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二年目の誕生日 ACT2

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 ドアに向かってお気に入りの縫いぐるみを投げ付けた後、『(レインボー)』はずっとベッドに俯せになったままピクリとも動かなかった。

 

 何も見たくないし、何も聞きたくなかった。

 枕に顔を埋め、目と耳を完全にふさいでしまった。

 しかし、それでも外の情報は微かな隙間を見つけて頭の中に忍び込んで来る。

 

 外側から鍵をかける音がして、家の中から自分以外の気配が消えると『(レインボー)』は涙のせいで湿っぽくなった枕から顔を引きはがし、ゆっくりとベッドから起き上がった。

 扉の側まで歩いていき、床に落ちていたオランウータンにしか見えない不細工な羊の縫いぐるみを拾い上げる。

 ごめんね、と小さな声で謝罪して、布と綿でできた友達をベッドの上に置いた。

 

 扉を開け、寝室の外に出た。

 誰もいないのを確認して、がっかりした。

 心のどこかで『極光(オーロラ)』が出かける振りをして、自分を部屋から誘い出そうとしているんじゃないかと期待していたのだ。

 

「…本当に出かけちゃったんだ」

 

 ぽつりと小さな声で呟き、とぼとぼと玄関へ歩いて行った。

 自分と外の世界を隔てる鉄の扉の前に立つ。

 大きな分厚い金属の板に向かって熱い憎悪の視線を浴びせかけた。

 

 ここから出て行ってやろうか?

 半ば本気でそう思った。

 でも、そんなのは不可能だという事を、『(レインボー)』自身が一番良く分かっていた。

 

 扉には『(レインボー)』が一人で勝手に出て行けないように外側に鍵が設けられている。

 それに例え鍵がかかっていなくても、『(レインボー)』はこの扉から足を踏み出す事はできなかっただろう。

 

 始めてこの家に着いた日から実に365日以上。

 一歩も外に出ずに生活をして来たと言う事実そのものが鉄の扉よりも大きな障害物となって少女と外の世界の間に横たわっていた。

 

 扉の向こうにあるのが懐かしい母国ならば、まだ外に出る勇気をふり絞る事ができたかもしれない。

 しかし、今この扉の彼方に広がっているのは聞き慣れぬ言葉が飛び交い、見慣れぬ文化が息づく異国の大地なのだ。

 

 始めの頃はまだ異郷の地に対する憧れや好奇心があった。

 しかし、囚人のような生活を送る内に憧れは諦観に、好奇心は未知のものに対する不安にとって換られてしまった。

 今では、外に対する興味よりも一人で出て行く事への恐怖が勝っている。

 

「ディズニーランドとか、東京タワーとか、行きたいところ一杯あったのになぁ……」

 

 鉄の扉を一回だけ軽く蹴り着け、玄関に背を向けて、またとぼとぼと家の中へ戻っていった。

 

 そして、長い長い一人だけの一日が今日も始まった。

 

 まずリビングへ行って、朝食を取る事にした。

 別におなかが空いていたわけじゃない。

 他にする事が何も思い付かなかっただけ。

 

 食卓の上の料理を黙々と口の中に詰め込んでいった。

 一人で食べる朝ご飯は冷たくて、味気無くて、ちっとも美味しくなかった。

 今朝、料理は作っていた時につまみ食いしたいぐらい美味しそうに見えたのが嘘のようだ。

 

 それでも、やるべき事がある内はまだ良かった。

 本当に恐ろしいのは何もする事がないのに延々と続く無意味な時間の方だ。

 だから、『(レインボー)』は普通の倍以上の時間を掛けてのろのろと食事を取り、のろのろと後片付けをし、のろのろと歯を磨いて、のろのろと顔を洗った。

 

 しかし、どんなに引き伸ばしたところで、何時か終わりはやって来る。

(レインボー)』の努力も空しく、終に今朝やるべき事は全てやり尽くしてしまった。

 

 後に残るのは耳鳴りがするほどの圧倒的な空白。

 その白を何とか埋め尽くそうと小さな少女は必死に抵抗を続ける。

 

 まずテレビを見て時間を潰す事にした。

 五分と経たずに、スイッチを切ってしまった。

 決して手の届かない画面の向こうの世界を見ているのは苦痛以外の何者でもなかった。

 

 次に食卓に戻って、『極光(オーロラ)』のプレゼントの包み紙を破いた。

 中に入っていたのは真珠と銀の耳飾。

 いつもと同じ、美しくて、高価なだけの贈り物。

 溜息をついて贈り物を寝室に持ち帰り、ピラミッドのように積み重なった同じような箱に上に放置した。

 

 今にも崩れそうな贈り物の山の隣りにあるボートゲームの駒を手に取ってみた。

 二、三回手の中で弄んだ後に放り投げてしまった。

 暇潰しの一人遊びは却って、孤独を強調する。

 

 例え偽者でもいい、話し相手が欲しいと思った。

 胸の中で膨れ上がる渇望に絶え切れず、部屋の隅にある化粧台の前に立つ。

 鏡の上に被せた布を掴み、恐る恐る中を覗き込んだ。

 すぐにまた布を下ろしてしまった。

 ウィルスのせいで変わり果ててしまった自分の姿は、直視に耐えなかった。

 

 鏡から目を逸らし、ベッドの上に腰を下ろす。

 綺麗な壁紙に覆われた天井を見ていると、大きな涙の粒がまたじわりと少女の目を濡らし始めた。

 

「……『極光(オーロラ)』、私の事が嫌いになっちゃったのかな?」

 

 答える者のいない静寂の中に、空しい問いを投げ込んだ。

 

「私が変わっちゃったから、私が……醜くなったから、嫌いになっちゃったのかな?」

 

 もし、そう思い込むことが出来たのならば、どれほど気が楽になった事だろう。

 だけど、『(レインボー)』は知っている。

 例え、間違った方向に向いているとしても、『極光(オーロラ)』は以前と同じように、いやそれ以上に自分を愛している事を。

 

(レインボー)』がどんなに癇癪を起こしても、『極光(オーロラ)』は同じように怒鳴り返す事は愚か、声を荒げる事さえしなかった。

 いつも愛情を尽くし、言葉を尽くして、彼女の気持ちを受け止めてくれた。

 

 愛しているよ。

 愛しているよ。

 貴方のためなのよ……。

 

 しかし、繰り返し、繰り返し、囁かれる愛の言葉は、絹の帯のように『(レインボー)』の首を締め上げ、彼女から抵抗する気力を奪っていった。

 そして、二人だけの世界の中で同じような毎日がまた循環されていく。

 

 一歩も外に出られない快適な家。

 たった一人で食べる豪華な食事。

 どこにも着ていけない綺麗な服。

 毎週のように送られる高価なプレゼントの数々。

 淡々と部屋の中を満たしていくそれらに追い詰められて、『(レインボー)』の心は窒息してしまいそうだった。

 

 何故こんな事になってしまったのか、いくら考えても分からなかった。

 でも、何時からこんな事が始まったのかは、よく覚えている。

 二人が日本の土を踏んだ時……。

 いや、それよりもずっと前。

 死に物狂いで母国を脱出し、一緒に戦ってきたレジスタンスの仲間たちと分かれた時から、『極光(オーロラ)』の中で『何か』が静かに狂い始めたのだ。

 そして、日本で二人だけの生活が始まると、その『何か』は『(レインボー)』の眼にもはっきりと分かるほど顕著に表面化し始めた。

 

 まず、『極光(オーロラ)』は家族のささやかなお祝い事が出来ないほど大量の仕事でスケジュールを満たすようになった。

 それから、不必要なほどたくさんの贈り物で『(レインボー)』を包囲し、彼女を家の中に閉じ込めた。

 最後には、テレビやラジオのような一方通行の情報媒体を除いて、家から外に繋がる通信機器をほぼ全て排除してしまった。

 

 とても安息の地を見つけた人間の行動には見えなかった。

 少女の眼には、『極光(オーロラ)』がゆっくりと追い詰められているように映った。

 まるで、もう何処にも存在しない狩人に怯えて、巣穴の奥で縮こまる獣のように……。

 

 愛する家族が緩やかに狂気に犯されていく姿を見るのは、恐ろしかったし、悲しかった。

 しかし、それ以上に何も出来ない自分が、『(レインボー)』は酷く歯がゆかった。

 

 だから、空しいと分かりつつも少女は同じ問いを繰り返さずに入られない。

 一体、私達はどこで、何を間違えてしまったのだろうと……。

 

 この国に来た事が間違いだったのだろうか?

 日本に来る前まで、『(レインボー)』達は父の母国にたどり着けば何かも上手く行くと思っていた。

 それは何の根拠もない思い込みだけど、両親を亡くし、極限状態の逃亡生活を続けていた二人にとって唯一の希望だった。

 

 だが、今あれほど憧れた国に留まっているにも関わらず、『(レインボー)』は少し自分が幸せだとは思えなかった。

 満たされない空虚な心の中にまた問い掛けだけが積み重なって行く。

 

 何故、自分は今苦しんでいるのか?

 何故、極光(オーロラ)は有りのままの自分を見てくれなくなったのか?

 二人の愛情は少しも変わっていないのに、なぜ自分達の心はこんなにもすれ違い続けているのだろう……。

 何故? 何故? 何故!?

 

 自分を取り込む終わりのない疑問符の迷路に耐え切れなくなった少女が縋りつくように手に取ったのは一個のボールだった。

 ベッドの脇に置いてあるそれを握り締め、壁に向かって放り投げた。

 ワンバウンドとして戻って来たところを拾って、一人だけのキャッチボールを延々と繰り返した。

 

 同じ事を何か月も繰り返して来たせいで、綺麗な壁紙の上には黒々としたボールの傷痕が幾つも刻み込まれていた。

 もうすっかり飽きてしまった行為だけど、それでもキャッチボールをしている間は湧き上がる疑問に悩まされずに済んだ。

 

 しかし、キャッチボールの回数が30回か40回に達した頃、『(レインボー)』は跳ね返って来たボールを取り損ねてしまった。

 少女の指をすり抜けたボールはベッドの縁にぶつかって床に落ちた。

 

 苦々しい顔つきでころころと床の上を転がるボールを睨みつけた。

 もともと『(レインボー)』は、家の中よりも外で遊ぶ方が好きな子供だった。

 同じ年代の女の子達とままごとに興じるよりも、男の子達と一緒に泥だらけになるまでサッカーをしている方が楽しかった。

 

 そんな彼女がもう一年以上もスポーツどころか外出すらしていない。

 積もり積もったストレスは、現状に対する無力感と相まって、ゆっくりと、しかし深刻な悪影響を少女の幼い心に及ぼしつつあった。

 

 このままじゃ私、太っちゃう……。

 痛々しいほどに衰えた体力を感じながら、『(レインボー)』はそう思った。

 太って、太って丸くなって、代わりに手と足が縮んで、それでも太り続けて、最後にはあのボールのようになってしまうに違いない。

 そして、『極光(オーロラ)』の帰りを待ちながら、部屋の中でずっと転がりつづけるのだ。

 ころころと、何時までも、何時までも……。

 

 床を転がっていたボールはとっくに動きを止めていた。

 でも、少女はそれを再び拾おうともせずに、膜がかかったような眼でじっとボールを眺め続けた。

 もう、キャッチボールを続けるどころか、手を伸ばしてボールを取る気力すら湧き上がってこない。

 

 衣装棚の上では、『極光(オーロラ)』から送られた無数の縫いぐるみ達が無機質なボタンの眼で動く事も、考える事も止めてしまった少女を眺め続けた。

 

 全てが停滞した部屋の中で、微かな呼吸の音と時間の経過を表す時計の針の音だけが積み重なっていった。

 

 チクタク、チクタク。

 チクタク、チクタク。チクタク、チクタク。

 チクタク、チクタク。チクタク、チクタク。チクタク、チクタク。チクタク、チクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタク……。

 

 突然、何の前触れもなく鋭い電子音が分厚く積み重なった気だるい沈黙を突き破った。

 不意をつかれて、『(レインボー)』は悲鳴とともに30cm近くも飛び上がった。

 あまりにもびっくりしたので、最初部屋の中に響いているその音が携帯電話の着信音だと気付かなかったぐらいだ。

 

 ようやく耳にした音の正体を察して、慌ててベッドから飛び下りた。

 自分が床に放置したボールを踏んだ。

 バランスを崩した。

 滑って、転んで後頭部を強打!

 

「みぎゃあっ!!」

 

 痛さの余り、変な声が漏れた。

 ついでに鼻水も涙も一杯出た。

 後頭部を押さて床の上をのたうち回りたかったけど、ずずいっと我慢した!

 

 悠長に痛がっている暇なんかない!

 こんな事をしている間に電話が切れてしまうかもしれないのだ。

 だから、速く、速く、速く電話を取らなくちゃ!

 

 寝室の扉を飛ぶように駆け抜ける。

 リビングのソファーを本当に飛び越えた。

 携帯が置いてある袖机まで全速力で馳せ参じた。

 

 しかし、電話を手に取る寸前になって、ふと疑問が沸いた。

 一体、誰がこの閉じた世界の中へ電話を掛けて来たのだろう?

 久しぶりの運動でちょっとハイになった頭脳はすぐに答えを弾き出した。

 

 決まっている! 『極光(オーロラ)』だ!

 きっと、今朝の自分の仕打ちを後悔して戻って来たのだ。

 でも、直接私に謝るのが恥ずかしいから電話を掛けて来たのだ!

 そうだ!

 そうだ!

 そうに決まってる!

 んもう、『極光(オーロラ)』の恥ずかしがり屋さんめっ!

 

 長い軟禁生活のせいで逞しくパワーアップした少女の想像力は一瞬にして涙ながらに許しを乞う『極光(オーロラ)』とそれを寛大に許す自分、そして手を握りながらクリスマスに沸き立つ街へ繰り出して行く二人の姿を鮮やかに描き出した。

 

 もう待ち切れない!

 興奮に頬を真っ赤に光らせながら、『(レインボー)』は携帯に飛び付き……。

 そして、がっくりと肩を落とした。

 

 電話を掛けて来たのは『極光(オーロラ)』じゃなかった。

 この携帯電話はもともと『極光(オーロラ)』が妹と連絡を取るために購入したもの。

 しかし、彼女達以外にもう一人、この電話の番号を知り、利用できる者がいる。

極光(オーロラ)』の知らない『(レインボー)』だけの秘密の友達が存在するのだ。

 

 約一年前、日本に着いた時に知り合って以来、その友達は『極光(オーロラ)』の目をかい潜って何度も『(レインボー)』に電話を掛けてくれた。

 少女の話を聞き、外の世界の情報を伝え、彼女の体や能力に着いて親身に相談に乗ってくれた。

 その友人との会話があったからこそ『(レインボー)』は長い軟禁生活の間でも辛うじて精神のバランスを保つ事ができた。

 

 しかし、今から一ヶ月ほど前、何の前触れもなく突然『友達』からの連絡が途絶えてしまった。

 フラストレーションのはけ口をなくした『(レインボー)』は、短気で怒りっぽくなり、『極光(オーロラ)』相手に感情を爆発させる事が多くなってしまった。

 

 その『友達』から久しぶりに電話が届いたのだ。

 想像したとおりの結果じゃなかったとは言え、念願の話し相手が出来た事に変わりはない。

 砂漠で渇きに苦しむ人間が水筒を扱うような手つきで折たたみ式の携帯電話を広げ、もどかしげに通話ボタンを押した後に、耳に電話を押し付けた。

 

 電話を通じて相手の声が耳に飛び込んだ瞬間。

 改めて自分がどれほど他人との会話に餓えていたのかを思い知った。

 止まったはずの涙が、また溢れ出した。

 腰から下の筋肉から痺れたように力が抜け、へなへなと床の上に座り込んでしまった。

 

 自分でも知らない内に、少女は声を限りにして電話に向かって叫んでいた。

 

「ひ、酷いよ! 何でずっと電話してくれなかったの! あ、貴方からの電話がなかったから、私、今朝『極光(オーロラ)』と喧嘩しちゃったじゃないの!」

 

 その後で恐くなって、慌てて言い直した。

 

「ご、ごめんなさい! 今の本気じゃないの! 私、ちょっと気が動転しちゃって……だから、切らないで。お願いだから、電話を切らないで!」

 

 電話の向こうの『友達』は、いきなり電話を切るような事はしなかった。

(レインボー)』のように声を荒げる事すらしなかった。

 そして、穏やかな声で、気が動転していた『(レインボー)』を宥め、慰めてくれた。

 

 お陰で少しだけ落ち着く事ができた。

 後から後から零れ落ちる涙を、人差し指の腹で拭いながら、少女は途切れ途切れにまた話し始めた。

 

「……うん。ありがとう。また、電話をしてくれてありがとう。ねえ、聞いてくれる? 『極光(オーロラ)』ったらね、酷いんだよ!」

 

 それからの10分間はぐちゃぐちゃだった。

極光(オーロラ)』への不満、孤独な日々の苦しみ、自分の無力感、将来の不安などなど……。

 一度口を開けば、はらわたの底に溜まった言葉や感情がとめどなく溢れ出した。

 最後には母国語と英語と日本語が入り混じり、もはや自分でも何を言っているのか分からなくなった。

 

 電話の向こうの『友達』は短い相槌や同意の言葉を除いては何も喋らなかった。

 いつも通り、静かに『(レインボー)』の言葉に耳を傾けてくれた。

 

 やがて、少女の心をかき乱した感情の大波は現れた時と同じように唐突に消えうせた。

 代わりに残ったのは凪いだ夜の海のような静かな後悔と底知れない罪悪感。

 力なく首を振って、『(レインボー)』は先ほど自分が口にした言葉を否定した。

 

「……ううん、『極光(オーロラ)』は悪くないよ。きっと、悪いのは私の方。だって、『極光(オーロラ)』はあんなに私に良くしてくれるんだもの。でもね、私恐いの……。このまま、同じ毎日が続いたら、私達は一体どうなっちゃうんだろうって思うと……」

 

 その先は恐怖のあまり言葉にならなかった。

 将来の自分たちの姿が想像できないから恐いのではない。

 あまりに簡単に、鮮明に想像できるから恐ろしいのだ。

 

 泣いたり、怒ったり、喧嘩をして感情をぶつけ合えるうちはまだ良い。

 しかし、『(レインボー)』はここ数ヶ月の間、自分の感覚や反応がどんどん鈍くなっていくのを感じていた。

 このまま行けば、そう遠く未来に人形のように何も感じなくなってしまうかもしれない。

 

 そしたら、『極光(オーロラ)』はどうなる?

 いや、『極光(オーロラ)』は、きっと何も変わらない。

 今までと同じように『(レインボー)』に変わらぬ愛情を注いで行くに違いない。

 人形のようになってしまった妹に食事を与え、着替えを手伝い、お風呂に入れて、そしてまた毎日のようにあの言葉を囁くのだ……。

 

 愛しているよ。

 愛しているよ。

 貴方のためなのよ。

 

 吐き気のような嗚咽がまたこみ上げてきた。

 恐怖が反吐のように喉のあたりを刺激する。

 少しでも口を開けば、そこから終わりのない悲鳴が漏れ出しそうな気して、『(レインボー)』は一言も喋る事が出来なくなった。

 

 その静寂、会話の間に開いた空隙に電話の向こうの相手が巧みに誘いの言葉を滑り込ませた。

 

「え……?」

 

 耳に入った言葉があまりに意外過ぎて、『(レインボー)』は一瞬相手が何を言っているのか理解し損ねた。

 戸惑う少女に「友達」は辛抱強く同じ質問を繰り返す。

 即ち―――

 

「外に行きたくはないかって? それは、もちろん行きたいけど……」

 

 終わりの見えない囚人のような生活。

 その間に、幾度脱出を夢見た事か。

 しかし、他人の口からそれがはっきりとした選択肢として提示された時、その言葉は聞き慣れない怪物染みた響きを帯び、先ほど見た未来のイメージとはまた違う種類の畏れを少女の中に呼び起こした。

 

 家の玄関の方へ、そして自分と外を隔てる大きな鉄の板の方へ視線を向ける。

 突然、周囲の光景が縮んで、扉が何倍も大きく膨れ上がったような気がした。未知への不安が小さな心臓を掴み、痛いほど強く絞り上げる。

 自分でも知らない内に、少女はこの家から脱出する方法ではなく、外に出て行かずに済む言い訳を探し始めていた。

 

「外には行きたいよ。でも、あなたも知っているでしょ? この家のドアは外から鍵が掛かって……ええっ!! 今、家の外にいるの! 鍵を開ける準備もできているって、そんな、そんな……」

 

 少女は驚愕に大きく目を見開いた。

 一年前に、只一度だけ直接顔を会わせた『秘密の友達』が、突然今日家の外に表れ、その上自分を外の世界へ誘っている。

 しかも、『(レインボー)』が今朝極光(オーロラ)と喧嘩別れをし、絶望のどん底に沈んでいるこの時に……。

 

 どう考えても偶然ではあり得ない。

 明らかに計られている気配がする。

 ここで警戒心を働かせないほど『(レインボー)』は鈍い子供ではない。

 

 しかし、驚愕に痺れた頭が策謀の可能性に着いて詳しく考える前に、電話の相手は又しても絶妙のタイミングで切り札を会話の中に挿し込んだ。

 

「今日が最後のチャンスかもしれないって! 急にそんな事をいわれても困るわ。お願い、待って! もう少し待って! 後少しだけ考える時間を……」

 

 もちろん、その考える時間を与えない事が電話の相手の狙いだった。

 

 商品の取引に期限を設けて、ターゲットの思考力と選択肢を奪い取る。

 有史以前から続く古臭い手法だが、それだけに効果的で『(レインボー)』のように心理的に追い詰められた者がこれに抵抗するのはほぼ不可能だった。

 

 たった一つの言葉に少女の心は面白いようにかき乱された。

 まるで大嵐に揉まれる船の上に立っているみたいに、足元が頼りなくぐらぐら揺れる。

 回りの景色は現実感と輪郭を失い、外へ繋がる扉のシルエットだけが益々膨らんでいった。

 

 大きく揺れ動きながら一方へ傾いていこうとする心の天秤の狭間で、『(レインボー)』は必死に自分がこの家の中に留まる理由を探した。

 追い詰められた少女が最後に縋ったもの。

 それは、やはり愛するただ一人の家族の名前だった。

 

極光(オーロラ)』はまだ何も知らない。

 このまま出て行けば、きっと悲しむに違いない。

 少なくとも『(レインボー)』に裏切られたと思って、凄く傷つく事だけは間違いない。

 だから、

 だから……。

 

 だからぁ?

 

 一瞬、無人の部屋の中に呆然と立ち尽くす『極光(オーロラ)』の姿と、ベッドの上で人形のように座り込んでいる自分の姿が重なった。

 腸がよじれるほどの衝撃が走った。

 長い幽閉生活の中でゆっくりと溜め込まれ、熟成されてきた様々な感情が腹腔の中で爆発し、食道を遡り、短い言葉となって口から飛び出した。

 

「私、行く!」

 

 たった二つの言葉を口にしただけなのに、落雷にも匹敵する衝撃が体を走った。

 しかし、その衝撃も次に『(レインボー)』の口から飛び出す言葉を阻止する事は出来なかった。

 

「私、行く! 貴方と一緒に外へ行く!!」

 

 決定的な言葉だった。

 もう後戻りできないスタートラインを踏み越えたと悟りながら、しかし少女の心は不思議と平穏だった。

 

 先ほどまであれほど心を掻き乱していた激情は嘘のように静まり返っている。

 裸足の足の下に、揺るぎない大地を感じた。

 歪んで見えていた回りの光景や玄関が、正しいサイズを取り戻して行く。

『友達』は携帯を通して決意を固めた彼女に賞賛の声を送り、脱出のための具体的な手順を伝えた。

 

 一言も漏らさずに聞き取り、全てを心に刻み込んだ。

 居間から寝室へ駆け戻り、クローゼットを開ける。

 一度も袖を通した事のない高価な衣服の数々。

 その中から目立たない地味な服を、数着選んでベッドを並べた。

 着々と家出の準備を整えて行く少女の手つきには、迷いも躊躇いもない。

 

『秘密の友達』の言う事を一から十まで全部信じたわけではない。

 しかし、『友達』にどんな思惑があるにせよ、この澱んだ空気の中で生きながら腐って行くよりはましなはずだ。

 

極光(オーロラ)』と喧嘩になるかも知れないけど、そんなのちっとも怖くない。

 一線を越えた時からとっくに覚悟は、できている。

 どうせ喧嘩になるのなら、大喧嘩になれば良いのだ。

 

 目一杯怒って、

 声の限り怒鳴りあって、

 ありったけの涙を流して、

 心に思った事を何もかもぶつけ合えたら、

 そしたら……

 

 ―――私はまた普通の仲の良い家族に戻れるのかな?

 

 ぽつりと漏らした小さな声。

 その中には少女の本音の全てが込められていた。

 長い間押さえ込まれて来た感情の底の底。

『秘密の友達』が解き放ったパンドラの箱の中に残った最後の一かけら。

 

 それは閉じ込められてきた事への怒りや悲しみではなく、

 まだ見ぬ外の世界への憧れでもなく、

 間違った方向へと突き進む家族を救いたいと言う一途な想い、

 すれ違う心を繋ぎ合わせ、再び寄り添いたいと望む、切なる願いであった。

 

 ベッドの上に広げた服の上に下着や歯ブラシ等の日用雑貨を置いていく。

 最後にもう一度用意した荷物の中身を確認。

 何か物足りない様な気がして、部屋の中を見渡し、慌ててお気に入りの縫いぐるみを他の荷物の上に乗せておいた。

 

 危ない。危ない。

 危うく大切な友達を置いてきぼりにするところだった。

 でも、これでもう完璧!

 どこへ出かけても大丈夫!

 

 ベッドのシーツを使って器用に風呂敷包みを作り上げた。

 それを背負っていざ出発……


 ……する前に後ろによろけて転びそうになった。

 ちょっと欲張って荷物を入れすぎたみたい。

 でも、何とか踏ん張って堪えぬいた。

 

 一歩、

 また一歩。

 自由への道筋をじっくりと味わうように少女は玄関に向かって歩き出す。

 その大きな瞳は悲壮なまでの決意と覚悟で光り輝いていた。

 

 だが、この時下した決断が後に彼女と『極光(オーロラ)』を濁った水溜りから攫い、より波乱に満ちた運命の海へと導く大波となる事を少女はまだ知る由もなかった。


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