射手座の矢 ACT2
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
ヘリコプターで目的地に向かう途中、見送りのため同乗した『蛇神』は一言も口を利こうとはしなかった。
しかし、『雷撃』がルイジアナの山奥に足を下ろした時、彼女は仕方ないと言いたげに首を振り、
「アームストロング爺さんが言った事はあまり気にしない方が良いよ。あの人は退役軍人でさ。最近、イラクでお気に入りの後輩を亡くしたばかりなんだよ。あんたと同じ電磁波系の能力者に内蔵をグズグズにされてね」
『雷撃』が反論しようと口を開きかけたのを手で制し、続けて言った。
「自分の仕事を完璧にこなしたいと言うあんたの気持ちは分らなくもないよ。でも、本当はこんな事言いたくないんだけど、この仕事には私の家族のグリーンカードが掛かっているんだ。妹と子供たちをカルカッタの貧民窟から引き上げられるかどうかの瀬戸際にいるんだよ。―――お願いだからさ。現場じゃあもうちょっと大人しくしてちょうだい」
別れ際に『蛇神』の疲れた笑顔を見て、『雷撃』も胸の辺りが痛くなるのを感じた。
自分がブリーフィングルームで口にした事を少し後悔しそうになったが、すぐに思い直した。
『覇王』と自分を引き離そうとする奴らが悪いのだ。
彼女がチンピラたちに乱暴されそうになったところを『覇王』に助けてもらった時以来、二人はいつも一緒だった。
夫が側にいないと自分がまるで一個の弾丸になってしまったような気がする。
止まる事も、曲がる事もできず、ターゲット目掛けてただ直進する事しかできない文字通りの鉄砲玉だ。
そして、今の彼女のターゲットは―――
ヘリコプターが飛び去った空から目を外し、視線を山の方に向ける。
やや急な山道の上にオレンジ色の明かりが見えた。
ボルジャーノンが準備射撃のために泊まったという山荘を目指して『雷撃』は早足で歩き始めた。
◆ ◆ ◆
始めは近いように見えた距離は歩いて見ると意外に遠かった。
山荘に着く頃には日はどっぷり暮れ、辺りは明かり一つない闇に包まれていた。
扉に着いている呼び鈴を鳴らす前に『雷撃』は窓ガラスを使って簡単に自分のファッションをチェックした。
髪よし。
服よし。
化粧よし。
山荘の主を刺激しないため、『雷撃』は黄色と黒でまだらになっていた髪を黒く染め直し、腕の異形を隠すためにカシミアのゆったりしたコートを羽織っていた。
外見だけなら、今の彼女はちょっとアメリカの山奥まで足を延ばした良家のお嬢様にしか見えないだろう。
意を決して呼び鈴を押した。
ほとんど間を置かずにドアが開き、暖かな光と背の高い男性が『雷撃』を出迎えた。
「ようこそ。お待ちしておりました。私はこの宿の主。エーベル・アダムソンです」
宿の主人は鋼色の髪と口髭を備えた初老の紳士だった。
彼は早速、『雷撃』を家の中に招き入れると、大きな手を差し出し、彼女の握手を求めた。
『雷撃』は自分の手を差し出す代わりに外套の裾を引き寄せた。
カシミアのコートはぴったりと彼女の体に張り付き、変異した腕の輪郭を浮かび上がらせた。
「すいません、ミスター・アダムソン。お気持ちは嬉しいのですが、貴方の拍手に応じる事ができません。手が……その、こんな風になっているものですから」
アダムソンは『雷撃』の腕に目を止めた。
額に小さく皺を寄せると、
「お嬢さん。貴女はあの病の?」
「はい、一昨年発病しました。あの……やっぱり事前にこの事を電話で連絡した方が良かったでしょうか?」
『雷撃』は目を伏せて、普通人が自分の腕を見た時のお決まりの反応に備えた。
一般的に『強化人類』たちは奇病を発病させた障害者だと思われている。
だが、彼らの持つ様々な能力を知らずとも、変異した肉体を見た時に普通の人間達が寄せる感情は二つしかない。
奇異なものに対する好奇心か。
おぞましいものに対する嫌悪か。
山荘の主人が取ったリアクションはそのいずれでもなかった。
彼は(少なくとも表面上は)いささかの動揺も見せずに反対側の手を差し出した。
「もう一度言いましょう。ようこそ我が家へ。貴女がこの宿で良い思い出を作って帰る事を祈っておりますよ」
その態度があまりに堂々としていたので、『雷撃』は自分でも意識しない内に彼の手を握り締めていた。
アダムソンは野性的な風貌に似合わぬ繊細な長い指の持ち主だった。
『雷撃』は一遍に彼の事が気に入ってしまった。
アダムソンは握り締めた彼女の手を軽く振った後に、
「すっかり手が冷えきっていますね。長い山道で随分お疲れになったでしょう。今、暖かい食事を用意しますよ。鹿肉はお好きですか」
「あ、はい、鹿のお肉は大好きです。昔、叔父と山の別荘に行った時によく食べました」
宿の主人は彼女の手を放すとニッコリ笑って言った。
「貴女は運が良い。食料庫の鹿肉が熟成して、今ちょうど食べ頃なんです。すぐに調理を始めます。よろしかったら、二階のお部屋でシャワーでも浴びてください」
シャワーを浴びてすっきりした『雷撃』が一階に降りると、アダムソンはちょうど食卓の上に食器を並べている途中だった。
「良いところへ来ましたね。今、ナイフとフォークを並べている途中だったのですが、どういう風に並べたら、食べやすいと思いますか?」
相手が自分の不自由な腕に気を配っている事に気付いて、彼女はちょっと胸が熱くなるのを感じた。
日本のレストランでさえここまで気を使ってもらった事はないと言うのに……。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。この手ではフォークは掴めませんが……こっちの小さいほうの手は結構器用なんですよ」
ボールペンを取り出して、脇腹から生えた甲殻類の鋏脚に似た腕の一つに手渡す。
三本の小さな腕はそのボールペンを使って見事なスピングを演じて見せ、彼女の言葉が正しい事を実証した。
アダムソンは感嘆の声を上げて、この奇妙なジャグリングに見入った。
「これは面白い。貴女は器用な可愛い手をお持ちのようだ」
『雷撃』は照れくさそうに笑いながら、
「日常生活はこれで大抵どうにかなります。でも……この腕ではできない事もあります」
ふと顔を曇らせた。
アダムソンは彼女の表情の変化に敏感に反応した。
「それはどんな事ですか?」
「貴方みたいなプロのハンターにお話するのも恥ずかしいのですが……実は私、昔競技射撃をしていた頃があるんです。でも、この腕ではもう銃を構える事も引き金を引く事もできません」
寂しそうに小さなハサミを鳴しながら、相手が話に食いついて来るのを待った。
主人のもてなしを心から楽しんでいたが、『雷撃』は自分がこの山荘にやって来た本当の目的を忘れてはいなかった。
これから始まる会話はボルジャーノンの情報を引き出すための重要な布石になるはずだった。
一秒か二秒の間、アダムソンは何かを思い出そうとするかのようにじっと『雷撃』の顔を見つめた。
そして、大きな溜め息と共に言葉を吐き出した。
「そういえば若い頃に聞いた事がある。日本に射撃の鬼才と呼ばれた女の子がいた事を。その子は二十歳を待たずして、各国の射撃大会を制覇し、幾つもの競技で最年少記録を打ち立てた。誰もがオリンピックの金メダルはその子のものだと疑わなかった。だが、その子がオリンピックに参加する事はなかった。痛ましい事故が起こり、腕を―――」
「それは、昔の事ですっ! もう……終わってしまった事なんです……」
アダムソンの言葉を遮った声は自分でも驚くほど大きかった。
何年も昔の話なのに、事故の記憶は予想以上の苦痛を呼び起こした。
あの時、彼女は栄光の頂点から失意のどん底に滑り落ちた。
しかし、父親は慰めの言葉もかけずに利き腕を失った娘をイギリスの全寮制学校に押し込めた。
彼はもともと娘がライフル射撃のような危険な趣味に興じている事が気に食わなかったのだ。
そして、海外から戻ってきた時、『雷撃』は始めて父親が彼女の宝物だった競技用ライフルやトロフィー、そして叔父の形見であり、宝以上の存在であったあのクロスボウまでも全て処分してしまった事を知った。
爆発しそうな一瞬。
変異した腕を握り締めて、過去から押し寄せる怒りと痛みに耐えた。
それから顔を上げ、目の前にいる相手に微笑んで見せた。
「でも、貴方の知っているその物語には続きがあるんです。お聞きになりますか?」
「是非とも伺いたいですね」
「……利き腕を無くしたその女の子は長い間落ち込んでいましたが、その後素敵な旦那様に巡り合い、現在は幸せな結婚生活を送っています。ある日、昔を懐かしんでライフル射撃の雑誌を読んでいた彼女は、アメリカの山奥にある山荘に関する記事を見つけました。そのお宿には特に厳しい条件の狩りに挑むプロのライフル使いたちが集まると言うのです。ライフル使いの一人だった彼女は、その山荘に行きたくてたまらなくなりました。そして、旦那さまが仕事で出張に出かけたのを切っ掛けにアメリカ行きの飛行機に飛び乗り―――今、私がここにいると言うわけです」
アダムソンは彼女の話を全て聞き終えた後に大きく頷いて、
「ご主人と一緒にこられなかったのは残念でしたね。どうせなら、二人分楽しんで行ってください。帰った時の土産話に困らないようにね」
その夜の夕食はアダムソンが約束した通り、とても楽しいものになった。
彼の料理の腕はプロのコックと同等か、それ以上だった。
テーブルに出された料理はどれも驚くほど美味だった。
その味は、昔五つ星のレストランで味わった料理に勝るとも劣らなかった。
特に素晴らしかったのはメインディッシュに出された鹿の背肉のステーキ。
熟成されたジューシーな鹿肉と甘酸っぱいコケモモのソースの相性は絶品で、『雷撃』は思わずもう一皿お代わりしそうなった。
鹿肉によく合う濃厚な赤ワインを傾けながら、二人は初対面の人間とは思えない程親しく会話を交わした。
『雷撃』は彼女が射撃大会で次々に優勝した時の思い出話や夫である『覇王』とどんな風に出会い、結婚するに至ったのかを家族に関する不愉快な記憶や『強化人類』の秘密に関わる部分を除いて食卓の話題に提供した。
一方、アダムソンの話題はさらに豊富だった。
彼の知識はとても山奥の山荘の主人とは思えない程広く、そして深かった。
アダムソンは最新の科学や政治、自分の山荘を訪れた猟師たちの信じられないような冒険譚や滑稽な笑い話をテンポ良く会話のテーブルの上に乗せていった。
料理も、言葉も瞬く間にテーブルの上で消費され、楽しい時間は跳ぶような速さで過ぎていった。
やがて、食卓の上のキャンドルがほとんど燃え尽きた頃、宿の主人はワインを啜りながらしみじみと言った。
「いやあ、本当に良くおいでになられましたね、お嬢さん。まさか、狩猟シーズンも過ぎたこの時期にこんなに楽しい一時が過ごせるとは思いませんでしたよ」
「私も山奥の宿でこんなに美味しい食事がいただけるとは思いませんでした」
ワインのグラスを傾けながら、『雷撃』は抜け目なく目の前の相手を観察する。
アダムソンの顔はすでに彼のグラスに入っているワインと同じぐらい赤くなっていた。
それに対して、『雷撃』の顔色は――薄暗い山荘の明りの下では分かりづらかったが――彼女が食卓に着いた時と全く変わっていなかった。
『強化人類』の中には神経や脳が変異した結果、麻酔やアルコールが効かなくなった者がいる。
『雷撃』もその一人で、工業用アルコールを一気飲みしても酔っ払う心配はなかった。
すっきりと冴え渡った頭で彼女は今が勝負時だと判断を下した。
「それにしても、残念なのはここに来るのが少し遅かったという事ですね。後、一週間速ければ最後のハンターさんと一緒にお話ができたのに……」
右の頬に手を当て、上品に溜息をついた。
宿の主人はワインのグラス越しに彼女の顔を覗き込みながら、にやりと口の端を吊り上げた。
「最後の泊り客と言うのはトム・スミス氏の事を仰っているのですかな? 察するに、チェックインなさる時に宿泊客名簿で彼の名前をご覧になりましたね?」
「すみません。お客さんの名簿を盗み見するつもりはなかったのですが……」
申し訳無さそうに俯く『雷撃』にアダムスンは何でもないという風に手を振って笑って見せた。
「大丈夫ですよ。どうぞ、お気になさらずに……それに、お悔やみになる必要はありませんよ、お嬢さん。トム・スミス氏はあまり人とお話するのが好きな方じゃありませんでしたからね。あの人は風変わりで興味深い人物ではありましたが、貴方のご期待に応えられるような人物ではなかった思いますよ」
「その……ミスター・スミスと言うのはどんな方だったのでしょうか? 風変わりと仰っていたけど、どんなに風に変わっていたんですか?」
『雷撃』は控えめな好奇心を篭めた声で聞いた。
アダムソンは一瞬、戸惑ったように見えた。
宿泊客のプライバシーを守る義務と楽しい会話を続けたいと言う気持ちの間で揺れ動いているようであった
しかし、最後には彼が大量に飲んだワインが勝ちを収めた。
アダムスンはゆっくりと芝居気たっぷりに今シーズン最後のハンターに着いて語り始めた。
「我等がトム・スミス氏は色んな意味で変わりな人物でしたが……一番最初に目に付いたのは彼のライフルでしたね。あの方は自分の銃をプラスチックのケースに収め、決して他の人間の目に触れないようにしていた。しかし、私はミスター・スミスが始めてこの宿にきた時に荷物もちをしようとして偶然そのケースを持ち上げた事があります。
「彼が激怒したので、ほんの一瞬だけでしたが……その時の重量から判断して、あれは恐らくバレットM八十二、五十口径対物狙撃ライフル。それも私の勘が正しければ、銃身にかなりの改造を施してあるカスタム品のはずです」
『雷撃』は驚いて息を飲む振りをした。
「あ、あの……私は競技用ライフルにしか触った事がないので、よくわからないのですが……五十口径のライフルって、鹿を撃つのにはちょっと大袈裟じゃないんですか?」
アダムソンは掌で赤くなった顔を抑えながら、クスクス笑った。
「大袈裟どころかっ! 湾岸戦争で装甲車を狩るために使われていたような代物ですよ。M2重機関銃と同じ12.7mm×99弾を使用し、一キロも離れた場所にいる装甲車もやすやすと貫通する。おまけにセミオートで連続射撃が可能と言うバケモノみたいな銃です。あんまり破壊力が凄すぎるせいで、国際条約で人間を射撃する事を禁止されています。だから、五十口径『対物』狙撃ライフルと呼ばれているわけです。
「六トンのマンモスに使うのならともかく、このマッド山脈に住んでいる可愛いバンビーたちを撃つにはいささかオーバーなエモノですな。しかし……それだけなら、大した問題ではなかった。このルイジアナでは五十口径狙撃銃を持つのは法律違反では有りません。あまり誉められた事でもありませんがね。私が本格的にミスター・スミスに注目するようになったのは、その次の日からでした」
アダムソンはナイフを置くと、指で宙にぐるりと円を描きながら言った。
「私は用事を一通り片付けた後、この山を歩き回る事を日課にしています。崖崩れや雪崩の兆候、遭難者や密猟者なんかを見つけるために。それに山歩きが健康に良い事は言うまでもありませんね。その散歩の途中で私は、スミス氏がテスト射撃している音を聞きました。珍しい事ではありません。ここに来たお客さんは獲物を打つ前に、大抵ライフルの試射を済ませておくものです。本当に珍しい事はその後で起こりました。私のミスター・スミスが自分の進行方向で試射をしていました。だから少し気を利かせて、彼の試射が終わるまで待って散歩を続けた。そして私はミスター・スミスが試射をしていた痕跡を見つけました。しかし、彼の弾丸を見つける事はできなかった」
「彼は自分が撃った弾丸を全部持ち帰ったのですか?」
「そう、一発残らず。木のめり込んでいた物はハンティングナイフで抉り出していました。しかも、銃の口径が分からないように弾痕の回りを綺麗に削り取って後でね」
アダムソンは食器のナイフを使って、当時自称スミスが行った事を再現して見せた。
「つまり……弾丸を誰か他の人間の手に渡したくなかったのですね?」
「もしくは、金や銀でできた貴重な弾丸だったとか。まあ、十中八九貴方の言ったとおりの理由でしょうね。私は薬莢も探したが、やはり見つかりませんでした。やはり、かなり特殊な弾丸を使っていたのでしょう。試射の結果は驚異的なものでしたよ。弾痕がナイフで削られていたので、正確なところは不明ですが……彼の弾丸はおよそ千八百ヤード(二キロ)、つまり一・二マイルから放たれたにもかかわらず、ほぼ直径五インチ(十二センチ)の円の中に納まっていました!」
『雷撃』は驚きに顔をしかめた。
普通人では聞いた事もないような超遠距離の精密射撃であった。
直径五インチ(十二センチ)の円と言えば、人間の顔の急所がほぼすっぽり収まる大きさ。
つまり、ボルジャーノンは千八百ヤード(二キロ)の彼方にいるターゲットをヘッドショットで仕留める事ができるのだ。
命中率の高い胴体のほうを狙えば、成功率はさらに高くなるだろう。
「それがミスター・スミスが来て二日目に起きた事です。三日目と四日目にはさらに不可解な出来事が起こりました。正直な話、私はミスター・スミスの収穫にあまり期待していなかった。理由は彼の相棒です。彼の改造ライフルは普通のハンターが使うレミントンとかウィンチェスターの倍近い大きさがありました。威力は凄いかもしれないが、あの長物は山歩きに向いていません。森の中を持ち歩けば、銃身が枝や葉っぱに触れて鈴を鳴らしながら歩くのと同じぐらい目立つ事になる。私は鹿たちが彼に気づいてさっさっと逃げてしまうと考えていました。でも、それは間違いでした……。
「三日目に一匹、四日目に二匹。ミスター・スミスは自分が仕留めた獲物を私の宿に持ち帰りました。どれも四百キロ近くある大物です。しかも、驚くべき事に最後の二匹は多分一発の弾丸で仕留められていました!」
「一発で二匹を? それは偶然じゃないのですか?」
アダムソンは苦笑いを浮かべながら、首を横に振った。
「私も最初そう思いました。だけど、テスト射撃の時にミスター・スミスが見せた精密射撃の腕、彼があの巨大なライフルを選んだ理由、それから勘が良くてタフな鹿の体を貫いた弾丸がもう一匹の急所に当たる確率などを考えると……私にはどうしてもあれが偶然の産物だとは思えないのですよ。しかし、これほどの神業を成し遂げたと言うのにミスター・スミスは自分の獲物に対して何の愛着も感じていないようでした。彼は三匹の鹿を厄介物みたいに私に押し付けました。下の町まで持っていけば何百ドル、下手すると何千ドルと言う値段で売れる大物をね。私はせめて、鹿の首を使って壁飾りを作らないかとミスター・スミスに持ち掛けましたが、彼はこれも断りました」
「結局、その鹿はどうしたのですか?」
「その質問の答えはとても簡単ですね。肉はさっきまで貴方の皿に乗っていました」
『雷撃』は目を丸くして、もう鹿肉のステーキどころか付け合せのポテトのクリーム煮さえ残っていない自分の皿を見下ろした。
「そして、首は今あちらの壁に飾って有ります」
宿の主人の指先を追うと、壁に飾ってある大きな鹿の剥製に行き着いた。
マッド山脈の王者は死んだ後も堂々とした風格を辺りに振りまいていた。
その見事な角はまるで巨木の枝のように複雑に絡まりあい、古びた冠の如く雄雄しくそびえ立っていた。
「……どうです? 立派なものでしょ? こいつが三匹の中で一番大きな奴でしたが、他の二匹も決して見劣りするような奴らじゃなかった。彼らの首で作った剥製は今、倉庫の中において有ります。次の狩猟シーズンに獲物に恵まれなかったお客さんのお土産にするために。ここに狩りに来るハンターたちは皆、こんなトロフィーを手に入れる事を夢見ています。しかし、ミスター・スミスはそうじゃなかった。彼のお陰で家の食料庫は大いに潤いましたがね。いやはや……本当に変わった御仁でしたよ」
『雷撃』は空になったグラスをテーブルの上に置いた。
やはり、この山荘に来た事は正解だった。
FBIの報告書にはここまで詳しい情報は載っていなかった。
きっと、現実主義的な捜査官たちには一発の弾丸で二匹の鹿を仕留めるといったような大袈裟な話を信じられなかったのだろう。
だが、『雷撃』の狙撃手としての嗅覚は主人の話の中に確かな真実の匂いを嗅ぎ取っていた。
間違いなく、あのロシア出身の暗殺者は既に人間の域を越え、半歩ぐらい超人の領域に足を踏み入れている。
そして今、未知の改造ライフルを手に入れた奴は、ある意味普通の『強化人類』以上に危険な存在と化しているはずだ。
『雷撃』は興奮に体が小さく震えるのを感じた。
面白みのない退屈なだけの仕事に突然興味を覚え始めた。
できるならば、この獲物を自分の手で仕留めてみたかった。
そのためにはFBIやシークレットサービスよりも多くの情報を手にしなければならない。
彼女は野生動物に餌を差し出すような慎重さで宿の主人に質問した。
「あの……ミスター・アダムソン。これは素人の推理なのですが、ひょっとしたら、ミスター・スミスの本当の獲物は鹿なんかじゃなかったのでは?」
「と言いますと?」
「つまり、トム・スミス氏にとって鹿を撃つ事もテスト射撃の一種だったのです。そう考えれば、不必要なほど強力なライフルを選んだ事にも、二匹の鹿を一発の弾丸で仕留める練習をした事にも説明がつきます。彼の本当の狙いは、何キロも離れたところから複数のボディガードに囲まれたターゲットを……」
『雷撃』は突然言葉を切った。
驚きのあまり、自分の舌を噛みそうになった。
宿の主人、アダムソンはもはや酔った顔をしていなかった。
まだ陽気な笑顔を浮かべていたが、目はもう笑っていなかった。
野生の獣のように輝く瞳がまっすぐに彼女のそれを見詰め返していた。
追い詰めたはずの獲物に逆に背後に回り込まれたような緊張感が背筋を走った。
「お嬢さん……私は本物の戦争に参加し、貴女の言う特別な獲物をターゲットにした狩りを何度も経験した。だから、何が言いたいのかは良くわかりますよ。でも、今夜の食事を楽しいまま終らせたいのなら、この話題はもう打ち切りにしたほうが良いと思いませんか?」
そう言うと、宿の主人は眼から肉食獣のような光を消した。
彼は老いた猫のような優雅さと威厳をもって、残りの料理を平らげにかかった。
◆ ◆ ◆
食事を終えた後、『雷撃』は自室でFBIの報告書を読み返しながら、自分が使う弾丸の成型に取り掛かった。
狙撃と言う作業は天候や空気の質に大きく左右される。
だから、彼女はいつも狙撃を行う度に、その風土にあった弾丸を自分で作成する事にしている。
弾丸の成型を行うために『雷撃』はまず脇腹から生えた小さな鋏脚――この小さな鋏の間には小さな口が開いている――で鉄と銅の小さな塊を体内に取り込んだ。
次に体の中にある発電細胞を起動。
他の電磁波使いたちと違って『雷撃』は体内で発生した電力を外に放出する事はない。
彼女が生み出す膨大な電力は全てその体内にある強力な磁界を維持する事に使われる。
そう、『雷撃』は稀少な電磁波使いの中でもさらに珍しい『磁力使い』なのだ。
体内に取り込まれた金属は中身が空洞になった大きな腕の中を通るうちに力強く、繊細な磁力の指によってこねくり回され、一種の芸術品に作り変えられる。
三十秒ほど立った後、元の半分ぐらいの大きさになった金属塊が重量たっぷりな音を立てながら、腕の先端に空いた射出孔から吐き出された。
『雷撃』は金属塊を手にとり、その表面に白い指を這わせる。
新しくできた弾丸は涙滴のような形をしており、表面には螺旋状の溝が走っていた。
この溝は弾丸が高速回転する際に大気の壁を掻き回し、狙撃の最大の障害となる風の影響を無効化する。
『雷撃』はこの弾丸を使って、数多くの『強化人類』たちを倒してきた。
今まで二発以上、弾丸を費やす事はなかった。
どんな超人が相手であろうと一発で動きを止め、二発目で確実に仕留めた。
彼女だけが造り、彼女だけが撃つ事ができる。
それはまさに魔弾ともいうべき逸品であった。
冷たい表面に口付けを施し、『雷撃』は生まればかりの忠実な兵隊を緩衝材で満たされた箱の中に突き刺した。
箱の中には既に同じ弾丸が五発×八列、合計四十発の隊列を作っていた。
子供の頃から彼女はこうして物を綺麗に整理する事が好きだった。
だからこそ、ボルジャーノンを分析するために、わざわざ彼が準備射撃をした山荘まで赴いたのだ。
再びシーツの上に置いたFBIの報告書を手に取り、目を通す。
山荘の主人の話と報告書の内容は大筋では同じだった。
そして、今夜の会話で僅かな誤差も修正され、『雷撃』は自分がさらにターゲットに近づいたと感じていた。
ボルジャーノンの思考に接近するのはそれほど難しい作業ではなかった。
もともと、彼女らは双子のようによく似たような人生を歩んできたのだ。
二人とも青春の真っ盛りに競技射撃の頂点を極め、その後動かない的ではなく人間の頭や胴体を狙うマンハンターとなった。
二人の違いは年齢と性別。
そして、自主的に殺人に手を染めたか否かと言う点だけであった。
ボルジャーノンの戦力分析は順調に進んでいた。
しかし、『雷撃』はこの山荘に来てから、奇妙な引っ掛かりを感じるようになっていた。
言葉にしようと思っても、上手く言葉にできない。
それは歯車の間に挟まった砂のような違和感。
無意識が彼女の耳元に囁く警戒のシグナルだった。
その疑念の正体を探ろうと思考を巡らす内に、『雷撃』は睡魔の虜となった。
意識しないうちに眠りに落ち、そして―――
彼女は数年ぶりにケイロンの夢を見た……