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二年目の誕生日 ACT1

この作品は、第一部『切り裂き屋の憂鬱な日曜日』でちらっと登場した変身能力者『極光(オーロラ)』が主人公です。『切り裂き屋の憂鬱な日曜日』の裏話的なお話ですので、さきに第一部を読んでいただいた方がより楽しんでもらえると思います。

 寒い冬の朝、私は一人ベッドの中で眠りから覚めた。

 

 胎児のように丸まった身体をゆっくりと開いていく。

 布団の中から手を差し出し、外の温度を測った。

 室温約11度。

 素肌でベッドから出るには少し寒すぎる。

 

 まだ眠気に霞む眼を擦りながら、エアコンのリモコンを探した。

 リモコンはベッドから2、3m先の床に落ちていた。

 むう、ちょっと予想外の場所だ。

 どうやら昨夜、寝ぼけてベッドの隣りに有るテーブルから叩き落としてしまったらしい。

 

 一瞬、躊躇した後、私は冷たい外気に上半身を曝しながら、遠くのリモコンに掌を向け、

 

 ―――ぐいっと腕を伸ばした。

 

 比喩じゃない。

 文字通り3m余り手を引き伸ばして床の上に落ちたリモコンを拾った。

 そして、急いで暖かいベッドの中に逃げ戻るとエアコンに向けて暖房のボタンを押した。

 

 静かな機械音と共に暖かな空気が寝室を満たしていく。

 私は部屋の中が十分温まるのを待ちながら、まだ気だるい体をゆっくりと覚醒させていった。

 

 体の中に残る睡魔を一匹残らず駆除した後、もう一度手を出して室温を測る。

 約26度、申し分のない温度。

 もう布団の中にいると少し熱いぐらいだ。

 

 うんしょっと気合を入れて、身体を覆っていた布団を跳ね除け、起き上がった。

 鮮やかな木目をしたフローリングに足を降ろす。

 床に接触した所から、ぴりっとした冷気が素足の裏を突き刺した。

 

 なるべく自分の身体を見ないように目を瞑りながら、ベッドから立ち上がる。

 冷たい床の上を三歩あるいて手を伸ばすと指先が本棚に納められたハードカバーの背表紙に触れた。

 

 私の寝室は、多少目を閉じて動き回っても問題ないようにいつも綺麗に整理整頓されている。

 だから、わざわざ瞼を開けなくても本棚に詰め込まれた順番と大きさ、それにページの厚さでどの本がどこにあるのか大体分かった。

 

 指先で本の背表紙を順に叩いていく。

 右から左へ、5冊進んで3冊戻る。

 特に意味のない行為。

 毎朝繰り返される寝覚めの儀式のようなもの。

 

 そうしてランダムに選び出した1冊を本棚から抜き出す。

 ページを開いてから、瞼を開いた。

 最初に、視界に飛び込んできたのは、蠱惑的なポーズをとりながら、こちらを見詰める一人の女性。

 その身体は、今の私と同じように一枚の衣服も身に着けていない。

 さらにページを捲ると、同じ女性がポーズを変えた写真が次々に現れた。

 

 私が食い入るように見ているのは俗にヌード写真集と呼ばれる種類の本だ。

 現在、私の本棚の6割をこれと同じ類の本が占領している。

 と言っても、私は別に並外れて性欲が旺盛なわけではない。

 むしろ、『今の体』になってから性に対する興味は減退する一方だ。

 私が老若男女を問わず、あらゆる人種の人間の―それも裸の―写真を集めているのには、他にちゃんとした合理的で実用的な目的がある。

 

 さらに、何枚かのページを捲り、被写体の体の隅々まで目を走らせる。

 健康な成人男性が、興味を抱くような豊満な胸や臀部。

 普通は、あまり注目しないような足の裏の皺や背中にある小さな黒子。

 彼女が、ポーズを変える度に褐色の皮膚の下から浮かび上がるしなやかな筋肉の造形。

 全て余すところなく目に焼き付けた。

 

 再び目を閉じ、本を閉じる。

 眉間に皺を寄せ、意識を凝らす。

 今まで自分の中に積み重ねてきた映像の山。

 それを整理分類し、立体的なジグソーパズルみたいに組み立てていく。

 

 時間は、ほぼ一瞬。

 私の頭の中に本物そっくりだけど中身のない三次元の裸婦像が出現した。

 

 新しい『外装』を、じっくり検分した後、私は自分の内奥に分け入り、そこにある目に見えないスイッチをONに切り替えた。

 

 刹那、体内で何かがカチリと弾けた感触がした。

 私の身体を押し固め、一つの形に固定していた古い鋳型が解除されたのだ。

 途端に自分の体が形を失い、溶け崩れていくのが感じられた。

 

 私の身体は手と足、それから皮膚と筋肉の大部分が変異を起こして、水母や蛸みたいな不定形の体に変わっている。

 だから、カモフラージュ用の役柄から開放された今の姿こそ私の『素顔』なのだと言えなくもない。

 

 しかし、自分の体が火に炙られた蝋燭みたいに溶けていくのは、何度目にしてもあまり気分の良い光景じゃない。

 私は瞼を硬く瞑り、今の自分の『素顔』を完全に視界から押し出した。

 

 形を失った肉体を先ほど作っておいた仮想上の『人型』と重ね合わせる。

 熱く溶けたプラスチックが鋳型の中に雪崩れ込む様子をイメージ。

 溶けた手足を女性の形をした『鋳型』の隅々まで押し込んだ。

 鋳型の中が完璧に満たされると、今度は体内のスイッチをOFFに切り替える。

 先ほどのプロセスを逆行するように、不定形になった身体が急速に圧縮され、一つの形に押し固めていく。

 

 目を瞑りながら、時を数える。

 

1(アン)』、

 

2(ドウ)』、

 

3(トロワ)』。

 

 再び目を開けた瞬間、私の視界に最初に飛び込んできたのは小麦色の肌をした形の良い乳房だった。

 さらに視線を下に向けると、滑らかな腹部やおへそ、その下にある黒い茂みが目に入った。

 

 寝室の一角に置いてある大きな姿身の前に立つ。

 いつも鏡の表面を隠している布を取り払うと、あの写真集の女性と同じ顔がにっこりと私に笑いかけた。

 

 私は『強化人類(イクステンデット)』。

 EX=Geneと呼ばれる病に感染して、特殊な肉体と能力を手に入れた人間だ。

 

 病を得て、人の道を踏み外し、人の形と引き換えに私は自分の身体を意のままに変形させる能力を得た。

 老若男女、人種を問わず、物理的な制約の範囲内であれば、誰にだって自由自在に変身できるようになった。

 詳しい情報さえあれば声帯や指紋、瞳の虹彩だって完璧に再現できる。

 

 でも、『強化人類(イクステンデット)』になって良い事ばかりでもなかった。

 意のままに変身できると言う事は、自分の感情がそのまま体の形に反映されてしまうと言う事。

 

 異能者に成り立ての頃。

 私も普通の人間みたいに寝巻きを着て寝ていたが、睡眠中に体を変形させてしまい、何度も窒息しそうになった。

 

 寝ている間に見た悪夢やトラウマが文字通り顔や体に出た事もあった。

 朝起きて、何も知らずに鏡を見て悲鳴を上げて飛び上がった事は一回や二回じゃない。

 その上、私はまたうんざりするほど良く悪夢を見る体質だった。

 

 そのため現在、私は寝る時には一枚の衣服も身に着けず、起きた直後はもう一度変身しなおすまで自分の体を直視しないよう気をつける事している。

 

 そして……あらゆる人間に変身できるようになった副作用だろうか?

 私の最初の顔。

 異能者になる前の姿だけは、何故かどうしても思い出す事が出来なくなってしまった。

 

 手に持った写真集を本棚に戻す。

 さっきと同じような手順を踏んで、違う本を3回抜き出し、その度に違う人間に変身した。

 

 私達の異能も、普通の人間の知能や技能も基本は皆同じ。

 使わなければどんどん鈍るし、鍛えれば鍛えるほどに研ぎ澄まされていく。

 

 私も最初の頃は他人に変身するどころか、自分の手足の長さを揃える事で精一杯だった。

 しかし、毎日こうして繰り返し鍛錬を積み重ねた内に、今では全身であれば一分程度、顔や手足だけならほぼ一瞬で観察した対象を完璧に再現できるようになった。

 

 3回目の変身を終えた後、今度は本を見ずにもう一回最初に変身した女性の姿に戻ってみた。

 踵を軸に鏡の前でぐるりと一回転して、あの写真集と同じようなポーズをとってみる。

 

 うん、パーフェクト!

 

 今日の私はかなり調子が良いみたい。

 変身から変身へのインターバルが凄く短いし、オリジナルが目の前になくても再現率はほぼ100%!

 これなら、良い仕事が出来そうだ。

 

 現在、私は孤独な老人達を慰める事を日々の生業にしている。

 財産は唸るほどあるけど、家族も友人もいないお年寄り達のために、昔の恋人や憧れの芸能人、事故で死んでしまった子供や孫になりきって話し相手になってあげるのだ。

 

 年寄り相手の茶飲み話が稼ぎになるのか、疑問に思う人もいるかもしれない。

 私も友人からこの仕事を斡旋された時、こんなのがビジネスになるのかとちょっと不安に思っていたものだ。

 ところが、いざ手をつけてみると、この仕事の潜在的な需要の大きさにびっくりした。

 私の存在は口コミであっという間に広がり、丁寧に仕事をこなしてきたお陰か、リピーターも増えて、今では一ヶ月の収入が6桁を超える事も珍しくない。

 

 自分が、受け継ぐはずの遺産がどんどん磨り減っていくのが気に入らない人間の中には、私の仕事を老い先短い年寄り達の暇つぶしと陰口を叩く者もいる。

 現実逃避の手伝いをしているだけなのだと吐き捨てるように言う者もいる。

 だけど、私には老人達の気持ちが少しだけ理解できた。

 

 思い出は何時だって美しいありたいもの。

 

 何層にも積み重なった時間の地層の下で記憶は圧縮、純化され、美化されて思い出と言う名の宝石に変わっていく。

 依頼人達は、私との会話を通じて、時間の地層を掘り起こし、記憶の原石を発掘して、それをさらに自分にとって理想的な形に磨き上げていくのが楽しくて仕方がないのだろう。

 彼らは思い出を美しく仕上げる事によって、過去の後悔や汚辱を洗い流し、もうすぐ降りる人生の幕を穏やかに受け入れようとしているのだ。

 

 だから、老人達の要求はとても厳しい。

 彼らは何時でも完璧なものを求めている。

 金甌無欠の理想を。

 一転の曇りのない幻想を。

 決して破れる事も覚める事もない永遠の夢想を。

 

 彼らの天井知らずな要求に応えるのは、はっきり言ってかなり疲れる。

 辛口な評論家を相手に即興劇を何度も演じるようなものだ。

 資料は山ほど読まなくてはいけないし、リハーサルも何度も何度も繰り返さなくちゃいけない。

 血が滲むほど努力をしても、依頼人が満足してくれない場合だって珍しくない。

 

 それでも、私は今の自分の仕事が好きだった。

 老人達と付き合う事で、彼らの美しい夢を本の少しだけおすそ分けしてもらう事ができるから。

 

 件の友人――いや、この場合は悪友と呼ぶべきか――に関わる記憶は、はっきり言って思い出すのも嫌な代物ばかりだ。

 しかし、彼女が海外から密入国してきた私達姉妹に安全な住処を与えてくれた事と今の仕事を紹介してくれた事だけは素直に感謝している。

 

 そして、今日も新しい仕事の依頼が私の元に舞い込んできた。

 裸のまま椅子に座り、昨日の内に読んでおいた資料にもう一度目を通す。

 資料の内容はとても短いものだった。

 依頼人の特徴や待ち合わせ場所は書いてあったが、私が変身すべき人間に関する資料は一枚もなかった。

 

 でも、こう言う事は別に珍しくない。

 プライベートな事情のために、私に会ってから直接、変身する対象の資料を渡そうとする依頼人は結構存在するのだ。

 

 こんなケースの場合、どんな姿で依頼人に会いに行くかが重要になる。

 デリケートな秘密を抱えた依頼人ほど私の第一印象を重視するからだ。

 針を立てたヤマアラシみたいに警戒心の強い人間を相手にするには、上辺をなぞっただけの借り物の『外装』だけでは心もとない。

 相手の心を解きほぐすのに相応しいオリジナルの『外装』をゼロから作り出す必要がある。

 

 手にもった依頼人の資料を机の上に置いて、隣りにポスト・イットだらけの青いファイルを置いた。

 分厚いファイルの中に納められているのは、何百人もの詳細な個人情報。

 左眼で資料の上の文字に視線を走らせながら、右手でファイルのページを捲って行く。

 

 ……さて、資料によれば今回の依頼人は、六十歳前後の白人の老人。

 身長は180cm以上、体重は同じ年代の人間の標準体重よりもかなり重い。

 だけど、肥満しているわけではなく、鍛え上げられた体は健康そのものらしい。

 

 資料から受ける印象は、典型的なマッチョイズム溢れる白人男性。

 彼らが心を許しやすい外見と言えば、グラマーな女性と相場が決まっている。

 でも、私は別に依頼人とベッドの中で親しくなりたいわけじゃないから、これは却下。

 次点としては、やはり同じ白人の歳若い男性が好まれている。

 今回の依頼人が人種差別主義者とは限らない。

 でも、私の経験から言って裕福な白人は保守的であるか否かを問わず同じ人種と付き合う事を好む傾向があるのだ。

 

 ページを捲る指が加速する。

 注ぎ込まれる情報の燃料に、私の頭脳も加速する。

 

 直感は針。

 想像力は糸。

 

 実在する人物の履歴をパッチワークのように組み合わせ、未だこの地球上に一度も生まれ落ちた事のない人物を作り上げる。

 

 想像(イマジネーション)

 

 ――― 出身はアメリカ西海岸、カリフォルニア。父親は弁護士。母親は小学校の教師……

 

 長く伸びた黒髪が縮んで短い金髪に変わり、褐色の肌がミルク色に染まる。一回瞬きをすれば、黒い瞳がエメラルドの色に輝いた。

 

 想像(イマジネーション)

 

 ―――子供の頃は全寮制の学校に通い、日曜日は教会への参拝を欠かさなかった。交友関係は広く、ガールフレンドも多かった。

 

 人好きしそうな端正な甘い顔立ち。口元から覗く歯のきらめきは真珠のネックレスと見まがうばかり。

 

 そして、創造クリエーション

 

 ―――根っからのアウトドア派。趣味は水泳、サーフィン。カラテの道場にも良く顔を出し、腕前は黒帯一歩手前。

 

 体が一回り膨れ上がり、乳白色の肌を健康そうな日焼けの痕が覆って行く。目ただない程度に付けられたカラテの練習の傷痕は健康な肉体美を損ねるどころか、かえって野性的な魅力を……。

 

 ……おっとストップ! そう言えば依頼人は筋肉質な老人だったな。

 タフさを売りにする人間は歳を取るとたまに自分よりも若く強い男性に強い嫉妬を感じる事がある。

 肉体的な長所や魅力をアピールし過ぎるのは得策じゃない。

 この部分はちょっと修正を加えたほうが良さそうだ。

 

 ―――カラテに関する部分を訂正。趣味は水泳、サーフィンに外国の古典文学。愛読書は中国の史記や三国志。

 

 膨れ上がった筋肉がすっと縮み、体の上を覆っていた傷痕が消える。顔立ちも少し変わって穏やかで理知的な印象を与えるようになった。

 

 加速する思考にあわせて、私の顔と体もモンタージュ写真のように物凄い勢いで変形を繰り返す。

 そして、一定の水準を越えた瞬間、全てがスロットのように一斉に足を揃えて静止した。

 

 椅子からゆっくりと立ち上がる。

 新しく身に纏った『外装』を滑らかに動かしながら、姿身の前に立った。

 

 体を捻って普段目の届かない背中や腰の出来を確認した。

 依頼人の目の前で裸にならない限り、特に気にする必要のない部分だけど、一応念には念を入れて調べておいた。

 こうした完璧さに対する飽くなき追求が、私の毎回の演技を支える土台になっているのだ。

 

 鏡の前で満足げに頷く。

 自分で言うのもなんだけど、今日の『外見』の出来はかなり良い。

 まるで、ギリシア神話のヘルメス神が地上に降り立ったかのようだ。

 しかし、いくら美しい『外見』とは言え、このまま下着もつけずに外に出たらただの変態だ。

 美しい外面にはそれに相応しい装いと言うものがある。

 

 現在、私の寝室は、その半分以上を大きな衣装棚よって占領されている。

 まるで映画の大富豪の屋敷にありそうな巨大な家具の中には三桁を軽く上回る数の紳士服や婦人服、子供服に様々なサイズの靴や装飾具が納められていた。

 武器庫みたいに整理整頓された衣装棚の中身にさっと目を走らせる。

 一瞬の思案の後、規律正しく並んだ頼もしい武器の中から軽快そうなヴァレンティノのスーツを選んだ。

 

 今日のファッションのコンセプトは「シンプル・イズ・ベスト」。

 その性格も嗜好も良く分からない相手から信頼を勝ち取るためには、やはり清潔感溢れる簡潔な服装で一番相応しい。

 

 下着を身に着け、シャツに素手を通したところで、ドアが鳴った。

 誰なのかはすぐに分かった。

 このマンションで私は妹と二人だけで暮している。

 私が寝室の中にいるのなら、外で扉を叩くものは一人しかいない。

 

「ちょっと待って! 今すぐそっちに行くから!」

 

 ドアに向かって叫びながら、急いでスラックスに足を突っ込んだ。

 いくら妹と言えども、いいや可愛い妹だからこそ男の裸のような下品なものを見せるわけには行かない!

 

 チャックを閉めながら、早足で寝室のドアに近づき、扉の鍵を開けてドアノブを捻る。

 その途端、開ききるのが待ちきれないといわんばかりに、小さな体がドアの隙間をすり抜けて私の寝室に飛び込んできた。

 

「おはよう! 『極光(オーロラ)』!」

「お待たせ! おはよう。今日は元気がいいんだね」

 

 寝室の闖入者の名は、『(レインボー)』。

 今年で14歳になる私の実の妹。

 

極光(オーロラ)』に、『(レインボー)』。

 どちらも美しい響きを持った言葉だけど、実は私達本来の名前じゃない。

 今でこそ英語の名前を使い、日本語で会話をしているが、私と『(レインボー)』は元々東欧にある小さな国の出身者だ。

 

 二年前まで……私と妹は自分達の故郷で平穏に暮らしていた。

 偽名ではなく、平凡だけど母が着けてくれた実の名前を使っていた。

 だけど、運の悪い事に私達は火事で大怪我を負い、その上二人ともEX=Geneを発症させて、『強化人類(イクステンデット)』になってしまった。

 

 さらに運の悪い事に、私達の国は異能嫌いの狂人が支配する全体主義国家だった。

 狂った独裁者の弾圧から逃れるために私と妹は故郷を捨てて、父の母国である日本へ渡った。

 そして、追っ手への用心のために今も仮初の名前でお互いを呼び交わしている。

 

 日本に至るまでの逃亡生活はまさに悪夢だった。

 まだ未成年だった私達にとっては恐ろしく過酷な毎日だった。

 しかし、そんな劣悪な環境で育ったにもかかわらず、妹は私も驚くほど真っ直ぐな良い子に育ち、今も輝くような笑顔を私に向けている。

 

 私の言葉に力一杯頷いた後に『(レインボー)』は言った。

 

「うん、今日の事、ずっとずっと楽しみにしていたから。ところで、『極光(オーロラ)』それが今日の『外出用の顔』なの?」

「そうだよ。どう似合っている?」

 

 真珠のように白い歯を輝かせながら、笑ってみせる。

 一歩下がって、両手を広げ、自分の新しい姿を彼女に披露してみせた。

 

「うん! とっても似合ってる! 凄く格好良いよ!」

 

(レインボー)』は体当たりをするように私の腰に抱きつき、私の顔を見上げながら、にっこり笑い返してくれた。

 魂まで蕩ける最高の笑顔。

 私の一番好きな表情だ。

 

 全身全霊を篭めて小さな身体を抱きしめた。

 妹の体温と共に暖かな幸福感がじわりと内臓に染みてくる。

 まさに何者にも換え難い至福の一瞬。

 だけど『(レインボー)』が次に漏らした言葉がせっかくの幸せな一時に水を差した。

 

「ありがとう、『極光(オーロラ)』! 私との約束を覚えてくれてたんだね! でも……その姿、凄く綺麗で、格好良いんだけど、私と一緒にお出かけするのに、なんでそんな格好しているの?」

 

 小さな手を精一杯伸ばし、私の胸板を叩きながら、静かに問い掛けてくる『(レインボー)』。

 無邪気な瞳と言葉が槍の鋭さと残酷さを持って私の心を貫いた。

 

 瞬き一回分の時間を費やして、何とか妹を傷つけずに済む言葉を捜した。

 でも、結局見つからなかった。

 仕方なく私は『(レインボー)』の方に指をかけ、やんわりと彼女を自分の身体から引き離した。

 

「ごめんね……」

「……ごめんねって、どう言う意味なの? 『極光(オーロラ)』なんで私に謝るの?」

 

(レインボー)』の声が少し震え始めた。

 押しのけられた衝撃と今耳にした言葉のせいで、あの愛らしい笑顔はもう跡形もなく消えうせている。

 

 そんな妹の顔を見るのは酷く苦痛だった。

 でも、これからの会話は妹を守るためには避けては通れない道だ。

 私は意を決して、『(レインボー)』と視線を合わせ、さらに自分の傷口を抉る事にした。

 

「ごめんね。今日は急ぎの仕事が入ってしまったの。だから、前に約束していた通り、貴方と一緒に出かける事はできなくなってしまったの」

 

(レインボー)』のリアクションは目を背けたくなるほどだった。

 でも、目を逸らす事は許されなかった。

 彼女はいつも全身で自分の感情を表現する。

 この感情を受け止める事が出来なければ、妹と一緒に生きていく事は出来ない。

 

 妹は肩にかけた私の指を振り払うと、小さな両手で私のシャツに掴みかかってきた。

 その声は抑えきれない失望と怒りのために酷く震えていた。

 

「どうして……ねえ、どうして!? ちゃんと約束したじゃない! 今日は、『極光(オーロラ)』の誕生日のお祝いをするんだって! 私と一緒にお出かけするって約束してくれたじゃない! そのお仕事って今からキャンセルできないの?」

「本当にごめんね。でも、この仕事はどうしてキャンセルできないんだ。今度のお客さんは1週間先まで予約を入れてくれるような乗客なの。上手くこの人をリピーターにする事ができれば、私達の生活はずっと楽になると思う。でも、私が仕事をドタキャンしたら、あの人は機嫌を損ねるかもしれない。それが、今の仕事や私達の日本での生活にとって不利になのは分かるでしょ?」

「……本当にキャンセルできないの? 私を外に連れて行きたくないだけじゃないの? わ、私の外見の事を心配しているのなら、大丈夫だよ。私、『他の人達』と違って、身体の形は普通の人と同じだよ。今は冬でしょ。厚着をして、帽子をかぶって、マスクをすれば誰にも分からないよ。ねえ、良いでしょ」

 

 だから、外に連れて行ってよ、と妹は涙目で訴えた。

 

 私は彼女を抱きしめ、そのメタリックブルーに輝く髪に口付けを落とした。

 そして、内心では『(レインボー)』の勘の良さに舌を巻いていた。

 

 妹が推測した通り、私は彼女の外出を断る口実にするために、わざと時間のかかる仕事を選んだ。

 その行為が彼女を傷つける事も分かっていた。

 しかし、『(レインボー)』を守るためには仕方のない事だったのだ。

 

 神と悪魔の病、EX=Geneは私たちの身体を酷く歪めると同時に、様々な恩恵も授けてくれる。

 筋骨を強化されたEX=Physicalは超人的な身体能力を手に入れ、

 内臓と分泌線を強化されたEX=Chemicalは体内で貴重な化学物質を生み出す事ができるようになり、

 感覚器官と脳を強化されたEX=Sensitiveは史上最強の霊長類と化した。

 

 でも、『(レインボー)』は……。

 

 EX=Geneは『(レインボー)』には何も与えなかった。

 何の役にも立たない能力を押し付け、代価として彼女の全てを奪い去った!

 

 いや、ただ役に立たないだけじゃない。

(レインボー)』の能力は一度明らかになれば、彼女と他人を酷く傷つける可能性を秘めていた。

 

 私が妹を家の外に出さないようにしているのは、決して故のない行動ではない。

 彼女にとって外の世界がどれほど危険なものか知っているからだ。

 

「でも、でも、夜には早く帰ってくるんでしょ? 私、ご馳走一杯作って待ってるから、一緒にお祝いをしようよ! お父さんや、お母さんが、生きてた頃、みたいに……」

 

 藁にも縋るような『(レインボー)』の声は小さく途切れ、やがて尻すぼみになって喉の奥へ消えた。

 私は何言わず、首を横に振って妹の質問に答えた。

 

 途端に『(レインボー)』の顔が真赤に染まった。

 シャツを握り締めたまま私の腹筋を殴り、それでも物足りないとばかり小さな頭を私の身体に叩きつけた。

 

「おかしいよ! こんなのはおかしいよ! ここはもう安全な日本でしょ! 私達を追いかけてくる恐い人達はもういないんでしょ! ずっと隠れている必要もないんでしょ!? なのに、私達1年以上も何のお祝い事もしていないじゃない! 去年のクリスマスも、イースターも、ハロウィンも、私の誕生日も! ずっとずっとずっと私が一人で『極光(オーロラ)』の帰りを待ってるだけ……こんなの絶対におかしいよ!」

 

 泣きじゃくりながら暴れ続ける妹を私はただ抱きしめる事しか出来なかった。

 

 でも、私は知っている。

(レインボー)』は良い子だ。

 どんなに癇癪を起こしても、最後には私の言う事をちゃんと聞いてくれる。

 今、彼女に必要なのは、自分の気持ちを整理するためのほんの少しの時間と静寂だけなのだ。

 

 それでも荒れ狂う妹を少しでも宥めたくて。

 彼女の悲痛な叫び声を少しでも鎮めたくて。

 私は身をかがめて、『(レインボー)』の耳元に唇を寄せてそっと囁きかけた。

 

「ごめん。本当にごめん。でも、このお仕事が終ったら、しばらく時間が空くから。次は一緒に新年のお祝いをしよう。その時になったら、今度こそ貴方を連れて夜の街にお出かけするから、もう少し我慢して……」

 

 突然、『(レインボー)』がしがみ付いていた部分に衝撃が生まれた。

 鳩尾を突き上げるダメージに一瞬息が止まった。

 

 その隙に妹はするりと私の腕の中から抜け出した。

 大きな瞳はもう涙を流してはいなかった。

 代わりに睨んだものを焼き焦がすほどの激しい怒りが私目掛けて放たれていた。

 

「いっつも……いっつも、そればっかり!! 次は、その時になったら、今度こそ!! 私、我慢したよ! 言われたとおりにずっと我慢したよ! でも、『極光(オーロラ)』いつも私との約束破ってばっかりじゃない! 私、もう『極光(オーロラ)』の言う事なんか信じないから!」

 

 違う!と思った。

 確かに私は『(レインボー)』の言うとおり、彼女との約束を破ってきた。

 でも、それは全て彼女を守るために仕方なく行ってきたのだと言う事を理解して欲しかった。

 

 だが、私が口を開き、頭の中の考えを無難な言葉に翻訳する前に、『(レインボー)』は再び私の手をかわすと、自分の寝室に向かって走り出した。

 

 急いであの子の後を追った。

 でも、間に合わなかった。

 間一髪、『(レインボー)』は自分の部屋の中に飛び込み、私の目の前で叩きつけるように扉を閉めた。

 

 何度も扉を叩いて、何度も声を出してあの子の名前を呼んだ。

 帰ってきたの怒りを篭めた堅い沈黙ばかりだった。

(レインボー)』は私の呼びかけを全て無視した。

 

 5分近く粘った後に、ついに私も諦めた。

 仕方がない……。

 今はあの子をそっとして置くより他に手は無さそうだ。

 

 一先ず、『(レインボー)』が立て篭もった部屋の前を離れた。

 リビングへ行くと、テーブルの上に朝食の支度がしてあった。

 きっと私と一緒に誕生日の打ち合わせをしながら、ご飯を食べるのを楽しみにしていたに違いない。

 まだ湯気を上げている料理の数々は朝食にしてはやけに気合の入ったものばかりだった。

 

 罪悪感が石のように胃袋の中に重く圧し掛かる。

 食欲なんて、もう跡形もない。

 しかし、今日の仕事の事を考えると食べないわけにも行かなかった。

 それ以前の問題として、妹が丹精こめて作ってくれた料理を残すなんてもっての外だ。

 私は強引に詰め込むように食事を胃の中に納めた。

 

 ご飯を食べ終わって、食器の片付けも終えた後、私は可愛らしいリボンと包装紙に包まれた箱を『(レインボー)』が自分のために用意した食事の隣りに置いた。

 

 あの子のために、何週間も前に買っておいたクリスマスプレゼント。

 本当は今夜、妹が寝ている隙に枕の側に置いておこうと考えていた。

 でも、そうするとさらに妹の怒りに油を注ぐ様な気がして、結局早めに渡す事にした。

 

 たった一人だけの食卓を、前に深深と溜息をつく。

 自分の気持ちがもどかしくてしょうがない。

 あの子のためにこんな事しかできない自分が情けなくて仕方がなかった。

 

 重たい足取りを引きずるようにして自分の部屋へ戻る。

(レインボー)』に握られて皺が出来たシャツを脱いで新しいものに着替え、適当に選んだ上着を羽織った。

 淡々と機械が作業をこなすように仕事に出かける準備をした。

 

 家を出る寸前に、もう一度妹の部屋の前に立ち寄った。

 控えめにドアをノックして、

 

「『(レインボー)』、朝ご飯ありがとう。とても美味しかったよ。食卓の上に、クリスマスのプレゼントを置いてきたから後で開けてね。私はこれから出かけるけど、一人で勝手に外に出ちゃ駄目だよ?」

 

 返事の代わりに何かが物凄い勢いでドアにぶつかる音がした。

 この柔らかそうな音から判断して、多分私達が日本に着いたばかりの頃、あの子に買ってあげた『うーたん君』が犠牲になったのだろう。

 お気に入りの縫いぐるみを投げるなんてかなりの重症だ。

 

 他にどうしようもなくて、また溜息をついた。

 一人で玄関を出て、マンションのエレベーターの前に立つ。

 徐々に上に昇って来る表示の光を見ながら、ぼんやりと考えた。

 

(レインボー)』の言うとおり、私は少しおかしいのだろうか?

 

 私たちの小さな世界を守るためとは言え、確かに日本に来てからは少し働きすぎている気がしなくも無い。

 最後にプライベートな用事に自分の時間を使ったのは何時だったろう?

 もう、自分がどんな音楽が好きで、どんな趣味があったのか思い出すのも困難だった。

 

 母国にいた頃、私は一時期『顔なし(フェイスレス)』と呼ばれていた事がある。

 どんな人間にも変身できるが、自分の顔を失ってしまったカオナシの怪物。

 私は、今までその渾名に誇りさえ感じていた。

 

 自分の顔なんていらなかった。

 私には何よりも素晴らしい『(レインボー)』の笑顔がある。

 ずっと、ずっとそう考えていたし、自分の行動に疑いを挟む事もなかった。

 

 でも……。

 

 何故、だろう。

 

 この世の誰よりも妹の笑顔を愛していたはずなのに……。

 

 最近、私はあの子の泣き顔ばかり見ているような気がする。

 

 


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