を思う様に蹂躙した。

 

 死んだ爺ちゃんは良く運というのはドミノ倒しに似ていると話していた。

 一つ良い事が起これば、幸運は面白いように連鎖していくのだと。

 私は正にその言葉を実体験する事になった。

 

 香料の開発の合間に私はその『強化人類(イクステンデット)』の中でも最高クラスの追跡能力を利用して、アメリカに散ったほかの能力者達の情報を集めていた。

 その際、偶然にも他の人間の好意や愛情を呼び起こすフェロモンを放つEX=Chemical、『魔女(キルケ)』の存在を知った。

 私はすぐに自ら出向いて『魔女(キルケ)』を探し出した。

 

魔女(キルケ)』は誰にも愛される能力の持ち主。

 しかし、その能力のせいで自分に向けられる愛情が本物かどうかわからなくなり、対人恐怖症に陥っていた。

 私は彼女の社会復帰を助けた。

 代償は彼女が分泌するフェロモンを半永久的に分けてもらう事。

 

魔女(キルケ)』のフェロモンを手に入れた事で、私の香料に関する研究は全く新しい次元に突入した。

 もともと人間の感覚の中で嗅覚だけは本能を司る視床下部に直結している。

魔女(キルケ)』のフェロモンを加えた私の香料は人間の情動を自由に操る文字通りの魔法の薬となった。

 

 調合した香料をほんの少し鼻の下に差しだし、匂わせてやるだけでいい。

 私は自在に他者に不安感や緊張感を芽生えさえ、安心感や快感を呼び起こし、スイッチを切るように酩酊、覚醒させる事ができるようになった。

 時間をかけて催眠暗示を積み重ねれば、人間の人格をそのものを作り変える事だって不可能じゃない。

 もはや、ほとんど全ての人間が私にとって自由に読み取り、書き換えられる書物と化した。

 

 さらに私は様々な年代の女性の体臭を分析し、その元となる成分を合成する事に成功した。

 その成分で作った香料と変装をあわせる事によって、相手に与える印象を10代後半から50代前半に至るまで好きなように変える事ができるようになった。

 

 他にもできるようになった事は山ほどある。

 だが、私の身に起きた事を簡潔に説明しようとすればたった一言で足りる。

 即ち―――


 

 ―――私は力を手に入れたのだ!

 


 もう恐ろしいものは何も無くなった。

 私は会社を辞め、懐かしい故郷へ帰る準備を始めた。

 

 しかし、普通に帰国しただけでは、『あの男』に見つかる可能性があった。

 私は強くなったが、決して油断してはいなかった。

 帰国する前にもう一度戸籍と名前を変えた。

 それだけでは不安だったので、表舞台で活動するための新しい舞台衣装を整えようとした。

 

 渡米した後、私は長い間色気やお洒落とは縁のない人生を送ってきた。

 化粧品なんて、研究室以外では手に取る機会さえなかった。

 だが、いやだからこそ、カモフラージュ用の役作りを始めた時、私は今までの自分とは対称的に思いっきり贅沢に着飾る事にした。

 ここまでは別に何も間違っていなかったと思う。

 

 しかし……

 

 新しい役柄に似合う服装のコーディネイトを昔働いていた化粧品会社の同僚らに頼んだ事。

 あれはちょっと間違いだった。

 彼女達は前前から私の色気の無さについて不平不満を漏らしていた。

 そして、私の頼みを耳にするなり、血も凍るような微笑を浮かべた。

 獲物を見つけた毒蛇の笑顔だった。

 あの笑みを見た瞬間逃げださなかったのは大きな失敗だった。

 

 毒蛇の笑顔を見て金縛りにかかっている間に、私は彼女達に完全に包囲されてしまった。

 腕っ節には結構な自信があったけど、まさか自分が手伝いを頼んだ友人達を相手に大立ち回りを演じるわけにも行かない。

 それに我が愛すべき友人達の一人は身長180cm近い白人で、もう一人は身長180cmを軽く超える黒人。

 二人ともモデル顔負けのくびれとアスリート並みの筋肉の持ち主であった。

 

 対する私の身長はちびだった子供の頃に比べて大分伸びたとは言え165cm。

 スリーサイズは、まあノーコメントと言う事にしておこう……。

 色んな意味で圧倒的な体格差はいかんともしがたかった。

 かくして、私はミニサイズの宇宙人よろしく現代のアマゾネス達に両脇を抱えられながら、化粧台の前まで粛々と連行されていく事になった。

 

 続く2時間あまりの時間に起きた事はあまり思い出したくない……。

 彼女達は情けも容赦も無かった。

 

 時計の短い針が2週した後、ようやく彼女達は仮釈放の許可を出してくれた。

 乱暴狼藉の限りを尽くされた私は自分の足で立っているやっとと言う有様で大きな姿見の前に放り出された。

 のろのろと顔を上げた。

 息を飲んだ。

 驚愕が水のように体中に染み渡っていく。

 姿見の中には見たことも無い人物が立っていた。

 

 ぼさぼさの髪の毛は丁寧に串を通され、若武者のように結い上げられていた。

「都市迷彩」「蓑虫以下」等と酷評されていた地味な服は、私が見たことも無いような派手な色彩のスーツに置き換わっていた。

 一体どんな魔法を使ったのか、肌は磨き上げられてゆで卵みたいにつやつや。

 耳と指はアクセサリーで、手と足の指はマニキュアとペディキュアでピカピカに光っていた。

 

 声も出なかった。

 大学院を卒業してから、何年もの間化粧品会社で働いていたのに、私は今まで化粧品と言うものがどんな魔力を持っているのか全く分かっていなかった。

 化粧品の「化」は化物の「化」。

 私は文字通り別人に化けてしまった。

 

 しかし、この時ナルキッソスみたいに鏡の中の姿見惚れて、その後の地獄から逃走するチャンスを永遠に逃した事。

 あれは一番の間違いだった。

 気が着けば私はまたしても両脇をがっちり捕まれて、抗議の声も空しく友愛と言う名の牢獄に逆戻りして行った。

 

 続く24時間の間に起きた出来事は忘れたくても忘れられない……。

 彼女達は血も涙もなかった。

 

 二人は交代で休みを取りながら、私にファッションのいろはを叩き込んだ。

 私は半べそかきながら、二人が詰め込む知識を何とか吸収していった。

 あの二人のお陰で私は何時でも自分の力だけで別人に化けられるようになり、能力の応用範囲も大いに広がった。

 感謝はしているけど、あの1日の経験のお陰で私は決して忘れられないトラウマーを背負い込むことになった。

 

 あの時の経験でインスピレーションを受けたのか。

 帰国する寸前、私は身に着けたものに強力なカリスマ性を付与する香水の開発に成功した。

 私はその香水に英語の花フラワーと言う言葉の語源となったローマ神話の女神の名前を与えた。

 

華神(フローラ)

 

 そして、その名前は私の正体を覆い隠す新しい仮面ともなった。

 

 新しい顔と新しい名前を手に入れた私は悠々と日本の大地を踏んだ。

 故郷に帰って私が最初にした事は、お父ちゃんを殺した男を探し出す事だった。

 『奴』はいとも簡単に見つかった。

 私の仇は年老い、太り、醜くなっていた。

 がっかりした。

 昔の『奴』はくだらない人間だったが、狐のように狡猾で執念深かった。

 だが、今の『奴』はただの怯えた豚だった。

 

 長い年月の間に、行方を晦ました私や母に対する不安や怯えが骨の奥まで染み込んだのだろう。

 『奴』の周りに常に分厚い脂肪のような恐怖の匂いが漂っていた。

 『奴』の中で私の影は既に怪物的な巨大な大きさに成長していた。

 『華神(フローラ)』になった私が目の前に立っていたとしても、もう誰だか分からないに違いない。

 憎悪は消えなかったが、殺意は萎えた。

 こんな肉の塊のために14年間も故郷を離れていたのかと思うと、自分が情けなくなった。

 

 私はしばらく『奴』を放って置く事にした。

 力を得た私にとって『あの男』はもう手中の芋虫のような存在に過ぎない。

 握りつぶすのも、発狂させるのもとても簡単。

 何時でも好きな時に破滅させる事ができる。

 だが、ただ破滅させただけでは15年もの間熟成させてきたこの復讐への飢餓を満足させる事できない。

 

 だから、今は自由させてやる。

 もっと怯えるが良い。

 もっと肥えるが良い。

 体と心をすり減らし、その血肉の中の恐怖を熟成させろ。

 そして食べ頃が来たと判断したら、『奴』の身体を食卓に乗せて振舞うのだ。

 死んだ父の無念のために。

 生きている母の悲しみのために。

 失われた私の時間のために。

 徹底的に切り分けて、命乞いの声も出ないほど奪い尽くしてやる!

 

 自分の安全を確認し、腸の底で煮え滾る復讐心を一応満足させると、私はもっと重要な用事に取り掛かった。

 15年前に分かれた『彼』を探すのは、『あの男』を見つけるよりも大分に困難だった。

 いや、『彼』の行方を探り当てる事、それ自体は決して難しい事ではなかった。

 探索を妨げていた私自身の心の問題だった。

 

 何しろ、もう15年もの時が過ぎたのだ。

 二人ともとっくに大人になっている。

『彼』が恋人を作っていたとしてもおかしくない年月だ。

 いやいや、もう結婚して、家庭を持っているかもしれない。

 日本では男は18歳から結婚できるから、できちゃった結婚をしたとすればもう10歳の子供がいる計算になる!

 きっと私の事なんか忘れているんだ!

 顔や名前どころか、存在そのものを忘れているんだ!

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう!

 

 うじうじうじうじ、何日も悩んだ。

 だけど、何時までも悩みつづける事は出来なかった。

 尋常でない精神力を振るって、私は彼の行方を探し始めた。

 でも、自分で直接彼の痕跡を追うのは怖かったので、その道の専門家に頼んで間接的に調べてもらう事にした。

 

 そして、届けられた分厚い調査書類。

 ホラー小説でも読むみたいにおっかなびっくりページを捲った。

 おじさんやおばさん、『彼』のお婆さんやお兄さん。

 私に優しくしてくれた人達が皆亡くなっていると解った時はかなりショックだった。

 それでも、『彼』がまだ独身で交際している女性もいないと知った時は空に舞い上がるような心地になった。

 ちょっとだけホテルのベットでぴょんぴょん飛び跳ねてしまったのは私だけの恥ずかしい秘密だ。

 孤児になった姪を養っている事は知っていたけど、今さらコブの1個や2個で私の慕情を止められるはずもない!

 

 流石に『華神(フローラ)』の格好で会いに行くわけには行かなかったけど、できるだけ着飾ってから『彼』に会いに行く事にした。

 アメリカからも持ってきたスーツケースを空にした。

 それだけじゃ、足りなかったので、新しい服も買った。

 悪友達が残してくれたお化粧や服装に関するメモを何度も何度も読み返した。

 あんなに外見に気を遣ったのは、11歳の誕生日以来かもしれない。

 

 自分でも満足できる完成度に達するまで丸一週間かかった。

 ようやく武装を完全に整えると、私は弾む足を抑えながら彼の家に向かった。

 具体的に何を話そうとか、何をしようかとか全く考えていなかった。

 『彼』に忘れられているかもしれないと考えるとそれだけで決心が鈍りそうになったからだ。

 

 だから、目的地への道の途中でいきなり『彼』に会ってしまった時、私は完全フリーズしてしまった。

 長い時間の間に『彼』は随分と変わってしまった。

 背は大分高くなったし、顔は随分と精悍になっていた。

 皮が骨に張り付いて骸骨のようにやせ細っていたが、私には『彼』が誰だか一瞬でわかった。

 

 私の心はすぐに彼の元に駆け寄り、話し掛けようとした。

 でも、私の体は心を裏切って、近くにある電信柱の後ろに飛び込んだ。

 幸い『彼』は意識が朦朧としていたのか、私の存在には気付かなかった。

 気が付いたらきっと変な女だと思われたに違いない。

 

 電信柱の後ろに身を隠してしまうと、中々外に出るきっかけが掴めなかった。

 彼に会って直接話をする勇気もあっという間に萎んでしまった。

 彼も具合が悪いみたいだし、日を改めてまた来ようと思った。

 でも、手ぶらで帰るのも何やら口惜しい。

 せめて生写真だけでもゲットしておこうと、念のために持ってきたデジタルカメラを構えた。

 

 その時だった。

 突然火のついたような赤子の鳴声と共に巨大なものが滑り落ちる音がした。

 何事かと振り返って、悲鳴を上げそうになった。

 巨大なトラックが小さな赤ちゃん目掛けて坂道を滑り落ちていたのだ。

 

 こんな時、EX=Sensitiveは完全に無力だ。

 圧倒的な物理的パワーを前にして何もできなくなる。

 足に根が生えたように動けなくなった私の代わりに、彼が飛び出した。

 

 ……次の瞬間に起きた事を私は多分永遠に忘れないだろう。

 

 フラッシュバック。

 瞼の裏に光る記憶の火花。

 現在の彼の姿に重なり合うようにして、過去の光景が蘇った。

 

 赤ちゃんに迫る巨大なトラック、

 

 ―――私の顔面に迫る巨大な犬の牙、

 

『彼』は躊躇いもなく、トラックと赤ちゃんの間に立ちふさがり、

 

 ―――『彼』は躊躇いもなく、巨大な犬に挑みかかり、

 

 やせ細った手を剣のようにトラックに突きつけ、

 

 ―――小さな傘を獰猛な犬に突きつけ、

 

 

 そして、その手から閃く電光が巨大な金属の塊を一撃で両断した。

 

 

 気が着けば、涙が頬を伝っていた。

 長い間断絶していた私達の時間。

 それが今再び繋がるのを感じた。

 

 ここで赤い糸の存在を感じなかったら、女をやっている意味はない!

 彼が私と同じ力に目覚めていた事。

 私達が、今日の瞬間に再会した事。

 再会したその時に、彼が私の目の前に赤ちゃんを助けた事。

 私たちを取り巻く全てのものにどうしようもなく運命の存在を感じた。

 

 もう電信柱の後ろになんか隠れていられなかった!

 私は電信柱の陰から飛び出すと、『彼』に駆け寄った。

 両手を投げ出し、『彼』を抱きしめ、私が誰なのか打ち明けたかった。

 

 しかし、その目論見は失敗した。

『彼』が私を遮るように赤ちゃんを差し出したからだ。

 反射的に赤ちゃんを受け取ってしまった私に、『彼』はただ一言「頼む」といっただけでその場を立ち去った。

 私に背を向け、

 一回も振り向かずに、

 たったったったったったっとそれもうリズム良く走って姿を消した。

 

 後には目が点になった私と赤ちゃんと大騒ぎする野次馬達が取り残された。

 赤ちゃんが涎だらけの手で私が何時間もかけて手入れをした髪の毛を握ったり開いたりしていた。

 冷たい風が、空しく背中を吹き抜けていった。

 


 ……

 ……

 ……ここで、私の記憶はしばらく途切れる。


 

 次に気が付いた時。

 私はあの日、無意識の内に撮影した写真の数々を実名入りでネットにアップしていた!

 異能力者『切り裂き屋(リッパー)』が誕生し、その名がネットを通じて世界中に轟いた瞬間であった。

 

 分かっている。

 悪いのは全部、私。

 子供の頃、私達が仲良くしていた時間はとても短いものだった。

 加えて離れ離れになっている間、私は別人のように変わってしまった。

 EX=Sensitiveではない『切り裂き屋(リッパー)』に私が誰かわからないのも無理はない。

 

 でも、再会するまでの間に私の中に積もり積もった期待はあまりに大きすぎた。

 再会した瞬間、私の身体を駆け抜けた感動もあまり凄すぎた。

 そして、思いつく限り最悪のタイミングで全てが覆された時、私の中で何かが音を立てて弾けとんだ。

 私の心は十数年の時間を遡り、『切り裂き屋(リッパー)』と別れた時、いいや私と彼が仲良くなる前の10歳の女の子に退行してしまった。

 

 私に気付かなかった彼にちょっとだけ意地悪をするつもりだったのかもしれない。

 もしかしたら、自分の愛した人を世界中の人間に自慢したかっただけなのかもしれない。

 ようやく、現在の年齢に相応しい分別を取り戻した時、私は自分がしでかした事に気付いて真っ青になった。

 

 慌てて騒ぎを収めようとした。

 しかし、既にすべて手遅れだった。

 『切り裂き屋(リッパー)』の名前は電子の海を駆け巡り、もはやインターネットが利用できる国で彼の名前を知らない人間はいないように思われた。

 

 私は生まれて始めて神様に祈った。

 誰に祈ればいいのか分からなかったので、手当たり次第、思いつく限り全部の神様に祈った。

 どうか、酷い事になりませんように!と。


 

 物凄く酷い事になった。

 


 当時、首都圏を中心的に荒らしまわっていた『強化人類(イクステンデット)』の犯罪組織、『豺狼(ビースト)』が彼に目をつけた。

 奴らは『切り裂き屋(リッパー)』に仲間に入るように要求した。

 しかし、彼は持ち前の正義感と根性を発揮して、無法者達の要求を退け、彼らのリーダーの神経を思いっきり逆撫でした。

 事態は雪達磨式に混沌の度合いを増しながら、悪い方へ悪い方へ転がり落ちていった。

 

 私は大急ぎで、アメリカにいる異能者の仲間達に助けを求めた。

 だけどあの時代、アメリカは日本以上の混乱の中に置かれていた。

 誰も極東の島国まで私の手伝いに来てくれるような余裕はなかった。

 

 そうやって、私が手をこまねいている間にも『豺狼(ビースト)』の彼に対する嫌がらせや虐待は際限なくエスカレートしていった。

 『切り裂き屋(リッパー)』は仕事を辞めさせられ、家の一部を焼かれ、瀕死の大怪我を何度も負った。

 

 このままじゃ彼が殺される!

 もうなりふり構っている場合じゃなかった。

 私は『切り裂き屋(リッパー)』を助けるために駆けずり回り、あらゆる手を尽くした。

 血を吐くような思いで素顔で彼の前に出て、自分の素性を告白する事を諦めた。


 私は『華神(フローラ)』の衣装を被ったまま、『切り裂き屋(リッパー)』の前に姿を現し、彼に戦い方を教え、武器を与えた。

 それだけじゃ不十分だったので、あの『(タートル)』と取引きまでした。

 

(タートル)』はいけ好かない奴だけど、あいつが最強の『強化人類(イクステンデット)』である事は論を待たない。

 結果、私達はたくさんの行方不明者と再起不能者と怪我人を出した末に(そのほとんどは『(タートル)』が一人でたたき出したものだ)、何とか『豺狼(ビースト)』を解散させて事態を収拾することに成功した。

 

 全てが終った後、私は黙って『切り裂き屋(リッパー)』の前から姿を消すつもりだった。

 でも、彼はあの子犬のような目で私を金縛りにかけると、思いつく限りの美辞麗句で私を褒め称え、感謝し、私のためにどんな労苦も厭わない、と約束してくれた!

 彼の言葉は私を脳みその奥までのぼせ上がらせ、あっさりと10歳の女の子に戻ってしまった。

 そして、私はまた曖昧な頭のまま『切り裂き屋(リッパー)』とパートナー契約を結んでしまった。

 

 今にして思えば……。

 あの時素直に私の正体を打ち明けなかった事が、その後に続く全ての間違いの原因だった。

 本当の事を話して謝っていれば、『切り裂き屋(リッパー)』は少し驚いたかもしれないけど、最後にはいつものように私を許して受け入れてくれたと思う。

 

 でも、私は不安だった。

 『切り裂き屋(リッパー)』が本当の事を知った後、怒りと失望のあまり再び私から離れてしまう事が怖かった。

 あまりに長い間分かれていたため、『切り裂き屋(リッパー)』の優しさが信じられなくなっていた。

 一度手に入れてしまった後は、もう彼を手放す事なんて考えられなかった。

 

 それからの2年間は毎日が地獄と天国のサンドイッチだった。

 なまじ人の心を読む力を持ったせいで、一層辛い思いをする羽目になった。

 

 『切り裂き屋(リッパー)』が『華神(フローラ)』としての私に好意を持っている事は分かっていた。

 でも、それはあくまで私の外面一枚に対する愛情に過ぎない。

 しかし、彼を失う事を恐れた私は『華神(フローラ)』の仮面を捨てられなかった。

 その結果、彼は益々私に対する好意を募らせ、事実を暴露した時の惨状を恐れた私は告白の機会をどんどん先に引き伸ばしてきた。

 

 まさに最悪のバッドスパイラル!

 もう泣きゃ良いのか、笑えば良いのか分からなくなったわよ!

 私は一度も借金した事はないけど、お陰で闇金融に手を出して首が回らなくなった人間の気持ちが良く分かるようになってしまった。

 

 このままじゃいけない!と一念発起したのが半年ぐらい前の事。

 それから私は何とか彼に本当の事を打ち明けようと努力した。

 なのに……。

 だと言うのに……。

 私が告白しようとする度に『切り裂き屋(リッパー)』ったら、あの生来の鈍感さとタイミングの悪さでこっちが話を切り出す切っ掛けを尽く叩き潰したのだ!

 もう完璧に、しらみつぶしに、一つの例外もなく!

 もう途中からわざとやってるんじゃないかと思い始めたわよ!!

 

 それでも惚れた者の悲しさ。

 三日前に彼からデートを申し込まれた時は飛び上がるほど嬉しかった。

 嬉しさのあまり帰り道に本当とんぼ返りを三連続でやっちゃったのは私のだけの恥ずかしい秘密だ。

 

 私のデートに望む意気込みと努力はそれはそれは涙ぐましいものだった。

 今回の逢瀬で私が一番注意した事は、自分の得意分野である香りだった。

 私は『華神(フローラ)』の姿をしている時は、いつもあのカリスマ香水を使っていた。

 何度も会っている間に、あの香水は『切り裂き屋(リッパー)』の脳の奥まで染み渡り、『華神(フローラ)』と離れ難い存在として印象付けられている。

 もうどんな姿をしていても、あの香水を使っている限り彼には私が『華神(フローラ)』だという事が分かるはずだった。

 

 そして今回、私はその香水に更に手を加え、『華神(フローラ)』だけではなく、子供の頃の私やあの事故も連想するように再調合した。

 本当の事を打ち明ける前に、彼の中に真実を受け入れる余地を作っておこうとしたのだ。

 

 はっきり言って、簡単な仕事じゃなかった。

 これまで私が手がけてきた調合の中じゃ一番難しかったと思う。

 同時並行で当日に着ていく服やアクセサリーも選ばなくちゃいけなかった。

 二日間が特急列車みたいな速さと忙しさで通り過ぎていった。

 三日目は寝たくても眠れなかった。

 

 睡眠不足の頭の中で不安や妄想がどんどん膨らんでいった。

 もう一人だけじゃ耐えられなくなって、日本に帰った後できた女友達を一人呼び出した。

 時間は真夜中。

 まず怒られた。

 次に怒鳴られた。

 理由を話して呆れられた。

 最後には慰められて、どう言うわけか酒宴に雪崩れ込んだ。

 

 再び意識を取り戻した時、既に太陽は空高くのぼり、窓の外では雀さん達が楽しそうにさえずっていた。

 

 私は見事に遅刻しそうになっていた。

 

 それからの一時間はダイナマイトの爆発みたいな激しさで通り過ぎた。

 正直、あの一時間の間自分が何をしていたのか、あんまり良く覚えていない。

 二日酔いで頭が割れるように痛かったし、目が回るように忙しかったのだ。

 だから、友人に尻を蹴っ飛ばされるように出発した時、私は無意識の内に『華神(フローラ)』の衣装一式を掴んで家を飛び出していた。

 

 結局、ちょっと遅刻しそうになったお陰で私は『山猫(リンクス)』に気付かれずに、奴のバックを取る事に成功した。

 本当に人生、何が幸いするかわかったもんじゃない。

 

 『山猫(リンクス)』の奴は良く私を同格かそれ以下だと見なしていたみたいだけど。

 戦闘能力はともかく、能力の応用力に関しては私の方が遥かに上だ。

 あいつの能力は前方しか知覚できないけれど、私の能力は風向きにさえ気をつければどの方向にいようと相手の存在を完璧に知覚することができる。

 『切り裂き屋(リッパー)』と挟み撃ちした時点で私達の勝利は決まった同然だった。

 

 だけど、私は途中で『切り裂き屋(リッパー)』に話し掛けてしまった。

 自分達が手に入れた決定的なイニシアチブを投げ捨てるような愚行だった。

 しかし、私はそれ以上『山猫(リンクス)』が彼を痛めつけるのを見ていられなかった。

 流石に直接名乗る事はできなかったけど、せめて私の存在を彼に教えたかった。

 私がここにいることを知らせて、彼を安心させたかった。

 最悪、彼と一緒に殺されてもいいと覚悟を決めていた。

 

 でもね……。

切り裂き屋(リッパー)』の奴ったらね。

 私がそれ程の決意で話し掛けたと言うのにね。


 

 私が誰だかに全然気付かなかったのよっ!!


 

 焦る私を置いてきぼりにして彼は一人で勝手に盛り上がり、「さよなら」と一言告げてその場を立ち去った。

 私に背を向け、

 一回も振り向かずに、

 たったったったったったっとそれもうリズム良く走って姿を消した。

 

 そりゃ、全部自分の身から出た錆びだと言う事は分かってるわよ。

 あの時、彼は鼻を強打していたから、私を『華神(フローラ)』だと連想させるための香りを嗅げなかった事も知ってるわよ。

 それにしても、この仕打ちはあんまりだと思わない!?

 15年ぶりに再会した時ならまだわかるわよ。

 でも、ちょっと化粧して着替えただけで2年も一緒に連れ添った相棒が誰だか分からないってそれどう言うことよ!

 この三日間の私の血涙を垂れ流すような努力と苦労は一体なんだったの!

 

 もうね!

 もうね!

 んっもううううね!!

 本当の事を打ち明けた後に謝って、一緒に食事をして、お話して、あわよくばその場の勢いを利用してホテルで素敵な一夜……と言う計画が全部どっかへ吹っ飛んじゃったじゃないの!

 

 期待が大きかった分、ショックも大きすぎて……

 鬱入ってしばらくその場から動けなくなったわよ!

 

 素顔で彼に会いに行く気力は全部なくなってしまった。

 『山猫(リンクス)』に目をつけられた格好で尾行を続けるわけにも行かなかった。

 私は偶然持ち出した変装セット一式で『華神(フローラ)』に変身しなおした。

 

 『山猫(リンクス)』に香料のマーカーをつける瞬間だけは大変だったけど、私にとってその後の戦いはほとんど作業だった。

 予想通り、私達は勝利を収めることに成功した。

 しかし、私の心には深い深ぁい傷が残された。

 

 あー、うー、もぉうー、思い出すだけでまた腹が立ってきた!

 『切り裂き屋(リッパー)』の馬鹿、馬鹿、超鈍感!

 コノ恨ミハラサデオクベキカァァァァ!

 八つ当たりだって事は百も承知の上。

 だけど、先にこの気持ちを整理しない限り二度と彼と素顔で向き合うことはできないって思うのよ!

 

「……あ、あの『華神(フローラ)』?」

「ん、何? もう終ったの?」

 

 過去のトリップから戻ってみると、『切り裂き屋(リッパー)』が怒り狂ったティラノザウルスの口の中を覗き込むような顔で私のほうを見ていた。

 

「うん、終った……けど。もの凄く怖い顔をしてるよ。どうしたの?」

「ううん、何でもないわ。ただ、ちょっとここの臭いが私の鼻にきつすぎただけよ」

 

 私は顔に張り付いた表情を消して彼に微笑んだ。

 『切り裂き屋(リッパー)』は少し困惑しながらも、私に微笑み返した。

 

 ちらりと彼の背中に視線を投げる。

 うん、完璧。

山猫(リンクス)』の死体は完全に気化していた。

 これなら、どんなEX=Sensitiveがやってきたとしても、奴がここで死んだ事は分からないだろう。

 天気予報では今夜もう一雨来るって言うから、明日には匂いの痕跡も完璧に消えているはずだ。

 

「お疲れ様。それじゃ、もう外に出ましょうか? ここ今にも崩れそうだし、私も早く続きをしたいしね」

「え? 続きって……」

「決まってるじゃない。デートの続きよ」

 

切り裂き屋(リッパー)』は豆鉄砲を喰らった鳩みたい顔をした。

 喜びの香りが全身からオーラのように溢れ出す。

 しかし、それは次の瞬間失望と悲嘆の匂いにとって変わられた。

 

「そりゃ、俺もデートの続きはしたいよ。だけどレストランは予約していた時限を過ぎちゃったし、俺の身体はぼろぼろで、服はこんな風になっちまったし……」

 

 そう言って、もう服と言うよりは体に張り付いてる何かの布と言った感じのスーツ摘んで見せた。

 

「俺に同情してくれた嬉しいけど、君に恥をかかせるわけには行かないよ。残念だけど、今日のデートは諦めて……」

 

 布切れを摘む彼の手を叩いて、喋るのを止めさせた。

 その後で包み込むように彼の手を握り締め、にっこり笑った。

 

「服は着替えれば良いじゃない。怪我なんてすぐ治るでしょ? 食事方は私が他に予約を取っておいたから心配は要らないわ。それに私も凄く、楽しみにしていたのよ、デート。『山猫(リンクス)』如きのためにせっかくのお楽しみを中断するなんて癪じゃない?」

 

 今度こそ、感謝と喜びと香りが『切り裂き屋(リッパー)』の全身を包み込んだ。

 笑顔が躊躇いがちに浮び、やがて彼の顔全体に広がっていく。

 喜びが最高潮に達し、彼が感謝の言葉を口にする寸前、

 

「だから、楽しみにしててね。とっても美味しいのよ。高級焼肉の『オザワ屋』……」

 

 私は一番重要な事を彼に告げた。

切り裂き屋(リッパー)』の笑顔が一気に引きつった。

 間違いなく、彼の頭の中で今自分がウェルダンに仕上げた誰かさんの姿が鮮明に浮かび上がっているに違いない。

 

「ふ、『華神(フローラ)』、それは……?」

「この季節の『オザワ屋』ってとても込んでて、凄く予約を取るのが難しいの。ご主人は少し渋っていたけど、私が何度も頭を下げたら、何とか予約をやりくりして、私達の席を取ってくれたわ。ふふふ、期待して良いわよ、『切り裂き屋(リッパー)』。私が苦労しただけの味は保証するわ」

 

 はい、これ全部嘘っ!

 実は私は『オザワ屋』の主人のプライベートな弱みを握っていて、何時でも好きな時に予約をねじ込めるのだ。

 もちろん、頭なんて下げる必要なし。

 

 しかし、何も知らない『切り裂き屋(リッパー)』は私の言う事を完璧に鵜呑みにしたみたい。

 でっち上げの苦労話を聞いた彼の顔は本当に見ものだったわ。

 

 例えるなら、隠し切れないショックを受けながら、何とか主人に喜んでいる様子を見せようとするワンコって所?

 必死に尻尾を振ろうとしてるんだけど、力なくぱたぱた床を刷いてるって感じかしら?

 そんな彼の情けない顔を見ていると私の中の小さな女の子がまたむくむくと頭をもたげ始めた。

 

 決めた。

 一杯お肉を頼もう。

 それも内臓系の匂いのきつい奴ばっかりを。

 私の食べきれない分は全部彼に食べさせよう。

 

 もちろん、残す事は許さない。

 途中で席を立ってお手洗いに行くなんて以ての外!

 そして、彼が残さず全部食べきったら、ちょっとだけご褒美を上げよう。

 私の食べかけのお肉とかね♪

 

 ああ、山盛りのお肉を目の前にして途方に暮れる彼の顔が目に浮ぶようだわ!

 しかも、今日の『(おたのしみ)』はこれで終わりじゃないのだ。

 

 私は『切り裂き屋(リッパー)』の事なら、何でも知っている。

 彼が私のために少なからぬ金額を費やして指輪を買ってくれた事も知っている。

 

 彼には少し悪いけど、今回はその指輪を私の『(おたのしみ)』のために利用させてもらう事にした。

 具体的には、『山猫(リンクス)』を尾行している間に携帯で知り合いに頼んで、同じような指輪を買ってもらったのだ。

 デザインそっくりだけど、お値段は10倍の奴を。

 デートの終わりに彼が指輪を取り出す素振りを見せたら、先に私の指輪を見せてこう言うのだ。

 

 どう綺麗でしょ?って。

 

 その時、彼がどんなに情けない顔をするのか!

 私でもちょっと想像がつかないわ!

 

 そして、それが終ったら、

 最後の最後の『罰』が終ったら、

 私の方から一回だけキスをしてあげよう。

 唇を通して教えてあげよう。

 私が必要なのは指輪なんかじゃなくて、貴方が一言あの『女の子』の名前を呼んでくれる事なんだって……。

 

 将来の事に思いを馳せるうちに、腹の底に溜まった(いかり)はどこかに行ってしまった。

 自分の腕を『切り裂き屋(リッパー)』の腕に巻きつける。

 指を絡めて、申し訳程度に胸を押し付けた。

 引きつっていた彼の笑顔が少しだけ柔らかく綻んだ。

 私も彼に微笑み返した。

 

 手と手を繋いで歩き出す。

 一緒に泣いて帰ったあの日のように。

 だけど、今度は一緒に笑いながら。

 

 さあ、一先ず過去の事は置いといて、今を楽しもう!

 私のハッピーな、ハッピーな日曜日はまだ始まったばかりなのだから!

 

 

 

 ……HAPPY END(?)

 

 

 


あとがきのやうなもの


「L4E(愛は永遠に)」


(by冲方 丁『マルドゥック・ヴェロシティ』より。何を言ってもネタバレになりますので、この台詞がどんな状況で誰によって語られたのかはあえて記しません。ただ一つ言える事は……愛するっておっとろしいと言う事です)



最後と言うわけで、

今回は最重要キャラである『華神(フローラ)』と

何回も名前を出しながら最期まで顔を出さなかった『(タートル)』についてキャラ紹介させていただきます。


NAME:『華神(フローラ)


とても分かりづらい作品本文の補足をさせていただきますと、


切り裂き屋(リッパー)』の幼馴染の女の子、

2年前に『切り裂き屋(リッパー)』助けた赤ちゃんを渡した女性、

彼の写真と名前をネット上に公開して『切り裂き屋(リッパー)』誕生のきっかけを作った能力者、

街中で『山猫(リンクス)』に襲われていた『切り裂き屋(リッパー)』に話し掛けた女性、

そして『華神(フローラ)』……


全部同一人物です!


切り裂き屋(リッパー)』は彼女の事をまるで完璧な人間の事のように考えているが、

実際は局地台風みたいな暴走系勘違いキャラ。

良く他人に勘違いされるし、自分でも良く勘違いをする。

そして、なまじ超人的な情熱と精神力を持っているせいで、

一端暴走し始めるともう誰にも何処へ転がっていくのか分からない。


頭の出来は悪くないけど、頭の使い方を間違っている人。

なお、作中で彼女がやたらと『切り裂き屋(リッパー)』にちょっかいをかけているのは、

好きな子に意地悪をしていると言うより、単にサドなだけ。

でも、マゾ体質の『切り裂き屋(リッパー)』とは最高に相性が良かったりする。


そう、実は『切り裂き屋の憂鬱な日曜日』はSM純愛ラブストーリーだったんです!!

(作者も書き終わるまで気付かなかった驚愕の真実!)



NAME:『(タートル)


肉体強化系では最強の『強化人類(イクステンデット)』。

そのパワーは戦車を紙のように引き裂き、戦闘ヘリを引きずり下ろし、ミサイルを跳ね返す!

脳まで完全に変異した世界でただ一人の『完全変異体パーフェクト・ミュータント』。


2年前に『切り裂き屋(リッパー)』や『華神(フローラ)』と組んで(と言うか、ほとんど一人だけの力で)異能者犯罪組織『豺狼(ビースト)』を壊滅させた。


いつも『黒殻(ブラックシェル)』と呼ばれる異形の装甲服を着ているため素顔を見たものは少ないが……

実は作中の至る所に正体の伏線が張ってあったりする(笑)


さて、『切り裂き屋(リッパー)』を主人公にしたお話はこれで終わりです。

続いて群像劇らしく他の強化人類(イクステンデット)を主人公にした物語が始まります。

もしよろしかったら、引き続きお付き合いくださいませ!

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