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二年目の誕生日 ACT11

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 火傷によって途切れた私の意識を蘇らせたのは、焼け付くような凄まじい痛みだった。

 その激痛は、まるで私の家を焼いたあの炎が今も手足を炙り続けているようであった。

 

 あまりの痛さに悲鳴を上げて飛び起きようとした。

 だけど、私の喉はぜいぜいと耳障りな呼吸音しか立てられず、私の手足はぴくりとも動かなかった。

 鉛のように瞼を開けて、辺りを見渡した。

 曇りガラスのようにぼやけた視界を通して、自分が真っ白な部屋の中で横たわっている事を知った。

 

 枕元で辛うじて看護婦だと分かる人型の染みが、身をかがめて何かをしていた。

 私はできるだけ大きな声を上げて、彼女に訴えた。

 

「……た、たすけて……てとあしがいたいんです……」

 

 体中の力をふり絞ったはずなのに、その声は千歳の老婆のように掠れて酷く聞き取りずらかった。

 看護婦は私の声を聞いた途端、悲鳴を上げてのけ反った。

 ガラスでできた何かの器具が、床に落ちて壊れる音が聞こえた。

 

「嘘っ! この子、目を覚ましてる! ち、ちょっと待って。い、今、先生を呼んで来るから!」

 

 私に劣らないほど掠れた声で言い残すと彼女は、何か恐ろしいものから逃げるようにその場を立ち去った。

 私は一人、真っ白な闇と不安の中に残された。

 

 自分の身に何が起きたのか知りたくて仕方がなかった。

 そして、自分の身に何が起きたのか知るのが怖くて仕方がなかった。

 

 やがて、遠くから二人分の足音が近付いてきた。

 私を置いて行った看護婦が、太い声をした男の人と話しているのが聞こえた。

 

「トリシャ、それは気のせいだよ。あの子に投薬したモルヒネの量から考えて、こんなに早く意識を取り戻す事はありえないよ」

「でも先生、私確かにあの患者の声を聞いたんです!」

「仮に君の言うとおり、彼女が麻酔から覚めたとしても、あの火傷だ。言葉どころか声を上げる体力だってあるかどうか……」

 

 私はあらん限りの力をふり絞って「せんせ……」と医師に呼び掛けた。

 驚きに息を呑む気配がした。

 しばらくすると月みたいに丸い顔が恐る恐る私を覗き込んだ。

 

「これは驚いた……。本当に意識があるのかね?」

「せんせ……ここはどこ? わたしはどうなったの?」

「ここはアシモフ記念病院だ。君は自宅の火事で火傷を負ってここに運び込まれた。私はバルザック。君の担当医だ」

 

 火事という言葉を聞いた途端、死ぬような思いで通り抜けた火炎の回廊が脳裏に蘇る。

 微動だにしない手足が一層激しい痛みを訴えた。

 

「せんせ、たすけてください。いたいんです。てあしがやかれているみたい……おねがい、たすけて」

「それは、幻覚痛だね。欠損した器官がまだ存在しているかのように苦痛を感じるという現象なのだが……」

 

 医師がふいに言葉を切った。

 沈黙が鉛のようにのし掛かって来る。

 私は必死に今聞いた言葉を頭の外に締め出そうとした。

 だが、医師は容赦なく現実を私の脳の中にねじ込んだ。

 

「わかってもらいたいのだが、私達は全力を費やして君の治療をした。しかし、君の両手足は損傷が激しすぎて、私達は最終的な手段を取るしかなかった。つまり、その―――」

 

 肉厚な掌が、私の二の腕の上に置かれるのを感じた。

 その感触を視線で追いかけて、自分の肘の先に何があるのかを見た。

 あるいは、そこにあるはずなのに存在していない……

 


 

「―――君の手足はもうどこにもないんだよ」

 


 

 医師の言葉を境目に、私の世界は一気に現実感を失った。

 あの後何があったのか、全ては霧の中にあるようにはっきりしない。

 

 何か叫んだような記憶はある。

 泣いて、暴れて、意味のない言葉を一杯口にした記憶もある。

 だけど、一番はっきりしているのは、医師が私を押さえている間に看護婦が何か注射をしたと言う事。

 

 鋭い針の感触を腕に感じた途端、視界はまた深い闇の中に沈んで行った。

 それから、私の意識は濁流にもまれる木の葉のように、昏睡と覚醒の狭間を何度も行き来するようになった。

 

 再び目を覚ました時、私は妹がベットの側にいる事に気付いた。

 あの子の姿を見た時、安堵のあまり泣きそうになった。

 妹は顔や腕に包帯を巻いていたが、私のように欠けているところは一つもなかった。

 

 あの子はぽつりぽつりと私達の身に何が起きたのか話してくれた。

 できる限り気丈に振る舞おうとしていたけど、その我慢も家の残骸の中からお父さんとお母さんの遺体が発見されたところで限界に達した。

 

「……私達、二人っきりになっちゃったよ。どうしよう。お姉ちゃん、これからどうしよう……」

 

 堰を破ったように涙が溢れ、あの子の頬を伝わって私の包帯を濡らした。

 私は妹の頭に手を伸ばした。

 だけど、肘の途中でとぎれた腕はあの子の髪にも届かなかった。

 妹を慰めるための指すら失った事が悲しくて堪らなかった……。

 

 

 三度目か、四度目の目覚めの時に誰かが私の病室の中に入ってきた。

 その人はベットの上の私を見るなり、甲高い泣き声を上げながら逃げてしまった。

 どうしようもなく絶望的な気持ちで眠りについた―――。

 多分、五回目の覚醒の時に私が見捨てたユダヤ教徒の女の子がお見舞いに来てくれた。

 私は薬のせいで鉛のように重たくなった声帯を鞭打って彼女に謝ろうとした。

 

「ごめんね」と言いたかった。

「見捨ててごめんなさい」と伝えたかった。

 彼女は両目に涙を溜めながら、「もう気にしないで。お互い様よ」と言った。

 

 その言葉で私は前に目覚めた時、悲鳴を上げて逃げ去ったのが誰なのかわかった。

 彼女は包帯の塊になった私の頭を撫でながら、子守歌を歌ってくれた。


 

 ……あんなに仲良くしていたはずのクラスメイト達は、結局一人も見舞いに来てくれなかった。


 

 そして、六回目の覚醒。

 この時は、比較的意識がはっきりしていたから何が起きたのかよく覚えている。

 ベットの隣りで、看護婦のトリシャとバルザック医師が激しく言い合っていた。

 

「また意識を回復しただと! 信じられんっ! あの患者に投入している麻酔はほとんど致死量に達しているはずだぞ!」

「先生、お願いです! 誰か他の患者の担当に変えてください! 誰でも良いですから、もうアレの看護だけ嫌なんです!!」

「落ち着きたまえ、トリシャくん。確かにあの子は少し異常な回復力を示しているが、怖がるほどの事じゃ―――」

「……回復ですって? あれは回復なんかじゃない! 先生だって包帯を取ったアレを見たでしょ! アレは何なんですかっ! あの蛹の中に何がいるんですか!!」

 

 二人の言葉を聞きながら、私は再びまどろみの中へ落ちて行った。

 そして、あの火事以来久しぶりに夢を見た。


 夢の中で私は大きな蛹を見下ろしていた。

 堅い殻を通して、その中身を透かし見る。

 桃色の羊水の中に大きな胎児のようなものが浮かんでいた。

 さらによく見ようと覗き込んだ時、胎児が突然目を見開き―――

 

 

 七度目の覚醒は、暴力的なスピードで私の五感を襲った。

 連鎖する光と闇が視界を眩まし、巨大な獣の唸り声が聴覚を悩ませる。

 薬で麻痺しているはずの幻覚痛が、強い痒みをともなって蘇った。


 あまりにその感覚が強烈だったので、私はもう存在しないはずの手足を指先まで鮮明に知覚する事ができた。

 洪水のように押し寄せる情報に混乱した私は、とにかく目だけでも普通に見えるようになりたいと願った。


 そして、その願いは現実になった。

 

 突然、フィルターを外されたように視界がクリアーになった。

 その時、私はようやくさっきから自分を悩ませていた光が、稲妻である事、獣の唸り声のように聞こえていたのが雷声である事に気付いた。

 病室の外では嵐が荒れ狂い、雨粒が狂ったように窓ガラスを叩いていた。

 

 私の視力は、火傷を負う前より遥かに向上していた。

 微かな光だけで天井の染みから点滴の目盛りまで正確に読み取る事ができた。

 私は一時手足の痛みも忘れて、稲光を頼りに自分のいる部屋の中を観察した。

 そして、ベットの側に頭を巡らせた時に自分が一人ではない事に始めて気がついた。

 

「ドミトリー……おじさん?」

 ドミトリーは私と目が合った時、驚いたみたいに顔を強張らせた。

 それから、バツの悪そうな笑顔を浮かべながら、

 

「……驚いたな。あの医者は君が明日の朝まで目を覚ます事はないと言っていたのに」

 

 ドミトリーが、ゆっくりとこちらに近付いてきた。

 私は動かない手足で反射的に彼から遠ざかろうとした。

 何故か、急に彼が一度も見舞いに来てくれなかった事を思い出した。

 

「おや? 今までお見舞いに来なかった事を怒っているのかい? ごめんよ。あの酷い事故のせいで、僕もショックを受けていたんだ。それにやらなくちゃ行けない手続きも一杯あったからね。君のご両親のお葬式の手配をしたり、遺産の管理人になったり……あ、そうそう君の入院の手配をしたのも僕なんだよ」

 

 以前、ドミトリーが、近くに寄っただけで私の胸は興奮に高鳴った。

 だが、その時私の心臓は自分でも理由の分からない恐怖に激しく震えた。

 雷の閃きが病室を照らし出す。

 窓ガラスを流れ落ちる雨水が、ドミトリーの顔に怪物じみたマダラ模様を焼き付けた。

 

「ドミトリー、おじさん……」

 

 無意識の内に私は言った。

 そして、自分の声が予想していたよりも遥かに大きく、はっきりと響いた事に驚いた。

 一度その事に気付くと言葉は次から次へと私の口から飛び出した。

 

「おじさんはあの夜何をしていたの? 集会に呼ばれたわけでもないのに私の家の前で何をしていたの! あなたは―――私をどうする気なのっ!?」

 

 その瞬間、絶え間なく続いていた雷の光と音が同時に止んだ。

 病室は息苦しいほど重たい沈黙と闇の中に沈んだ。

 ドミトリーは、しばらくの間、闇に溶け込んだように動きを止めていた。

 

 やがて、真っ暗な空気の中で布の擦れ合う音がした。

 むき出しになった瞼に熱い息を感じて、私はドミトリーが自分を覗き込んでいる事を知った。

 彼の息は、強いウォッカの匂いがした。

 

「……全部、ミーシャが悪いんだよ。僕が最初に彼女を好きになったのに、あんな馬の骨に劣る東洋人を夫に選んだ! ぼ、僕の気持ちを知っていたはずなのに当てつけをするみたいに!!」

 

 顔をつつむ包帯越しにドミトリーの指を感じた。

 かつて、その指に撫でられただけうっとりとした事もあった。

 だがその時、私が感じていたのは背筋が泡立つほどの嫌悪感だけだった。

 

「それでも僕は彼女のために頑張ったよ。何時かミーシャが目を覚まして、あの男のところから戻ってくる日を待って、詩情なんてカケラ分からない役人ども媚びを売って、今の地位を築き上げた。それなのに君の母親と来たら、あの島国から来た猿に唆されて、お上の神経逆撫するような真似ばっかり! もし、あの夜の汚れ仕事を請け負わなければ、僕まで巻き添えになるところだったよ!」

 

 ドミトリーは突然態度を豹変させると、私の体を掴んで強く揺さぶった。

 鉤爪のように肩に食い込んだ指と押し寄せる感情のせいで涙が溢れてきた。

 今までこの男の本性を見抜けなかった自分が、情けなくて仕方がなかった。

 

「あの夜、僕はミーシャにチャンスをやった。君と妹を含めた四人でやり直そうと言った。けど、ミーシャは僕を突き飛ばして家に戻ったんだ! だから、彼女が死んだのは僕のせいじゃない! 君のその体だって……」

 

 ドミトリーはまた急に昔のように優しくなり、長く細い指先で包帯に覆われた私の胸や腕の断面を撫でた。

 私は目を瞑って、おぞましい感触に耐えた。

 

「……可哀相に。僕は君が好きだった。でも、君にはもう何もない。手も、足も、ミーシャに瓜二つだったその可愛らしい顔さえもね。だから、残念だけど僕は君の妹で我慢にする事にしたよ」

 

 その言葉で限界に達していた忍耐がついに爆発した!

 私は、彼の首筋に喰らいつくような勢いで言葉を吐きつけた。

 

「あ、あの子に何する気なの、ドミトリー!」

「やり直すのさ! 今度こそ失敗しないように、僕の手で君の妹を本物のレディーに育て上げるんだ! 僕だけを愛し、僕に愛されるのに相応しい女の子にね……ははは、そんなに睨まないでくれ。心配はいらないよ。君の世話は彼女がきちんと見てくれるから―――」

 

 ドミトリーが、頭を横の方に傾けた。

 私も釣られるように彼と同じ方向に視線を向け、そしてこの部屋にいるのが二人だけじゃない事に気が着いた。

 看護婦のトリシャは、まるで亡霊のように一言も漏らさず、壁によりかかりながら、私達の会話に耳を傾けていた。

 

 その時、私は始めてトリシャの顔をはっきりと見た。

 彼女は、やせた陰気な女性だった。

 両目が窓から漏れる稲光を反射して、不気味な輝きを放っていた。

 

「震えているね。でも、安心して良いよ。彼女はプロなんだ。もう数え切れないほど、こうやって誰かにとって、長生きして欲しくない人間の『間引き』をして来たらしいよ。痛みもなく、全部一瞬で終わるそうだ。ははは、だからそんなに怯えないで。君だって何時までもそんな体で生きていたくないだろ?」

 

 ドミトリーの言葉は、どんな刃より鋭く私の胸を抉った。

 深い痛みと共に私は、自分がまだ心のどこかでまだ彼を慕っていた事を悟った。

 そして、その想いが今完全に息絶えた事を知った。

 

「さようなら、僕の小鳥。もう君に会えないと思うと寂しいよ」

 

 額の上に最後のキスをすると、ドミトリーは呆然とベッドに横たわる私を置いて病室を出ていった。

 代りに後ろに控えていたトリシャが、ベッドの側に近寄って来た。

 彼女は私の顔を覗き込むと唇を尖らせ、小さな子供を咎めるような口調で言った。

 

「あなたには本当に手間を掛けさせられたわ、小鳥ちゃん。最初はすぐに衰弱して死ぬかと思ったのに何時まで経っても死なないし、麻酔薬を致死量以上投入して全然効かないんですもの。でも、それも今日でお終い。バルザック先生が私をあなたの担当から外してくれたおかげでほら……もうこれを注射しても誰も私を怪しまないわ」

 

 トリシャはわざとらしい笑みを浮かべながら、背後に隠して持っていた物を掲げて見せた。

 注射針の鋭い光が目を突き刺した時、私はようやく正気に返った。

 

 泣き声と叫び声を同時にあげた。

 迫り来る死から逃れようと切り株になった手足を振り回して目茶苦茶に暴れた。

 トリシャは力づくで私を押さえ付け、注射器の針を腕に突き刺した。

 

 その瞬間、幻覚痛がかつてない強さで私を襲った。

 だが、その痛みも心の中で自分に責め苛む感情には及ばなかった。

 

 ドミトリーに裏切られた事が、腹立たしかった。

 為す術もなく殺されようとしている事が、悔しかった。

 何より、私のせいで一人取り残される妹が、不憫で仕方がなかった。

 

 血を吐くような想いで願った。

 腕が欲しいっ、と。

 私の上にのし掛かる女を跳ね飛ばし、ドミトリーに報いを与え、妹を取り戻すための腕が欲しいと。


 

 ―――その願いが叶った。 

 


 トリシャの手の中で突然、注射器が破裂した。

 破片で手に傷を負った女が、甲高い悲鳴を上げる。

 続いて、包帯と角質化した皮膚の弾け飛ぶ音がわたしの首から胸にかけて立て続けに響いた。

 

 羊水に似た赤い液体が、洪水のように溢れ出し、ベッドの端から零れ落ちていく。

 桃色の肉の塊が二本、包帯と皮膚の裂け目を押し開けて現れ、幻覚痛に――――いや、私が始めて造った『外装』にぴったりと重なった。 

 

 

 私の最初の誕生は祝福と笑い声によって迎えられた。

 

 私の二度目の誕生は……

 

 

 ―――雷声と悲鳴によって迎えられた!!

 

 

 生まれ変わった二本の腕を握り締め、全身から血と同じ匂いのする液体を滴らせながら、私は嗚咽とも雄叫びともつかぬ声を天井に向かって解き放った。

 そして、叫ぶのをやめた時、部屋の中でもう一人、叫び声をあげ続けている人物の事を思い出した。

 トリシャは私の視線に気づくと、口から悲鳴の尾を引きながら、出口に向かって走った。

 

 こいつを逃がしてはいけない!

 本能的にその事を察した私は、トリシャ目掛けて腕を伸ばした。

 人差し指一つ分の差で逃がすかと思った時、私の腕が一気に何センチも伸びてトリシャの頭を捕まえた。

 

 まるで泣き叫ぶ赤ん坊のようにたやすく女を引き寄せ、その頭をベッドの足にたたきつけた。

 くぐもった悲鳴が上がり、生暖かい血飛沫が私の顔に飛び散る。

 一発また一発、頭蓋骨を鉄の棒に打ち付けるごとにサディスティックな快感が脳天まで突き抜けた。

 

 トリシャが叫ぶのをやめると、私は彼女の体を放り出した。

 床に転がり落ち、両手で這いながら、ドミトリーの後を追った。

 だけど、腕だけじゃやっぱり遅い、遅すぎる!

 これじゃ、何時あの男に追いつけるか分かったものじゃない。

 だから、足がほしいと思った。

 

 

 ―――その願いも叶えられた。 

 

 

 下半身にまとわりついていた包帯が弾け飛ぶのを感じた。

 新しい肉の塊が足の辺りにあった幻覚痛と重なり、私は何週間ぶりに床を踏みしめる感覚を味わった。

 だが、走り出そうとした瞬間、私は派手に転倒して顔をぶつけた。

 

 大して痛くなかったが、激しい苛立ちと怒りを感じながら背後を振り返った。

 私が転んだ理由が分かった。

 生えたばかりの私の足は、片方は指が七本もあり、もう片方は指が全くなくてまるで一本の棒のようだった。

 一番致命的だったのは両足の長さがそろっていなかった事だ。

 これじゃ、まっすぐ走れるわけがない。

 

 しかし、私は諦めずにまた走ろうとした。

 予想したとおりに転んだ。

 挫けずに同じように走り出した。

 また、転んだ。

 また、走り出した。

 

 こうして走る事と転ぶ事を繰り返しながら、私は病室からで脱出した。

 そして、次第に転んでいる時間よりも、走っている時間が長くなり始めた。

 まだまだスピードの上で満足できない私は、野生の獣のように四足で走った。

 

 頭に浮かぶイメージは口から怒りと牙を覗かせながら、獲物を追う猟犬。

 同じイメージを繰り返すうちに、私の体が少しずつ変わり始めた。

 手は伸びに伸びて犬の前足のように、足は巨大化して犬の後足になった。

 

 目の前に頭蓋骨ごと前へ突き出していく鼻が見えた。

 口の中を撫で回した時に鋭く尖りつつある歯を感じた。

 熱く、白い吐息を牙の間から吹き出す。

 私の体は、沸騰する水面のように変化し続けた。

 

 病室の扉を蝶番ごと吹き飛ばして、外に飛び出した。

 嵐の光で白黒映画のような色彩に染まった廊下を四足獣の速さで駆け抜けた。

 

 ドミトリーを探した。

 ドミトリーを見つけた。

 あの男は廊下の途中で足を止め、誰と話をしていた。

 その背中に向けて吠える。

 

「どおぉミィイイとおおりいいぃぃぃ―――!!」

 

 何十人もの人間が同時に叫んだようなその声は、音速で夜の大気を走り、ドミトリーの視線を私に引きつけた。

 驚きと怯えに歪んだその顔に飛び掛かろうとした瞬間―――私の体はその場で急に動きを止めた。

 

 ドミトリーの背後で妹が大きく目を見開きながら立ち尽くしていた。

 時まで凍り付いたような一瞬。

 その一瞬が通り過ぎた後。私が聞いた事もないような悲鳴が、あの子の口から飛び出した。

 そして、変化が始まった。

 

 私と同じように妹も変異期を乗り切っていたのだ。

 飛びっきりの恐怖を表す極色彩の模様が一気に彼女の全身を包み込んだ。

 鼓膜を通して悲鳴が、角膜を通して色が私の脳に染み込んだ。

 

 沸騰していた怒りは氷水を浴びせられたみたいにあっという間に熱を失った。

 自分の体を顧みる冷静さを取り戻した私は、やっと気がついた。

 

 人間と獣を無秩序にこねり合わせような自分の姿に。

 ホラー映画の怪物など足下にも及ばないその醜さに。

 

 急に言い様のない恐怖と羞恥、そして嫌悪感に襲われた。

 私は体を縮めながら、廊下の影に逃げ込んだ。

 自分の体を腕で覆い隠しながら、啜り泣いた。

 

 そんな私の様子を見ている内に妹が叫ぶ事を止めた。

 暖かな色が波紋のように彼女の皮膚の上に広がって行く。

 妹は慎重な足取りで私が身を隠れている影の側まで来ると、

 

「その声、ひょっとして……お姉ちゃんなの?」

 

 私がその時、感じた感動はとても言葉では言い表せない。

 もう以前の皮膚一枚すら残っていないこの姿を妹は一目で見分けたのだ。

 

「分かるの? わたしが誰だかわかるの?」

「うん、当たり前でしょ。だって私達、家族じゃない」

 

 小さな手が私の前に差し出された。

 妹の皮膚はさらに暖かな色彩を増やし、ついにサンライトイエローに、夏の太陽の下で咲く向日葵と同じ色になった。

 その色を見た瞬間、私は自分が嵐の夜の中にいることを忘れた。

 子供の頃、家族皆でピクニックに出かけた思い出が怒涛のように胸の奥から溢れ出した。

 楽しかった事、嬉しかった記憶が次々に蘇った。

 

 記憶が、走馬灯のように瞼の裏を駆け抜ける。

 私の体は無意識の内に、また変化を始めていた。

 長く伸びた手足は縮んで普通の長さに戻り、尖った牙や犬のような顎が魔法のように消える。

 肩をくすぐるような感触を感じたので触ってみると、それは頭皮が変化してできた髪の毛だった。

 

 時を撒き戻すように私の体は半人半獣の怪物から人間の姿へと戻り始めた。

 だが、その変化が全て終る前に―――

 

「くたばれ、化け物!!」

 

 耳を劈くような方向が死角から私の耳に飛び込んだ。

 振り返ると、ドミトリーが悪鬼のような形相で廊下に置かれた消火器を私に叩きつけようとしていた。

 

 短い悲鳴をあげて、目を瞑りながら頭をかばった。

 だが、覚悟していたような痛みや衝撃は襲ってこなかった。

 代りに小学生ぐらいの子供に軽く殴られたような感触が手のひらに伝わった。

 

 薄目を開けると驚きに顔を白黒させているドミトリーが見えた。

 私の新しい腕は、自分よりは二回りは大きい男の一撃を軽々と受け止めていたのだ!

 

 力で優位に立ったおかげか、正気に返ったのは私の方が先だった。

 消火器を放り出して逃げようとするドミトリーの腕を捕まえた。

 軽く力を込めただけで、彼の骨が私の手の中で軋むのが感じられた。

 

 さらにじんわりと握力を増すとドミトリーは女みたいに甲高い声で悲鳴をあげた。

 ハンサムな顔が、涙と鼻水で台無しになっていた。

 

 かつて、彼の顔を見上げる度に強い憧憬を感じていた頃もあった。

 だが、その時ドミトリーの顔を見下ろす私の胸には焼け付くような怒りしかなかった。

 

「助けてくれ! 頼む、助けてくれ!」

 

 赤子のような泣き声を上げながら、ドミトリーは私に慈悲を乞うた。

 私は黙って腕を掲げ、そして願った。

 

 強く―――

 大きく―――

 また強く―――

 

 一回願うごとに筋肉と皮膚が張り詰め、肩に感じる重さが増していった。

 ドミトリーは倍以上の大きさに膨れ上がった私の腕を見て、今にも気絶しそうな有様だった。

 

「僕の小鳥よ……」と彼は私を呼ぶ。

 砂糖菓子より甘ったるい言葉を幾つも並べて、私を宥めようとした。

 私は、

 

「さようなら、ドミトリー。もう貴方に会えなくなるけど、多分寂しいとは思わないよ」

 

 短い言葉と拳の一撃で彼の言葉に応えた……。

 

 残念ながら当時の私にはまだ一撃で人を殺すほどの力は無かった。

 また、目撃者を出す危険を冒してまで念入りに止めを刺す心の余裕もなかった。

 

 ドミトリーの顔をその曲がった性根に相応しいように整形してやった後、私は妹を連れて病院を飛び出した。

 その時の私達には、まだ自分の身に何が起こったのか、全く分かっていなかった。

 でも、これから何が起こるのか予測する事は決して難しくなかった。

 

 狭く息苦しい祖国の中に、もはや怪物となった私達の居場所などなかった。

 その後、向き合う事になる現実を象徴するかのように、冷たく厳しい雨が私達を出迎えた。

 

 

 *  *  *

 

 

 病院から脱出するまでの経緯を語り終える後、重苦しい静寂が部屋の中を支配した。

 私は顎が胸にぶつかるほど深く俯いたまま押し黙った。

 イワンさんも話の先を促そうとはしなかった。

 

 老人はソファーに腰を下ろしながら、私と同じように床の絨毯を見つめていた。

 部屋の光と影がイワンさんの顔に降り積もった年月を強調する。

 深く瞼を下ろした彼の顔は、年齢通りの普通の老人に見えた。

 

 でも、正直な話、私にはイワンさんの沈黙が有難かった。

 何十分も話し続けた舌と口はまるで鉛のように重たい。

 しかし、私が沈黙したのは肩にのしかかる疲労のせいばかりではなかった。

 

 今までの話では、私と妹はまだ犠牲者に過ぎなかった。

 だが、病院から飛び出した後、私達を囲む環境はがらりと変化した。

 もう親の庇護を受ける事ができなくなった私は、否応なく加害者の側に回らざる終えなかった。

 これから話すのは口にすることはおろか、思い出すことすら躊躇う思い出の数々。

 私の記憶を真っ赤に染め上げる、数え切れない程の血と罪の物語なのだ。

 

 窒息寸前まで胸の中に息を蓄えて一気に吐き出す。

 すると、二酸化炭素と一緒に心臓を苦しめる痛みも少しだけ体の外に出て行ったような気がした。

 ようやく私が話を続ける決心をした時、

 

「『極光(オーロラ)』、たいへんだよ!!」

 

 妹の『(レインボー)』がノックもせずに部屋の中に飛び込んできた。

 何故か、と聞き返したりしなかった。

 答えは、全てあの子の体の上に描かれていたからだ。

 

 今、『(レインボー)』の体を染めるのは、恐怖の黄色と死の脅威を意味する青黒い色。

 その中に浮かぶ五つの赤い攻撃色の斑点とそれを取り囲むどす黒い棘の模様。

 これは……

 

「……囲まれたのか! 敵の数は五人、全員武器を持っているんだね!」

「うん……ううん、違う!」

 

 妹はこくこく頷いた後、慌てて首を横に振った。

 

「五人というのは、私が見た人の数。全員、正面口からお屋敷の中に入り込もうとしてた。どうしょう、『極光(オーロラ)』! ガードマンさん達は全員倒されたみたいだし、『華神(フローラ)』達と連絡が取れないの!」

 

 ソファーから跳ねるように立ち上がって、部屋に備え付けられた有線電話の方に視線を向けた。

 すると、すでに先回りしていたイワンさんが首を振って受話器を下ろした。

 

「やられた。手際のいい敵だ。この分では、外のSPに取りこぼしがある事を期待するのは、時間の無駄のようだな」

「くっ……なんてことっ!!」

 

 部屋の風景がぐらぁっと斜めに傾いたような気がした。

『どうして』と『何故』が、疑問符と一緒に頭の中を乱れ飛ぶ。


 どうして、考える限り最悪のタイミングでこの屋敷が襲撃を受けるのか?

 何故、万全を誇っていたはずのセキュリティがまるで役に立たなかったのか?

 そもそも、『(レインボー)』の言った襲撃者っていったい何者なのさっ!?

 

 ひとつだけ間違いないのは、この敵のターゲットがイワンさんだと言う事だ。

 だが、それを言うのなら鳴り物入りで登場した『百目(アルゴス)』は?

 あの山ほど仕掛けられた爆弾はいったい何だったのか?

 

「あっ……」

 

 突然、稲光のような閃きが私の頭脳を貫いた。

 脳の中に無造作にばら撒かれていた事象をつなげ、事実と言う名の模様を浮かびあがらせる。

 

百目(アルゴス)』と呼ばれる伝説の傭兵。

『不死身』の二つ名の意味。

 あまりに多い特技の数と異常に高いミッション達成率の秘密。

 そして、あの不可解な無数の爆弾、『華神(フローラ)』による早すぎる発見。

 

 ああ、全てはつながっていたのだ。

 証拠は全て、私達の周りにあったのだ。

 それなのに、私達は事態がこれほど悪化するまで何も気づかなかったのだ!

 

「何が分かったのかね、『極光(オーロラ)』くん?」

「はい、イワンさん……」

 

 顔をしかめながら、苦りきった言葉を吐き出す。

 

「貴方を、そして今私達の命を狙っているのは一人の暗殺者じゃありません。『百目(アルゴス)』と言う名の超人を含む傭兵団なんです!!」

 


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