切り裂き屋の憂鬱な日曜日 ACT4
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。残酷かつ暴力的な描写が出てくる場面がありますので、ご注意してください
―――二箇所。
両膝の裏に焼けた鋼鉄の矢が突き刺さったような痛みが走る!
同時に膝から下の感触が消えた。
ふわりと体が無重力の中を漂い、次の瞬間再び重力の腕に捕らわれる。
道路にできた水溜りに映る自分の顔とその下のごつごつしたアスファルトが猛スピードで接近する。
直撃を避けようと、とっさ両手を突き出した。
だが、そこへ計算し尽くされたタイミングで激痛の一斉掃射が背中に突き刺さる!
真赤に灼熱した畳針の滅多刺し!
体は弓なりに引きつり、腕は肩から先が完全に硬直して指一本動かせなくなる。
俺は成す術もなく汚れた水溜りの中にまともに突っ込んだ。
顔が一瞬刺すような冷たい感触を包まれたかと思うと、痛みと衝撃が額と鼻を突き抜けた。
鼻血が出たのか、金臭い味が口一杯に広がった。
視界が急速に狭く、暗くなっていく。
だが、この時俺が一番気にしていたのは自分が転んで怪我をした事よりも、着ている服が水溜りのせいで滅茶苦茶になった事だった。
*****
ああ、俺が持っている服じゃ、多分一番高いスーツ。
今日まで一度も袖を通した事の無い取っておきの一張羅。
でも、この有様じゃ今夜予約したレストランに入る事も出来ない。
心から泣きたいと思った。
それと同じぐらい笑い出したくなった。
情けないことに、俺の中の一部はこの期に及んでなお『華神』とのデートを諦めていなかったらしい。
くそ、『山猫』めっ!
何故、後一日待ってくれなかった?
何故、よりによって今日を襲撃の日に選んだんだ?
俺を襲うのに人ごみの方が都合が良いと言うのなら、月曜の通勤ラッシュでも別に良かったじゃないか!
むしろ、明日の朝だったら俺も喜んで相手してやったのに!
ちきしょう、俺の人生、こんなのばっかだ……
そう言えば昔これと全く同じような事があったな。
真っ黒に染まった瞼の裏に郷愁を誘う光景が浮かび上がる……
ああ、そうだ。
あれは今から18年ぐらい前だったか。
まだ俺が12歳の頃の話だったな。
当時、小学校六年生だった俺は2歳年下の女の子からいじめを受けていた。
今日まで延々と続く、俺のいじめられっ子人生の華々しいデビューってわけだ。
相手の女の子の顔はもう大分朧げになってしまった。
しかし、あの子の特徴だけは一度も俺の記憶からに拭い去られた事は無い。
可愛い子じゃなかったと思う。
背の高い子でもなかったと覚えている。
でも、やたらと威勢が良くて、口が上手く、頭の回転が速い上に滅茶苦茶喧嘩の強い子だった。
いつも牛乳瓶みたいに分厚い眼鏡をかけていて、どちらかと言うといじめられる側に回りそうな外見の持ち主だったが、その子は持ち前の才能を活かして学年のリーダー的な存在に収まっていた。
親が暴力団の組長をしていたと言う事も関係があるのだろうが、それ以上に本人の人間力やカリスマが凄かったのだ。
翻って俺はというと、その当時からいつも教室の片隅で動物図鑑を眺めているような、どこにでもいるごく普通の男の子だった。
本当に、何故あの子が俺に目をつけたのか、いまだに良く分からない。
あの子にとって俺がどんな存在だったのか、これも良く分からなかった。
ただ一つ言えるのは、俺にとって彼女は最初から最後まで決して忘れる事の出来ない存在だったと言う事だ。
とにかく、凄かったのだ。
いじめのバリエーションが!!
そして、群を抜いていたのだ。
悪戯の独創性が!!
俺は中学生から社会人になるまでの間に同級生や教師、同僚や上司、通りすがりのヤクザから同じ異能者に至るまで色んな奴から虐待を受けてきた。
だが、あの子はその中で頭一つ分も、二つ分も飛びぬけていた。
少なくとも今まで、
俺の弁当を盗み出してチョコレートソースをかけて戻したり、
学校の帰り道に殺さない程度に手加減したブービートラップを仕掛けたり、
極めつけに机の中に世界最強の猛毒を持つといわれるヤドクガエルの一種をこっそり忍ばせたりしたのは彼女以外いなかった。
特に最後の奴なんか俺が動物好きでヤドクガエルに詳しい事、さらにヤドクガエルの中でも人を殺すほどの毒をもつ種類は三つしかいない事やその三種類も飼育環境下ではその毒性を失う事まで踏まえていないとできない。
当時大変珍しかったヤドクガエルの購入費も考えると恐ろしく手間と費用のかかった嫌がらせである。
当時の俺は一人の人間が他人を虐げるためにここまで自分の才能と時間を惜しまぬものなのかと慄然としたものだ。
ちなみに余談ではあるが、件のヤドクガエルは「トノサマ」と名前を付けられ、その後俺の家で天寿を迎えるまで飼われていた。
エキセントリックな内容はともかく、六年生の春から初夏までは俺たちの関係はごく普通のいじめっ子といじめられっ子以外の何者でもなかった。
しかし、期末テストも終わり、夏休みも大分近づいた頃、そんな俺たちの関係に大きな変化が起こった。
その頃、俺たちが学校へ行く通学路の途中に長谷と言う近所付き合いと子供が大嫌いな偏屈ものが住んでいた。
人嫌いの長谷は一匹の大型犬を飼っていた。
隙が有れば主人にすら牙を剥く、猛犬と言うよりは狂犬と呼んだほうが良いような獰猛な奴だった。
主人に良く似た奴で自分以外の全ての生き物を、特に人間の子供を酷く憎んでいた。
ある日、長谷がその狂犬を繋いでおく事を忘れた。
犬の奴は塀を易々と飛び越え、道路に降り立ち、そして運悪く学校から帰宅する途中だった児童の列と鉢合わせした。
普通ならとんでもない惨事に陥っていたはずであった。
しかし、そうはならなかった。
子供たちの中にあの子がいたからだ。
後に当事者の一人から聞いた話によると、あの子はその時学童の列の一番後ろにいて、犬から十分逃げられる場所にいたらしい。
だが、彼女は逃げるどころか下級生達を守るため、独りで犬に立ち向かう事を選んだ。
俺が騒ぎを聞きつけて駆けつけた時には、あの子はランドセル一つを武器に犬と大激闘の真っ最中だった。
赤いランドセルは既にぼろぼろになっていた。
ノートや筆記用具が死体から零れ落ちる臓物みたいに道路中にばら撒かれていた。
猛犬の牙が彼女の肌に届くのはもう時間の問題かと思われた。
そこへ俺が飛び込んだ。
大声で叫びながら、団子になってもつれ合う人と犬の間に割り込んだのだ。
深く考えた上での行動じゃない。
ただ、体が自然にそう動いたのだ。
あの時、俺はまだ彼女に何も特別な感情を抱いていなかったはずなのに。
むしろ、ずっと苛められていたせいで彼女を怨んでも仕方無かったはずなのに……。
もしかしたら、平均身長よりも頭半分も小さい癖に、普通の大人二人分のガッツを奮って敢闘する彼女の闘志が俺にも取り付いたのかもしれない。
そうでなければ、自他とも認める臆病者の俺が何故あんな暴挙に出たのか説明できない。
傘一つを手に猛犬に挑みかかった。
そのまま、白馬の騎士よろしく猛犬を追い払う事ができたのなら、さぞかし格好良かったのだろうが……
あいにく、これは俺の思い出。
そんな格好いいエピソードなんて間違ってもありえない!
尻を傘の先端で思いっきり突っつかれ、お楽しみにも水を刺された犬は猛然と振り返って今度はこちらに襲い掛かってきた。
頼みの綱の傘はあっけなくどこかへ吹き飛ばされた。
あっという間に押し倒され、身体を守るために掲げた両手はたちまち血塗れになるまで噛み裂かれた。
あの大型犬は今の俺にとっても十分驚異的だが、子供の頃の俺にとってはほとんど恐竜のように見えた。
圧倒的な体格で圧し掛かってくる犬はとんでもなく恐ろしかった。
噛まれた腕は死ぬほど痛かった。
正直な話、少なからず後悔もした。
それでも自分が必死に時間を稼いである隙に、あの子が逃げていくのを見た時、俺の心は小さな満足感で満たされていた。
ああ、それは本当にとても小さな満足だった。
だが、俺にはそれで十分だった。
少なくとも、自分の感じた苦痛や恐怖が無駄にならずに済んだと思ったからだ。
どんな臆病者にも一生に何回か、ありったけの勇気を振り絞れる時がある。
俺にとって、あの子が独りで巨大な猛犬と闘っているのを見た瞬間がその時に該当したのだろう。
やがて、出血のせいで痛みも恐怖も麻痺して始めた。
俺は子供らしからぬ諦観を抱いて、目の前にある現実と自分の喉下へ次第に迫ってくる犬の顎を受け入れようとした。
あの血に餓えた凄まじい雄叫びを耳にするまでは……。
もうとっくに遠くまで逃げたはずのあの子が先っぽに自分の頭よりも大きなコンクリート塊がついた鉄骨を引きずってくるのを見るまでは!!
俺はさっきまでの愁傷さをかなぐり捨てて、ありったけの大声で叫んだ……。
「お願いだから、目を瞑りながらそいつを振り回さないで!」
あれはちょっと言葉では表現できない迫力だった。
鬼も裸足で逃げ出すとはまさにあのような光景を指すのかもしれない。
ここだけの話、はっきり言って犬より怖かった……
それから俺達は力を合わせて猛犬と戦い(もっぱら俺が犬に噛まれる役で、彼女が犬を殴る役)、
いくらかの犠牲を払い(三回ほど彼女に頭を叩き潰されそうになった……)、ついに猛犬を撃退する事に成功した。
重ねて回りの安全を確認した後、あの子は血塗れでずたずたになった俺の両腕の手当をしてくれた。
とても、素人とは思えぬ手際が気になって、何故そんなに手馴れているのかと質問した。
彼女はいつもお腹とか怪我している父親達の手当を手伝っているからだと答えた。
子供心に何故手足じゃなくて、いつもお腹を怪我するのか疑問に思ったが、小学生にして既に護身の基礎を身に付けつつあった俺は懸命にもそれ以上聞く事をやめた。
応急処置が終ると麻痺していた痛みや恐怖が蘇ってきた。
俺は大声で泣いた。
釣られてあの子も一緒に泣き出した。
俺達は手に手を取り、ワンワン泣きながら家路についた。
二人が俺の家についた後がまた大騒ぎだった。
5歳年上の兄貴は愛用の木刀を持ち出して、長谷と犬をぶちのめすと息巻いていた。
親父はそんな兄貴を引き止めるのに大忙しだった。
あの子の父親は兄貴以上に猛り狂っていて、「オトシマエ」とか、「ナマコン」とか、「イキウメ」といった当時の俺には良く分からない恐ろしげな言葉を連発していた。
お袋はそんなおじさんを宥めるのに大忙しだった。
婆ちゃんは気が動転して、爺ちゃんの位牌の前で念仏を唱え始めた。
俺達はお婆ちゃんのお経を聞いているうちに眠くなって来て、とうとう回りの喧騒をよそに頭と頭を寄せ合い、手を繋いだままぐっすり眠り込んでしまった。
それから一ヶ月の間、怒涛のような速さで時間が過ぎていった。
俺とあの子は何度か警察の人間に事情を聞かれ、同じ内容の言葉をうんざりするほど何回も繰り返した。
何度も病院に通い、狂犬病を始めとする感染症に犯されていないかどうか、致命的な後遺症を負っていないかどうか診断された。
俺は骨が見えるほど酷く腕を噛まれていたが、あの子の応急処置が功をそうしたのか、さしたる後遺症もなく大嫌いだった体育を何度か休む程度で完治した。
あの子は犬と格闘している際に牙が掠ったのか、顔に小さな怪我負っていた。
その部分は後になって酷く腫れたが、彼女はそれを隠すどころかむしろ自分から見せびらかしてまわった。
その豪快さと下級生を守るために猛犬と闘った武勇伝が相まって、彼女は一躍学年のリーダーから学校のスターへと二階級特進を果たした。
長谷は誰にも気付かれないうちに町を出て行った。
長谷が姿を消した翌日、あの子の父親が家に現れ、「長谷が残してった詫び代や」と言って俺が見た事もないような札束を積み上げた。
既に功成り、護身を完成させていた家の両親と婆ちゃんは詳しい話は一切聞かずに俺の治療費の分だけを抜き出すと、残りの金を全て彼女の父親に返した。
おじさんは親父達の節度を保った冷静な対応に感心して、以後俺達は家族ぐるみの付き合いをするようになった。
そして事件の後、あの子の俺に対する態度も別人のように変わった。
彼女はもう俺にちょっかいをかけようとはしなくなった。
代わりに俺と良く話をするようになった。
何かしら口実を見つけてはちょくちょく俺に会いに来るようになった。
不思議な事に、俺も何故か今まで受けてきたいじめのことなど忘れてしまったみたいに、彼女の急速な接近をあっさり受け入れてしまった。
それどころか、以前は想像だにしなかった事にたまに彼女の家に遊びに行くようにさえなった。
後であの子の母親が教えてくれたのだが、彼女は学校では人気者だったが、親の職業のせいか今まで自分から家に遊びに来てくれる友達はほとんどいなかったそうだ。
彼女自身も、今まで家に誘った友人達が実は怯えて、いやいや誘いに乗っていた事を知って以来、自分から友達を家に招待する事はしなくなったらしい。
だから、俺が遊びに行く度に彼女の両親は大歓迎してくれた。
時々その歓迎に熱が入りすぎて、しばしば俺を恐怖のどん底に突き落とすこともあった。
例えば、何時かおじさんが昔他のヤクザに二回も刺されたお腹の傷痕を俺に触らせようとした事があった。
以前、あの子からおじさんが自分の傷痕を触らせようとするのは、本当に気に入った相手に対する愛情表現なんだと聞かされていた俺は、内心怯えきっていたが、諦めて彼の言うとおりにしようとした。
しかし、その前におばさんが俺の気持ちを察して、叔父さんを窘めてくれた。
おやつをたっぷり満載した高そうなお皿を叔父さんの頭に落とす事によって……。
重量たっぷりで、破壊力十分な一撃だった。
物凄い暴力行為を自然にこなしながら、おばさんは平然と笑っていた。
あの子もこんなのは日常茶飯事だと言わんばかりに、普通に笑っていた。
ついでにおじさんも笑っていた。頭から血をだらだら流しながら……。
俺は頭の天辺からつま先に至るまで、満遍なく震えていたが、他にできる事も見つからなかったので一緒に笑うしかなかった。
そして、どんな家庭環境が彼女のちょっと変わった人格を形成したのか、しみじみと理解した。
そんな非日常的な日常風景を目にしながらも、何故か俺は彼女の仲が疎遠になることはなかった。
むしろ時間が経つにしたがって、俺たちの距離は次第に縮まっていった。
夏休みが終わり、第二学期が始まると俺達はいつも一緒に下校をするようになった。
一人が遅れそうなときは、もう一人が校門で相手が帰るまで待つというのが、俺達の暗黙の了解となっていた。
周囲に誰もいないときには、こっそり手を繋いで帰ることもあった。
二人で泣いて帰ったあの日のように……
あの頃、俺が感じていた青臭くも甘酸っぱい感情。
それが俗に初恋と呼ばれる物なのか、俺はついに確認する事は出来なかった。
確かめるだけの時間を、運命は俺たちに許さなかったのだ。
ある日、俺は彼女の誕生日パーティーに誘われた。
彼女はいつも通り同級生を誘わなかったから、同年代の友人で招待を受けたのは俺一人だけだった。
俺は嬉しかった。
有頂天だった。
他の友達がいないのは少し寂しかったが、それ以上に二人で彼女の誕生日を祝えるのが嬉しかった。
自分だけ招待を受けた事が、彼女の俺に対する信頼の証のように思えたのだ。
実に子供らしくない可愛く、生意気な、ませた考え方だった。
そして、俺は自分の奢りの償いを受ける事になる。
当日、俺はそれまで一度も袖を通した事のない一張羅を着て、意気揚揚と家の門を出た。
胸には期待に弾む心臓を、手には俺がなけなしの小遣いをはたいて買った彼女のプレゼントを持って……。
18年後の今日と全く同じ状況。
18年後の今日と全く変わらない心境。
思えば、その時から俺の奇妙なジンクス始まっていたのかもしれない。
異変に気付いたのは、彼女の家の玄関に辿り着いた時の事だった。
半ば空いているドアを見た瞬間、ざわりと悪寒が背筋を駆け下りる。
チャイムを押す、返答はない。
大声であの子の名前を呼ぶ。どんなに耳を澄ましても何も返って来ない。
溜まらず許可もえずに、ドアを開けて家の中に入った。
赤黒い手形があった……
明らかに渇きかけ、しかしまだ完全に渇いていない血の跡。
絶対零度の一瞬。
その後にそれがあの子の物にしては大きすぎる事に気付いた。
サイズから察するに恐らく、大人の、それも男のもの。
どんどん家の中を進んだ。
先導するように赤い手形が延々と続いていた。
何度も何度もあの子の名前を叫んだ。
誰一人呼び声に応える者はいなかった。
居間の中に入った。
テーブルの上に並んだ料理の数々。
大きなバースディケーキ、おばさんが作ってくれた誕生日のご馳走。
蝋燭は半分しか燃えていない。
料理に触った。まだ暖かかった。
……俺は頭の良い子供じゃなかった。
でも、馬鹿な子供でもなかった。
だから、分かった。
何か起こってはいけない事がここで起きたのだ、と。
あの子も、あの子の両親も、もうこの家にはいない。
そして……俺は多分もう二度と彼女には会えないのだと分かってしまったのだ。
隣家へ行って彼女の家の中の様子を知らせた。
警察を呼んでもらった後、玄関に戻ってそこに座り込んだ。
俺は待った。
腕の中に包装紙がしわくちゃになってしまったプレゼントを抱きかかえながら。
ひょっとしたら、あの子の家族がちょっと出かけていて、もうすぐ戻ってくるんじゃないかと言うか希望と呼ぶにすら値しない願望にしがみ付いた。
俺は待った。
料理は完全に冷え、蝋燭は解けてケーキのクリームの上に蟠った
俺は待った。
やって来た警察が俺の顔を見て驚く。
ついこの間あったばかりの顔。同じような質疑応答が繰り返される。
俺は待った。
太陽は傾き、夜がやってきた。
警察から連絡を受けた両親達が俺を迎えに来た。
婆ちゃんが皺だらけの震える手で俺の肩を抱く。
もう……それ以上、待つ事は出来なかった。
結局、あの子の家で何が起きたのか、とうとう分からずじまいだった。
後に俺が高校を卒業し、大学へ進学できる年齢になった頃、あの日、あの家の中で誰かが死んだと言う話を聞かされた。
情報源は俺を事情聴取したあの警官。
彼は俺が十分な年齢に達したと判断して事実の一部を打ち明けてくれたのだ。
誰が死んだのかはついに教えてくれなかった。
しかし、それがあの子じゃない事だけは請け負ってくれた。
彼はあの子の家族が危険を避けるために町を離れ、名前や戸籍を変え、別人になって今も生きていると言う情報を暗に示してくれた。
彼女達の安全を守るために、ずっと事実を伏せていたのだと教えてくれた。
その話が彼の優しい嘘だったのか、それとも真実だったのか……。
変異を起こして『強化人類』になるまで裏社会のコネを持たなかった俺には確認しようもなかった。
ただ、俺はあの日感じた直感のとおり、自分がもう彼女には会えない事、そして会うべきでもない事を悟った。
結局、あの日、婆ちゃんに手を引かれながら歩いた帰り道、街明かりやパトカーライトの中にぽっかりと空いた黒い穴のように佇むあの子の家の姿が、俺の彼女に関する最後に記憶になってしまった……。
いつもだ。
いつも、そうだった。
運命は何時だって俺の幸せをぬか喜びに変えちまう。
目の前にフルコースの料理を並べて、さんざん期待させておいて、いざ口をつけようとするとスープを一口飲む暇もなく全てどこかへ持ち去ってしまうのだ。
定年退職を迎えた両親は、笑顔で旅行に出かけたまま事故で帰らぬ人となった。
俺はようやく最初の仕事になれ始めた頃、EX=Geneを発症させて会社を辞めなければならなくなった。
幸せな家庭を築いていた兄夫婦は、EX=Geneを発症した姪を病院に連れて行く途中で交通事故に会って、二人とも死んでしまった。
一人だけ生き残った姪は、両足を切断し、脊髄と脳に重い傷を負って、一度植物人間になった。
その姪がようやく奇跡的に回復し、意識を取り戻したと思ったら、今度はっ……。
なあ、神様。
あんた、俺に何か恨みでもあるのか?
俺があんたに何かしたのか?
なあ、教えてくれよ。
何故だ?
何故なんだ?
何故いつも俺なんだ?
何故、何故、何故、何故―――――っ!!
*****
「がっふぁっ―――!!!」
毒づこうとして、思いっきり水を吸い込んでしまった。
冷たい液体が傷ついた鼻の粘膜を強く刺激する。
慌てて顔を水溜りの中から引き上げた。
「ごっはぁ、げっふぁ、げは!ごほ!ごぼっ!ごほ!!」
激しく咳き込みながら、自分が置かれた状況を反覆する。
次第に鮮明さを増していく意識で、現在と過去を区切り、混乱した思い出の中から最近の記憶を抽出した。
俺は、
今、
街のどん真ん中で、
殺し屋の「山猫」に命を狙われ、
生き延びる方法を必死に探している。
『山猫』の名詞が浮かんだ途端、頭がすっきり冴え渡った。
素晴らしい。
今、史上最悪な気分だって事をのぞけば、中々悪くない心地だ。
ふと見下ろせば、そこには赤茶色に染まった水溜りが見えた。
口元に手をやると、ぬるっとした感触がした。
なるほど、つまり俺は『山猫』の攻撃を喰らって転び、道路に頭をぶつけて気を失ったわけか。
鼻血がまだ止まっていないところを見ると、気絶していたのはほんの一瞬だけだったみたいだな。
EX=Geneで変異した器官は例外なく高い回復能力を持っている。
特に全身が変異した俺の回復能力は、哺乳類と言うよりはナマコ等の棘皮動物に近い。
流石に漫画みたいに見る見る傷が塞がったりはしないが、鼻血程度なら3秒で必ず止まるし、1、2分もすれば傷も跡形もなく消える。
なかなか便利な能力だが、自分を徹底的に痛めつけてから殺そうとする相手に付け狙われている状況で、気絶も出来ないほどの高い回復力を持っているというのは果たして素直に喜んで良い事か、どうか……
とにかく、何時までも地面に這いつくばっているわけには行かない。
攻撃を受けた背中の痛みと熱さは、仰向けに寝る事を想像する事さえ恐ろしいほどだ。
しかし、無防備な状態でさらに拷問を受けるかもしれないと言う恐怖が身体を突き動かし、俺は何とか上半身を持ち上げて道路に腰を下ろす事に成功した。
顔を上げた途端、無数の視線の直撃を受けた。
気がつけば、俺の周りを囲むように人間の壁が出来上がっていた。
皆さん、休日の繁華街を無様に疾走し、無様に転倒し、無様に頭をぶつけて無様に気絶、そして今間抜け面できょろきょろ周囲を見渡している無様な男に興味津々のようだ。
俺はたじろいだ。
幼稚園の頃、演壇の上で失禁して以来、俺はたくさんの人間に注目されるのが苦手だった。
さっきまで平然と周りの野次馬を無視できたのは、『山猫』との駆け引きに熱中していたお陰だ。
しかし、携帯電話は手の中で沈黙し、俺は好奇や侮蔑の視線の前に無防備に投げ出された!!
こんな時ほど、人間が社会性を持った生き物だと言う事を痛感する時はない。
恐怖と緊張に膨れ上がっていた俺の心は、内側の圧力を失い、外からの重圧に小さく萎んでいく。
味方も理解者もなく、集団の中で孤立していく孤独感と虚無感が正常な思考を食い荒らしながら、俺の中を満たしていった。
その時、携帯の着信が響く。
中谷美紀の「砂の果実」。
陰鬱なメロディが「生まれてこなければ良かった」と始まる歌詞を記憶の中から引きずり出した!
ああ、俺は何故こんな曲を着メロに選んでしまったんだ!?
あまりにも今の心境にぴったり過ぎて、洒落にならんぞ!
もし、生き延びられたら絶対に最初に携帯の着メロを変えてやろうと心に誓いながら、俺は携帯電話に開こうとして……再び閉じた。
駄目だ。
ここで携帯を開けてあいつと話をしたら、同じ事の繰り返しだ。
それよりも今重要なのは、『山猫』が誰なのかを探り出し、特定し、反撃に出る事!
俺は携帯を持ったまま、誰か電話をかけている奴がいないか必死に視線を走らせた。
だが、周りに聳え立つ人の壁がまるでこちらをあざ笑うかのように俺の努力の邪魔をする。
「ねえ、あいつ誰?」「いやだ、こっちを見てる」「酷い格好……」
―――ああ、駄目だ。回りの声が五月蝿すぎて、何も分からない。少し静かにしてくれ!
「ママ、あのひとどうしたの?」「シー、駄目よ。見ちゃいけ「おい、目が虚ろだぞ?」「精神病って奴か?」
―――少しで良い。一瞬の間でいいから黙っていてくれ。俺が集中できるように静かにしてくれよ。
「怖いわ……」「警察を呼んだ方が良いんじゃないのか?」「くくく「官憲は何をやってるんだ? 日本ほど精神病患者に甘い国もいないんだぞ」「おい、今度は私の方を見た!」ははは「やばいって! 目をそらせって!」
―――頼むから、静かにしてくれ! 今、あいつの声が聞こえた気がしたんだ! ちょっとで良いから静かにしろ! 静かにしろ! 静かにしろ! ちくしょう、みんな黙りやがれっ!!!
緊張が限界に達した瞬間、ふいにそれは訪れた。
精神が理性の限界を突き破る事によって得られる『悟り』が猛毒のように頭の中に広がって行く。
―――ああ、なんだ。そう言うことか。
頭脳の片隅で生まれた邪悪な考え。
普段の俺がそれにすくみ上がる。
―――結局、あいつの、『山猫』が言うことが正しかったんだ。
止めろ! 止せよ! と残った良心と理性が大声で呼びかける。
だが、一度生まれたマグマのような悪意はそれらを全て飲み尽くし、
―――簡単な事だ。同じ事なんだ。どうせ、こいつが黙る事が出来ない。それならば……
何時しか、俺は『山猫』を探る事をやめていた。
回りを見渡すの止めて、自分の手を見た。
掌にあるマイクロウェーブの照射口を見ていた。
―――俺が全員黙らせてしまえば良いんだ!!
肺を酸素で満たし、全身の発電細胞を起動させる。
体中を駆け巡る能力発動の証し。
痺れるようなその感触が俺の中の暗い感情と結びつき、かつてない愉悦を生み出す。
俺は今まで、100%全力で能力を振るった事は一度もない。
人を殺すには出力の20%もあれば十分すぎた。
60%まで出力で上げれば、この世に壊せない物はない。
だから……。
そう、だから……。
これから何が起きるのか、俺は一切責任がもてないぞ、『山猫』!!
体内から抑えきれないエネルギーが静電気となって溢れ出す。
自分の髪の毛が一本ずつ根元から逆立っていくのが感じられる。
そこら中で電光が走り、携帯が苦悶の声を上げて沈黙し、街灯や蛍光看板の発光ダイオードが狂ったように点滅を繰り返す。
甲高い悲鳴が俺の近くで湧き上がった。
さっきまで俺を笑いながら馬鹿にしていたカップルが鼻から血を噴出しながら、尻尾に火がついた豚みたいに右往左往している。
明らかに高出力の電磁波を間近で浴びた結果。
心の底から、ざまあみろ!と嘲笑ってやった。
長年押さえつけていた力を思う様に開放する悦び!
良心も、理性も、全て投げ捨ててその力に押し流される快感!
体の中にたわめられた力は、既に70%に達していた。
これから先は完全に未知の領域だ。
全ての固形物が形を失う、そのさらに向こうにある崩壊の境地!
俺の能力を防ぐには血の詰まった水袋が最適だと言っていたな、『山猫』!
ならば、本気を出した俺の前にはそんな水袋が何十、何百個、何千個あろうが何の役に立たない事を教えてやるぞ!!
心に狂気を抱き、
顔に凶気を浮べ、
手に宿る兇器を構え、
俺は、
俺は、
俺は――――!!!
「あの……大丈夫ですか?」
突然、のんきそうな声が耳に飛び込んだ。
真っ白な人影が俺の目の前に飛び出した。
既に最終段階に達していた『光速の刃』の発射プロセスを慌てて中断した。
出掛かったくしゃみを無理やりに止めた時の何百倍もの不快感が身体を駆け巡る!
「な、何を!?」
危ないじゃないか!と言う叫びを何とか堪えた。
突然、俺の視界の中に飛び込んできた相手は怒鳴られた事など全く気にしていないようににっこりと笑って続けた。
「あ、こっちの声はちゃんと聞こえるみたいですね。あの、さっきからずっと気分が悪そうでしたよね? 大丈夫ですか?」
あまりにも当たり前の言葉。
しかし当たり前すぎて、この大都会では中々聞かれなかった労りの言葉がそこにはあった。
近くの街灯が戸惑ったように2,3回瞬いた後に、元通りの光を取り戻した。
俺が自分の中に生まれたどす黒い熱が急速に冷めていくのを感じた。
頭に血が上って、真赤に染まっていた視界が少しずつ色を取り戻し始める。
俺はようやく、自分の前にいるのが誰なのか認識する事が出来た。
高価そうなファーダウンジャケットを着た20歳台前半の女性がいた。
艶やかな黒い髪を背中にたらし、目元には上品そうな銀縁眼鏡。
顔は……結構美人だ。
それに心なしか、あの子に、俺が子供の頃に分かれた彼女に似ている様な気がした。
一向返事を返さず、呆けたように自分を見詰める俺を見て心配になったのか、彼女は眉間に皺を寄せて顔を近づけ、
「あの……気分が悪いのですか? 何でしたら、救急車をお呼びしましょう?」
「あ、いや! 大丈夫だ! ぜ、全然平気! 救急車なんていらない! 絶対にいらない!」
顔を真赤にして飛び上がった。
我ながら死ぬほど情けない。
でも、成人してからこれほどの距離で女性の顔を見た事なんて滅多になかったからな……。
「そうですか? でも顔色凄く悪いですよ。まるで今にも倒れそうですよ。近くに公園があるのを知っていますから、そこで休んだ方がいいですよ」
俺の手を取ろうと彼女が指を伸ばした。
「大丈夫だって言っているだろ! 触らないでくれ!!」
ぞっとして手を引いた。
冗談じゃない!
途中で発射を止めたとは言え、俺の中にはまだ建物を一つ余裕で吹き飛ばせるぐらいのエネルギーが溜まっているのだ。
うっかり普通の人間が触ったらどうなるかわかったものじゃない!
「ご、ごめんなさい。私、お節介をするつもりはなかったんですが……」
彼女は申し訳無さそうに俯いた。
明らかに俺に非があるというのに、それを責めるつもりは全くないようだ。
罪悪感と言う名の目に見えない大きな手が俺の胃袋をねじり上げた。
「あ、いや、そんなことは……ない。すまない。俺も気が動転していた」
途切れ途切れに謝罪の言葉を口にする。
自分の失言をどうやって弁解したものか分からない。
周囲の避難がましい視線がざくざく突き刺さる。
ああ、なんで俺はこんなに口下手なんだ!
しかし、拙い言葉でも気持ちだけは伝わったのか、女性が俯いていた顔を上げてくれた。
ぎこちない笑みを浮かべ、安心させるため彼女の瞳を覗き込む。
そして、その瞳の中に映るものに俺は愕然とした。
そこには怪物がいた。
怪物のような感情の名残を浮かべた俺の顔があった。
体の中に残っていた最後の熱が死んだ。
俺はようやく自分が何をしようとしていたのか、冷静に客観的に捉える事ができた。
後悔で死ぬかと思った。
昔、俺は一人の人間の命を奪った事がある。
心の底から殺したいと思っていた奴だった。
殺しても殺しても殺し足りない、と思っていた奴だった。
しかし、俺は意図して奴を殺したわけじゃない。
あれは事故だった。
まるで手加減を間違えて虫の蛹を握り潰してしまったように、俺は一つの命をこの世から消し去った。
その時、決めたのだ。
これから何時、如何なる時も、人の殺そうとする時は、明確な意思と冷徹な覚悟を以ってそれを行おうと。
俺が間違いなく自分の意志と自分の心に基づいて、自分の手で一つの命を奪った事を記憶し、それを死ぬまで背負っていこうと、そう決めたのだ。
そうすれば、例えこの身は人でなくとも、人間でいられると、そう思ったのだ。
だと言うのに、俺はさっき何をしようとしていたのだろうか?
恐怖とプレッシャーに負けて、理性を投げ捨て、欲望のままに力を乱用しようとした。
人であることを捨てる事によって苦しみから逃れ、怪物そのものになろうとしたのだ。
『山猫』が今そうしているように……。
悔いても悔い切れるものじゃない。
「本当にすまない。せっかく心配してくれたのに、酷い言葉を使っちゃって」
身体がまだ悲鳴を上げていたが、背中はぎしぎしと痛んだが、俺は男としての意地をかき集めて深深と頭を下げた。
「いいえ。よかった。ご機嫌を損ねたのじゃないかと、思っていました。でも、まだ顔色が悪いですよ。本当に病院に行かなくても大丈夫ですか?」
ふわりと溶ける淡雪のような微笑み。
こんなに薄汚れた男にここまで優しくできるなんて、きっと彼女はかなりいい家の生まれに違いない。
彼女は再び俺に手を差し出した。
白く柔らかそうな掌、長く伸びた器用そうな指。
自分の手に目を落とす。
異形と変わり果てた掌、中央にある複眼のような器官の周りに電光が踊る。
拳を硬く握り締めて、せっかくの申し出を断った。
「お心遣いは嬉しいけど、これは俺が自分で解決しなくてはいけない問題なんだ。こんな俺に気を遣ってくれて、なんてお礼を言って良いのかわからない。本当にありがとう。そして……」
顔を上げ、感謝の笑みを浮かべる。
微笑み返す彼女の顔を真正面から見詰め、瞬き一回。
自分を取り戻させてくれた恩人の顔を眼の裏に焼き付けた。
「さよなら」
何か言いたげな彼女に背中を向け、走り出す。
目の前を塞いでいた群集は俺が近づくと、慌てて飛び退って道を開いた。
人間で出来た囲みを飛び出し、さらに加速する。
途中で何回もぶつかり、数え切れないほど悪態をつかれ、罵倒されたが、俺は一回も足を止めずに走りつづけた。
喧騒と光に背を向け、闇と静寂が支配する街外れを目指しながら―――
彼女と話している間に、俺の頭は冷え、自分が本当に何を必要しているのかはっきりと自覚できるようになった。
俺が必要な物。
それは優しい指ではない。
慰めの言葉でもない。
俺が本当に今、必要している物、それは戦場だ!!
俺の力を受け入れる容量を持ち、俺が自分の力を最も効率的に生かせる環境を備えたバトルフィールドだ。
今ならはっきりと分かる。
例え邪魔が入らず、あの場で能力を乱射したとしても俺に勝ち目はなかっただろう。
もし、『山猫』を無差別攻撃で仕留める事にできなかった場合、俺は確実に殺される。
もし、『山猫』を無差別攻撃で仕留める事が出来たとしても、奴の顔も知らない俺にはそれを確認する術はない。
そして、残りの一生を『山猫』の影に怯えながら生きる事になるに違いない。
最も、その一生も長く続く事はあるまい。
衆人環境のど真ん中で大量虐殺などという暴挙を犯せば、俺は間違いなく仲間内の粛清の対象になる。
俺一人が自業自得で始末されるならそれも構わないが、最悪、相棒や姪にまで累が及ぶ可能性があるのだ。
それだけはなんとしても避けなければならない!
俺がここまで不利な戦いを強いられるのは、『山猫』の戦場の中に留まっていたせいだ。
奴が俺を破滅させるために選んだ場所で戦って、俺に勝ち目などあるはずもないのだ。
だから、止めだ。
もう止めだ。
『山猫』。
焼け付くような怒りと戦意を篭めて、その名前を呟いた。
俺を殺したいのだろう。
俺もお前を殺したい。
だから、とことん殺り合うおうじゃないか!
だが、ケリをつけるのはお前の戦場じゃない。
俺が自分で選んだ戦場で決着をつけてやる!!
*****
建築用重機のリース会社に勤めている利点の一つは、建築業者と親しくなれる事だ。
建築業者と親しくなれば、不動産屋と仲良くなる事ができる。
全てのコネを総動員すれば、既に廃棄され、これから解体される予定の建築物、俗に廃屋と呼ばれる建物の情報が容易に手に入るようになる。
『常に自宅以外に自由に使える空間を一つ以上確保しておきなさい。隠れ家として使うにしろ、秘密の倉庫にするにしろ、それは必ず貴方の役に立つはずだわ』
ありがとう、『華神』 。
今回も君のアドバイスが役に立ったよ。
街の中心部から外れて俺が辿り付いたのは敷地面積180,000平方メートルになる6階建ての大きな廃ビルであった。
この建物は元々、とある事業家がパチンコやカラオケ、ゲームセンターを兼ねた一大レジャーセンターとなるように建築させたものだった。
しかし、建物が落成する直前、件の事業家が資金繰りに失敗して行方をくらました。
建物は担保として取り上げられた後、様々な人間の手を渡り、最終的に裏社会の住人の所有物となった。
以後、この建物はペーパーカンパニーの名目上の事業所。
ご禁制品を保管して置くための隠し倉庫。
脱法ドラッグの取引場所として数え切れないほどの地下ビジネスの現場となってきた。
それが去年までの話。
今年に入って、偶然この建築物が建築基準法に定められた耐震強度を満たしていない事が分かり、建物の老朽化も相まって、ついに欠陥建築として来月か再来月辺りに解体される事になった。
つまり、長年裏社会の手によって人払いが行われ、今は闇の住人すら出入りを止めたこの建物。
ここならば部外者の邪魔が入る恐れもなく、俺の力を十二分に振るう事ができるのだ。
黄色と黒の立ち入り禁止ロープを跨いで、廃屋の敷地内に入る。
浮浪者等が侵入することを防ぐためか、廃屋の正面口は太い鎖によって封印されていた。
正面口にある柱の後ろに身を潜め、最小出力のマイクロウェーブで鎖を一薙ぎする。
鎖はあっという間に灼熱、煮沸、爆発し、真赤に光る金属の破片が俺の隠れている柱にびしびしぶつかった。
これが俺の能力の最大の欠点だ。
破壊力が強すぎて、迂闊に発射すると破壊の余波で自分まで大怪我を負いかねない。
しかし、奴に対抗できそうな武器はEX=Geneが与えてくれたこの能力しかない。
この力を使って『山猫』を迎え撃つに当たって、俺は自分の能力を最大限に活かせる戦場を慎重に吟味した。
まず、屋外は駄目だ。
長い間、『華神』と一緒に行動してきたお陰で、俺はどこにでも身を隠せる場所でEX=Sensitiveと戦って勝つのは不可能に近い事を思い知らされた。
そんな事をしても、今まで俺と『華神』が始末してきた相手みたいに一方的に発見され、一方的に攻撃され、自分が死んだと自覚する暇もなくあの世に送られるのがおちだ。
だから、俺が勝つためには戦場を『ある程度相手の動きを制限できる屋内の空間』に限定する必要がある。
しかし、屋内でもあまり障害物の多い場所も駄目だ。
今見たように、俺の能力で破裂した壁や窓の破片が四方八方から飛んできて、生身の身体では闘う余裕すらもなくなってしまう。
の二つの条件を考慮して、俺が最終的に選んだ戦場と言うのが、この廃屋の地下駐車場だった。
建物の落成以来ほとんど一度も使用されなかったここの駐車場の面積は広すぎず、狭すぎず、身を隠すための柱もたくさんあって、俺が全力を振るう戦場としては正に申し分ない条件を兼ね備えている。
唯一気になる点があるとすれば、それはこの欠陥建築がどれほど俺の力に耐え切れるかと言う点だ。
専門家が言うには、この建物は震度5度弱の地震まで何とか耐えられるらしい。
弱と言うのがどの程度の耐久度を差すのかは不明だが、少なくとも一回や二回俺が能力を使っただけで建物全部崩壊するような事はない、と思う。
最悪、建物が耐え切れなくても、『山猫』を道連れになら、どっちにしろ大した問題ではない。
軋むドアを押し開け、地下駐車場へと続く階段に一歩足を踏み出す。
うわあ、臭い!!
上の階とは比べ物にならないほど濃厚な黒かびと埃の匂いが鼻についた。
長年放置されてきた建物の悪臭。
ポケットの中からハンカチを取り出し、鼻に当ててその臭いに耐えながら、廃屋の地下駐車場の中に足を踏み込んだ。
床に爪先が触れた途端、ふわりとした感触が返って来た。
あまりに長い間清掃を受けていなかったため、積もり積もった埃が絨毯と呼べる程の厚さにまで達していたのだ。
そして暗い。
予想通りというか、電気が完全に止まっている地下駐車場は1cmを見通す事すら困難な闇に包まれていた。
携帯を取り出して開く。
ディスプレーから漏れ出る光を当てにしながら、一歩一歩慎重に歩を進めていく。
ちょっとした肝試しの気分だ。
しかし、あまり恐怖を感じないのは『山猫』とのやり取りで恐怖心が麻痺してしまったせいかもしれない。
100m程歩いたところで、突き当たりの壁がある場所に行き着いた。
きょろきょろと辺りを見渡し、適当な柱を見つけるとその後ろに身を隠す。
一瞬の躊躇い、その後に決定。
出力を40%程度に絞り込んだマイクロウェーブを壁に照射した。
空気が揺らいだ。鉄筋コンクリートが悶え苦しむように振動する。
そして熱が光に変換され、壁の表面が赤熱し、無数の皹が走るのが見えた。
急いで柱の向こうに完全に姿を隠す。
柱越しに壁が爆発する音を聞いた。
濛々たるコンクリートの粉塵が怒涛となって俺の隠れている柱にぶつかり、真っ二つに引き裂かれて両側から流れ去っていく。
ハンカチで口元を抑えながら、暴れまわる粉塵の嵐が治まるのを待った。
やがて周囲を漂う灰色の粉塵が大分その濃度を減じた頃、俺は柱の外から出て壁に空いた穴の方へ歩いていった。
そして穴から数メートルの所で足を止める。
これ以上は焼けたコンクリートの発する熱のせいでとても近づけない。
我ながら凄い破壊力だ。
コンクリートの中に埋まった鉄骨がまだ熱のせいで赤く光っている。
今はこれ以上穴に近づく事は出来ないが、近づく必要もなかった。
俺は熱を全身に浴びて、強張った筋肉を解しにかかった。
ああ、温いなぁ……。
そう言えば、水溜りに使った後、真冬の寒空の中をずっと走ってきたのだ。
これで風邪を引いてなかったら大したもんだ。
十分身体が暖まったのを感じると、今度は携帯の灯りを頼りに一歩、また一歩、自分が歩いてきた足跡を慎重に踏みながら後ろへ下がっていった。
適当な柱の近くまで下がると、今度は足の筋肉をぐっと撓め、慎重に狙いをつけて一気跳躍!
着地に失敗!
膝頭を思いっきりぶつけた!
い、痛い!!
しかし、さっき『山猫』から受けた拷問に比べれば何ほどのものでもない!
混じりに涙を浮かべながら、何とか悲鳴を堪えぬいた。
柱の角からさっきまで自分が歩いていた場所を覗く。
よしよし、確かに着地には失敗したが、罠を仕掛けるのには成功したようだ。
念のために言っておくけど、俺は別に恐怖のせいで発狂して奇行に及んでいるわけではない。
今やったのは野生動物が追跡者をまくために行うバックステップという動作だ。
この動作を利用して、俺は地下駐車場から突き当たりの壁の穴まで続く足跡を作ったのである。
この建物は地下駐車場以外にも複数の地下施設がある。
俺は他の施設と地下駐車場を隔てる壁の一枚を破壊した。
もし、入り口から地下駐車場に入り込んだものがいれば、そいつはまず突き当たりの壁の穴まで続く足跡を目にするはずだ。
普通の人間程度の知能がある奴なら、その足跡から俺が壁を破壊して隣りの部屋へ逃げたと判断して、穴に近づくだろう。
少なくとも、足跡を調べる程度の事はするはずだ。
そこを柱の影から狙い撃ちしようと言うのが、俺の狙いなのだ。
廃屋の入り口に警戒のメッセージを残しておいたので、俺を追いかけてきた『華神』がこの罠に引っ掛かる心配はない。
今宵、この時、この地下空間に入り込む者がいるとすれば、俺を追いかけてきた『山猫』しかいない……はずだ。
計画と呼ぶのもおこがましいような穴だらけの罠だが、しかし走り疲れ、心身とも傷ついた俺には今のところ、これ以上の策は思いつかない。
壁を背に腰掛け、深い、深い溜息をつく。
30分の間動きつづけた身体を止めると、途端に疲労感がずっしりと圧し掛かってきた。
合い続く緊張でずっと忘れていた腹の虫もさっきからしきり自分の存在を主張している。
疲労は何とか我慢できなくもないが、空腹は不味い。
せっかく罠を張ったのに、腹の音で居場所がばれたら泣く泣けない。
俺はポケットを探り、チョコレートのような形をした圧縮栄養剤を取り出した。
俺のような普通の人間よりもエネルギーの激しい『強化人類』にとっては手放せないほど便利なアイテムだ。
熱でふやけた栄養剤から苦労しながら、包み紙を引き剥がす。
黒いぐにゃぐにゃした塊を口の中に放り込んだ。
うん、甘い。
いつも通り、甘くて美味しいんだけど。
良く考えたら、俺は本来今ごろ『華神』と一緒に高級レストランで豪華な食事をとっているはずだったんだよな。
「君の瞳に乾杯」とか、そんな決め台詞を言いながら……。
そう思うと急に栄養剤の味が少ししょっぱく感じられた。
これが涙の味と言う奴なんだろうか、ははは……。
俺は柱の壁に身を潜めながら、じっと敵を待った。
10分が急ぎ足で通り過ぎた。
20分が少し歩調を緩めながら走り去った。
30分がゆるゆると退屈そうに通り去っていく。
不味い……。
少し腹が膨れたのと、周りの気温が低いせいで瞼がだんだん重くなってきた。
必死に抵抗するが、睡魔の猛攻の前にわが軍の防壁が次々に突破されていく。
『山猫』の奴、どこへ行ったんだ?
このままじゃ、奴がやって来ても抵抗できないかもしれない。
俺は迷った後、少しだけ自分に休憩を許す事にした。
少し、
ほんの少しだけ、
そう何度も自分に言い聞かせながら、
もはや鉛よりも重くなってしまった瞼をゆっくりと下ろし……。
ぞわぁっ!!!
背筋を奇妙な震えが駆け下りた!
眠気がどこか別の世界へ吹っ飛んだ!
音はしなかった。
匂いもしなかった。
暗い闇の中にいるから最初から何も見えなかった。
でも、確かに感じた。
言葉や五感では言い表せない何かの違和感を!
その正体を探ろうと、俺が意識を凝らそうとした瞬間、
「……よう、『切り裂き屋リッパー』!」
俺が起こると予想していた事が、全く予想していない形で実現した!!
「精が出るじゃねえか、一体誰を待っているんだぁ?」
聞き間違えようもない粗野な声
電子的な機器を介していない『山猫』の生身の声が、
―――俺の背後からはっきりと響いてきた!!!
『主人公に送る死亡フラグその4』
「……頭のいい奴だ」
byジュラシックパークの警備員マルドゥーン(帽子を使った罠で恐竜を待ち伏せしようとしたが、あっさり罠を見破られ、逆に背後に回りこまれて、そして……)