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射手座の矢 ACT7

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 

 

 

 十一年前、極東で受けたその依頼が、彼の最後の仕事になるはずだった。

 

 

 

「……兄夫婦とその長男をなるべく自然死に見えるように始末しろ、というのがあんたの依頼だったな?」

 

 目の前に出されたワインに手もつけずに彼は聞いた。

 

「そうだ。やり方は任せる。証拠さえ残らなければ好きにやっていいよ。僕は兄の遺産と会社の権利さえ手に入れば後はどうでもいいからね」

 

 切り子ガラスのグラスを弄びながら、依頼人の青年は老人の質問に答えた。

 優雅で貴族的な動作だった。

 しかし、その目の奥には隠し切れない恐怖の影があった。

 別に珍しい事ではない。

 老人に相対した者は大体同じような反応を示す。

 だから、彼はまるで依頼人の恐怖に気付いていないように振る舞った。

 

「だが、兄夫婦にはまだ娘が一人いる。その子がいる限りあんたは、財産を全額相続できないはずだが?」

「ああ、あの子は僕のデザートだよ。前から青い果実って奴を味わって見たくてね。しかも、それが禁断の果実ならこれを賞味しない手はないだろ?」

 

 口許に笑いを浮かべていたが、青年の心は苛立ちに煮えくり返っていた。

 くそ、何故僕がこんな老いぼれに怯えなくちゃいけないんだ。

 あの細いしわ首なんか片腕でへし折れそうじゃないか!

 

 だが、心でどんなに強がっても、体の奥から湧き上がる感情を否定する事はできなかった。

 青年を見詰める老人の眼は、まるで底なしの闇のようだった。

 ただ目を合わせているだけで額に銃を突き付けられているような気分になる。

 何も問い詰められていないのに青年の舌は主を裏切って、関係のない言葉を次々に吐き出していく。

 

「可愛い子だよ。僕の姪は。ちょっと優しくしてあげただけで、僕をまるで神さまみたいに崇めているんだ。今夜、森の中を散歩してごらん。もし、君の運がよければ空き地でクロスボウの練習をしているあの子に会えるから。僕からあれをもらって以来、ずっと一生懸命練習をしているのさ。――――僕はあの子が何時かストレスに負けて、父親を撃ち殺すと期待してあのおもちゃをあげたのにね……」

 

 ふいに老人が立ち上がった。

 まるで目に見えない壁にぶつかったみたい青年が下がる。

 老人は返事も口にせずに、依頼人に背を向け、その場から姿を消した。

 青年は凍りついたように、別れの挨拶もなく立ち去る痩躯を見送った。

 相手の気配が完全に消えた事を確かめた後、忌々しげに酒を飲み干す。

 しかし何度杯を重ねても、グラスを握る指の震えが治まる事はなかった。

 

 青年は、老人の依頼人の中でも群を抜くほど下衆だった。

 彼が自分の姪に美しい家具ほどの価値も見出だしていない事は明らかであった。

 青年にとって姪は欲望を満たすための小さな獲物、少々珍しいだけのおもちゃ。

 老人が依頼どおり仕事を果たせば、少女が残酷な叔父に弄ばれ、飽きられ、捨てられるのは時間の問題であろう。

 

 だが、そんなのは所詮どうでも良い事。

 老人にとって青年も少女も、依頼人や犠牲者と言う名の記号に過ぎなかった。

 

 一丁の銃と数グラムの弾丸。

 そして、弾丸が穿つ赤い虚無。

 それが彼の全てだった。

 

 老人はその虚無を愛した。

 この世に一つでも多くの虚無を生み出すために生きてきた。

 名声も、家族も、友人も全て捨てた。

 叶うならば、自分もまた弾丸の生み出す虚無になりたいと望んできた。

 

 だが、神と運命は残酷だった。

 どれほど多くの戦場を渡り歩いても、敵の放つ矢は老人を掠りすらしない。

 彼の放つ矢は必ず狙った獲物を打ち抜いてきたというのに……。

 

 終わりのない殺戮と放浪。

 数え切れないほど繰り返される期待と失望。

 その果てに彼を射止めたのは、伝説に名高きアポロンの神矢。

 すなわち、老いと病であった。

 

 予知能力に近い直感で、老人はこの依頼が最後の仕事になる事を確信していた。

 間もなく病が残り少ない命を食いつくし、長き渡る放浪に終止符を打つだろう。

 依頼人が下衆だから、どうだと言うのだ?

 好き勝手に生きてきた外道に相応しい結末じゃないか。

 

 人生の幕を前にして老人は捨て鉢になっていた。

 青年の最後の言葉など一言も聞いてもいなかった。

 もちろん彼の姪に会うつもりもなかった。

 その時、二人が出会う可能性は限りなく皆無に近かった。

 

 だが、複雑に絡み合う偶然はありえないような必然を生み出す。

 もし、この世に奇跡と呼ぶに相応しい出来事があるのならば、あの夜の邂逅こそ正に奇跡そのものだった。

 

 一目、少女を見た時、忘れ果てていた激情が雷撃のように体を貫いた。

 そして、彼女が石弓の引き金を引いた時、自分が終わりの無い魔法に取り付かれた事を知った。

 

 彼女は完璧だった。

 完璧な才能の持ち主だった。

 気がつけば、暖かな涙が頬を伝わっていた。

 ほぼ一世紀に近い孤独と放浪の果てに、老人はついに自分を理解しうる同朋にめぐり会ったのだ。

 

 それから間もなく……。

 アリバイ作りのために、旅行に出かけた青年の自家用飛行機が墜落した。

 機体の損害は激しく、青年の遺体の損傷はそれ以上に酷かった。

 それ故、その事故が信じ難いほど精密な長距離狙撃によって引き起こされたものだと気付く者は誰もいなかった。

 青年は自分が依頼した通り、証拠の一切残らない方法でこの世から抹殺されたのだ。

 

 それで全て終ったはずだった。

 衰えたこの姿を同胞の目に曝すのは忍びない。

 老兵はただ静かに消え去るつもりだった。

 

 だが、彼は見てしまった。

 最後に、一目彼女の姿を目に焼き付けようと立ち寄ったあの月夜の森。

 そこで、彼が見かけたのは家族を失った悲しみと涙に溺れる少女の姿。

 そして、無残に乱れた彼女の心を現すように散らばった無数の矢だった。

 

 再び、肺腑を抉る激しい感情。

 気がつけば、彼は何時の間にか少女の背後に忍び寄っていた。

 鋼のように揺ぎ無い老いた手が震える幼い腕を支えた。

 触れ合った場所から恐怖と驚愕が少女の体を走るの感じ取った。

 慌てて、間もなく振り返る少女の視線に備える。

 長い間動かしていなかった顔の筋肉を総動員して――

 

「力を抜きなさい。そのままでは、永遠に的に当てる事はできないよ」

 

 数十年ぶりに、カイン・ジ・ロングシューターは微笑みと言う表情を取り戻した。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 電子スコープを覗き込みながら、『射手座(サジタリウス)』は古い記憶が脳裏を過ぎるのを感じた。

 ああ、そうだ。十一年の歳月を経て再会したあの時もそうだった。

 

 成長した彼女の中に、かつての少女の面影を見出すのは難しい事ではなかった。

 だが、彼は自分が誰なのか名乗り出るつもりはなかった。

 思い出は思い出のまま美しく。

 二人は山荘の主人と旅行者として分かれるはずだった。

 

 しかし、老人は見てしまった。

 彼女が自分の打ち立てた超長距離狙撃の記録を易々と飛び越えていくのを。

 その週間、長年眠り続けていた闇が目を覚ました。

 真っ黒な欲望が、平穏な歳月を一息に食いつくした。

 

 そして、気がつけば彼はここにいた。

 かつて誰よりも愛した相手に銃口を向けながら。

 血を吐くほど切実な想いをスコープの中の小さな影に送った。

 

 ―――立っておくれ……

 

 ここに来るために全てを捨てた。

 乾きかけていた血の道を新たな屍で舗装した。

 悩みはした。

 苦しみもした。

 だが、後悔はしてない。

 

 十年も前に尽きていたはずのこの命。

 今日まで長らえて来たのはこの一時のため。

 いや、それを言うのなら百年を越える生涯そのものがこの三十分足らずの決闘のために存在していたと言って良い。

 

 だから……。

 だから、立ってくれ!

 勝負はまだ終わっていない!

 私たちの勝負がこの程度で終わって良いはずがないのだ!

 

 全身全霊を込めてそう祈った。

 だが、スコープの中の人影は仰向けに倒れたまま、微動だにしない。

 ふいに『射手座(サジタリウス)』は悟った。

 彼女は立ち上がれないのではなく、立ち上がる必要がないのだという事に。

 

 記憶は瞬時に時をさかのぼる。

 昔、彼女に言った言葉が鮮明に脳裏に蘇った。

 

『―――現在、最も一般的な狙撃の姿勢は伏射だ。場合によって立射姿勢や膝立ち撃ちを併用する者もいる。だが、かのナポレオンが大陸軍を率いてヨーロッパを征服していた時代。熟練兵たちは性能の劣る銃で安定した射撃を得るために、仰向けの姿勢から狙撃を行う射撃体勢を編み出したのだ』

 

 奇しくも―――。

 

 その時、師弟は全く同じ事を考えていた。

 あの致命的な一瞬、『雷撃(サンダーストライク)』は左手の装甲と磁界で弾丸を弾きながら、後ろに倒れ込んだ。

 うろ覚えの記憶を辿りつつ、仰向けの射撃体勢を取る。

 生体レールガンの銃身を両足で挟んで安定させる。

 同時に長大な左腕の装甲で頭部などの急所を隠す。

 攻と防を兼ね備えた完璧な射撃体勢。

 

 スコープを覗き込みながら思う。

 最初の弾丸を打ち落とされた時から、この戦いは敵に圧倒される一方だった。

 だが、今は違う。

 磐石の射撃条件を得て、彼女の心はもはや不動。

 この戦いが始まって以来、始めて自分が精神的に敵と釣り合ったと感じた。

 

 ボルジャーノンは天才的な狙撃手だった。

 だが、『雷撃(サンダーストライク)』とその師は天才以上の存在であった。

 二人とも何マイルも離れた標的を察知する魔法のような才能を持っていた。

 狙撃手同士の闘志と殺意が波紋のように広がり、ぶつかり、混じり合う。

 生存本能を越えた射撃本能が、直接脳に囁きかける。

 

 彼方より比方を狙うは、魔弾の射手。

 その弾丸は決して的を外さない。

 この刹那を生き残るためには相手を先に撃ち殺すしか―――

 

 その瞬間、二人の間に横たわる距離は無となった。

 もはや人の限界を超えた直感力が完璧な理解と共感を生み出した。

 お互いの想いが弾丸よりも速く相手を貫く。

 心の傷は張り裂け、魂が声にならない叫びを張り上げる。

 

雷撃(サンダーストライク)』は叫ぶ。

 我が師よ!

 我が父よ!

 ああ、私の『ケイロン』よ!

 

射手座(サジタリウス)』は叫んだ。

 我が弟子よ。

 我が愛し子よ。

 おお、私の小さな『雷の矢(サンダーストライク)』よ!

 

 恍惚も悲嘆も果てしなく。

 刹那は永遠に続くかと思われた。

 しかし、やがて銃声と弾丸が無限のような一瞬に終止符を打ち―――

 

 その後には、死と静寂が全てを支配した……


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