二年目の誕生日 ACT13
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
―――餓えに負けて罪に手を染めたのは、あの嵐の夜から五日後の事だった。
怪物になった私達にとって、この世は地獄だった。
変わり果てた体では、仕事を探すどころか物乞いもできない。
頼りになる大人はもう一人もいないのに、周りを取り巻く世界は敵で溢れていた。
子供だった私達は怯えた鼠のようにマンホールの中で息を潜めながら、誰かが助けに来てくれるのを待った。
でも、誰も来なかった。
おとぎ話に出て来るチャーミング王子も。
テレビに出て来るようなスーパーヒーローも。
教会で教えられた天使やマリア様も、何の救いにもならなかった。
祈りと願いに無駄な時間を費やしている間に事態はますます逼迫して行った。
私達が、身を隠していたマンホールの中には暖を取るための温水パイプがあった。
穴を開ければ錆臭い水が、飲める飲料水用のパイプもあった。
でも、食料だけはどうしようもなかった。
全身が変異した私は、不衛生な環境や餓えにも何とか耐える事はできた。
でも、皮膚以外生身の人間と変わらない妹は、見る間に体力を磨り減らしていった。
最初、あの子は私に心配をかけまいと少しも辛いような素振りを見せなかった。
だが、彼女の皮膚を見れば、私に残された最後の家族が駆け足で死に近付いているのがはっきりと分かった。
私の目の前で妹の体はまず濃い黄緑に染まり、それから黄斑病の患者のような色に変わった。
あの子の体が、鬼火みたいに闇の中で青白く燐光を放つようになった時に、私の我慢もとうとう限界に達した。
その夜、私は妹一人残してマンホールの中から這い出した。
空腹に苛まれている間、私はずっと食べ物とお金を手に入れる方法を考えていた。
そして、自分に残された選択肢がもう一つしかない事に気が付いた。
それでも長い間躊躇い続けたのは、思い付いた方法の罪深さに恐れをなしていたからだ。
しかし、間近に迫った家族の死が、私に最後の決断を下す力を与えた。
その頃、深夜の街を歩けば至るところで、道の側で震えながら立っている少年や少女達を見つける事ができた。
不況が続き、常に食料品が不足する国の中で家族を食べさせるために自分の体を切り売りするようになった子供達。
彼らの客は、独裁政権下で唯一羽振りが良くなった職業、警官や軍人であった。
だが、暴力を糧とする番犬達を相手に対等な取引が成り立つ事は稀だった。
料金を踏み倒されるのは、日常茶飯事。
運が悪ければ金を、さらに運が悪ければ命を奪われる事も珍しくなかった。
弱い事が子供達の罪であり、無力である事が悲劇の原因だった。
だが、私には彼らに無い力があった。
人の限界に縛られない筋力と骨や皮に縛られない変身能力が。
マンホールの中に閉じこもっている間、私は新しい体に備わった力を念入りに調べた。
その結果、意識を集中すれば、かなり自由に自分の姿を変えられる事がわかった。
病院から盗んだ服で身を包み、割れた窓ガラスを鏡代わりに変装を始めた。
能力で上手く動かせない部分は指で補い、まるで粘土細工のように顔の肉をこねくり回す。
真っ白な肉の塊がやっと人間の形にとり始めた時、私はとんでもない事に気づいて指を止めた。
思い出せない!
自分がどんな顔をしていたのか思い出せないっ!
その事に気付いた途端、私は死に物狂いで記憶の棚をあさった。
―――私の髪の色は?
栗色の髪をしていた。
―――私の瞳は?
冬の日差しを浴びた鋼の色。
―――では、鼻は? 口元は? 顔の輪郭は?
鼻はお母さんに似ていると言われたような記憶がある。
口元はお父さんに似ていたような気がする。
顔の輪郭は、果たしてどうだったのか……
個々のパーツは何とか思い出す事ができた。
でも、それをまとめて一つの顔にしようとすると途端に記憶は覚め掛けた夢のように思考の指をすり抜ける。
埃が浮いた窓ガラスの前で十分近く打ちひしがれた後、私は作りかけた顔をグシャグシャに揉み潰した。
どうせお母さんからもらった顔で、娼婦の真似ごとはできない。
そう自分に言い聞かせて新しい顔を一から作り直した。
凍えた星々に見守られながら、私は闇の中で蹲った。
蛇のように獲物が通り掛かるのをじっと待ち構える。
寒さで体の感覚が麻痺し始めた頃、彼はやって来た。
私の最初の獲物は背の低いずんぐりした体型の軍人だった。
彼の顔はアルコールで真っ赤に染まっていた。
手には大きなウォッカの瓶があった。
下手くそな歌を口ずさみながら、軍人はこちらへ近寄って来た。
私は意を決して立ち上がり、街灯の明かりの中に踏み込んだ。
マフラーをずらして、獲物に笑いかけた。
酔った男は、闇から現れた私を見てぎょっと目を見開いた。
しかし、相手が若い女だと分かった途端、だらしない笑顔を浮かべて近寄って来た。
獲物が釣針に食いついたのを確認すると、私は素早くマフラーで顔を隠した。
その頃、私の変身はまだ不完全だった。
明かりの下でじっくり観察されると、皮膚が異常に白い事や毛穴がない事に気付かれる恐れがあった。
私は獲物を見据えたまま、一歩後ろに下がった。
獲物は私を見つめながら、一歩足を踏み出した。
私がさらに数歩、後ろに退く。
獲物が同じ距離だけ追いかけてきた。
そうやって、私は男を建物の間にある暗がりの中に誘い込んだ。
ところが、せっかく獲物が狩り場の中に入って来たのに私は急に何をすれば良いのか分からなくなった。
私は子供を買うような男は皆、獣みたいな奴等だと思っていた。
でも、その時目の前にいたのは、何の変哲もない普通の人間だった。
黒い優しげな瞳にお父さんの面影が重なり、私はその場で凍り付いた。
混乱している僅かな間に男が一気に距離を詰めて来た。
手を伸ばして私の肩に触れた。
驚愕が衝撃となって、神経を駆け巡った。
限界に達していた集中力の線が、音を立て弾け飛んだ。
辛うじて維持していた肉の仮面が、どろりと形を失う。
私の『素顔』を見た途端、男の顔から欲情も笑みも消え去った。
私は彼の喉から悲鳴が、飛び出す前に慌てて手の平で口を塞いだ。
お返しに男は、拳で私の脇腹を何度か殴った。
痛くはなかったが、驚いた隙に足を掬われ、私達は一緒に地面に倒れ込んだ。
ウォッカの瓶が砕け散る音が聞こえ、路地裏にアルコールの匂いが充満する。
ゴミだらけの石畳の上を私達は、目茶苦茶に殴り合いながら転がり続けた。
私が馬乗りになった時に男が、腰元に手を伸ばした。
コートの裾からホルスターに納められたトカレフのグリップが見えた。
身を切るような恐怖に襲われた私は、男の頭を掴んで近くにあったコンクリートの階段の角に叩き付けた。
一回打ち付ける度に男の手足が、陸に上がった魚みたいに激しく跳ね回る。
暖かい飛沫が至る所に飛び散り、階段から流れ落ちて小さな水溜まりを作った。
やがて……男は痙攣しながら、ほとんど動かなくなった。
私は彼の頭から指を引きはがし、その側で胃液しか入っていない胃袋が空っぽになるまで吐いた。
アルコールと血と胃液の匂いが、罪悪感と一緒に私を打ちのめした。
例えようもないほど惨めな気持ちだった。
私は以前、一人の看護婦を目の前の男と同じ目に合わせた事がある。
あの時、私はあと少しで彼女に殺されるところだった。
正当防衛という名の壁が、私を罪悪感から守ってくれた。
でも、もう同じ言い訳で自分を納得させる事は出来ない。
私は紛れも無く自分の意志で人を傷つけ、或いは殺したのだ。
しかし、立ち止まる事も許されなかった。
私は妹から、安住の地を奪った。
私は妹から、お父さんとお母さんを奪った。
この上、手ぶらで帰ればあの子から命までも奪う事になるだろう。
罪を償うためには、罪を重ねるしかない。
萎えた手足に、なけなしの力を呼び起こした。
震える指で男の懐から財布を抜き取ると、私は一目散にその場から逃げ出した。
結果から言えば、最初の狩りの成果は惨憺たるものだった。
血まみれの手で触ったせいで紙幣は、全て使い物にならなくなった。
私は仕方無く残ったコインを洗って食べ物を買いに行った。
一杯の牛乳と一個の揚げパン。
私が罪を犯してまで手に入れたものの、それが全てだった。
私は意気消沈しながら、マンホールに戻った。
しかし、妹は少な過ぎる収穫にも落胆したような様子を見せなかった。
それどころか、あの子は自分が餓死しかけているというのに一つしかない揚げパンを二つにちぎって、大きな方を私に差し出した。
「私はお腹が空いていないから、お姉ちゃんがこっちを食べて−−−」
小さく、弱く、今にも途切れそうな声だった。
だが、その言葉はそれまでの人生で耳にしたどんな格言・名言よりも強く私の骨と肉に響き渡った。
その日、薄汚れた穴蔵の中で冷えた揚げパンをかじりながら、私は―――
―――この子のために悪魔になろうと誓った。
一端、頭を切り替えると気持ちはぐっと楽になった。
最初の狩りの失敗を繰り返さないために、私は一層自分の能力に磨きをかけた。
昼間にマンホールを抜け出しては道行く人間達の様子を観察した。
彼らの動作や表情、会話を頭に刻み付け、その一つ一つに隠された感情を学び取った。
間もなく私は、自分が優れた学習者である事に気が付いた。
何という皮肉な話なのだろう。
役者を夢見ていた私は、その夢から果てしなく遠ざかった後になってようやく自分に才能が有る事を知ったのだ。
私の新しい舞台は人目につかぬ夜の片隅。
たった一人の客を相手に残忍な狩人を演じて、拍手の代わりに有り金全部をいただいた。
二人目の獲物を仕留めた時は、また吐いた。
三人目を仕留めた時は、涙が止まらなかった。
でも四人目の時は少し泣いただけで、五人目と六人目の顔はもう思い出す事もできない。
犠牲者が一人増える度に、私達の生活は豊かになった。
もはや餓える必要はなく、着るものにも困る事はなくなった。
そして、最初の狩りから一週間が経った頃に、私達はマンホールからもっと住みやすい場所に住み処を移した。
その頃、私は真っ暗に染まっていた未来に、微かな光を見出すようになっていた。
このまま二人っきり、祖国を襲った嵐が通り過ぎるまで凌ぎきれるんじゃないかと思い始めていた。
しかし、私の希望はすぐに現実の壁にぶつかり、あっけなく砕け散った。
私達が隠れ家を移して三日目に、妹が熱を出して倒れたのだ。
一度明るさを取り戻したあの子の体が、また見る間に惨めな色に染まっていく。
私は必死に看護したが、すぐに自分の力だけでは、どうしようもない事はすぐにわかった。
日が沈んだ後、私はあの子の耳元にそっと囁きかけた。
「今からお医者さんのところに行くけど、診察が終わるまで普通の人の振りができる?」
妹は朦朧とした意識の中で頷き、最後の力を振り絞って体の色を固定した。
私はあの子の体を汚れた毛布で包んで持ち上げた。
そして抱き上げた瞬間、想像以上に軽くなっていた体重に戦慄した。
一度死にかけた経験から、私は大きな病院が全く信用できなくなっていた。
だから、隠れ家の近くにある小さな診療所の扉を叩いた。
柑子色の窓の光に人影が浮かび、青い瞳が覗き戸の奥から私達の様子を伺った。
「助けてくださいっ! 妹が死にそうなんです!」
口と目で哀願しながら、背中に回したナイフの柄を握り締めた。
いまさら他の診療所に行く余裕はない
もし、断られた場合は力づくで妹の治療をさせるつもりだった。
私の予想に反して、診療所の扉はあっさりと開いた。
中から出来たのは六十歳代ぐらいの白髪の老人だった。
歳を取った医師は妹の顔色を見るなり、険しい表情で私達を家の中に招き入れた。
家の中に入った途端、老医師は扉を閉め、素早く鍵をかけた。
大きな医師の背中から、小柄で品の良さそうなお婆さんが顔を出した。
お婆さんは憔悴した私達の姿を見るなり、口元を手で抑えて息を飲んだ。
「まあ、ピュートル見て! この子の顔、真っ白だわ。それにこの手足の細い事……」
「ああ、典型的な栄養失調だな。マーシャ、急いでこの子のために何か暖かいものを作っておくれ」
お婆さんはもう一度心配そうに一瞥を送った後、小型犬のようにちょこちょこと走って家の奥へ姿を消した。
老医師は厳しい表情を保ったまま、私達を彼の診察室の中に招き入れ、聴診器や体温計を使って妹の診察を始めた。
私は妹が呻き声を上げるたびに、緊張で文字通り毛が逆立ちそうになった。
もし、あの子の忍耐が限界に達したら?
老人の目の前で、あの子がカメレオンみたいに体の色を変えたら?
医師の鋭い目が何時私達の正体を見抜くのか、恐くて恐くて仕方がなかった。
でも、妹は私の想像以上に我慢強かった。
老医師は診察を終えた後、「風邪だな……」と呟いた。
私がほっと胸を撫で下ろそうとすると、「ばかもんっ!!」と叱られた。
「風邪を馬鹿にするな! 風邪は万病の元じゃぞ! 何故、こんな風になるまで病院に行かなかったっ? 本当にギリギリだったんじゃぞ! あの一日遅れたら、肺炎になって手遅れになったかもしれん!」
お爺さんの言葉が刃のように深く心に突き刺さり、私は胸を抑えてうずくまった。
後少しで家族を失うところだった恐怖と間一髪で危機を逃れた事への安堵。
何より、心から心配してもらえた喜びで、目から涙が溢れそうになった。
そこへ猛烈に食欲をそそる臭いが漂ってきた。
お婆さんが見るからに美味しそうなスープを乗せたトレイを持って診察室の中へ入ってきたのだ。
湯気の立つスープを飲ませた途端、朦朧としていた妹の目に意思の光が宿った。
「さあさあ、そこのあなたも見ていないでおあがりなさい!」
お婆さんに薦められて、私も恐る恐るスープに口につけた。
火傷するほど熱い液体を一口味わった後は、もう止まらなかった。
私達は何週間ぶりかに口にする暖かい食べ物を無我夢中でかき込んだ。
ストーブに暖められた部屋の中が、心地よくて。
私達を見守るお爺さんとお婆さんの眼差しが暖かくて。
私は、つかの間の間マンホールと廃墟の生活で培った警戒心を忘れた。
だから……
あの心地よい時間を台無しにした出来事は、全て私に責任があると言えるだろう。
あっという間スープを平らげた妹にお婆さんが嬉しそうに感想を聞いた。
あの子が満足そうな笑みを浮かべながら、『美味しかった!』と答えようとした瞬間―――
―――妹の体が明るいオレンジ色の光を放った!
さきほどまで診察室を満たしていた笑顔や笑い声が、布で拭ったように消え去った。
お婆さんの顔に広がる表情から事情を察した妹は、とっさに体の色を変えようとしたが、それは逆効果だった。
妹の体は彼女の混乱した精神をを反映して、まるで南国の虫のような斑模様に染まってしまった。
お婆さんは悲鳴を上げて退き、お爺さんは妻を庇うように彼女の前に立った。
私は妹が取り落とした皿をとっさに手で拾って、二人の方に向き直った。
「こ、恐がらないで! こ、これはその、病気……そう、病気なんです! 妹は今、体の色が変わる病気にかかっているんです! でも、安心してください! この病気は人に移らないし、貴方達に危害を加える事もありません!」
何とか言い繕おうとしながら、冷や汗で背中がぐっしょりと濡れるのを感じた。
偶然にも口にした事は全て事実だったが、その事を知らなかった私は、とっさに飛び出した言い分けの出来の悪さに眩暈を覚えた。
老夫婦は、しばらくの間息を殺しながら私達の事を見つめていた。
そして、お爺さんが大きな溜息を着いたのを切っ掛けにまた私達の方に近づいてきた。
お爺さんは、妹を抱きかかえて出て行こうとする私を制して言った。
「待ちなさい! こんな体の子を連れて、どこへ行くつもりじゃ?」
「そ、そうよ! 焦って出て行くことはないわよ。直るまでゆっくりしていったら良いわ!」
お婆さんが少しどもりながら、お爺さんの言葉に同意を示した。
てっきり追い出されるものと思っていた妹は、二人の優しい言葉にとうとう大声で泣き出した。
私は黙ってお爺さん達に頭を下げた。
水と風邪薬を飲ませた後、老夫婦は「速く休みなさい」と言って診察室から出て行った。
妹は二人が出て行った後も、興奮しながらお爺さん達の親切さや慈悲深さを何度も褒め称えた。
だが、一度手酷い裏切りで家族も、手足も、顔さえ失った私は、妹ほど楽観的にはなれなかった。
頭を下げながら、私はしっかりと見ていたのだ。
部屋を出て行く時に、二人が交わした不安そうな視線を。
あの子に触れようとして下げられたお婆さんの手を。
未だに震えの消えない彼女の指を。
妹が寝た事を確認すると、私はこっそり診察室を抜け出した。
私は既に足の裏を変化させて、猫のように音もなく廊下を歩く術を身につけていた。
二階にある老夫婦の部屋の前までたどり着くと、今度は耳を変化させて壁に押し当てる。
EX=Sensitiveのような超感覚の持ち主には遠く及ばないが、鼓膜をはじめとする耳の構造を動物のように変える事で私もかなりの聴力を発揮する事が出来た。
そして、針の先よりも鋭く尖らせた感覚で、私は壁の向こうにいる二人の会話を盗み聞いた。
お爺さん達の話し声は小さく、研ぎ澄ませた私の感覚を以ってしても四つの単語しか聞き取れなかった。
その四つの単語と言うのは「怪物」と「外国のスパイ」。
そして「軍警」と「通報」だった。
それだけで十分だった。
それ以上、聞く必要はなかった。
炎の熱さと氷のような雨で鍛えられた私は、今更この程度の裏切りで傷つきはしなかった。
傷つきはしなかったが……。
老夫婦の会話は私の心に小さな穴を開けた。
小さく、だが癒しようもないほど深く、凍えるように冷たい風の吹き出す穴を。
診察室に引き返すと、私は重ね着していた服を一枚脱いだ。
そしてお爺さんが慎重に鍵をかけていた薬箱をこじ開け、妹に処方したのと同じ薬を取り出した。
さらに物色すると、診察室の棚から数枚の紙幣が、見つかったのでそれもいただいていく事にした。
盗み出したものを服で包み、妹を清潔なシーツと毛布で包んで逃げ出そうとした。
だが、診察室を一歩外に出ようとした瞬間、私は強烈な抵抗感を感じて足を止めた。
ストーブのある家は暖かく、火で調理した食事は美味しかった。
私達の正体がわかるまで、お爺さんやお婆さんもこの上なく親切にしてくれた。
冷たい隠れ家とこの住み易い診療所を比較して、私は住処に戻る事を躊躇した。
ふいに私の中で、何かが突然頭をもたげた。
長い狩りで心の底に積み重なった濁りの中から、それは顔をもたげ、薄暗く心地よい声で私の耳元に囁きかけた。
『出て行くのが嫌なら、出て行かなければいいじゃない? 』
えっと私は戸惑った声を上げる。
このまま出て行かなかったら、通報されてしまうのに?と聞き返す。
それは低い声で笑いながら続ける。
『ほら、この家にも有ったでしょ? 地下の食料庫。肉や魚を入れてもしばらく腐らないあれ……』
『そりゃ、二人も入るには狭いかもしれないし、あの女も少し太りすぎているけどさぁ……』
『そこはねえ。ちょっと手足を切ったり削ったりすれば―――』
上手くいくよ、とそれは言う。
きっときっと上手くいくよ、と執拗に囁く。
空っぽだったはずの手が急にずっしりと重みを増した。
目をやると何時の間にか、私の指の中にはナイフが握られていた。
分厚く、頑丈そうな刃を視線でなぞる。
この刃なら年を取った人間の骨ぐらい綺麗に切り離せそうだ。
うん、そうだ。
何も出て行く必要はないのだ。
今思った事を実行に移せば、もう通報される事に怯える事はなくなる。
食べ物も、薬も、お金も家も手に入って一石五鳥。
誰かが家にやって来ても、私が二人の振りをして追い返せば―――
その時、寝ていた妹が呻き声を上げた。
急に自分が、とっぷりと濁った思考に沈んでいた事に気づいた。
なおも追いすがろうとする「それ」の囁きを振り切りながら、私は慌てて精神の泥沼から浮上した。
できない!
それだけはできない!
確かに、お爺さん達は私の心に深い傷を穿ったのかもしれない。
でも、私のお腹には、まだあの二人が飲ませてくれたスープの温もりが残っているのだ。
窓の鍵を力任せにこじ開けた。
薬の入った包みを喉に巻き付け、毛布で包んだ妹を抱き上げ、私は冷たい風の吹く街へと飛び出した。
暖かな診療所の明りから逃げるように。
その明りが、照らし出す深い深い自分の影から逃げるように。
翌朝―――。
かなり回復した妹は、目を覚ますなりきょろきょろと辺りを見渡した。
そして自分が診療所ではなく、隠れ家に戻った事を悟ると問い掛けるように私の方を見た。
私はできる限り平静を装いながら、お爺さん達に迷惑をかけないように昨夜の内にこっそりと家に戻ったのだと彼女に教えた。
妹は少し寂しそうに俯いた後、遠慮がちな声で呟いた。
「お爺ちゃん達、優しかったね。私達、またお爺ちゃん達に会えるかな?」
私は―――。
何も話す事が出来ず、ただあの子に曖昧に笑いかける事しか出来なかった。