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二年目の誕生日 ACT8

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 私と妹が向かい合った瞬間、イワンさんが小さく息を呑む声が聞こえた。

(レインボー)』の顔が赤くに染まったからだ。


 と言っても、あの子の顔が紅潮したと言う意味ではない。

(レインボー)』の身体はメイドカチューシャに隠された頭の旋毛から指先まで交通信号のような鮮やか赤色に変わっていたのだ。

 その時、妹が何を考えている手に取るようにわかった。

 シグナルレッドは驚きと興奮の証し、『(レインボー)』は今、酷く動揺している。

 

(レインボー)』は『強化人類(イクステンデット)』の三大分類の内、EX=Physicalに属する能力者だ。

 彼女の能力は身体を変形させる『仮装系能力者』と、光や電気を発する『電磁波系能力者』の両方の特徴を併せ持っている。

 だけど、『(レインボー)』は私のように別人に変身する事はできないし、『切り裂き屋(リッパー)』のように殺人的な電磁波を放つ事もできない。

 

 妹の力は、その渾名の通り感情に合わせて身体を様々な色に光らせる事だけ。

 あの子には悪いけど、はっきり言って全く使い道がない能力だ。

 蝋燭やマッチの方がはるかに明るいので、電気が切れた時の明りにも使えない。

 

 レジスタンスにいた頃、戦闘で役に立たなかったあの子は、同年代の仲間達から『無能者(ユースレス)』という屈辱的な渾名をつけられ、いじめられていた。

 本当に無害なだけの能力ならば、『(レインボー)』はむしろ私達の中でも運の良い方だったはずだ。

 顔や皮膚を隠せば普通に街を歩く事ができたし、感情を水面にみたいに平静に保っていれば、本当に一般人と同じよう見えた。

 しかし、『(レインボー)』の能力は、色を変える他に危険な特徴を持っていた。

 一つ間違えれば、あの子とあの子を囲む世界のすべてを破壊する程とてつもなく危険な特徴を。

 

 だからこそ、私は妹を部屋の中から出さないように気をつけてきた。

 それなのに…。

 それなのにっ!!

 

「答えて、『(レインボー)』! 貴女がどうしてここにいるのっ!?」

 

 私の目の前で妹の色がさらに変わる。

 興奮の赤から恐怖の黄色へ、さらに悲しみの青と罪悪感の紺色の縞模様へと。

 かすかに混ざる金属色は彼女が現在、酷くストレスを感じている証拠だ。

 

「『華神(フローラ)』なのね? あいつが貴女を家からここへ連れて出したのね?」

 

(レインボー)』は、顔をくしゃくしゃにしながら、何度も首を横に振った。

 でも、あの子の身体は、ドブネズミみたいな灰色と涙色のアクアマリンの水玉模様に変わった。


(レインボー)』の能力はとても正直、嘘をつくようにできていない。

 イワンさんに話を聞いた時に感じたシンパシーはどこかへ吹き飛んでしまった。

 私の頭は、一瞬であの魔女に対するどす黒い怒りで埋め尽くされた。

 

「そう……解った。もうここにきてしまったものは仕方が無いね。『華神(フローラ)』には後でたっぷり文句を言ってやらなきゃ! おいで、『(レインボー)』! その馬鹿な格好を着替えるわよ!」

 

 溜息をついて、妹の手を引っ張ろうとした。

 いつものように、あの子が私の後をついてくると信じて……。

 だけど、予想もしなかった感触が私の手を襲った。

 

「『(レインボー)』、どうしたの?」

 

 戸惑いながら、妹の方を見た。

 あの子は細いけど筋肉質な腕に力を篭めて、私の手に抵抗していた。

 水玉模様は薄れて、明るい興奮色の線がうっすらと浮び始めていた。

(レインボー)』は俯いて、私には聞こえないほど小さな声で何か呟いた。

 

「ほら、意地を張らないで。私の言うとおりに―――」

「いやだっ!!!」

 

 今度ははっきりと聞こえた。

(レインボー)』が顔を上げて、私の方を見ていた。

 目の端にうっすらと涙を浮かべながら、鋭くこちらを睨みつけている。

 赤い興奮色の線が、皮膚に入った皹のように枝分かれしながらどんどん広がっていく。

 

「どうして? 貴女にはそんな変な使用人の服を着る必要なんて……」

「変な服じゃないっ!! この服をくれた管理人さんは誉めてくれたよ! メイドのお姉さんやコックの小父さんも誉めてくれたよ! 働き者の私に良く似合っているねって、可愛いねって誉めてくれたんだよ!」

 

 悲痛な叫び声が、私の耳を叩く。

 怯んだ瞬間、『(レインボー)』が物凄い力で私の手を振り解いた。

 妹の皮膚が、どんどん色を濃くしていく。

 体中を走る赤い線と相まって爆発寸前の火山の山肌みたいだ。

 

「ふむ、私も結構お似合いだと思ったんだが……」

「家族の問題です! イワンさんは黙っていてください! 」

 

 大声を上げた後で、イワンさんに怒鳴り返した事に気付いた。

 私は慌てて依頼人に謝罪した。

 

「ご、ごめんなさい、イワンさん。つい興奮してしまったものですから……」

「いや、君の言う事にも一理あるよ。君達の話し合いが終るまで私はあちらでお茶を飲んでいよう」

 

 イワンさんの大きな背中が、部屋の奥にあるソファーの方へ向かった。

 自分の胸を抑え、ようやく自分に何が起こっているのかわかった。

(レインボー)』の変化に合わせて私の鼓動が速くなり始めている!


 これは不味い!

 とても不味い!

 私は今、妹の能力の影響を受け始めている!

 彼女と話す時は、心を極限までリラックスさせないと―――

 

「ね、ねえ、『(レインボー)』。私達はもう日本にいるんだよ。貴女はもう働かなくて良いの。『華神(フローラ)』に何を吹き込まれたのか知らないけど、お金はもう一杯あるし、服だって全部、私が……」

「私は働きたかったの!」

 

 声を張り上げると同時に『(レインボー)』の肌で色が爆発した!

 妹の肌がまた真赤に染まっていく。

 ただし、今度は明るいシグナルレッドじゃない。

 暗い色を秘めた血のようなブラッドレッド、あの子が激怒している証拠だ。

 

「私は楽しかった! さっきまで凄く楽しかった! お姉さん達と一緒に掃除をして、叔父さんたちと一緒に料理をして、管理人さんにちょっと誉めてもらって。あの部屋の中に一人でいるよりも……一人でいるよりもずっと、ずぅっっっと楽しかったよ!!!」

「待って! 落ち着いて、『(レインボー)』! お願いだから、私の言う事を聞いて」

 

 瞼を閉じる暇も無く、鮮血の赤が目に突き刺さった。

 その途端、せっかく鎮まりかけていた心臓がまた暴れ始めた。

 駄目、早く深呼吸をして気持ちを落ち着けないと、このままだと私は―――

 だけど、私が息を吸い込んだ時、

 

「いや! 『極光(オーロラ)』だって私の言う事、全然聞いてくれなかったじゃない! 私が欲しかったのは誰もいない綺麗な家じゃない! 遊び相手もいないおもちゃじゃない! 見せる人もいない洋服じゃない! こんなに一緒にいるのに何で解ってくれないの! 私はもう一人じゃ生きていけないような赤ちゃんじゃないんだよ!」

 

(レインボー)』の体色が、また変わった。

 真赤な肌の上に、黒や毒々しい緑色の斑点が浮き上がる。

 極色彩の模様が、目や口元を歌舞伎の隈取のように彩った。

 見た者の目と心を同時に火をつける、毒虫のような攻撃色。


 その色を見た瞬間、心を落ち着かせようという考えが土台ごと吹き飛んだ!

 どうして、この子は私の言う事を分かってくれないのだろう!

 どうして、この子は私の考えを分かってくれないのだろう!

 

 私は何かを『(レインボー)』に叫んだ。

 あの子も何かを私に叫び返した。

 でも、私の耳には何も聞こえなかった。

 聞こえるのは耳元で轟々と流れる頭の血液の音。

 見えるのはますます色を濃くしていく『(レインボー)』の攻撃色。

 何を口にしているのかも分からず、激情だけが暴走していく。

 

 そして―――。

 

 手を捕まれた感触で、ようやく我に返った。

 私の手首を強く、だけど優しく掴んでいる指を通して世界が現実感を取り戻していく。

 まだ少しぼやけた視界の端に『(レインボー)』が泣きながら、部屋のドアを飛び出したのが見えた。

 

 まだ頭が混乱したまま振り返ると、私を見下ろしているイワンさんと眼が合った。

 イワンさんは、蒼い目を悲しそうに細めながら私の手を掴んでいた。

 

「は、離して、あの子泣いてる。だ、だから、わ、私、追いかけて、話を、話を……」

「駄目だ。気付いていないかもしれないが、今の君は、話のできるような状態じゃない。妹くんと話すのはもう少し落ち着いてからにしなさい。さあ、私と呼吸のリズムを合わせるんだ」

 

 言われた通りにして、始めて自分に何が起こったのか分かった。

 私は今まで『(レインボー)』の能力の影響下にあったんだ。


 妹は身体の色を変えるだけじゃなくて、その色を使って他の生き物の脳を刺激する事ができる。

(レインボー)』の体から発する微弱な電磁波には目にした生物を彼女の感情に同調させる力がある。

 

 あの子の力はとても弱いから、落ち着いていれば影響を受ける事はない。

 だけど、興奮している者が『(レインボー)』の力を受けると何倍にも増幅された感情で理性が壊れてしまう事がある。

 その人間が妹に対して怒りや苛立ち、悲しみと言った負の感情を持っている時は特に危険だ。

 

(レインボー)』は、彼女に向けられた怒りや悲しみを反射率の良すぎる鏡のように跳ね返す。

 するとあの子の身体を見た相手は、以前よりはるかに荒々しい言葉をあの子に使ってしまう。

 そして『(レインボー)』が刺々しい色と言葉で増幅された負の感情をまた反射して…………。

 

 錆びた黒い金属の輪のように連なる悪循環。

 その先に待っているのは、破滅的なクライマックスしかない。

 私は以前、妹が同い年の仲間の晩御飯に関する些細な口喧嘩が、危うく殺し合いにまで発展しそうになったのを見た事がある。

 でも、それと全く同じ事が私の身にも起こったんだ!

 

 世界が現実感を取り戻すのと同時に、自分が何をしたのかやっと思い出した。

 なんてこと……。

 私はあの子に手を上げようとした!

 全てを犠牲にしても守ると誓ったあの子に対して暴力を振るおうとした!

 もし、イワンさんが止めてくれなければ、私はあの子を……。

 

 心臓がまるでエイリアンになったみたいに肋骨の中で暴れ始めた。

 他の内臓も全部、反乱を起こしたみたいにお腹の中で滅茶苦茶に捩れている。

 とっくに役立たずになっていた手足は全部違う方向に走り出そうとしていた。

 

「……ふむ、これは酷いな。少し座って休みなさい。今、水を持ってきてあげよう」

 

 イワンさんは足が痙攣して立てなくなった私をソファーまで引きずって座らせた。

 そして、部屋の隅に置いてあった給水機から冷たいミネラルウォーターを満たしたコップを持ってきてくれた。

 これじゃ、あべこべだ。

 まるで、依頼人と護衛の立場が逆になったみたい。

 だと言うのにイワンさんは何にも気にしていないようだった。

 

 私は申し訳ない気持ちで一杯になりながら、コップを受け取ろうとした。

 だけどコップは私の指をすり抜け、高価そうな絨毯に中身を零してしまった。

 何が起きたのか分からず自分の手を見た。

 五本の指が全て人間の関節には不可能な方向を向いていた。

 

 変身能力が暴走している!

 そう認識した途端、暴走の影響が体中に広がった!

 裾やスラックスの中で手足が形を崩し、顔の輪郭がどろっと溶けるのを感じた。

 

「あ、ああ……待ってください! い、今、すぐに治しますから、だから待ってください! お願い、見ないで……」

 

 こんな姿を見られたくなかった。

 自分の本当の姿を見た人間達がどんな顔をするか、私が一番良く知っている。

 皆、ひどく顔を歪めた後に誤魔化すように上辺だけの笑いを浮かべる。

 仲間の『強化人類(イクステンデット)』達だって嫌悪感を隠す事はできなかった。

 私はイワンさんが彼らと同じ表情を浮かべるのを見たくなかった。

 でも―――

 

「緊張している時には暖かい飲み物の方が良かったね。今お茶を入れて来るから、ちょっと待ちなさい」

 

 あの人は少し目を見開いただけで、それ以上の反応は示さなかった。

 何事もなかったように、部屋の中にあるバーカウンターに向かった。

 私は、自分に向けられた大きな背中を呆然と見つめるしかなかった。

 

「あ、あのイワンさんは……」

「何故、君の姿を見て驚いたり、怯えたりしないのか聞きたいのかね?」

「はい……」

「私が若かったら、少しはびっくりしたかもしれない。だが、私はもう年寄りで、この世の中には今の君よりもずっと醜く悲惨な物が一杯あると知っている。君は生きた人間の傷口で這い回る蛆を見た事はあるかね? 薬も医者もいない状況で戦友の腐りかけた手足を焼いた鉈で切り落とした事は? そこまでして生き延びた男が、一発の銃弾で死ぬのを見た経験はおありかな?」

 

 何一つ言い返す言葉が見つからなかった。

 そうだ。この人は私の人生の何倍もの時間を軍人として生きてきたのだ。

 私がたった二年の間に見た地獄を、何十年も目にしてきたはずなのだ。

 じっと足元の絨毯を見つめる私の背中に、イワンさんがさらに声をかけた。

 

「戦場で死神に出会った事もあった。血のような赤いライフルを持った本物の死神にね。その時、一緒にいた戦友は、私一人を残して皆死んでしまった。恐ろしくあっけなく、ほとんど一瞬で……」

 

 イワンさんが、分厚い手の平で肩を握り締めた。

 私は、彼が服を脱いで見せた時に、その部分に小さな銃痕があるのを見た事があるのを思い出した。

 心臓と肺の間をすり抜け、恐らく老人の身体の上にある数え切れない傷痕の中で最も彼の命に近づいたであろう傷が。

 

「私の目から見れば、君は震えているただの小さな子供さ。おっと、すまない。 ティータイムに口にする話題じゃなかったね。でも、安心してくれ。味は保証するよ。私は昔、自分のレストランを持っていたこともあるんだ」

「えっ?」

「意外かね? この話をすると皆同じ顔をする。でも、事実だよ。国を出てアメリカに渡ったばかりの頃、妻と二人で郷土料理の店を開いた。小さな店だったけど、繁盛していたよ。常連客もたくさんいたね。今にして思うと、あの頃が私の人生の中で一番穏やかな時間だったかもしれない」

 

 多分、イワンさんの言葉は嘘じゃないのだろう。

 私のところからは後ろ姿しか見えないけど、彼が茶器の準備をしたり、茶葉の香りを試したりしている様はとても素人には見えないほど手際がいい。

 

「残念ながら、その店は、二年と持たなかった。昔の同僚達が、店にやってきてね。何かも燃やされてしまった。お恥ずかしい話だが、私は脱走軍人だったのだ。祖国にいる間にお偉方の後ろ暗い情報をたっぷり知ってしまったせいで、命を狙われていた。同僚達は私や妻も一緒に燃やしたかったようだが、私は、代わりに彼らを燃やしてやった」

 

 陰惨な話を口にしているくせに、老人の指の動きは軽快そのものだった。

 紅茶の葉をスプーン二杯、ポッドの中に入れてお湯を注ぐ。

 ティコゼー(綿帽子のようなもの)をポッドに被せると、今度は棚に置いてあるブランデーなどを取り出し始めた。

 

「その後で、私は自分と妻を守るために働き始めた。何時しか、私の周りに同じように国から逃げ出した人間達が集まり、ベロボーグが、今日君が何度か耳にしたあの財団が出来上がった。だが、大きな力には、代償がつき物だ。私は財団を維持するため、部下達や彼らの家族を守るために絶えず動き回らなければならなかった。必然的に妻と一緒に過ごす時間は短くなったよ。その代わりに私は彼女に贈り物を与えた。多く服を、巨大な屋敷を、数え切れないほどの宝石を。祖国からの逃避行で私達は最初の子供を失い、妻は子供が産めない体になった。だから、その心の穴を埋めるためにたくさん、たくさん贈り物を送った」

 

 イワンさんがティーカップを掻き回していたスプーンを止めた。

 ちらりと見えた口許に悲しみと自嘲に満ちた微笑みが浮んでいた。

 

「だが、人の心の穴は物だけでは埋める事はできない。その事に気付いた時には、全てが手遅れだった。私と妻の間には大きな壁ができていた。私が彼女に送った意味のない贈り物でできた高い高い壁がね……」

「あ、あの、奥様は今……?」

「『百目(アルゴス)』に私の暗殺を依頼した男の後ろ盾になっている。あの子が何をしてきたのか知らず、あの子が何をしようとしているのか知る術もなくね……。たくさんの人間が服や地位、財産だけを見て、私を成功者と呼ぶ。だが、真実の私は敗北者だ。この手がどんなに多くを持っているように見えても、私が本当に守りたかったものは皆、この指をすり抜けてしまった」

 

 大きくも力強くもない声だった。

 だけど、その言葉は例えようも無く重く私の心に響き渡った。

 私は、始めて艶の良いイワンさんの皮膚に浮んだ微かな染みや皺に気付いた。


 見上げるほど大きな背中が、小さく縮んだような気がした。

 彼が家族を亡くした時の気持ちを自分の事のよう理解する事ができた。

 私はとても遠い人物だと思っていたイワンさんをこの上なく身近に感じていた。

 

「全てをなくした後でようやく私は学んだのだ。愛とは私の贈り物のように強制するものでも、押し付けるものでもなく、相手が必要な時に必要なだけ与え、そして―――」

 

 彼はティーカップを持って目の前に立ち、

 

「―――同じように受け取るものだと言う事をね」

 

 私にそれを差し出した。

 言われたとおり、湯気の立つティーカップを受け取った。

 空っぽのゴム手袋のようにふにゃふにゃだった指は何時の間にか元通りの硬さを取り戻していた。

 

 ティーカップを顔に近づけると香しい臭いが鼻を刺激した。

 カップの縁に唇をつけて、一口啜ると紅茶のぬくもりが体中に広がった。

 お茶の渋みと一緒に優しい甘味が私の舌を刺激するのを感じた。


 この懐かしい味はブランデーと木苺のジャム、それに樹液のシロップ。

 これは私の国で飲まれている紅茶、『ビルイェ・チャイ』だ!

 寒い夜にお母さんが良く作ってくれた飲み物だ!

 顔を上げるとイワンさんを見ると彼は悪戯っぽい微笑を浮かべながら、

 

「その通り、私は君と同じ国の出身者だ。私と妻はまだ祖国がソ連邦の一部だった頃にドラーシャを抜け出し、それ以来、一度もあの国に帰ってはいない」

 

 そして、微笑を消して真摯な声で言った。

 

「もし良かったら、教えてくれないかね。私と君の国で何が起きたのか。そして、君と妹くんの身に何が起きたかのを。さっき言った通り、私は敗残者だ。だが、失敗した者だからこそ君に教えられる事もあると思うのだ」

 

 いつもだったら、私は相手が誰であろうと自分の過去を話すような事はしなかっただろう。

華神(フローラ)』だって私の出身国やレジスタンスだった事しか聞き出す事はできなかった。


 でも、私は今目の前にいるこの老人に全てを話してしまいたいと感じていた。

 信頼すると言うのは、信じた相手に裏切られても構わないと言う事。

 昔、お父さんが教えてくれた言葉を始めて理解できたような気がした。

 

 濃い紅茶の水面に移る自分の顔を見下ろす。

 能力の暴走が納まって、私の顔は端正な青年のものに戻っていた。

 非の打ち所の無い美しい顔、でもこれは私の本当の顔ではない……。

 あまり長い間思い出さなかったせいで、私の記憶もその顔のように朧に霞んでいた。

 

 温かい紅茶を啜りながら、ゆっくりと思い出そうとした。

 私もこうして自分の家の椅子に座り、妹と一緒にお母さんが作ってくれたお茶を飲んでいた事があった。

 際立って美しくないけど、お父さんやお母さんが与えてくれた名前と顔を持って生きていた事があった。

 たった二年前の事だけど、遥か遠く昔のように感じる出来事の数々を、私は少しずつ手繰り寄せ始めた……。


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