二年目の誕生日 ACT4
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
初に頭に浮かんだのは罵倒だった。
次に頭に浮かんだのも罵倒だった。
最後に頭に浮かんだのは罵倒に満ちた悲鳴だった。
日本語、英語、母国語、それからロシア語と有りとあらゆるスラングが頭を駆け巡り、喉の辺りで渋滞を起こして息を詰まらせた。
『華神』から被ったあんな被害やこんな災難が次々に脳裏に蘇る。
そして、私はまたもや、この魔女の罠に嵌められたのだ!
もう、我慢できない!
今度と言う今度こそトコトン決着を着けてやる!
まずは身体をよじて『華神』の腕から逃れようとした。
しかし、彼女はあっさり私を開放。
拍子抜けして思わず一瞬動きを止めてしまった。
その隙に『華神』は私の頬を両手の平で捕らえ、
顔を近付け、
―――ちゅ♪
え?
うえっ?
うええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!!?
「なっ、なっ、なんばしょっとかぁあっ!?」
「あら? 『極光』ったら何時の間に日本語の方言まで身に着けたの?」
「最近、首都圏以外のお客さんを相手にする時に勉強した……って違う! 今キスしたな! 私にキスをしたな! 許可なく唇を奪った!」
「大袈裟ねぇ。ただの挨拶のキスじない。私が帰国子女だってのは知ってるでしょ。こんなのアメリカじゃ有りふれたスキンシップよ」
「嘘だぁ―――! ただのスキンシップで舌なんか入れない! 絶対入れるもんかぁ!」
うう、誰にも許した事がなかったのに!
好きな子にも許した事がなかったのにっ!!
今まで守り通して来た私の純潔がこんな奴に散らされるなんて!!!
今の私の気持ちをストレートにパンチで表現しようとした。
だけど、あれれ?
何故か体に力が入らない!
ふにゃふにゃと頼りない私の拳を『華神』は余裕で回避。
空振りのせいでバランスを崩した私はまたしても彼女の胸に顔を埋めるはめになった。
「あらら、今日は随分と甘えん坊さんじゃない? そんなに私の事が恋しかったのかしら?」
「そんなわけあるかぁっ! ふ、『華神』、あんた私に麻酔香をつかったな!」
体から力が抜けたせいか、頭からも血の気が抜けた。
おかげで、少し冷静に自分の置かれた状況を捉える事ができるようになった。
この脱力感の元凶もすぐにわかった。
さっきのキスだ!
『華神』の異名は妖香の魔女。
四桁の種類の香りを使いこなし、人の心身を自由に操る事を得意とする。
その力を防ぐためには、ただ息を止めれば良い。
だが、『華神』はこちらが息を止める前に直接口から香りを吹き込んだのだ!
舌を差し入れて来たのも、私が唇を閉じにくいようにするためだったに違いない。
相変わらず『華神』のやる事は合理的で無駄がない。
だけど、いくら理に適っているとは言え、世の中にはやって良い事と悪い事がある!
あうう、さっきの事を思い出したらまた涙が出て来た!
麻酔香のせいで力の入らない手足の代わりに『華神』の顔を突き刺すように睨み付けやった。
「おやおや、気分が悪いみたいね、『極光』。顔色と目付きが悪いわよ。さあ、こんなところに突っ立っていないで、部屋の中に入って休んだらどう?」
でも、魔女の面の皮は戦車の複合装甲並みに分厚かった。
輝かんばかりの笑顔で怨念に満ち溢れた視線を弾き返すと、『華神』は私の体を破戒締めにしてずるずると部屋の中へ引きずり込み始める。
「やだやだやだ! やめろ、ばか――!!」
「可哀相に。とうとう口まで悪くなって……病状はいよいよ深刻のようね。でも、安心して私に良いお薬があるから。それを使えば貴方もすぅぅうぐに素直な良い子になるわよ♪」
冗談じゃない!
この女、私を洗脳する気満々じゃないか!
このまま、部屋の中に連れ込まれたら最後、その妖しげなお薬でどんな好き勝手をされるのかわかったもんじゃない!
文字通り、一命を懸けて必死に暴れた。
だけど……ああ、やっぱり駄目だ。
完全に極まった『華神』の締め技は力の抜けた私の手足ぐらいじゃぴくりともしない。
ちくしょう、こいつ今の私(身長180cm)よりも一回り小さいくせになんでこんなに力が強いんのよ!!
頭の中で流れる大音量の「ドナドナ」をBGMに私の視界が真っ黒な絶望にか塗りつぶされようとした、その時だった。
「あれ? 『華神』、何をしてるんだい?」
呑気な声と共に冴えない外見をした男が開き切った365号室の扉の後ろから顔を覗かせた。
「あっ! 『切り裂き屋』、まだこっちに来ちゃ駄目じゃない!」
驚きの声を上げる『華神』。
同時に万力のように私を締め上げていた彼女の腕から力が抜ける。
チャンスだ!!
微かに回復し始めた力を総動員して腕と肩の部分を変形!
するりと『華神』の腕から体を引き抜いた。
急いで廊下を駆け去ろうとして、躓きそうになった。
くっ、まだ全力疾走ができるほど体力が回復していない。
足を使っての逃亡をひとまず諦める。
すぐさま、次の獲物を見つけて、そいつに飛び掛かった!
「ごめん。何か悲鳴みたいな声が聞こえたから、気になっちゃってさ。ところで見慣れない顔が一人いるけど、君ひょっとして『オ、おぎゃああああっ―――!!!』
まだその場に呑気に佇んでいた新顔の男に襲いかかり、そいつの胸倉を掴んで引き寄せる。
うーん、遠くから見た時も冴えない奴だと思ったけど、間近で見ると一層情けない。
別に背が低いわけじゃないし、服のセンスも悪くはない。
顔だって酷く無個性なところを抜かせば、端正だと言えなくもない。
一つ一つのパーツは特に問題はないのに、全部が一つに合わさると何故か筆舌しがたいほどショボさを生み出すのだ。
だが、油断は大敵。
人畜無害な外見からは想像も付かないが、この男は『切り裂き屋』と言う物騒な渾名で知られる最強の『強化人類』の一人であり、あの『華神』がこの世でただ一人自分の相棒と認めた男なのだ。
胸元を掴む手に力を込め、『切り裂き屋』の貧弱な体を一気に吊り上げる。
最強とは言っても、彼の場合、恐いのはその強力無比な間接攻撃だけだ。
単純な身体能力においては、少々麻痺しているとは言え、手足を強化された私の敵ではない!
「ぐおおお、な、なんで俺がこんな目にっ!!」
突然宙吊りにされた『切り裂き屋』はなす術も無く、浮いた足をばたつかせる。
私は、息苦しさに目を白黒させる彼に顔を近づき、どすの効いた低い声で言った。
「うるさい、『切り裂き屋』! 教えなさい! なんで『華神』がここにいるの? 私がいつも使っている紹介屋は何処へ行ったの? あんた達一体ここで何をしてるのさ!?」
「し、知らない! 本当だ! 俺も『華神』に呼び出されて、ここへ来たばかりなんだよ!」
うん、私もそう思う。
『華神』はあの極悪な性格にも関わらず、何故か『切り裂き屋』に甘いところがある。
裏社会の事情にあまり彼を巻き込みたくないのか、『切り裂き屋』に詳しい事情を教えない事も多い。
だから、私も彼から今回の仕事の背景を聞き出せるとは期待していなかった。
いや、そもそも今の私にとって一番重要なのはこの場から脱出する事であって、情報収集は二の次。
『切り裂き屋』を締め上げている本当の目的は、別のところに有る。
ちらりと横目で『華神』の様子をうかがう。
彼女は無表情にこちらのほうを見据えたまま、まだ動いていない。
その両手は、何かを堪えるかの如く、堅く握り締められていた。
『華神』は『切り裂き屋』に対して異常な程の執着心を示すが、たまに私がこうして彼に手出しをしても、何もしない事がある。
本人曰く、自分のものが他人に好き勝手されているのに、何も出来ない焦燥感に身を焦がすのがまた快感なのだそうな。
……本当に、倒錯者の考える事は理解を絶する事おびただしい。
しかし、今回は私が無事にここから脱出するために、彼女の異常な性癖を利用させてもらう事にした。
「ふふふ、相変わらずしぶといね、『切り裂き屋』。でも、あんたがそんな風に粘るなら、こっちにも考えがあるから!」
「むおおおおおっ-――――――!!!!!」
『切り裂き屋』の顔が段々熟しすぎたブルーベリーと同じ色になってきた。
さっきまでしきりに私の腕をタップしていた手も今はだらりと力なく脇に垂れ下がっている。
よし、ここまで来れば、後一息!
このまま、一気に締め落としてやろうと私がさらに力を篭めようとしたその時―――
不意に暖かな感触が私の口元を覆った。
驚いて思わず息を呑んでしまった。
しまった!と思った時にはもう遅かった。
甘い芳香が気管を満たし、私の手足からまた力が抜けていく。
とっさに振り返ったその先には、
「彼は私から何も聞かされていないから、これ以上締め上げても何も出てこないわよ、『極光』。それに―――『切り裂き屋』を締め落として、私が彼を介抱している隙に逃げようとしたってそうは問屋がおろさないんだから♪」
毒の蜜を滴らせた『華神』の笑顔。
背中を冷や汗で濡らしながら、私は改めて確信した。
この女は本物だ!
本物のサディストだ!
私の思惑なんて全部分かっていたはずだ。
それなのに、最初は私の好きなようにさせた。
そして、微かな希望が芽を出し、蕾をつけ、花開く寸前で無残にも私を絶望のどん底に突き落としたのだ。
「うう、酷い目にあった。助かったよ、『華神』。死ぬかと思った……」
多分この場にいる面子の中で、一人だけ『華神』の本性に気付いていない男が呻き声を上げながら起き上がった。
『華神』が彼を見下ろしながら、咎めるように言う。
「駄目じゃないの、『切り裂き屋』。私が合図を送るまでは、こっちへ来ちゃ駄目だって言っておいたでしょ? 『極光』は最近ゲリラ時代のトラウマがフラッシュバックして周りにいる人間が全員敵に見えるようになってたのよ。私はそれをアロマテラピーで治療してあげていたの。後少し間に入るのが遅かったら、貴方この人に政府軍のスパイと間違えられて殺されてたわよ」
「なんてこったぁ、『華神』! 君はまたしても俺の命を救ってくれたのか!」
微塵の疑いも挟まずに、『華神』の説明を信じきる『切り裂き屋』。
感謝の意を表し、いつも通りの微笑みを帰って来るの待った。
しかし、『華神』は笑みを浮かべるどころか、表情も変えずにじっと相棒を見つめる。
不安に駆られてそわそわし始める『切り裂き屋』。
それを見計らって『華神』が口を開いた。
「お礼なんか良いわ。でも、次から私との約束を破ちゃ駄目よ」
相手を焦らして、ご褒美の値段を吊り上げる。
人の心を知り尽くした魔女の常套手段。
そして、それに引っ掛かる馬鹿一匹。
「ああ、分かっているさ。君が言った事を忘れるとは、俺はなんて本当馬鹿だったんだろう!」
自分の新しい首輪を巻き付ける忠犬。
そこで、ようやく魔女は彼にご褒美を与えた。
蜜も滴る満開の笑顔を相方に向ける『華神』。
安堵に胸を撫で下ろしつつ、微笑みを返す『切り裂き屋』。
二人のやり取りに置いてきぼりにされてげっそりとする私。
こんな一見爽やかに見えて、その奥にドス黒いものを秘めた感情を私は「愛」だとは絶対に認めない!
ああ、変態二人の毒気に当てられたせいか『華神』の露骨な嘘を訂正する気力さえ湧いて来ない。
力なく頭を巡らしながら、私は藁にも縋る思いでこの場で唯一頼りになりそうな人物を探した。
―――っておじいさん、あんたなんでそんな涼しい顔でルームサービスを頼んでやがりますか!?
「ふむ、どうやら『華神』くんを介した私達の意思の疎通に大きな齟齬があるようだからね。ここは一つ、お菓子でも摘みながら一度じっくり話しあった方が良いと思うのだが、どうかな?」
……ひょっとしたら、こんな異常な状況でも少しも取り乱さないこの人が一番手強い相手なのかもしれない。
大きな溜め息と共に私はこの場から脱出するという希望を体から吐き出した。
* * *
―――と言うわけで、私達は部屋のソファーに腰をおろし、イワンさんが頼んだ軽食を挟んで話し合いをする事になった。
ソファーの上座には最年長者であり、今回の仲裁者であるイワンさん。
緑茶を啜りながら、お煎餅を齧る姿は、白人をとは思えないほど堂に入っている。
イワンさんの右手には今回の被害者であるこの私。
出された抹茶味のケーキを不機嫌な顔で口の中に放り込む。
ろくに噛みもせずに飲み込み、目の前の相手を焼きつくような視線を送る。
その視線の先には今回の仕掛人。
私をこの場に誘い出した諸悪の元凶、『華神』が――
―――って、うわあああああああ!
こ、こいつ、プリンアラモードにわさび醤油をかけてる!
あ、スプーンで掬った!
口に運んだ!
美味しそうに咀嚼してるぅ!!
前々から『華神』の味覚が変だとは知ってはいたけど、まさかここまで悪食な奴だったなんて……。
そういえば、こいつ前にステーキにチョコソースをかけて食べていたっけ。
うう、見ているだけ胸焼けしてきた。
口を押さえて、顔を背ける。
そんな私を見て何を勘違いしたのか、『華神』は自分が食べていた物をスプーンで私に差し出した。
「そんなに拗ねないでよ、『極光』。これあげるから機嫌を直して。ウニの味がして美味しいわよ」
「わ、私は拗ねてなんかいないし、そんな変なものもいらない! 大体、ウニを味わいたかったら、本物のウニを食べればいいじゃない。なんでそんな変なのを食べるのさ!」
椅子から転げ落ちそうになりながら、おどろおどろしい茶色い物体から逃れようとする私。
それを眺めて『華神』がくすくす笑う。
「嘘ばっかり。強がりも良いけど、まずその拗ねるとすぐに女の子に化ける癖を直した方がいいわよ」
……ウニの事はあっさり流したな。
でも、それ以外の事に関しては『華神』の言う事にも一理あると認めない訳にはいかなかった。
私は既に仕事のためにコーディネイトした美青年の姿をしてはいなかった。
今、身に纏っている『外装』は、今朝目覚めた時に最初に変身した褐色のヌードモデルのものだった。
私のように自分の外見をある程度変形できる『強化人類ト』達は、強い衝撃やストレスを受けると、それを受け流すため負担の少ない姿に変身しようとする癖がある。
その時、化ける姿は、人それぞれだが、私の場合、普通の人間だった頃の姿に近い形状に変身しようとする傾向があるようだ。
ただし、不思議な事にどんなに強いストレスを感じても、昔と完全に同じ姿に変身した事は一度も無い。
『華神』が私に突きつけていた不気味な食べ物をスプーンごと引っ込めて、自分の口の中に運んだ。
ほっと一息つくと、私はお尻の筋肉を使って体の向きを変え、再び『華神』と睨みあう。
「とりあえず、イワンさんにもわかり易いように。さっきあんたが言った事を纏めさせてもらうよ。まず、あんたが言うには今行方知れずのカルロス……つまり、私がいつも使っているブローカーはある日突然神様の啓示を受けて、自分の今までの悪事を悔い改め、故郷にいる2人の両親と3人の兄弟、4人の女房に大小合わせて12人の子供達の世話を見るために帰国したらしいね」
「ええ、そうよ」
「私が知る限り、彼は孤児院育ちで、おまけに独身のはずなのに?」
「カルロスのような男には秘密が多いものよ。彼が既婚者だからと言って驚くほどの事じゃないわ」
私の皮肉を軽く躱して先を促す『華神』。
しかも、スプーンはまだ口に咥えたままだ。
早くもコメカミの辺りが疼き始めるのを感じながら、私は話を続けた。
「で―――帰国する前にカルロスは、自分のシノギを、虎の子の顧客名簿ごと友人のあんたに譲った。何故か当のお得意様である私達には何も知らせずに。ねえ『華神』、確か最後にあった時、あんた忙しくて首も回らないって悲鳴をあげてたよね。いつの間に、人の仕事に手を出すほど暇になったわけ?」
「不断の努力と綿密なスケジュール管理が不可能を可能にしたのよ。それから?」
こ、この女よくもいけしゃあしゃあとっ……!!
肘掛けを穴が開くほど強く握り締める。
超人的な忍耐力を、ふり絞って何とか矢のように飛び出そうとする自分の体を押さえ付けた。
「それから……ちょうどその頃、まるで計ったようなタイミングで、あんたの元に変身能力を持つ異能者が必要な仕事が舞い込んだ。そして、あんたはこれ幸いとばかりに手に入れたばかりのカルロスのルートを利用して、私をこのホテルに誘い出したってわけだ」
「幾つか悪意の籠った表現が混じっているけど。ええ、概ねその通りよ。なんだぁ。『極光』ちゃんと分かってるじゃない! さあ、早速この誓約書にサインを……」
「するかぁっ!!」
私の我慢袋の尾が、ついに弾け跳んだ!
バネ仕掛けの玩具みたいな勢いでソファーから立ち上がる。
指を『華神』に突き付け、悲鳴のような声で言った。
「あんた、嘘も大概にしなさいよ!あんたがカルロスに成り済まして送って来たメールの中には、「影武者」の事なんて一言も書いてなかったじゃない! それにこの部屋の前で私を待ち伏せして、薬で無理やり言う事を聞かせようとした事も忘れたとは言わせないよ!」
私の糾弾にも『華神』は1ミリ足りとも動揺しなかった。
グラスの中に残っていた醤油プリンの最後の一かけらを口の納める。
長い足を組み、その上に組んだ指を乗せて余裕の表情で私を見上げた。
「随分な言い草ね、『極光』。歴戦のゲリラも日本での生活が長すぎて、平和ボケしちゃったのかしら? 今回みたいに依頼人の命に関わるようなデリケートなミッションで、具体的な仕事の内容なんかメールに書き込めるわけがないでしょ? それに覚えていると思うけど、ろくな説明もせずに部屋から飛び出したのは貴方の方よ。言葉も話せないほど動揺していた友人を引き止めて、鎮静剤を使って落ち着かせようとしたのは、それほど不自然な事かしら?」
あまりに頭に血が上りすぎてもう何を言い返していいのかわからない。
白熱した頭を冷やすために、一端言葉の代わりに肺に溜まった熱い空気を無理やり体の中に押し出した。
苦りきった顔で『華神』の顔を睨みつけながら、ゆっくりとソファーに腰を降ろす。
前に言った事を一つ撤回する必要がありそうだ。
この女の面の皮は戦車の装甲なんて可愛いものじゃない。原子炉の隔壁なみだ。
X線だってこいつの顔の皮を貫くことはできそうにない。
私は、ひとまず『華神』から視線を外し、イワンさんの方を見た。
この話し合いの裁判官であり、陪審員でもある老人は、妙に威厳のある仕草で自分の髭に付いた煎餅のかけらを取っていた。
今、耳にした情報を吟味しているのだろうか?
瞼は閉ざされ、一瞥しただけでは何を考えているのか窺い知る事はできない。
イワンさんのような『有力者』が相手の場合、その依頼を単に請け負うよりも断る方が遥かに面倒だ。
彼らを納得させるためには、筋の通った説明を根気よく繰り返すしかない。
そして、質の悪い事にこちらに筋の通った言い分があるにも関わらず、相手が面子を潰されたと思い込んで臍を曲げる事も珍しくない。
加えて、私はこの話し合いの場に臨むに当ってすでに二つも大きなハンデを抱えている。
一つは、この話し合いの焦点である仕事にイワンさんの命が関わっている事。
もう一つは、私が既に一回この仕事を請け負うと返事をしてしまった事だ。
『華神』はその苦境を理解した上で、なし崩しに私に今回の依頼を受けさせようとしているのだ。
もし、依頼主のイワンさんが普通の常識と聴覚の持ち主であれば、こんな詐欺じみたやり方を許すはずは無い。
しかし、選良と呼ばれる人間達を数多く目にしてきた私は、無邪気に彼らの良識に期待する事ができなかった。
確かにイワンさんは私が会ってきた人間の中でも稀に見る好人物だが、無条件に彼の良識に頼ろうとするのは決して賢い行いとは言えない。
一瞬、隙を見てまた逃げ出そうかと思った。
しかし、すぐに自分でその考えを否定した。
例え、一時この場を逃れたとしても何になる?
私はマイノリティである『強化人類』の中でも、さらに少数派に属する外様の異能力者だ。
私と妹のパスポートとビザは全て黒社会で作られた偽造品。
公式的な立場で言えば、不法滞在の外国人以外の何者でもない。
イワンさんのような巨人の眼から見れば、いつでも握り潰せる蟻の如き存在。
この部屋から逃げ出したとしても、今の職業を失って路頭に迷い、巨人の影に怯えながら生き続ける事になるのは目に見えている。
やはり、ただ逃走すると言う選択肢はありえない。
正攻法でこの二人を説得する以外に私が生きてこの場を逃れる術は無さそうだ。
何か他に良い言い訳のネタは無いものか?
部屋の中を見渡した時に、隅っこでぽつんと座っていた『切り裂き屋』と目が合った。
ああ、そう言えばこいつも居たんだっけ。
あまりに存在感が、空気なのでナチュラルに忘れていたわ。
ちなみに今までの私たちの会話は、全て英語で行われている。
この面子の中で唯一英語が話せない『切り裂き屋』は、会話に入ってくる事ができずに、自然と部屋の角に追いやられていた。
ちなみに今彼がハムスターみたいモシャモシャ食べているのは、普通のコンビに売っているような菓子パンとコーヒー牛乳。
私達が食べている高価なデザート等とはえらい差だ。
いや、それよりもあんな貧乏人の食べ物が、良くこの超が着くほど高級な旅館の中にあったものだと感心してしまった。
きっと、わざわざコンビニのあるところまで人をやって、買って来たに違いない。
下手をすると老舗のお煎餅や手作りのプリンよりもコストが掛かっているのかもしれない。
支配人さん、ひょっとして『切り裂き屋』の奴が嫌いなのかな?
私と目が合った途端、『切り裂き屋』が、情けない笑顔を浮かべながら、こっちに向かって手を振った。
今までの会話を通訳して欲しいと言っているらしい。
勿論、そんな義理は無いので、そっぽを向いて無視してやった。
自分のペットの世話ぐらい自分で見なさいよ、と言う気持ちを表情に篭めて、『華神』の方を見やる。
……って、この女ちらちら彼の方を伺いながら、何かを堪えるように椅子の上で小刻みに体を揺すってやがる。
しかも、時々楽しそうにくすくす笑いを漏らしているし!
どうやら、新手の放置プレーの様だ……。
へ、変態どもめぇ!
ああ、嫌だ!
もう、嫌だ!
一体、これはどう言う拷問なんだ?
なんで私が、こんな倒錯者達と同じ部屋の中に閉じ込められているんだ?
こんな事なら、仕事に出かけずに家に残ってよればよかった。
妹だって、私と一緒に誕生日を過ごす事を楽しみにしていたのに……。
あ、でも、『切り裂き屋』と目が合ったお陰で大事な事を一つ思い出したぞ。
色んな意味で魔女のインパクトが強すぎたお陰で忘れていたけど、この事は依頼の根幹に関わる。
依頼を受けるにしろ、断るにしろ、聞かずに済ませるわけには行かない。
「ねえ、『華神』」
「何、『極光』。いい加減観念したの?」
「馬鹿な事言わないで。大事な事まだ聞いていないのを思い出しただけよ。今、イワンさんを狙っているスィーパーって誰さ?」
「何を根拠に私がそいつの事を知っていると思ったの? 殺し屋は皆、自分の名前と顔を極力隠そうとするものよ。特にこれから誰かを消そうとしている奴はね」
手応え有り!!!
今、彼女は知っているとは答えなかったけど、知らないとも言わなかった。
明らかに何かを隠している態度。
これは妖しい!
好奇心と不安が同時にざわめき始めるのを感じながら、私はすぐさま次の言葉の矢を『華神』に投げつけた。
「誤魔化そうとしても無駄よ。根拠はあいつ。あんたが相手の手札もわからずに、『切り札』を切るわけないからね。『切り裂き屋』が出る以上、相手は相当手ごわい奴か、あいつと相性の悪い相手なんでしょ?」
『華神』を私の質問に応えずに、いきなり明後日の方向を向いて口笛を吹き始めた。
とことん、誤魔化すつもりか!
だけど、今日に限ってその手は通用しないぞ!
『華神』からイワンさんの方に向き直る。
私の視線と表情から何を言いたいのかを理解した老人は簡潔にこちらの質問に応えてくれた。
「『百目』、それが私の命を狙っている無法者の名前と聞いている」
私は頷き、視線を通してイワンさんに感謝の意を伝えた。
そうか、相手は『百目』か……。
そうすると、あれ?
ちょ、ちょっと待てよ。
『百目』って言ったら確か!
長い間、油を差していない機械みたいな動きで『華神』の方を振り返る。
やっとの思いで口から搾り出した言葉は、まるで老婆のようにしゃがれていた。
「『百目』って、あの『百目』なの?」
「あら、知ってたの? ええ、そうよ。多分今貴方が考えている奴がその『百目』よ」
一瞬の間を置いて……。
ショックで凍り付いていた激情が私の体を脳天まで貫いた!
知っているかって?
知らないわけが無いじゃないか!
と言うよりも、私達の世界で生きる者とって、決して触れてはいけないタブーが三つ存在する。
一つ、無敵の『山猫』。
一つ、最強の『亀』。
そして、最後の一つが……今イワンさんが口にした不死身の『百目』だ。
『百目』。
その名前をもつ男(或いは男と思われている人物)は、『強化人類』なる存在が誕生する前から、伝説の傭兵として闇の世界に名を轟かしてきた。
イラン、イラク、アメリカにキューバ、中国にロシアと世界の至るところに出没。
人と人が争う場所があればほとんどと言って良いほど彼の痕跡を見つける事ができる。
腕前が伝説的ならば、身代わりの早さもまた伝説的。
報酬次第ではどんな相手にでも仕え、どんな依頼でも受ける節操なし。
その仕事の成功率実に―――
「……98%。そんな化物相手に一体どうしろって言うのさ!」
「そんなに緊張しないで。もう爆弾は私がほぼ解除したからさ」
「ば、爆弾! 爆弾がもう仕掛けられてたの!?」
困ったように笑顔を浮かべる『華神』。
又してもイワンさんが彼女に代わって私の疑問に答えてくれた。
「『華神』くんによれば、この都市だけで既に50個あまりの爆弾が仕掛けられていたそうだ。爆薬の重量だけで100kgに達すると言う話だ。しかも、その内の一つは私に関わりのある少年の体の中に仕掛けられていたらしい」
滅茶苦茶だ!
手段を選ばないにも程と言うものがある!
そんな量の爆弾を一斉に爆発させたら、首都が、いいやこの国が丸ごとひっくり返るかもしれないじゃないか!
いや、それよりも人の体の中に爆弾を仕掛けたって……
「あ、あ、あんた、そんなサイコ野郎の相手を私にさせる気だったの? 確か、あいつは『切り裂き屋』と同じ電磁波系の能力者だったよね。彼ほどの出力は無いけど、人間をがん細胞の塊に変えるには十分な威力があるって……ねえ、私は今から火災保険に入ったらいいの? それとも癌保険に入った方が良いの?」
「車に乗っている時が一番狙われやすいから、車両保険も欲しいところね。だけど、安心して、保険の手続きなら私がもう全部済ませてあげたから♪」
「なんで! というか、いつ!」
「ちなみに保険金の受取人はこのわ・た・し♪」
「いやあああああ!! せめて受取人は妹にして!」
か、確信犯かこいつわぁ!
再び『華神』に掴み掛かろうとした。
その手を『華神』がひらりと躱した。
口許に手を当てて、くすくすと笑う。
「やぁね。本気にしないでよ。場を和ますためのほんの軽いジョークよ。大体外見を自由に変えられる貴方に保険金殺人を仕掛けるなんて不可能じゃないの」
「これ以上ないぐらい荒んだ気持ちにさせてもらったよ。って言うか、あんたの口から聞くとちっともジョークに聞こえないから怖いのよ!」
分かった。
良く分かった。
この魔女が存在する限り、私達に平穏な未来など有り得ないという事が。
例えここから脱出できたとしても、こいつが私を放って置くわけがない。
きっとまた同じ事の繰り返しになる。
やはり今、ここで物理的に決着をつけるしかない!
その超人的な感覚で私の気持ちを察したのだろう。
『華神』の顔から余裕の微笑みが消えた。
細く、しかし強靭な筋肉の中にしなやかな力が生まれるのを感じた。
同時に背後に生じるプレッシャー!
『華神』の異変を感じて、『切り裂き屋』が牙を向いたのだ。
あの魔女の忠犬は、普段はチワワよりもおとなしい生き物だが、主人の身に危険が及んだ時だけはこの世でもっとも危険な猛獣に早変わりする。
しかし、今はまだ『切り裂き屋』の事は心配しなくても良い。
あいつの能力は狭い室内で使うのには向いていない。
破壊力がありすぎて、私と一緒に大事な主人もズタズタにしてしまう可能性があるからだ。
だから、今私が意識を集中させるべき相手は目の前にいる『華神』だけ。
きりきりと限界まで張り詰めて行く緊張感。
私と『華神』は獲物を挟んだ二匹の豹のように油断なくお互いの隙を探り、にらみ合い、威嚇し、そして―――
「―――失礼」
鋼の重みと冷たさを備えた一言が、怒りで真っ赤に煮え滾っていた私の頭に突き刺さった。
その言葉に促されるように私と『華神』は絡まりあった視線を解いて、同じ方向に顔を向けた。
イワンさんは自分を見詰める二組の――多分『切り裂き屋』も見ているから合計三組か――の眼を穏やかな表情で受け止め、
「今までの話から判断するに……『華神』くん、今回の件については君の方に非があるようだね」
私が喉から手が出るほど欲しがっていたけど、少しも期待していなかった言葉をあっさり口にした。