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二年目の誕生日 ACT9

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 

 

 ―――私の最初の誕生は祝福と笑い声によって迎えられた。

 

 

 今から18年前、東欧の小国、ドラーシャで私はこの世に生を受けた。

 父親は日本人の作曲家、狭間京一。

 母親のドラーシャの歌い手、ミーシャ。

 国も人種も違う二人の出会いにはちょっとユニークなエピソードがあって、お父さんは良くお母さんが恥ずかしがるのもかまわずにその時の話を私達に聞かせてくれた。

 

 お父さんとお母さんが、初めて顔を合わせたのは私が生まれる二年前の事。

 その頃、高校を卒業したばかりのお母さんは、大学に入りたいと思っていた。

 私のお婆ちゃんとお爺ちゃんは、娘に対して溢れるばかりの愛情を持っていたが、彼女を大学に行かせるほどのお金は持っていなかった。

 そこで、お母さんは自分で学費を稼ぐ事にした。

 

 独り立ちして働こうとする彼女の前には、三つの問題が立ちふさがっていた。

 一つは女である事。

 一つは年が若すぎた事。

 最後の一つはお母さんが、身体障害者だった事だ。

 子供の頃、肩に負った傷のせいでお母さんは、右手の握力がほとんど無くなってしまった。

 でも、彼女は持って生まれた才能で、三つの問題をやすやすと飛び越えてしまった。

 

 神様は、右手の握力を取り上げる代わりにお母さんに素晴らしい歌声をお与えになった。

 高い声も低い声も自由に歌いこなし、始めて聞いた歌声を完璧に真似する事も自由自在。

 最初、お母さんは酒場のウェイトレスをしながらチップを貰って客に歌を聞かせていた。

 しかし、その才能はすぐにオーナーの目に止まり、彼女はステージの上で歌うようになった。

 

 お母さんは、酒場でたくさんのお金を稼いだけど、間もなく興行主と喧嘩をして仕事を辞めてしまった。

 何があったのか詳しく聞かされた事はないが、私は興行主が母にいかがわしい事をしようとしたんじゃないかと疑っている。

 

 酒場を出たお母さんは、別の職場を探した。

 だけど、意地悪な興行主は、悪い噂を流して彼女が他の酒場や劇場で歌えないようにしてしまった。

 仕方なくお母さんは、路上で伴奏もなく歌うしかなかった。

 収入は大幅に減り、大学どころか日々の生活さえも危うくなり始めた。

 

 そこへ通りかかったのが、モスクワ音楽院に入学する途中にドラーシャに立ち寄った日本人の若者。

 つまり、私のお父さんになる人だった。

 お父さんは街角でお母さんの歌声を聞くと、いきなりバイオリンを取り出し、彼女の歌に合わせて伴奏を始めた!

 

 始めて会った女の子の伴奏を始めちゃうお父さんもお父さんだけど、私のお母さんも只者じゃなかった。

 彼女はいきなり始まった音楽に少し戸惑わず、むしろ伴奏に挑むように淀みなく歌いつづけたのだ!

 お母さんは立て続けにオペラからロシアの民謡まで六つの曲を歌った。

 お父さんはその全ての歌に完璧な伴奏を演じて見せた。

 

 歌声と演奏はドラーシャの首都、ペルーンの街角に響き渡り、気がつけば二人の周りには山のような聴衆が集まっていた。

 七つ目の歌にお母さんはその場で作ったオリジナルの歌を歌った。

 お父さんは、始めて聞くその歌に対して即興の演奏で応えて見せた。

 

 そして、最後の音色の余韻が空気に消えるのを待たずに、お父さんはお母さんにプロポーズし、彼女は躊躇わずにそのプロポーズを受けた。

 二人は何百人と言う人々に見守られながら、初めての口付けをした。

 

 ちなみにこのお話には婚約をした後で、お母さんが始めてお父さんが日本人だった事、彼が片言のロシア語しか話せない事に気付いたというオチまでついている。

 もちろん、そんな些細な事は、若い二人にとって何の障害にもならなかった。

 二人は演奏を終えた後、すぐにお母さんの家に帰って、両親に結婚を報告した。

 その時、お婆ちゃんは作りかけていた編物を膝の上に落とし、お爺ちゃんは驚いて「結婚相手を見つけたって……そりゃ隣の猫の話じゃないよな?」と言ったらしい。

 

 さて、婚約して間もなく、妻となる女性の夢と現実を知ったお父さんは自分がモスクワ音楽院に入るための学費をあっさりと彼女に渡した。

 彼が国際電話で、雷よりも早く結婚した事や学費を全額妻につぎ込んだ事などを報告すると、父方の祖父母は即座にお父さんを勘当した。

 どうも私のお父さんは日本にいた頃から、放蕩息子として名を馳せていたらしく、その時の報告で祖父母の我慢がついに限界に達したようだった。

 

 その話を聞いた時、私は一度も会ったことも無い祖父母にちょっと同情した。

 私のお父さんは、本当にお金に無頓着な人だった。

 もし、ドラーシャでお母さんに拾ってもらわなければこの人、ロシアに着く前にどこかでのたれ死んでいたんじゃないの?

 と思うほどいい加減で無防備な人だった。

 

 

 でも、私はそんなお父さんが大好きだった……。

 

 

 両親に会えなくて寂しくないのと私が聞くと、お父さんは肩をすくめて答えた。

 

「家のうるさい親と引き換えに君のお母さんと結婚できたと考えれば安いもんさ! お金また稼げばいいし、親父やお袋ともまた仲直りできる。でも、ミーシャの才能を何年も路上で無駄使いするなんて僕には耐えられないね!」

 

 そんなわけで……。

 お母さんは夫の援助を受けてドラーシャの音楽院に入り、その二年後に私が生まれた。

 さらに四年の時間が経ち、お母さんが音楽院を卒業してプロの歌手として順調に成功の階段を上がっていた頃、ずっと彼女を愛していた両親がなくなった。

 しかし、悲しみに沈む家族のもとに間もなく嬉しい知らせが届いた。

 私の小さな妹が我が家へやってきたのだ!

 

 始めて妹にあった時の事を、私は生涯忘れないだろう。

 壁の黄ばんだ産婦人科の病室で、私は始めてあの子に出会った。

 お母さんはあの子の手を触ってみてと言ったけど、私は恐くて代わりにあの子の小さな足を握った。

 

 ピンク色の皮膚に触れた途端、柔らかな体温が伝わってきた。

 手の中で小さな指が動くのを感じた時、電気のようなショックが身体を走った。

 その瞬間、産着に包まれた小さくて不細工な赤いお化けが、私の可愛い妹になったのだ。

 ショックでまだ呆然としている私の耳にお父さんが囁いた。

 

「これから、お前がこの子を守っていくんだよ」

 

 その言葉は今日に至るまでどんな本能よりも強く私を縛りつづけている……。

 

 こうして私の家族は貧しいながらも、幸せな毎日を送っていた。

 だけど、私達の国は決して幸福な状況にあるとは言えなかった。

 

 私の国、ドラーシャは東京都と同じぐらいの国土と東京都の十分の一以下の人口を持つ小さな国だった。

 祖国の人達は、よく『ドラーシャの自慢は歌と美人と石炭』と言っていたが、これは要するに他に自慢できるようなものが何も無かったと言う意味だ。

 

 荒地はたくさんあるけど、国土の大半は山地で農業には適さず。

 地下資源は唸るほどあるが、技術が貧弱なため自分で掘り起こす事ができない。

 第一次世界大戦が始まるまで、ドラーシャの歴史は隣国との侵略と略奪の歴史だった。

 そして、第一次世界大戦が終った後に、あっさりとソビエト連邦に吸収されてしまった。

 

 私が生まれた年。

 一九九〇年代にソビエト連邦が崩壊し、ドラーシャは民主国家として独立した。

 国民は自分達もアメリカみたいな豊かな生活ができると思った浮かれ騒いだ。

 

 ハレルヤ、神の祝福あれ!

 冷蔵庫やテレビが、我が家にもやってくるぞ!!

 けれど、現実はそうは上手くいかなかった……。

 

 七十年に渡る社会主義政権で、ドラーシャの経済は滅茶苦茶になっていた。

 ガラパゴス諸島の珍獣達のように外の世界と隔離されていた国民は、市場経済に対して完璧に免疫を失った。

 

 経済が自由されると同時に私達の国に群がる外資企業と言う名の猛獣達。

 無知な人々から、貴重な地下資源や土地を驚くほどの安値で買い叩いた。

 膨らんだ希望は僅か数年で安物の風船のように萎み、ドラーシャの国民はまたあっという間に搾取される側に回った。

 

 それでも、私達の国の政治家達は、よく頑張っていたと思う。

 二千年代になる頃には右を向いても、左を向いても、貧乏人しかいなかった国内にも少しずつ富裕層が生まれ始めた。

 しかし、生活は確実に良くなっているにもかかわらず、国民の政府に対する不満は募る一方だった。

 

 不満の原因は増え始めた富裕層の人々にあった。

 開発経済の恩恵に浴する事ができなかった人々。

 国民の九割以上を占める貧困層は、急に豊かになった隣人を激しく敵視した。

 彼ら毎日、神様へのお祈りのように呟く。

 

 何故、私達の生活は楽にならないのですか?

 何故、あの人達はあんなに裕福な生活をしているのですか?

 昔は、皆同じように貧しかったのに……。

 ああ、憎い。憎い。羨ましい。

 あの人達と同じように美味しいものが食べたい、綺麗な服が着たい、お金持ちになりたい。

 それが叶わないのなら、

 

 せめて、あいつらを同じように貧乏にしてください!!

 

 恨みにつらみ、憎しみと妬み。

 傷つけられた誇りは化膿して、ドクドクとどす黒い感情の膿を流す。

 そんな民衆の秘められた本音を悪食な蛆のように、食らって一匹の怪物が生まれた。

 怪物の名はコンスタンティン・アンドロポフ。

 

 アンドロポフが政界の階段を駆け上がるに従って、私の回りにも変化が現れ始めた。

 それは、まるで斜面を転がり落ちる雪玉のように些細な兆しから始まり、やがて国をも揺るがす大きな変革へと膨れ上がった。

 

 まずアンドロポフは言った。

 外国の娯楽番組は、国民を堕落させる元凶だと。

 するとテレビから私が好きだったアニメやドラマが幾つか消えた。

 

 また、アンドロポフは言った。

 若者は、規律と愛国心を持って生きなければいけないと。

 するとクラスの男の子達は、ネオナチみたいに頭を剃りあげ、体に国旗やアンドロポフを称賛する刺青を入れるようになった。

 

 さらにアンドロポフは言った。

 少女は国を愛するように愛国者達を愛するべきだと。

 するとクラスの女の子達が、スキンヘッドの男の子達を囃し立てるようになり、アンドロポフを支持する人間がさらに増えていった。

 

 人々は、預言者の声に耳を傾ける信徒のようにアンドロポフの言葉に従った。

 あの男の語る麻薬のように美しい未来像に、自分を重ねて陶然と酔い痴れた。

 新聞やラジオも、アンドロポフが孤児院や協会に施しをしたと言うニュースを繰り返し報道した。

 不思議な事に小学校も卒業していないが元鉱山労働者が、どうやってそんなに多くの財産を稼いだのか疑問に思う者は誰もいなかった。

 

 でも、その時までアンドロポフを心底指示している人間は国民の半分程度だった。

 スターリンを経験したドラーシャの老人達は、やすやすと狂人の甘言に耳を貸したりはしなかった。

 だが、間もなくそんな彼らの意見をも一変させるような劇的な事件が起きた。

 

 二〇〇二年の春、元軍人のテロリスト達が議会に押し入り、当時の大統領を始めとする政府の要人をほぼ全員殺害。

 後に『鮮血の聖木曜日』と呼ばれる事になる事件を納めたのが、『運良く』難を逃れたアンドロポフと彼を慕う陸軍の一派だった。

『鮮血の聖木曜日』でアンドロポフは一挙に人民の支持を集め、臨時選挙で圧倒的な票を得て新しい大統領に選ばれた。

 

 アンドロポフが大統領になった日、私達はお父さんが修理した中古の白黒テレビであの男の当選を祝うパレードを見た。

 テレビに映る人々は皆、嬉しそうな顔で喝采を叫んでいたのに私の両親だけは何故か暗い顔をしていた。

 私は何故、二人が悲しそうな顔をしているのか聞いた。

 お父さんは膝の上に乗せた妹の小さな身体を抱き寄せながら言った。

 

「多分、これから酷い事が起きるからだよ。とても酷い事がね……」

 

 その時、私と妹はまだお父さんの言った言葉の意味がわからなかった。

 ドラーシャに住む多くの人達も分かっていなかった。

 でも、間もなく私達はお父さんが正しかった事を知った。

 

 二〇〇四年、僅か二年程度でアンドロポフ政権は馬脚を現した。

 二年の間に、政府は数多くの政策を打ち出した。

 名前ばかり勇ましくて、中身は空っぽな張りぼてみたいな政策を。

 当然、そんなもので国は豊かになるはずもなく、逆にアンドロポフが自分と側近に権力を集中させたせいで汚職や賄賂がかつてない程流行する始末。

 

 最初の熱狂は冷め遣り、人々はゆっくりと現実に気づき始めた。

 アンドロポフが大いに民衆の支持を集めたのは、彼らの心を上手く代弁して政府を非難したからだ。

 彼の人気やカリスマは結局のところ、人民の不満やルサンチマンで外面を膨らませただけの泡に過ぎなかった。

 

 泡は大きく膨らめば膨らんだだけ、激しく弾けるもの。

 アンドロポフは、もし権力を失えば風船の中に詰め込んだ呪いや災いが自分に跳ね返ってくる事に気がついた。

 しかし、国内にはすでにスケープゴートに仕立て上げられるような対称は、あまり残っていなかった。

 だから、あの男は非難の非難の矛先を海外に向けた。

 

 テレビで、ラジオで、新聞の一面でアンドロポフは日焼けした顔を真赤にして叫んだ!

 我が祖国が未だに経済的に立ち遅れているのは、米英帝国主義の妨害のせいだ!

 この国の中に、敵の放ったスパイどもがいたるところに隠れている!

 だが、国民の諸君は、決して彼らの妨害に負けてはならない!

 

 手に入れた権力を手放すまいと、アンドロポフはさらに無意味な政策を作り、軍の力を背景に強引に議会で押し通した。

 その様子はまるで、溺れている男が一本の藁に縋りつくようであった。

 

 アンドロポフは、娯楽を統制した。

 国民に海外の放送とインターネットを使う事を禁止した。

 

 アンドロポフは、国境に壁を作り、入出国を激しく制限した。

 外国の記者は、ドラーシャの中に入る事はできなくなり、国の中にいる民衆は外の世界の出来事を知る術を失った。

 

 その苦労の末に得られた成果は、国外の厳しい非難と国内の強い不満。

 もはや、独裁政権は、泥の船も同然だった。

 激しく櫂を漕げば漕ぐほどに船は崩壊し、沈没していく。

 そして、独裁者の焦りと狂気が頂点に達したその時――――

 

 ―――まさに、最悪のタイミングでEX=Geneの発症がはじまった。

 

 EX=Geneに関わる最初の事件は首都ペルーンの郊外で起きた。

 一人息子が病気でずっと家に篭っていたヤザロフ家で突然、凄まじい悲鳴が沸きあがった。

 続いて漆喰の壁が破り、木の柱をへし折りながら、何かが家から飛び出した。

 

 勇気を振り絞って、恐る恐る家の中を覗きこんだ隣人達が発見したのは……。

 滅茶苦茶に破壊された家具。

 至るところに飛び散った血痕。

 巨大な獣に食い荒らされたようなヤザロフ夫妻の亡骸。

 そして、床一面に広がる謎の粘液だった。

 粘液は壁に開いた穴を通って家の外まで続き、こじ開けられたマンホールの前で途切れていた。

 

 ニュースに国中に伝わり、人々の背筋を凍らせた。

 アンドロポフはすかさず、ヤザロフ家を襲った凄惨な事件が米英の生物兵器の仕業であると発表した。

『帝国主義国家は狂った猛獣を我が国に放ち、善良な国民を実験台にすると同時に我が国の発展を妨げようとしている!』

 国民の前であの男は狂った犬のように吠え立てた。

 

 ドラーシャに残っていた数少ない良識派は、この演説を聞いて胸を撫で下ろした。

 これでようやく民衆も目を覚ますだろう。

 アンドロポフが、狂っている事はもはや誰の目にも明らかであった。

 あの男のバカげた権勢は、風前の灯だと思われた。

 だが、奇妙な事件はヤザロフ家を襲った悲劇だけでは終わらなかった。

 間もなく、首都を中心に至るところで怪物染みた影や不可思議な出来事が起こり始めた。

 

 ある村では若い未亡人が、二階の窓から家の中を覗く奇怪な男に気付いた。

 行方不明になった夫にどこか似ていたと言うその怪人は、彼女に見つかると十個以上関節のある手足を動かしてあっという間に姿を消した。

 

 ペルーンのハバリア通りでは、凄まじい雄叫びと共に建物が急に崩れ去った。

 六階建てのビルは新築だったにも関わらず、基礎の部分がまるで何百人もの屈強な男達がハンマーで念入りに叩いたみたいに粉々になっていた。

 この時、数え切れないほどの人々がすすり泣く声と一緒に巨大な何かがよろめきながら、粉塵の中から立ち去るのを目撃した。

 

 真っ青に晴れ渡った空に幾つもの雷の束が、踊った事もあった。

 その時、近くを通りかかった郵便配達員は雨合羽を着た三人の子供達が足早にその場を立ち去るのを見た。

 風で雨合羽の裾が舞い上がり、郵便配達員は子供の一人の背中に妖精のような羽が生えているのを目にした。

 

 もし、自分達を襲った怪現象がドラーシャだけの出来事じゃないと知る事ができれば、国民の気持ちはもっと楽になったかもしれない。

 でも、外の世界から隔てられ、人々の恐怖は閉じた国土の中でじっくりと熟成された。

 そして、強い酒のような恐怖と怒りで民衆を酔わせて、理性を奪い去る事こそアンドロポフの得意技だった。

 

 時々、一人になると私は、祖国で目にした人々の顔を思い出す事がある。

 彼らは決して狂ってはいなかったし、愚かでもなかった。

 彼らの多くは良き夫であり、良き父であり、または良き妻であり、良き子であった。

 

 ただ彼らは皆、自分が神様に愛されていないとは考えたくなかった。

 自分が不幸せで満たされないのは、悪魔が意地悪しているせいだと思いたかった。

 そして、運の悪い事に私達の国には、悪魔にとても良く似た人達がいた。

 偽者の怪物の影に怯えた人々は、本物の悪魔に自分達の上にぶら下ったギロチンの紐を渡してしまった。

 

 二〇〇五年の二月に、アンドロポフはドラーシャの永世大統領に選ばれた。

 一か月後に軍警に礼状なしの家宅捜索権、尋問権、逮捕権が与えられた。

 そして、全ての悲劇のお膳立てが整った―――。

 

 権力を磐石のものにした後、アンドロポフは最初にした事。

 それは国民の恐怖を取り去る事ではなく、さらに煽り立てる事だった。

 恐怖こそあの男の力の源、アンドロポフがそれを手放すわけもなかった。

 

 夜間の外出禁止令、食糧の配給制、無許可の住居移転の禁止等々……。

 規制の数々で、国民の生活は今までと比べ物にならないほど不自由になった。

 人々は不満や怒りの矛先を元凶である政府や独裁者ではなく、国内に残ったマイノリティ達に向けた。

 

 ユダヤ教徒やアジア出身の人々。

 ジプシーと呼ばれたロマの人達。

 そして、かたくなに自分らの信仰を守り続けたムスリム。

 少数派の国民に対する攻撃は、国の至る所で半ば公然と行われた。

 犠牲された人々は、保護を求めたが、政府は彼らの訴えを黙殺した。

 

 迫害と差別の波はやがて、私の周囲にも押し寄せてきた。

 その当時、私には仲の良いユダヤ教徒のクラスメートがいた。

 だけど、私の同級生達はその女の子をストレス解消のスケープゴートに選んだ。

 

 クラスメイト達は、子供特有の残酷さであの子を責めさいなんだ。

 彼女の文房具を盗み、靴を切り裂き、学校中であの子を小突き回す。

 先生達が見て見ぬ振りをしたせいで生徒達の行動はますますエスカレートした。

 

 ある日、私が校舎の裏を歩いていると布の避ける音と悲鳴が同時に聞こえた。

 急いでその場に駆けつけた私は、複数の女子学生があの子を取り囲んでいるのを目にした。

 女の子達は、うずくまるあの子を押さえつけながら服を引き裂いていた。

 何人かは、鋏であの子の髪の毛を滅茶苦茶に切り裂いていた。

 

 あの子は私を見た。

 私もあの子を見た。

 痣の浮いた顔の中で傷ついた瞳が助けを求めて私に縋る。

 でも、私は―――何もできず、目を背けてその場から立ち去った。

 

 その日を境に彼女は学校に来なくなった。

 勉強して大学に入り、両親に楽な暮らしをさせてあげたいとあんなに楽しそうに話したのに……。

 彼女が別れ際に向けた視線は棘の生えたイバラのように私の心に纏わりつき、二度と離れる事はなかった。

 

 私は恐かった。

 混血である自分が何時か、ユダヤ教徒の彼女と同じような迫害を受ける日が来るのを恐れた。

 私には、夢があった。

 何時か俳優になり、お父さんやお母さんのようにたくさんの人に感動を与えたいと思っていた。

 だから、自分と夢を守るため、両親が与えてくれた心も裏切った。

 同級生の間に溶け込むために彼女達と同じように哀れな人々を蔑み、嘲笑った。

 

 私は体と心を小さく縮める事で押し寄せる闇から身を守ろうとした。

 だけど、私の家族は胸を張って、真っ向から闇に立ち向かおうとした。

 

 国中に独裁者を礼賛する軽薄な歌があふれる中、お母さんは決して自分の歌を失わなかった。

 アンドロポフが、演壇の上で冬の恐怖と人の闇について謳えば、お母さんは短い春の素晴らしさと協調の貴さについて歌った。

 そして、お父さんは、そんなお母さんのために全力で作曲と演奏を続けた。

 

 私の妹は家族の中で最も幼かったけど、最も勇敢だった。

 あの子は、私のように友達が迫害や差別に曝されているのを見過ごしたりはしなかった。

 理不尽な暴力を受けている友達を助けるためには、殴り合いの喧嘩も辞さなかった。

 女の子なのに毎日新しい痣や傷を作って帰ってきた。

 

 だけど、両親は妹を叱るどころか彼女の勇気を褒めたたえた。

 脅しや暴力に屈しない家族の周りには、何時しか多くの賛同者が集まっていた。

 あの人達は、冷たく暗い影に沈むドラーシャの中で輝く小さな太陽だった。

 

 だが、私はその太陽に浮かぶ一点の黒い染み。

 勇者の中に紛れ込んだ孤独な臆病者だった。

 私には父が、母が、妹が理解できなかった。

 何故、彼らがあんなに勇敢に振舞えるのか分からなかった。

 

 確かにアンドロポフ、が私達に直接手出しをした事はなかった。

 しかし、それは私の両親とあの男が、コインの表と裏のような関係にあったから。

 独裁者が激しく娯楽を制限したせいでお母さんとお父さんの歌は、国民にとって無くてはならない存在になっていた。

 

 二人の音楽を取り上げる事は、酒飲みの手から酒杯を奪い取るようなもの

 その事が、分かっていた両親は公然と独裁政権に反対する芸術家達を集めて、非暴力的な抵抗運動を続けた。

 何時の日にか、自分達の歌や言葉が国民を動かし、独裁者の権力をひっくり返す事を信じて―――。

 

 私にはそんな家族の行いが、恐ろしくてたまらなかった。

 独裁者を挑発する事は、餓えた虎の目の前に血の滴る肉を振り回すのに等しい。

 何故、そんな簡単な事が、あの人達には分からないのかっ!?

 瞼の裏に見捨てた友達の顔が蘇る。

 怯え、傷ついていたはずの目は、何時か嘲笑うようなまなざしに変わっていた。

 

『お前もいずれ私のようになる』とその目が私の傷口にそっとささやきかける。

『引き裂かれ、奪われて路上に捨てられる。お前が私を裏切った事は全て無駄だった!』

 

 だけど、私には両親の運動に反対するほど愚かになる事はできなかった。

 学校で行われているリンチを止めるほど勇敢になる事もできなかった。

 次第に、私は学校と家庭で別人のように振舞うようになった。

 

 頑張れば頑張るほど、心と現実のすれ違いは治まるどころか酷くなるばかり。

 私の心は酷い靴擦れを起こしたように怒りと焦りに痛み、恐怖の醜い膿を流しつづけた。

 爛れた心の痛みに耐え切れなくなり、私は身近にいる人間に感情のはけ口を求めた。

 

 彼の名はドミドリー・トルスコイ。

 お母さんと実の姉弟のように育った幼馴染だった。

 ドミトリーは、お母さんの影響を受けて詩人になったが、家で行われている芸術家達の集いに参加する事はなかった。

 彼は、アンドロポフ政権を支援するような作品を何篇もつくり、政府から資金援助を受けていた。

 

 私は自分のように世論に迎合しようとするドミトリーに親近感を覚えた。

 いや、正直に言おう。

 私は彼に対して少なからず好意を持っていた……。

 愛していたと言っても良かったかもしれない。

 

 だから、ドミトリーに求められるままに、我が家で反政府的なサロンが開かれている時間帯、参加している人間の名前、そこでどんな会話が交わされているのかまで全て話した。

 家族に対する不満をぶちまけた後、ドミトリーはいつも柔らかな手で私の頭を撫でた。

 私の髪に口づけをして、「独りで良く頑張ったね」と優しい声で慰めてくれた。

 

 彼の手や唇は、スポンジのように私の痛みや悩みを吸い取った。

 だから、私は家族を密告した時に感じるちくりとした痛みを忘れる事ができた。

 

 

 なんと愚かだったのだろう……。

 

 

 痛みは大事な心と体の危機を知らせる大切なシグナルだ。

 そして、私はそのスイッチを無意識に切っていたツケを支払う事になった。

 

 崩壊の夜は、何の前触れもなく突然やって来た。

 その日、いつものようにお父さんとお母さんは、家のロビーでサロンを開いた。

 私は自分の部屋に閉じこもり、床に開けた穴から下の会話に耳を澄ませていた。

 やがて、難しい芸術論議に飽きてきた私は現実と夢の間を彷徨い始める。

 瞼を閉じ、意識が闇に閉ざされた瞬間、針のように鋭い刺激臭が鼻を刺した。

 

 目を剥いて跳ね起きた。

 何時の間にか部屋の中にはこげ茶色の煙が入り込み、ドアの隙間から明るいオレンジ色の光が漏れていた。

 自分の耳がおかしくなるほど大きな悲鳴を上げながら、ドアに駆け寄った。

 扉を開けた瞬間、溢れる熱風と煙が私を部屋の中に押し戻した。

 

 燃えている!

 私の家が燃えている!

 混乱した頭でようやくその事だけを理解した。

 顔は涙と鼻水、脳みそは恐怖と焦りでぐちゃぐちゃだった。

 

 それでも、私は奇跡的に妹の事を思い出した。

 そうだ! 

 あの子を助けなくちゃ!

 階段を駆け下り、一回の廊下で妹を発見!

 あの子はすでに煙を吸い込んでいたのか、すっかり昏睡していた。

 

 妹を抱え上げた時、お母さんが私達の前に現れた。

 お母さんは水で濡らしたシーツを持っていた。

 彼女の髪の毛は何故か、外から戻ってきたばかりのように夜露に濡れていた。

 

 私は泣きながら、お母さんに助けを求めた。

 母は一瞬迷った後、濡れたシーツで私達を包み、頬に口づけして言った。

 

「その子をお願い……」

 

 そして、完全に地獄の釜のように火炎を吹き上げる居間に向かった。

 

「私はお父さんを助けてくるから、先に逃げて!!」

 

 声をかける暇すらなく、お母さんは真っ黒な煙の中に姿を消した。

 それが……

 

 私の見た母の最期の姿だった―――

 

 だが、その時の私には別れを悲しむ余裕などなかった。

 目の前には玄関まで続く悪夢のように長い道のりがあり、私の腕の中には命に代えても守らなければならないものがあった。

 

 迷いはほんの一時。

 私は気絶している妹の身体を濡れた布で包むと体全体で彼女を守るように抱きかかえながら、一気に玄関まで走った

 

 一歩、一歩が地獄のようだった。

 焼けた鉄板のような床を歩く内に、スリッパは溶けて足の裏に張り付いた。

 貪欲な火の舌が私の足を舐め、腕を齧り、網膜ごと視界を貪っていく。

 自分の皮膚が縮んでひび割れ、剥き出しになった血管の中で体液が沸騰するのを感じた。

 

 必死に息を堪えていたが、ついに我慢できなくなって口を開けると自分の髪の毛が焦げる匂いと共に熱気が喉を焼き尽くした。

 痛く痛くて、もう何も分からなくなるほど痛かった。

 記憶しているのはただひとつ母の願い。

 理解できる事はただ一つ、腕の中の大切な重み。

 

 針の先ほど収縮した意識で、扉の存在を感じ取った。

 ドアノブを回す時間すら惜しくて、体当たりするように扉を開けた!

 

 経験も想像も超越した痛みに意識が真っ白に染まる!

 次の瞬間、私は真っ暗な夜の歩道に倒れこんでいた。

 冷たい外気が千本の剣のように焼け爛れた神経に突き刺さった。

 

 どんどん暗くなっていく視界で辛うじて近くにいる人影を捉える。

 その人影は、ドミトリーと同じ声で何か言った。

 私は口を開けて彼に助けを求めようとした。

 

『この子を……』

 

 だけど、役立たずになった声帯は、木枯らしのような声しか出せない。

 

『どうか、この子を!!』

 

 最後の力を振り絞って、腕に抱いた妹を差し出した。

 炭化した皮膚がぽろぽろと道路の上に降り注ぎ、剥き出しになった肉が真っ白な染みのように目に映った。

 ドミトリーの声を持った影が、妹を受け取るのを見た後で、

 

 

 ―――私の意識は身体ごと、氷よりも冷たい石畳に沈み込んだ。


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