犬井洋治
30分後。
しばらく明美は救急車を呼ぶのも忘れ、立ちすくした。
気分が落ち着くと、お夏と名乗る女が夫を殺して逃げた、と警察に通報した。
呆然として待っている内に、警察のパトカーと救急車がサイレンを鳴らして自宅まで到着した。
警察の現場検証では、お夏とやらの足跡さえも発見出来なかった。
妻の方が夫を殺した容疑者だと疑われたが、手も触れずに同時に全身の骨を粉々に出来る能力を、明美が持っているはずもない。
警察は「お夏」というのは妻が勝手に作り出した妄想と断定し、証拠不十分で釈放になった。
未だに斉藤信行の突然死は、原因不明である。
― ― ― ― ― ― ― ―
3週間後。
死んだ斉藤信行の家には、生前親交のあった友人、犬井洋治が来訪していた。
犬井と斉藤は、同人誌に短編小説を掲載していた仲である。
家にはやつれた表情の明美がいた。
警察には犯人扱いされ、拘置所に2週間拘留されていた。
世間からは『夫殺しの妻』と随分中傷され、週刊誌にも『人気作家を殺した恐妻』との見出しで写真を掲載された。
しかし明美はシロになり、警察からは陳謝された。
これで汚名は晴れたが、夫が殺されたショックからは立ち直れない。
犬井は斉藤の遺影の前で手を合わせ、焼香した。
「この度は誠にご愁傷さまです、奥さん」
「はい・・・」
「僕も驚いているんです。
斉藤君がこんな分けの分からない死を迎えたなんて。まだ信じられない気分なんです」
「お茶でもいかがです?」
「ああ、ありがとうございます」
明美は犬井のために、湯飲みに茶を入れてやった。
犬井は茶を一杯飲むと、言った。
「ところで奥さん、あなたは最初は見知らぬ女が突然現れて旦那を殺した、と言っていたようですね。
週刊誌の記事で読んだんですが。確か、名はお夏とか。
その話は事実なんですか?」
「ええ、事実です!あたしは本当に見たんです!
もっとおかしな事には、・・・その女の名前は・・・夫の遺作の小説の主人公の女の名前なんです!」
明美は泣き始めた。
「小説の主人公が設定そのままで出てきたんです!
でも警察に言っても信じてもらえず、あたしは精神病院送りにされてしまって・・・」
「へえ、小説の主人公が実際に出てきて、内容に怒って旦那を殺してしまったと・・・?」
「あたしの話、信じてないんですね?」
明美は涙をテーブルの上に落とした。
「でも証拠が無いんだし・・・。
その話が本当なら、SF小説のネタに使えますね。
僕も同業者として、小説の女主人公に殺されないように気をつけないと・・・」
「もう帰って下さい」
「は?」
「信じてくれないのなら、帰って下さいって言ってるんです!」
明美は怒って、二階へ上がってしまった。
リビングルームに残された犬井はため息をつくと、お茶の残りを飲んでから玄関から帰った。




