切り裂き屋の憂鬱な日曜日 ACT7
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
俺の声を聞くなり、『山猫』は怒り狂った虎みたいな唸り声をあげて飛び掛ってきた。
そして失敗した。
逞しい体が無数の鎖で縛られていたかのように、地面に叩き付けられる。
俺の攻撃の余波を浴びたせいだ。
『山猫』の半身は爆風で無残に焼け爛れ、無数のコンクリートの破片が突き刺さってまるで針鼠みたいに見えた。
だが、そんな外傷よりも深刻なのが大量の電磁波を浴びた神経や脳の方だろう。
今、『山猫』は丸一日、ミキサーの中で過ごしたみたいな凄まじい悪寒と吐き気を感じているはずだ。
反吐も悲鳴も吐かずにじっと耐えているのは大したものだが、既にまともに戦闘をこなせる体調にない事は間違いない。
しかし、俺はそれ以上攻撃を加えずに、苦しげな『山猫』の様子をただじっと眺めていた。
別に奴をなぶって楽しんでいたわけじゃない。
散々いたぶられた仕返しをしたいのは山々だったが、実は俺の方もそれ程余裕はないのだ。
先ほどの戦いで俺は体内に溜めていた電力を全て使い果たしてしまった。
『山猫』の暗器を吹き飛ばしたあの一撃。
あれが、俺の弾倉に残った最後の一発だった。
くうっ、あの一発で武器じゃなくて、『山猫』本人を狙っていれば今ごろ勝負はもう着いていたのに!!
実戦に不慣れなせいで初歩的なミスを犯してしまった。
事ここにいたっては、もう駆け引きはあまり意味はない。
後は純粋に『山猫』の体力と俺の異能力のガチンコ勝負となる。
まるで西部劇のようなクィックドロウ対決。
相手よりも一秒、一瞬、一刹那速く弾倉に弾を篭め、武器を構え、引き金を引いたものだけが生存と言う名の勝利を勝ち取る事ができる。
時間と緊張感がじりじりと積み重なっていく。
お互い、汗が目の中に入っても瞬き一つ出来ない。
と、不意に『山猫』が思いっきり息を吸い込むと床に胃袋の中身をぶちまけた!
一端吐くのを止めたかと思うと、肺に酸素を補給してまた吐き始める。
すぐ目の前に、敵の俺がいる事も忘れたかのように、とにかく吐きまくった。
俺は今までこんなに堂々と人前で吐く人間を見た事がなかった。
そのせいかこっちも妙に冷静な気持ちで、奴の吐瀉物を検分してしまった。
ふぅむ……この内容から察するに今日の奴の昼飯はカロリーメイトのような簡易栄養食と何種類かのサプリメントだったらしいな。
俺を尾行するのに便利だったのか、それとも単に『山猫』が健康志向だったせいか知らないが、えらくヘルシーな内容だ。
一通り胃袋の中を綺麗にすると、『山猫』は口元を拭って俺に向き直った。
鉄面皮を絵に描いたような図太い微笑を浮かべて言った。
「へへへ……悪いな、昨日の酒が残ってたせいでちょっと粗相をしちまった。でも、これで大分楽なったぜ」
俺は答えを返さない。
代わりに無言で掌の照射口を『山猫』の顔に向けた。
「それにしても、やるじゃねえか。俺をここまで傷物にしたのはお前が初めてだよ。能力以外は素人と同じだって言っていたが、ありゃ嘘だったのか?」
返事は沈黙だけ。
なるべく下半身を動かさないように注意しながら、掌を左右にゆっくりと振る。
『山猫』の体が緊張に強張る。
だが、猫のような瞳孔はぴくりとも動かない。
やっぱりな!!
さっき俺の電磁波を直視したせいで、奴は自慢の視力を失っているんだ!
「おい、何か喋れって! 俺はブラジルの生まれなんだ。ラテンの男は静かに死ぬのが性に会わないんだよ。なあ、せめて冥土の土産に教えてくれ。どうして俺の居場所がわかった? お前は一度も俺の方に視線を向けなかったはずだよな……」
三度目の沈黙。
こちらが有利な立場にいると分かった以上、駆け引きに応じる必要は全くない。
俺は黙って両手を奴に向け、全身の発電細胞に電力を充填する事を命じた。
髪の毛が静電気で逆立ち、空気中に静電気の青い火花が走る。
床の埃が浮き上がり、俺を中心に複雑な幾何学模様を作り上げていく。
致命的なパワーが体の隅々まで行き渡っていく。
だが、その力を一点に集め、解き放つ寸前で俺は動きを止めた。
頭上より響く無気味な鳴動が俺に警告を与えたからだ。
一瞬だけ『山猫』から目を逸らし、頭の上を見上げた。
衝撃が稲妻のように身体を突き抜けた。
さっきの戦いで俺が吹き飛ばした二本の柱。
その溶岩のような残骸から無数の皹が網の目の如く広がり、天井の半ばを覆い尽くしていた。
粉雪のようなコンクリートの屑が俺達の頭上に降り注ぐ。
建物全体が瀕死の獣みたいな唸り声を上げながら打ち震えていた。
恐怖が冷たい汗となって背中を流れ落ちる。
俺の躊躇いが『山猫』にも伝わったらしい。
奴は天井の音に耳を傾けると、ふてぶてしい笑みを浮かべて言った。
「……なあ、『切り裂き屋』。俺と組む気はないか?」
「な、何っ? 何だって!?」
あまりに予想外な質問に、思わず自分に課した無言の行を破って聞き返してしまった。
『山猫』の笑みが一層深くなる。
「言ったとおりの意味さ。悪い話じゃないと思うんだけどなぁ。嗜好の点を抜かせば、俺とお前の相性は悪くないし、俺だったらお前の戦士としての素質を伸ばしてやる事もできる。少なくとも……ここで二人、枕を並べて圧死するよりはマシだと思うが?」
一端、俺の方に傾きかけた勝利の天秤がまた元の位置へ揺り戻って行くのを感じた。
「さあ、どうする?」
俺の心に浮んだ疑問をそのまま『山猫』が口にした。
―――さあ、どうしたもんだろ?
既に俺の体の中には人一人殺してお釣りが来るほどの力が充填されている。
ただ、パワーをそのまま開放すれば恐らくこの建物はもたない。
『百目』を仕留めた時みたいに出力と効果範囲を絞って攻撃を放てば、この点は気にしなくていいかもしれない。
しかし、もし『山猫』 が俺の攻撃を避けて反撃するだけの体力を蓄えていた場合、迂闊な攻撃は即俺の命取りに繋がる事になる。
どちらにしても確かなのはこのまま馬鹿みたいに突っ立っていたら、事態は俺にとって悪い方に傾くだけだと言う事だ。
時間が経てば経つほど、俺達がいる建物は崩壊に近づいていくし、『山猫』の奴は体力を回復させていく。
もはや、一瞬の躊躇いも許されなかった。
賭けに出るのなら今しかない。
決断を下すのは今しかないのだ!
その時、また吐き気がこみ上げてきたのか、『山猫』が口元を抑えようとして、急に手を止めた。
一瞬、ほんの一瞬の動き。
だが、決して見逃す事の出来ない動作だった。
俺の目は奴が袖口の匂いを嗅ぐのを確かに捉えた。
その動作が何を意味するのかを悟った時、俺の心に蟠っていた躊躇いは跡形もなく吹き飛んでいた。
恐らく、いや間違いなく、『山猫』は気付いたのだ!
俺がどうやってこの闇の中で奴を見つけたのかを!
俺の相棒の能力が如何なるものかを!
瞬時に決は下った。
やはり、俺がやるべき事は一つ。
疾走するべき道筋が決まれば、後は乾坤一擲、自分の全てを賭けるだけ!
「残念だけど、……そのコンビ結成の提案は受けられないな」
「ほう、何故だ?」
俺の気配が変わった事を察したのか、『山猫』が訝しげに目を細めながら聞いた。
俺は奴をなだめるようにまなじりを下げ、口元を綻ばせた。
「俺の相棒の事を忘れているだろう? 組むなら、トリオだ。コンビじゃない。そうだろ?」
「はっ! そりゃ違いねえ! 失礼しちまったな」
俺は笑った。
『山猫』も笑った。
俺達はまるで十年来の友人のように、さっきまでの血生臭い殺し合いも忘れ去ったみたいに笑いあった。
『山猫』は口元を覆っていた手をゆっくりと下に降ろした。
俺は『山猫』に向けていた両腕を投降する時のように左右に開いて、肩の高さまで上げた。
そして―――
―――焼けた鉄の上に水滴を落としたような音。
その音が耳に届いて初めて『山猫』が自分目掛けてスローイングナイフを投げつけたことに気付いた。
何時ナイフを抜いたのかさえ分からなかった。
文字通り目にも止まらぬ速さだった。
同時に『山猫』も気付いたはずだ。
自分が投擲したナイフが俺の体から1mほど手前で火花を上げて弾かれた事に。
そして、俺の正面の空間がまるで真夏のアスファルトの上で揺らぐ大気のように波打っている事に。
『山猫』が靴の中に隠したスローイングナイフを引き抜いた時に、俺もまた虚空に射程距離最短、効果範囲最大に設定した電磁波を解き放っていた。
マイクロウェーブの波紋が交差しぶつかり合うことによって生み出される電磁障壁。
まるでスプレーみたいに撒き散らされた破壊の波が生み出す副産物だ。
身体の正面しか守ってくれないが、拳銃弾や投げナイフ程度ではこのバリアーは突破できない!
『山猫』が怯んだ。
EX=Sensitiveの戦闘のおいて、命にも匹敵する貴重なイニシアチブを失った事に気付いたからだろう。
だが、それでも奴は『山猫』だった。
『山猫』は僅かな間に体勢を立て直すと次のナイフを俺に投げつけた。
それが最初のナイフと同じように電磁波の壁に弾かれるのを確認しようともせずに、身を翻し一目散に俺の前から逃げ去ろうとした。
手負いになってなお『山猫』の動きはその渾名に恥じぬ俊敏なものだった。
だが、光の速さで迫る電磁の刃から逃げ切るには秒速29万キロ程スピードが足りなかった。
電光を宿す両手を交差するように振り下ろす。
極限まで研ぎ澄まされた俺の刃は最小限の衝撃で『山猫』の身体を合計六つの肉塊に切り裂いた。
*****
『山猫』の残骸が床に転がった後も、俺は身動き一つ出来なかった。
息さえも止めていた。
吐息一つ漏らせば、それが切っ掛けで建物全体が雪崩のように崩壊しそうな強迫観念にとらわれていたからだ。
ゆっくり。
ゆっくりと時間だけがナメクジみたいな速度で通り過ぎていく。
俺が放った攻撃の余波が廃ビルの隅々まで拡散して行くのがわかった。
10秒経っただろうか?
それとも20秒経っただろうか?
1分以上ではないことだけは確かだ。
俺はそんなに長い時間、息を止めていられない。
足元と鼓膜を震わせていた振動が少しずつ治まり、やがて静寂が訪れた。
俺の額から流れ落ち、顎の下に溜まっていた汗が表面張力の限界を達し、雫となって零れ落ちる。
その雫が振り下ろした姿勢のまま凍りついていた俺の手の甲を打った瞬間、張り詰めていた何かがついに断ち斬られるのを感じた。
大量の吐息と共に、体中の力が抜けていった。
もう立っている事も出来ない。
文字通りの腰砕け。
酸素を求めてあえぎながら、汚れた床に尻餅を着いた。
一端緊張の峠を越えると、集中力を振り絞るために色あせていた五感が急に鮮明さを増していった。
大量に空気を吸い込んだせいか、最初に復活したのは嗅覚だった。
廃ビルの中に満ちる悪臭で鼻が曲がるかと思った。
吸い込んだ者を窒息させるコンクリートの粉塵、
焦げ臭い匂いを放ちながら黒い雪のように周囲に降り積もった灰、
一度嗅げば一生鼻孔に染み込むこと請け合いの生きたまま焼き殺された生き物の臭い。
生焼けの内臓の中で沸騰する汚物が放つその悪臭と言ったら……。
どれも俺が一仕事をし終えた後に漂うお馴染みの香りだ。
そして、嗅覚の次に視覚が復活した時に最初に飛び込んできたのはこれまた俺にとってお馴染みの光景だった。
『山猫』……。
あいつの性格と性癖はどうにも理解できなかったが、やはり大した男だった。
奴は死んだ後も俺から目を逸らそうとしなかった。
煮魚みたいに白濁した球体となった目がじっと俺の顔を睨んでいる。
一時、立ち上がって瞼を閉じてやろうかと思ったが、結局やめた。
『山猫』にしても余計なお節介は願い下げだったに違いない。
奴は安らかな眠りを得る事よりも、ずっとこうやって恨みを篭めて俺を睨み続ける事を望んでいた、と思う。
そしてその願いは叶った。
俺は一生奴の目を忘れる事は出来ないだろう……。
俺は勝った、はずだ。
全身満遍なく傷を負い、激痛で気を失ったりしたが、後に響く怪我も無く、今もこうしてちゃんと生きている。
これはもう完全な勝利と言って良いはずだ。
だが、勝利の高揚感はどこにも無かった。
何人殺してきたのかと自問する。
5人と言う答えを思い出す。
まだ5人なのかと安堵する一方で、もう5人もの人間を殺めてしまったのかと戦慄する自分がいた。
誰かを殺した後の自己嫌悪は何時まで経っても慣れそうに無い。
暗澹たる気持ちが両肩に圧し掛かる。
今は静かにしているが、この建物も何時崩壊するか分からない。
すぐにでも脱出した方が良い。
頭ではちゃんと理解していた。
だが、俺の身体は何故かその場から動こうとせず、『山猫』の死体を眺めながら、ぐずぐずと貴重な時間を潰していた。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
或いは死に際に『山猫』が俺に何かの呪いをかけたのだろうか?
そうなのかもしれない。
今日一日の間に積もり積もった憂鬱はとっく限界を超えていた。
俺がこのまま、『山猫』の死体と一緒に圧死するのも悪くないかもしれないと思い始めた、
―――その時、
地下駐車場の闇を一条の光が切り裂いた。
続いて閃光の如く圧倒的なまでに馨しい香りが辺りに漂う悪臭を駆逐する。
その香りが俺の鼻孔を満たした瞬間、朝日を浴びた夜闇みたいに絶望や憂鬱が退いていくのを感じた。
確信を以って振り返った。
そして予想通り、そこに俺の崇める神が、いや女神がいた!!
『華神』はいつも通り、深紅の男物のスーツに身を包んでいた。
真赤なスーツは普通ならかなり気障に見える物だが、彼女は薔薇色の服を見事に着こなし、少しも嫌味も感じさせない。
いや、彼女に限って言えば、スーツの方が引き立て役になっている感さえある。
昔の若武者みたいに結い上げた長い髪を揺らし、片手にLEDハンドライトを弄びながら、『華神』は俺の方へ近づいて来た。
臣下の間を進む女王の足取り。
彼女が一歩近づくごと、自分の心拍数が跳ね上がっていくのが分かる。
気が着けば、俺はもう座っていなかった。
力が抜けて立ち上がる事さえできなかった足腰が何時の間にか大地を踏みしめている。
何かを喋ろうとした。
何も喋る事が出来なかった。
言葉にしたい事が多すぎて、逆に言葉にならないのだ。
今日、この時に至るまでに味わった苦痛、苦闘、苦難の暗闇が全て一瞬で反転して希望の光に代わったかのようだ。
『華神』はもう目の前にいる。
俺から後一歩と言う距離で足を止めた。
何を言って良いのか分からない俺に、何も言わなくてもいいわよとでも言いたげに微笑み、首を傾げ、全身のバネを溜め込むように手を思いっきり振りかぶって……
あれ?っと思った瞬間には、『華神』の手が閃き、体重の乗ったナイスな一撃が盛大な音共に俺の頬に炸裂した。
*****
『切り裂き屋』の頬を張り飛ばした姿勢のまま、私はしばらく動きを止めた。
生きた肉を叩いた感触が手首を伝わり、肩を経由して全身広がって行く
ああ、なんて言う……
―――快感♪
見れば『切り裂き屋』は女の子みたいに叩かれた頬を抑えながら、呆然と立ち尽くしていた。
うーん、相変わらずナイスなリアクション。
まるで、長い間離れ離れになっていた主人に再会した途端、バケツ一杯の氷水を浴びせ掛けられた犬のようよ。
見事に、ショックと絶望感を全身で表現しているわ!
全身全霊でしょぼくれる彼が可愛くて、思いっきり抱きしめてあげたくなった。
でも、ぐっと我慢した。
まだご褒美をあげるのはちょっと早い。
私を傷つけた罰として、『切り裂き屋』にはもう少し私の『罰』に付き合ってもらわないと!
緩みそうになる口元を引き締めながら、厳しい声で彼を叱り付けた。
「『切り裂き屋』……さっき、『山猫』を追い詰めた時、どうしてすぐに撃ち殺してしまわなかったの? どうして、あんな無駄な長話なんかしてたの!?」
『切り裂き屋』が説明をしようと、口を開く。
その動きを予測していた私は、手を上げて彼の言葉を封じ込めた。
「分かっているわ。また人を殺すのを躊躇ったんでしょ? 私が一番最初に貴方に教えた事を忘れたの? 殺しあう以上は躊躇わない。戦いに慈悲なんて必要ないって。貴方が優しいのは知っているけど、戦闘では『善い人』の方が先に死んでいくのよ!」
『切り裂き屋』は物凄く情けない顔をしていた。
私に出会えた感激と理不尽な叱責に反論したい気持ちがぶつかり合って、どうしたら良いのか分からなくなっているのだ。
面白い人。
能力を使わなくても、顔を見ているだけで考えている事が全部伝わってくる。
でも、本当は私だって分かっているのだ。
あの時、『切り裂き屋』には他に選択肢が無かった事を。
建物を崩壊させずに、『山猫』を仕留めるには彼の持つ刃を限界まで研ぎ澄ませる必要があった。
だが、そうすると電磁波の効果範囲も極端に絞られて、命中率が大きく下がる。
必中を欲すれば、罠と分かっていても『山猫』の話に付き合って、先に相手に攻撃をさせてから、カウンターを狙うしかなかった。
だから、ここは叱るのではなく、誉めてあげるべき所なのだ。
ろくに戦闘訓練も受けていない彼が、とっさにあれだけの機転を効かせられたのだから上出来な方だ。
でも、私は単に彼を誉める事だけでは満足できなかった。
何しろ彼は今日、私にあんな酷い事をしたのだから!
時間が経つに従って、嵐の海のように波立ち、混乱していた『切り裂き屋』の頭が次第に静まり、筋道だった考えをする余裕が生まれ始めた。
私は自分の能力を使って、その事を察した。
そして、彼が反論の言葉を口にする前に、先に溜息と共に謝罪の言葉を吐き出した。
「ごめんなさい。貴方は強敵を相手に、ぎりぎりの戦いを生き延びたばかりなのに……。部外者の私がこんな事を言うべきじゃなかったわね」
「そ、そんな事はない! 『華神』がいなければ、俺が『山猫』が何処に隠れているのかさえ分からなかった! 君は、また俺の命を助けてくれたんだよ!」
深く首をうな垂れながら、彼に見えないようにぺろっと舌を出した。
効果抜群!
こちらから折れて見せてあげた途端、『切り裂き屋』の中でせめぎあっていた二つの感情が大きく私の方に傾いた。
もう彼は自分が正しかった事さえも忘れて、必死に私を弁護している。
ショックや痛みを受けた際に、脳の中で分泌される快楽物質を利用した初歩の洗脳術だ。
そして、異能力者である私にはさらに一つ上の次元の洗脳技術がある。
「いいえ、私が貴方に酷い言葉を使ったのは事実よ。ちゃんと謝らないといけないわ。でもね、『切り裂き屋』。これだけは理解して欲しいの。私は別に貴方の事をいじめたい訳じゃないのよ。あんな事を言ったのも、全部貴方を心配しての事なのよ」
「分かっている、むぐぅ……」
『切り裂き屋』が口を開きかけた瞬間、さっと人差し指で彼の唇と言葉を同時に押さえ込む。
私の指先には、快楽物質の分泌を誘発する香料がたっぷりと塗られている。
それを吸い込んだ『切り裂き屋』の目が少し空ろになった。
「言葉だけじゃ意味がないの。私を安心させたいのなら、ちゃんと行動で示してちょうだい。何故、今回私達が『山猫』に命を狙われる事になったのか、その原因は分かってる?」
人差し指をひび割れて痣だらけになった唇から離す。
『切り裂き屋』の目に再び光が戻る。
彼は一瞬、私をじっと見詰めた後、身体が一回り縮んだんじゃないかと思うほど大量の息を吐き出して、深く頭を下げた。
「ああ、分かっている。俺がちゃんと『百目』の死体の始末をしなかったせいで、こんな事になったんだろ?」
「ええ、そうよ。それなら、今、何をすれば良いのかも分かっているわよね?」
『切り裂き屋』は無言で首肯し、私に背を向け、両手の掌を『山猫』の死体に向けた。
彼の髪の毛が逆立ち、その体から青紫色の電光が立ち上ると同時に傭兵の死体がゆっくりと形を崩し始めた。
『切り裂き屋』が凄まじい顔で歯を食いしばっていた。
狭い地下の空間に満ちる悪臭は信じられないほどだ。
私は能力を使って悪臭を感覚からカットしてしまうと、今までの出来事に思いを馳せた。
『山猫』が『切り裂き屋』を尾行している間、私も自分の能力を生かして奴を尾行していた。
私が一番警戒していたのは、『山猫』本人よりもどこかに潜んでいるかもしれないバックアップや伏兵の方だった。
しかし、30分かけて周囲2kmを徹底的に調べた所、奴に仲間がいる形跡はまったく見つからなかったし、奴が連絡を取っているような様子も全く無かった。
『山猫』はもともと単独行動が基本の野良猫だ。
多分、今回の襲撃も奴一人の独断独行だったに違いない。
だから、『山猫』の死体を分子レベルまで分解してしまえば次の襲撃は防げるはず。
建物の解体工事を請け負った業者が地下駐車場の惨状を見て、少し首を傾げるかもしれない。
だけど、『強化人類イクステンデット』の存在を知らない堅気が戦闘の痕跡だけを見ても何を意味するのかさっぱり分からないだろう。
通報を受けた警察官が調査をすれば、異能者同士が戦った痕跡だと言う事ぐらいは判明するかもしれない。
しかし、この国の官憲は異能者同士の問題に首を突っ込む事を好まない。
堅気の死体が出てきたのなら話は別だけど、解体決定済みの建物を少し壊した程度では私達に調査の手が及ぶ可能性は限りなくゼロに近い。
仮にテレビに出てくるような熱血警官が現れたとしても、その時は私が文字通りそいつにちょっと鼻薬を嗅がせてやれば済む話だ。
目先の問題が一段落すると、私は再び意識を『切り裂き屋』の方に向けた。
ああ、それにしても……凄い破壊力。
建物を壊さないように最低限の出力で照射しているはずなのに、『山猫』の死体はもう人間の形を保っていない。
『切り裂き屋』を知る者達は、この破壊力ばかりに気を取られて、彼個人を能力の付属物程度にしか考えていないものが多い。
しかし、私はそれが間違いだと言う事を知っている。
そう、私だけが知っているのだ!
目に見えている破壊力こそ、『切り裂き屋』が秘める本当の力の片鱗に過ぎない事を。
『切り裂き屋』の本分。
それは知力や体力、財力等の分かりやすい力ではない。
むしろ、気合や根性と呼ばれる曖昧模糊な存在に近い。
普段表に現れることないが、一度目的や方向性さえ与えれば、その力は彼の電磁波のように圧倒的なパワーで全てを目的地へと押し流していく。
確かに『切り裂き屋』は臆病者だし、決して勇猛とは言えない。
しかし、彼の精神は驚くほど柔軟性に富み、ずば抜けて回復が早い。
自殺者を出すほど苦しいと言われる全身の変異や『山猫』の拷問に耐え切ったのも、そのしなやかな精神のお陰だ。
『切り裂き屋』が『山猫』と命をかけた勝負を演じている間、私は足手まといにならないように遠くで見守っているしかなかった。
それでも、私は彼の勝利を疑った事は一瞬たりともなかった。
彼の力を信じていたからだ。
そして、『切り裂き屋』はただ一つの事を除いて、私の期待を裏切った事は一度も無かった。
2年前、私達が再会したあの時から。
いいえ、18年前に私達が始めて会ったその時からずっと……。
切り裂き屋の憂鬱な日曜日、第七話をお届けしました!
山猫が死んだので、今回の主人公の死亡フラグはなしですっ!
まあ、死亡フラグよりももっとやばいもんが立ってますけどね。
次回はいよいよ謎解き&最終回です!
ええ、そうです。
大方の予想通り、彼女があれで、あれが彼女で、あれがあれなんです!
つたない作品ですが、今後の捜索の糧にするために、よろしければご感想をお寄せください。
よろしくお願いいたします。