二年目の誕生日 ACT5
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
自分の非を認めたイワンさんの言葉に、『華神』が何か反論しようとして口を開きかけた。
しかし、老人が制するように片手を上げると口を閉じてソファーに座り直した。
イワンさんは手を下ろし、苦笑いを浮かべながら言った。
「合衆国にいた頃から感じていたのだが、君は、どうも人間をスイッチ一つで自由に動かせる機械のように思っている節があるね。しかし、上辺だけの服従ではなく、真の信頼関係があって始めて発揮できる力量というものもあるのだよ。例えメールで詳細を伝えられなくても、信頼できるものをやって連絡する事はできたはずだ。少なくとも、『極光』さんがここに到着した時にまず君自身が出向いて説明をしてあげるべきだった。私の身を案じた結果だと思うが、それでも誠意を尽くして行動して欲しかったよ。とにかく、今回の件に関しては『極光』さんにちゃんと謝っておきなさい」
私は意外な展開に目を丸くした。
イワンさんがここまで私の味方をしてくれるとは思わなかったのだ。
だが、その驚きも次に起こった出来事のインパクトの前に呆気なく吹っ飛んでしまった。
「確かに今回はちょっとやり過ぎたかもしれないわね。私が悪かったわ。ごめんなさい、『極光』」
『華神』が言われとおり謝罪したのだ!!
私は自分の目を疑った。
次に自分の耳を疑った。
それでも足りなくても自分の頬まで引っ張った!
痛かった。
どうやら、夢じゃないようだ。
『華神』が本当に謝った!
自分の頭を下げるぐらいなら、相手の首を吊るし上げてやる、と言って憚らないあの魔女が言われるままに自分の非を認めたのだ!
信じられない光景とは正にこの事だ。
まるで、ライオン……いや、人に絶対慣れないはずのホオジロザメがイルカみたいに芸をしているのを見たような気分だった。
その驚きがまだ覚めやらぬ内に、
「今回は不愉快な思いをさせてしまったようですな。これは『華神』くんに護衛を頼んだ私の責任でもある。どうか許していただきたい」
「あ、いえ、そこまでしていただかなくても……」
今度はイワンさんが私に頭を下げて来た。
プライドが高そうな二人に続けて頭を下げてられて、私は混乱の極みにあった。
そこへ、畳み掛けるようにイワンさんが言った。
「そう言っていただけると私としては非常にありがたい。貴方は優秀な能力ばかりではなく、寛大な心の持ち主でもあるようですね。その寛大さに付け込むようで申し訳ないのだが、今回のミッションを、もう一度私の口から直接説明させてもらえませんか?」
「え、でも、それは」
「受けるか受けないかは、もちろん貴方の自由。それが本意ではなかったとはいえ、私は貴方を欺く事になった。断られても文句をいえない身だ。だが、どうか憤りを押さえてこの老い先短い男の最後のわがままに耳を傾けてもらえないだろうか?」
くっ、そう来たかっ!
これは俗に言うドア・イン・ザ・フェイス・テクニック。
自分から譲歩する事によって相手に心理的圧迫を加える承諾誘導の一種だ。
しかも、自分よりも地位も年齢も遥かに上の人間に、ここまで下手に出られては私に選択の余地などないに等しい。
「わかりました。ではまずお話を聞かせてください。その上であなたのご依頼をお受けするかどうか考えさせていただきます」
「おおっ、ありがたい。感謝しますぞ、『極光』さん」
イワンさんはこちらが恥ずかしくなるほど素直に喜びをあらわにした。
その笑顔を見ていると何故『華神』がイワンさんの言葉にだけ耳を貸すのか分かるような気がした。
地位や財産があるからではなく、交渉や弁舌に長けているだけでもない。
この巨大な老人には、まるで冬の夜に点った火のように人を引きつける不思議な魅力があるのだ。
「さて、最初にわかっていただきたいのだが、私は別に自分の身を守るために貴方に影武者を頼もうとしているわけではないのです。私はこのとおり年を取っています。十分生きたと思うし、今さら死を恐れたりもしない。しかし今回、私の命を狙っているような無法の輩の手にかかるのはどうしても我慢がならんのです。あやつは私を仕留めるために手段を選ばなかった。例えば、私を殺すために爆弾を植え付けられたあの可哀想な少年、名前は確か―――」
慣れない日本人の名前を喋ろうとしたせいだろうか。
イワンさんが一瞬口篭もる。
間髪入れずに『華神』が途切れた言葉の後を繋いだ。
「狭間です。狭間順一くんです」
その名前を聞いた瞬間、体が自制心を裏切って椅子の上で小さく震えた。
精神的なショックが、電気と一緒に神経を走り、皮膚の下で筋肉が変身しようと蠢くのを感じた。
どうして、この場でこの名前が出てくるのだろう。
狭間は……私の父の苗字だ。
「おお、そうだ。ジュンイチくんだった。私は彼の家族に会いにこの国に来たのだが、その結果ジュンイチくんを巻き込んでしまったのだ。私は彼と彼の家族に詫び、危険な事件に巻き込んでしまったことについて保証を申し出た。しかし、ジュンイチくんと彼の家族は私に何も要求しなかった。それどころか、自分に何かできる事はないかと申し出てくれた。勇気のある素晴らしい少年だった。『百目』はそんな前途有望な子供を暗殺の武器として使い捨てようとしたのだ……」
イワンさんは憤りに満ちた表情で深く息を吐いた。
私は無言のまま、老人の顔をじっと観察した。
自分の能力を鍛える内に、私は自然と表情筋の動きや呼吸の微かな変化から相手の感情をうかがう術を身につけた。
流石に『EX=Sensitive』たちのように百発百中で人の心を覗く事はできないが、嘘をついているかどうかぐらいは見分ける自信がある。
ここで父さんの名前が、出てきたのは偶然だとは思えない。
しかし、私はイワンさんの顔から、陰謀の匂いを嗅ぎ取る事も出来なかった。
「私も、かつて軍人だった事があります。不本意ながら人を殺した事は数え切れないし、手を汚さずに今日まで生きて来たわけではありません。しかし、私は自分の信じる正義に従って生きてきました。私の人生は過ちと後悔に塗れているが、それだけは胸を張って言う事が出来る。だが、この暗殺者のやり口は何の正義もない。奴の行いは社会の許容できる限度を遥かに超えています。もしこの事件が明るみに出た場合を想像していただきたい。日本の人々が、どれほど動揺を受けるのか。また、世界の普通人と『強化人類』の関係がどれほど大きなダメージを受けるのか……」
イワンさんの言葉を聞いた瞬間、私の頭は動いていた。
脳細胞が想像力の火花を上げて、起こり得た未来を描き出す。
もし、イワンさんと『華神』が知り合いじゃなかったら。
もし、テロリストの計画通りに東京であの爆弾が炸裂したら。
その時、変異器官を持たない一般人たちが私たち、異類異形の者をどんな目で見るようになるか。
特に私や妹のような国籍も身よりもないような外国人の『強化人類』がどんな扱いを受けるのか。
祖国で起きた懐かしくも、厭わしい出来事の数々が脳裏に蘇る。
寒気と吐き気が、同時に私の体の中を走った。
私は知っている……。
人は恐怖から逃れるためになんでもする事を……。
「はっきり言おう、「極光」さん。今回貴方に依頼するのは私の身辺警護ではないし、単純な影武者でもない。『百目』という犯罪者をおびき寄せ、確実に倒すための戦士として協力してもらいたいのだっ!!」
今度は私のプライドをくすぐりに来たわけか……。
悔しいけど、上手いやり方だ。
その上、わざとかどうか分からないけどイワンさんは間接的に『百目』と祖国の独裁者のイメージを結びつけた。
『百目』はテロリスト、あの男は全体主義者。
無辜の民の人生を、何の前触れもなく破壊すると言う点では、この二人はまるで双子のように酷く似ている。
私は、独裁者に家族を奪われ、反政府運動に身を投じていた経験のある。
心情は、既にかなりイワンさんの方に傾いていた。
しかし、老人の申し出にイエスと答えるのはまだ早い。
一時の感情だけで判断するには、今回の話はリスクが大きすぎる。
「なるほど。おっしゃる事は良く分かりました。正直、私も貴方のお話に少なからず共感しております。しかし、今回の依頼を受ける前にまだ聞いておきたい事が幾つかあります」
視線をイワンさんから『華神』の方を移す。
こちらの意図を悟った彼女は口許に例の毒々しい笑みを浮かべて言った。
「どうぞ。私に答えられる範囲であれば何でも質問に応じるわよ」
ぺろりと唇を舐める。
何でも答えると言っていたけど、この世で『華神』の約束ほど当てにならないものはない。
何しろこの悪魔の皮をかぶった魔女と来たら、
口にする言葉の五割は嘘、四割は出任せ、本当の事は一割しか言わないくせにその一割も大事な所は虫食いだらけと言うまるで生命保険のダイレクトメールみたいな女なのだ。
『華神』を相手にして、用心しすぎるという事は決してない。
十秒ほど時間をかけて、慎重に考えをまとめた。
それを質問にして『華神』に投げ掛けた。
「『華神』、貴方どうやって『百目』がイワンさんを狙っている事を知ったの? あいつが噂どおりの腕利きなら襲撃計画を事前に漏らすとは考えにくいんだけど?」
「貴方の言うとおり、あいつは自分に直接つながるような証拠は何も残さなかったわ。でも、間接的な証拠まで全部消し去るのは不可能だったのよ。もともと、イワンさんが襲撃される事はわかっていたの。そこで事前に網を張っていたら、大物は駄目だったけど、雑魚は一杯網に掛かったわ。『百目』が建物や車、例の男の体に仕掛けた大量の爆弾、海を渡るのを手伝ったエージェント、それからあいつのパトロンが、イワンさんの襲撃を依頼するために使ったルート……」
「ちょっと、待った!」
慌てて『華神』の話に割り込んだ。
「イワンさんの襲撃を仕組んだ相手を特定できたのなら、そっちに交渉をかけて依頼を取り消す事ってできないの?」
自分自身がゲリラだったから、良くわかるんだけど……
暗殺の防止って、草むしりに良く似ている。
目に見えている葉っぱ(エージェント)をいくら毟っても無駄。
地面の底に隠れている根っ子(依頼人)を断ち切らない限り、完全に防ぐ事は不可能だ。
「残念ながら……」
沈痛な顔で私の質問に答えてくれたのはイワンさんだった。
「『百目』の依頼人と交渉をして、暗殺を取り消すのは不可能だ。あいつは、私の暗殺を依頼した事すら認めないだろう」
その顔に浮んだ苦痛から、私は依頼人がイワンさんの身近な人物であると推測した。
それも相手が自分の暗殺を企んでいるとわかっていながら、逆暗殺を仕掛ける事を躊躇うような親しい誰かだ。
「じゃあ……ついでにもう一つ聞くけど。さっき男の子の体の中に爆弾を仕掛けられていたって言っていたよね? 人間の体内に隠せるような大きさの爆弾で確実な暗殺なんかできるの?」
「普通なら難しいでしょうね。でも、あの子の体内に隠されていたのは普通の爆薬じゃなかったのよ。ねえ、『極光』。『女王蜂』って覚えてる?」
「あのねぇ。あんたがそういう質問をするわけ?」
……忘れたくても忘れられない。
なにしろ、当の『女王蜂』に引き合わせてくれたお方が目の前にどかって居座っているのだから。
『女王蜂』は私たちと同じ『強化人類』の一人。
分類はEX=Chemical。
能力は強力なバイオ・ナパーム弾を造る事。
職業はテロリスト……それも『最悪』、『最低』、『犬の糞以下』とか言う形容詞がよく似合うタイプの下種野郎だ。
間違っても、二メートル以内には近づきたくない相手だけど。
なぜか、私は『華神』に連れていかれた海上製油場の上で、こいつ率いるアラブ系過激派とバトルロイヤルを演じる羽目になった。
それも、元KGBのロシアマフィアとか、現役の某国海兵隊といった豪華すぎるメンツと一緒に。
こうして振り返って見ると、今自分が生きているのか不思議で仕方がない。
本当になんで死ななかったんだろ、私?
で、最後はいつも通り『切り裂き屋』が製油場を丸ごと海の藻屑にして一件落着。
そして、確か……
「『女王蜂』ってあの時死んだんじゃなかったっけ? あれで生きていたら、『切り裂き屋』よりも凄いんじゃない?」
「もちろん、『女王蜂』本人は、あの時死んだわ。でも、あいつの作ったバイオ・ナパームはまだ残っていたのよ。冷凍保存された奴が何百個もね」
まさに負の遺産というわけだ。
考えて見れば、毎度戦闘になる度に、爆弾を作っていたら、体力と時間の消費が半端じゃない。
『女王蜂』が予備の爆弾を蓄えていたとしても不思議じゃない話だ。
「でも、『女王蜂』の爆弾を他の人間が扱えるの?」
「『女王蜂』がやっていたみたいに、フェロモンで爆発する時間や規模をコントロールする事は不可能よ。でも、一定以上の電圧の電気を流せば爆発させる事はできるわ」
「電磁波使いには、打って付けの凶器ってわけだ」
「その上、『女王蜂』の『小蜂』は金属探知器はもちろんの事、エックス線カメラにも写らない。一端、人間や動物の体の中に埋め込まれたら、私のような超感覚の持ち主でない限り、爆発する前に発見するのはもう絶望的ね。暗殺にとっては理想的な兇器よ」
私たちのEX能力は、所有者の性格や個性を反映したものである事が多い。
子供の頃、俳優になる事を夢見ていた私が変身能力を得たように。
人心誘導に長けた『華神』が深層心理まで届く超感覚を手に入れたように。
病的な犯罪者だった『女王蜂』はその捻じ曲がった根性に相応しい能力に巡り合えたわけだ。
そうなると気になるのが、『子蜂』を埋め込まれた少年の身体だ。
『女王蜂』の子供たちはその場から動かそうとすると必ず自爆する。
以前、製油場で戦った時は、この解除不可能の生体爆弾に酷く苦しめられた覚えがある。
あれが現在の外科手術で、除去できるとは到底思えない。
そこでどうしたのかと聞いたら、
「あの子は心臓の病気と言う建て前で緊急入院してもらったわ。冷凍保存を解いた『子蜂』の寿命はそんなに長くないから、一週間ほど電磁波を遮断した病気室の中で過ごしてもらえば、死んだ『子蜂』は、水と無害な物質に分解されて、体の外に排出されるはずよ」
ちょっとほっとした。
父親と同じ名字をした男の子が、体の中にいつ爆発するか分からない爆弾を抱えて生きているのは気分のいい事じゃない。
少し気持ちが落ち着いたところで仕事の話に戻る事にした。
「『百目』が他に仕掛けた爆弾はどうなった?」
「そっちは専門の能力者にお願いして、爆薬だけを抜いて、代わりに発信機を付けて置いたわ。『百目』は爆弾を起爆させるのに迷彩をかけた電波を使っているみたいだから逆探知は難しいけど、発信機が反応であいつが近付いた事は分かるわ。そうなれば私の能力で居場所を探り出すのは簡単だし、それに電波が届くほど近くにいるってことは―――」
「『切り裂き屋』の射程距離の中にいるって事か」
自分の名前を聞き付けたのか。
『切り裂き屋』が英語も分からないくせに話を聞こうと身を乗り出してきた。
アンパンの食べ滓がついた間抜け面からは想像も付かないけど、こいつは世界最強クラスの電磁波使い。
その出力、破壊力、射程距離は同じタイプの異能力者の中でも群を抜いている。
先手を取る事さえできれば、『切り裂き屋』は『百目』を一瞬で蒸しハンバーグに変えるだろう。
そして、情報戦では『華神』が、既にイニシアチブを取っている。
うーん、誤魔化されているのかもしれないけど。
こうして説明を聞いているとこの依頼がそんなに危険な仕事じゃないように思えてきた。
爆弾を抜きにすれば、『百目』に私を傷つける方法は、余りない。
例えエックス線の視線でガンにされても、その部分の体を変身能力の応用で切り離せば良いのだ。
でも、一つだけ。
一つだけどうしても……
「浮かない顔ね。私の説明に何か納得のいかないところでもあった?」
「うーん、資料でみた『百目』と爆弾を仕掛けた犯人の印象がどうしても一致しなくて……」
『華神』から受け取った紙の束にもう一度目を通した。
地中海で起きた狙撃事件。
ロシアで起きた爆弾テロ。
そして、アフリカと南米のクーデター。
依頼人と仕事の内容に対して無節操なのは『女王蜂』も『百目』も似たようなものだけど、二人の間には大きな違いがある。
『女王蜂』は目的と手段を取り違えた快楽殺人者だが、『百目』は緻密な計算と完璧な段取りを好む芸術家気質の犯罪者だ。
一人の人間を暗殺するために無差別に爆弾を仕掛けるのは彼のスタイルじゃないはず。
「もっともな疑問だけど、その答えはもう出ているわ。『百目』は爆弾以外に有効な武器が手に入らなかったのよ」
『華神』が私の質問に答えた。
イワンさんがその後を引き継ぐ。
「我々は、奴の依頼人を説得して暗殺を取り消す事は出来なかったが、武器の供給ルートを断つ事には成功しました。奴は手ぶらで日本に潜入した後、在日米軍から武器の横流しを受けるつもりだったようです。注文伝票によればあの凶賊は私をジャベリンで撃つつもりだったらしいですね」
ジャベリンと言うのは最新型の対戦車ミサイルだ。
コンピューターによる自律誘導システムを備え、建築物や塹壕、ヘリコプターまでこれ一つで対応できると言う優れもの。
私も昔このジャベリンを使って、ロシア製のT80U戦車を一発で破壊した事がある。
はっきり言ってジャベリンに比べれば旧式の対戦車ミサイルなんて豆鉄砲みたいも同然だ。
そんな恐ろしい兵器に狙われそうなったと言うのに、イワンさんはえらく楽しそうだった
温厚そうに見えたけど、やっぱりこの人も彼岸の住人なんだなぁ……。
私はバイオレンスな世界の住人達から天井の豪華な壁紙に視線を移した。
人差し指と中指を立てて、トントンと額を叩く。
母さんから受け継いだ、考え事をする時の癖だ。
『華神』の言う事は一応筋が通っている。
さっき目を通した資料の中に『百目』が、今まで日本で仕事をしたという記述はなかった。
映画や漫画の世界と違って、優秀な優秀な傭兵はどこの国でも同じように優秀なわけじゃない。
初めて訪れる国では人種や言語の壁はもちろんの事、その国特有の習慣や法律も大きな障害として立ちはだかる。
幾つものクーデターを成功させた大物傭兵が、バックに入っていたご禁制のお土産のせいで逮捕されたというのは業界内では有名な話だ。
『百目』のような超一流のプロが、国境や文化の壁を考慮にいれなかったはずはない。
しかし、結局誰だって間違いを犯す。
『華神』みたいな魔女が待ち構えていると予測できるのは、本物の魔法使いぐらいだろう。
指で額を叩くのを止めた。
仕事の内容について頭を悩ませるのはここまで。
次は労働条件と報酬について話を聞く番だ。
「―――イワンさん。貴方がたが万全の体制で暗殺者を迎え撃とうとしているのは分かりました。しかし、一流の傭兵を相手にする以上、百パーセント安全と言う事はあり得ません」
「それはそうでしょうなぁ……」
「ですので、通常の金額ではこの仕事をお受けしかねます。相当の危険手当を報酬に上乗せしていただく必要があります」
「もっともなご意見だ。よろしければ、ご希望の金額を聞かせてもらえますかな?」
「相場の百倍というのは如何でしょうか?」
流石にちょっと吹っ掛け過ぎたかな、と思った。
しかし、ここで重要なのは金額じゃない。
依頼人の器、つまりどれだけ私の能力を評価しているかという事なのだ。
イワンさんはその大きな体から漂う威厳のオーラを些かも崩す事なく、
「よろしい。では、貴方の言い値の十倍を支払いましょう」
「はい、その程度ぐらいの金額でしてたら、えっ……?」
待って!
ちちちょっと待って!
百の十倍って事は千倍、ゼロが三個増えちゃうって事!?
それをいつもの一回分の報酬に足したら……。
一、二、三、四、五、六、七、八、九―――キュウウウッ!
あわわわ、ゼロが九個つく金額ってどのぐらいなんだろう?
プロ野球選手の年収?
サラリーマンの一生分のお給料?
きっとそれは命も買える金額だ。
それもダース単位で!!
格が違うのだと痛感した。
イワンさんは私ごときが器を計れるような人じゃなかったのだ。
先制のジャブだけで、私は既にふらふらだった。
だが、イワンさんはさらに強烈なフックを繰り出してきた。
「それから、私は合衆国に非常に影響力のある友人を数名持っています。彼らの力を借りれば、貴方と家族のために合衆国の正式な国籍と身分を手配する事ができるでしょう」
今度こそ、口から手が出るかと思った。
この二年間で、私たちは国籍の無い身分がどんなものか嫌と言うほど味わった。
国という後ろ盾がないと言うのは、生きているのに死んでいるのと同じ事だ。
思えば、私が今まで『華神』に散々弄ばれてきたのも、偽造の身分証を手に入れるためにあの魔女に借りを作ってしまったせいだった。
加えて……。
最近、大統領を暗殺しようとした一人の馬鹿のせいで、アメリカ国籍の希少性は今天井知らずに上がり続けている。
その馬鹿は『雷撃』に撃ち殺されたけど、暗殺事件以来ホワイトハウスは『強化人類』が帰化するための条件を著しく吊り上げた。
その条件の中には、アメリカ軍とイラク戦争への参加が盛り込まれている。
行き先はもちろん、聖戦に猛り狂う超人テロリストたちが待ち構える最前線。
生き延びて、新しい国籍を手に入れる者は余りに少ないと聞く……。
その貴重極まりないアメリカ国籍を、イワンさんは報酬に加えても良いと言っている。
アメリカ国籍さえあれば入国監理局の目を気にする事は無い。
アメリカ国籍さえあればもう世界中どこにだって行ける。
何より、世界最強国の後ろ盾があればもう祖国の暗殺者たちにおびえる必要は無いのだ!
ダウン寸前で踏ん張っている私を、さらなる追撃が襲った。
「手配できる身分は、何も合衆国ばかりとは限らない。貴方たちが希望するのならば、祖国の戸籍を復活させる事もできます。そして『百目』の依頼人や彼の仲間の報復が気になるようであれば、ほとぼりが覚めるまで海外の隠れ家や護衛も手配しましょう」
気がつけば、私はダウンしたボクサーのように天を仰いでいた。
見事なコンビネーションだった。
完璧なまでに逃げ場を塞がれてしまった。
でも、もうノックアウト寸前なのに私の心はまだファイティングポーズを解こうとはしなかった。
多分、話がうますぎるせいなんだろう。
人間、不幸ばかり続くと突然降って湧いた幸運が信じられなくなるものだ。
私は考えた。
考えて、考えて、考え抜いた。
自分の過去を振り返り、『華神』の企みを疑い、未だ謎の多いイワンさんの身の上について推測した。
でも、散々頭を働かせた末に私の心を動かしたのは―――
『でも、『極光極光』いつも私との約束破ってばっかりじゃない! 私、もう『極光極光』の言う事なんか信じないから!』
今朝聞いた妹の言葉だった。
一度、二人で他の国へ旅行に行けば、あの子も機嫌を直してくれるかな……?
大きく息を吸って、
「聞きたい事は全部聞かせてもらいました。よく検討した結果、今から言う三つの条件を飲んでいただければこの依頼を受けても良いと思っています」
緊張で乾いた唇を舌で湿らせる。
次に口にする言葉は間違いなく私の人生を左右するはずだ。
「まず、最初に報酬の半分、六千万円を私の見ている前で、指定する口座に振り込んでください。失礼かもしれませんが、貴方の支払い能力を証明していただきたいのです」
「振り込みをするまでもありませんな。報酬の一部は既に現金でここに置いてあります」
そう言うとイワンさんは自分が座っているイスの背後に手を伸ばした。
取り出したのは旅行用のアタッシュケース。
そのアタッシュケースの中に入っていたのは、数え切れないほどの現金の束!!
「全て米百ドル札で揃えてあります。現在の為替レートで約六千万円。良かったら、手に取って調べて見てください」
こういう交渉ごとで、物欲しそうな態度を見せるのは禁物。
そう分かってはいてもついアタッシュケースの中身に手を伸ばしそうになった。
現金の引力ってすごい……。
なるべく札束の方に目を向けないように意識しながら私は言った。
「その米ドル札が本物かどうかは、後でゆっくり確かめさせていただきます。二つ目の条件はこの仕事が終わるまで、そして終わった後も私と家族安全を保証してもらう事です」
「そちらはもう手を回しているから安心していいわよ」
『華神』が私の質問に即答した。
私はともかく妹の方まで手を回しているとは、この確信犯め!
皮肉ってやりたい気持ちを、ぐっと堪えて話を続けた。
「三つ目の条件は『百目』を仕留める事。私や妹が報復を受けないように確実にね」
「お安いご用よ。そうよね、『切り裂き屋』?」
突然、話題を吹っ掛けられた『切り裂き屋』はアンパンで窒息しかけながら答えた。
「え、あ、もちろんさ!」
また英語も分からないくせに適当な事を言う。
『華神』だけじゃなくてイワンさんまでクスクス笑っていた。
私は、俯いて溜め息をついた。
おちゃらけているように見えても、『切り裂き屋』は結構頼りになる。
それはあいつと肩を並べて戦った経験のある私だから分かる事だ。
加えて、『華神』は絶対に『切り裂き屋』を手に負えないような相手と戦わせたりしない。
「さあ、こっちは貴方の出した条件は全部飲んだわよ。そろそろ返事を聞かせてもらえるかしら?」
とうとうコーナーまで追い詰められてしまった。
心理的にも、論理的にもこれ以上決定を先延ばしにできるような理由も思い付かない。
幻のテンカウントを耳元に聞きながら、私は『華神』の問いにイエスと答えた。