ユリのお姫様
あるところにそれは美しいお姫様がいました。
その美貌は他国にも広く知れ渡り、周辺の王子や貴族たちはこぞってお姫様に求婚をしました。
しかし殿方たちがどれほど容姿に優れていても、家柄が良くても、お姫様は首を縦に振りません。
何故ならお姫様が好きなのは女性だったからです。
朝日の白光が差し込む姫の寝所に控えめなノックが響いた。続いて淑やかな女性の声が淡々と告げる。
「姫様、失礼いたします」
部屋に入って来たのは侍女二人と、侍女たちを纏める若き侍女長のルシエラだった。
着付け用の台車を運び入れ、ルシエラはベッドに近寄る。次の瞬間、ルシエラは目を見開いた。
「姫様! これはどういうことですか!」
ルシエラが怒鳴った理由はベッドで眠っていた姫の隣にもう一人見知らぬ赤髪の少女がいたからだ。ルシエラの大声にその少女は裸のまま跳び起きた。きょろきょろと周囲を見回し状況を理解すると、脱ぎ捨ててあった自分の衣服を胸に抱えて部屋を飛び出していった。
「朝から騒々しいこと。せっかくの小鳥が逃げてしまったじゃない」
ベッドに残された姫が呟いて体をゆっくりと起こした。腰まで届くブロンドの髪は朝日を受けて白金のように輝いている。きめが細かい白い肌は凹凸がしっかりついており、作り物のように整ったプロポーションは白磁器を思わせる。綺麗な碧色の瞳が向けられるとルシエラの背後で侍女二人が吐息を漏らした。
ルシエラが侍女たちを睨むと、二人はすぐさま朝の支度に取り掛かった。こほん、と咳払いをしてからルシエラは姫に微笑みかける。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、ルシエラ。シルフィとディーナも」
体を拭き始めた侍女二人に呼びかけ、姫はそれぞれに口づけをした。続いてルシエラを手招きする。
「ルシエラ、目覚めのキス」
「致しません。そんなことより先程の者は誰です?」
「相変わらず頭が固いのね。誰だっていいでしょう」
「よくありません。素性の分からぬものを寝所に入れて万が一のことがあったらどうするおつもりですか」
「素性なら知っているわ。給仕の小間使いのマリーン。これで満足?」
「そのような下女を相手になさるとは! もし良からぬものをもらいでもしたら――」
「心配ないわ。あの子生娘だったもの。あぁそうそう、敷布も換えておいて頂戴」
「そういう問題ではなくてですね!」
簡易なドレスに腕を通しながら姫がルシエラをすっと見やる。
「ルシエラ。私、朝は静かに過ごしたいの」
途端にルシエラは勢いを落とした。
「も、申し訳ありません……ですがこれも姫様を思って……」
「そんなに私のことを心配してくれるのなら一晩中ベッドの中で監視するのはどう? いつでも歓迎するわ」
「い、いえ、私は……」
言いよどむルシエラに姫がくすりと笑う。
「私の誘いを断るなんて貴女ぐらいのものよルシエラ。そのつれない所が貴女の魅力でもあるけれど」
着付けが終わり化粧に入った姫を眺めながら、ルシエラは人知れず嘆息をした。
昼下がりの時間は中庭のガゼボ(西洋風東屋)でおやつというのが姫の日課だった。
控える侍女もルシエラだけで余計な重責もなく、城の中よりも解放感に溢れたこの時間は姫にとって憩いの時だった。ガゼボの周囲に植えられた色鮮やかな花々は見ているだけで姫の心を安穏とさせる。
花々を目で楽しみながら姫はティーカップに口をつけた。紅茶の香りを口中で味わってからしみじみと言う。
「見事なものね」
「はい、よく手入れされていると思います」
「手入れのことよりも、もっと単純に花の感想を聞きたかったのだけれど」
「……その、綺麗に咲いていると思います」
「なんというか、味気無い感想ね」
「花には疎いもので……申し訳ありません」
ただただ恐縮するルシエラに姫は微笑みかける。
「責めているわけじゃないわ。知らないのだったら私が教えてあげる。あの白くて大きい花がアマリリス。黄色のふわっとした小さいのがマリーゴールド。チューリップは分かる? 長い茎の上に同じような形の花が色違いで並んでいるでしょう? あれがそうよ」
指さしながら嬉々として語る姫にルシエラは顔をほころばせた。
「姫様は博識なのですね」
「花に関してだけよ。花が好きだから知りたくなるの」
「とても良いことだと思います。好きこそものの上手なれ。全ての事柄は興味を持つところから始まるのですから」
「そうね」
言いながら姫は周囲を見回しじっと目を凝らしていた。
「どうかされましたか?」
「せっかくだから私が最初に好きになった花を紹介したかったのだけれど、やっぱりまだ時期が少し早かったみたい」
「何という花ですか?」
「ヒメユリという名前の花よ」
「ユリというと、白くてラッパのような形をした」
「そういうイメージが一般的だけれど、ヒメユリは朱色の花なの。黄色のものもあるけれど私は朱色の方が好き。普通のユリのような白くて大きな花弁ではなくて細い小さな朱い花弁でね、子供の頃にこんなユリもあるんだ、って興奮したのを今でも覚えているわ。後になって調べてみたら朱色のユリはまだ他にもあるから別に特別なものではなかったのだけれど」
「特別でなくとも私もそのヒメユリを見てみたいです」
「夏に近づけばじきにここにもヒメユリが咲くわ。そのときにまた二人で楽しみましょう」
「はい」
しばらく二人とも無言で花を眺めていた。姫が紅茶を飲み終えるとルシエラがすぐさまおかわりの紅茶を注ぐ。ゆったりとした時間が流れ行くなか、姫が焼き菓子に手を伸ばし、「そういえば」と思い出したかのように言葉を続けた。
「こういうのは知ってる、ルシエラ? 庶民の間では恋人同士で食べ物を食べさせ合うのが普通なんですって」
「普通かどうかは存じませんが、そういうこともあるのは窺っております。ですがそれは食事作法も知らぬ者たちに限った話。姫様には関係のないことです」
「私は城の食事はあまり好きじゃないわ」
「何か気に入らぬ料理でも出ましたか?」
「そうじゃないの。広いテーブルにお父様と二人だけで黙々と食事をするというのがつまらないの」
「では晩餐会のような形式の方が好ましいと?」
「そういうことでもないの。分からない?」
「……分かりません」
姫は焼き菓子をひとつ摘まみあげ指先で弄ぶ。
「好きな人と一緒に食事をするというのはとても幸せなことなんですって。同じ料理を食べ、料理の感想を述べたりその日にあったことを話したりすると、自然と笑顔になるそうよ。素晴らしいと思わない?」
焼き菓子を口に運び姫がにこりと笑った。しかしルシエラは姫のようには笑えない。
「庶民には庶民の暮らしが、姫様には姫様の暮らしがあります。どちらが優れているかを考えるのは詮無きことです」
「察しが悪いわねルシエラ」
「は、何か至らなかったでしょうか?」
姫は肩を竦めたあと不敵に笑ってみせる。
「貴女と一緒に食事がしたい、と言っているのよ私は」
「あ……」
ルシエラが頬を染めて口を結んだ。それを見て姫がくすくすと笑う。この侍女長は不意打ちをしないとガードを緩めてくれない。
姫は優雅に紅茶を一口飲んでから話しかける。
「ねぇルシエラ、焼き菓子を食べさせてくれない?」
「それは……」
「お願いではなくて命令よ」
ルシエラが躊躇いがちに焼き菓子をひとつ取り、ゆっくりと姫の口元へ運ぶ。
「くす、そんなに怖がらなくても別に貴女の指を食べたりしないわよ」
「そういうつもりでは――」
ぱくりと姫は焼き菓子を頬張り、唇を押さえながら相好を崩す。
「これすごく美味しいのよ。貴女もどう?」
「いえ、私は結構です。姫様がすべてお召し上がりください」
「そう。ならいいわ。もうひとつ頂戴」
再びルシエラに食べさせてもらった途端、姫は「うっ」と喉を押さえた。
「大丈夫ですか姫様っ!?」
ルシエラは姫の背中に手を当て、吐き出させるべきか飲み込ませるべきか逡巡する。悩んでいる間に姫は素早くルシエラに唇を重ねた。
「――――」
驚くルシエラの口内に何かの塊が入れられた。バターの風味と甘さが広がり、それが焼き菓子であることが分かるとルシエラはすぐに姫から体を離した。
口を袖で隠すルシエラを見やりながら姫がぺろりと舌なめずりをする。
「どう? 美味しいでしょう?」
ルシエラは口の中の焼き菓子を急いで飲み込み、顔を赤くしながら抗議をする。
「ひ、姫様、お行儀が悪すぎます!」
「鳥や動物ではよくあることよ。ねぇ、今度はルシエラが私に口移しで食べさせてくれないかしら」
「いけません! 庭師に見つかって国王様の耳にでも入ったら――」
「お父様だって承知しているわ」
「それでも、姫様が婚姻なされた際の世間体というものがあります」
「婚姻」
姫は鼻で笑った。
「女性が好きな私がどうやって結婚をしろというの?」
「形だけでよいではありませんか。跡継ぎさえ生まれれば誰とどう過ごそうが構わないと国王様もおっしゃっていたでしょう」
「その跡継ぎを産むのが嫌なの。何故まったく知りもしない男に体を許し、なおかつ子供を産まなければならないの。しかも女の子だったらまた産め? 冗談じゃないわ。私は絶対に嫌」
「ですがそうしないとこの国の行く末が」
「私が生きているのは国の為ではなく、私の為に生きているの。だから私は私の好きな相手と添い遂げたい。そうでなければ私がこの世に生まれてきた意味がないもの」
姫とて父国王の言い分は理解している。だが国と自分とを天秤にかけてどうしても国に傾かないのだ。言ってしまえば国の跡継ぎは最悪養子か、父がもう一度頑張って子供を作ればなんとかなる。だが姫の人生は替えがきくものではない。たとえ姫の決断のせいで誰かの人生が変わってしまうとしても、姫にとっては自分の人生が一番大事なのだ。
「……姫様はお強いのですね」
「ルシエラはどうなの? 私が嫌々結婚させられて嫌々子供を産まされても何とも思わないの?」
「それがこの国の未来の為になるのなら……」
「それは侍女長としての答え? それともルシエラ自身の答え?」
「…………」
ルシエラは本来は名のある貴族の娘であった。しかし流行り病で両親が倒れると、家は取り壊し処分。病気を持っているかもしれないルシエラに引き取り手など現れるはずもなく、娼婦か乞食に堕ちる寸前のところで助けてくれたのがルシエラの母の親戚でもあったこの国の后だった。それ以来、ルシエラはこの国の為に仕える決心をし、后が亡くなってしまってからも変わらず忠誠を持ち続けていた。
姫もそのことは知っていた。だから尋ねたのだ。侍女としてではないルシエラの本心が聞きたいと。
「姫様、私は……」
それでも踏ん切りがつけられず悩むルシエラを見て姫は息を吐いた。
「ごめんなさいルシエラ。貴女を困らせるようなことを聞いてしまったわ。今のは忘れて頂戴」
回答をもらうのを断念して姫はティータイムを再開する。ここで無理矢理ルシエラの本心を聞き出してどうなるものでもない。貴重な憩いの時間の空気を悪くしてまで意地を張るべきではないと姫は判断した。
姫が焼き菓子に手を伸ばしたとき、不意にルシエラが動いた。姫が取ろうとしていた焼き菓子を奪うとそれを口に咥えて姫の横に屈んで前に突き出した。目をつむったルシエラは顔を朱に染めて小さく震えていた。
「それが貴女の答えと受け取っていいのね?」
姫の問いかけにルシエラは答えなかった。答えなくとも姫には解っていた。
差し出された焼き菓子を口で受け取り、そのままルシエラとキスをする。焼き菓子が口から零れて下に落ちても姫も侍女長も気にしなかった。
甘く濃厚なキスを終え、おでこを付けたまま姫が呟く。
「……午後の御稽古は全部中止にしておいて。私の部屋で待ってるから」
ルシエラは今度こそはっきりと頷いた。
初めて想いに応えてくれた侍女長に嬉しさを伝える為に、姫はもう一度だけキスをした。
翌朝、姫は異変にすぐ気が付いた。
隣で眠っていたはずのルシエラが居ないのだ。
普通に考えれば早くに起き出して仕事を始めているのだろうが、嫌な予感がしてならない。
往々にしてこういうときの嫌な予感は当たるものだ。姫は朝の支度をしに来た侍女たちからルシエラが侍女長を辞めたことを聞かされた。
「…………」
ショックを受けた姫が失意に沈んでしまうのではないかと心配する侍女たちに、しかし姫は穏やかに微笑んだ。大丈夫よ、と。
姫の碧い瞳に確かな強き意志が宿っていた。
夜の暗い城下町をルシエラはひとり歩いていた。
住む場所や働き口を探そうとしたがなかなか見つからずこんな時間にまでなってしまった。
いや、とルシエラは自嘲する。
探そうとする振りをしていただけで実際は本気で探そうとしていなかった。
大恩に報いることも出来ず、さりとて姫の想いを受け止めることも出来ず。この国でこれからどう生きていけというのか。
城の膝元で暮らそうとするのは未練でしかない。どのみち合わせる顔など無いのだからこの土地から離れるべきではないか。いっそ見知らぬ他国へ旅立つのもいいかもしれない。
胸中で問答するルシエラの背後から馬車らしき音が聞こえてきた。
旅用のローブの襟元をぎゅっと握りルシエラは外灯の届かない闇に向かって歩きだす。
「そこのお方、少しよろしいかしら」
その歩みを凜とした声が止めた。
ルシエラは耳を疑った。その声はもう二度と聞くことのないと思っていた人のものによく似ていた。
ありえないとしながらも確かめる為にルシエラは振り返った。
石畳の街路に一台の馬車が停まっていた。その馬車の御者と思しき人物がルシエラを見下ろしている。ローブのフードを目深に被っているせいで顔はよく見えない。
「やっと見つけた。私にこんなに苦労をかけさせて、侍女長失格よ」
そう言って御者はフードを上げた。外灯がスポットライトのようにその人物を照らす。ルシエラは言葉を失った。驚いたからではない。彼女の美しさに見惚れてしまったのだ。どんな場所でもどんな時間でも色褪せることのない美しい高貴な女性がそこにいた。
「何故、ここに……?」
ルシエラはなんとか声を絞り出してそれだけ尋ねた。
御者台に座っている姫は城にいたときと変わらず優雅に微笑んだ。
「決まってるでしょう? 貴女を迎えに来たの」
姫の言葉に喜びそうになったルシエラだが、頭を振って一歩足を引いた。
「一度辞した身で今更お城に戻る訳には……」
「誰がお城に戻るって?」
「?」
きょとんとして見返すルシエラに、姫は勇ましくニッと笑った。
「ルシエラ、このまま城を出るわよ」
「……は?」
「私は私の生きたいように生きるし愛したいと思う人達だけを愛したいの。もしも姫という肩書が枷となるのなら、私はそれを捨てるだけ」
未練も後悔もまったくない威風堂々たる言葉は眩しいほどの輝きをルシエラに感じさせた。
「国というのは私には広すぎるわ。私の世界は私の両腕で抱えられる広さだけでいいの。そしてその世界には――」
姫がルシエラに向かって手を伸ばす。
「ルシエラ、貴女も居なくてはいけないのよ」
自分をここまで求めてくれていることにルシエラは素直に嬉しく思った。しかしそれでもルシエラは姫の手を掴めなかった。もはや意地だったのかもしれない。自分から逃げ出したくせに差し出された好意に安易にすがりつくような人間にはなりたくないという最後の抵抗だった。
手を見つめたまま動かないルシエラに姫が言い放つ。
「逃げたいのなら逃げてもいいわよ。すぐ捕まえにいくから」
偉そうで独善的な物言いはルシエラを逃がさないと言うよりは、ルシエラがついてくることを疑っていないようだ。
「……強引な姫様ですね」
「もう姫様じゃないわ。元・姫様」
「姫様でなくなったらきっと苦労しますよ」
「そうね。だから貴女が支えてくれるんでしょう?」
当然のように言い切る姫の表情はこれからの労苦を憂慮などしていない。ルシエラと一緒ならばどんな困難でも障害になりはしないと確信に満ちた瞳が語っていた。
ルシエラは小さく息を吐いた。姫に呆れたわけではなく、前だけを見つめ自分の幸せを信じて疑わない姿勢に感心したのだ。ルシエラが悩んでいたことなど瑣末なことに感じてしまうほどに。
「そろそろ手がつらくなってきたのだけれど」
腕を伸ばしたままの姫が疲労を滲ませて呟いた。
ルシエラはプッと笑い、姫の手を掴み取る。
「それは気付くのが遅れて申し訳ありませんでした」
引っ張られて御者台にあがったルシエラを姫が抱き寄せた。姫はぎゅっと強く抱き締めたまま嬉しそうに囁く。
「もう二度と私を待たせたりしないで」
「……はい」
頷いて返すルシエラの耳にどこからか呼びかける声が聞こえてきた。荷台の方に目をやると、幌の中に見慣れた顔があった。シルフィとディーナ、そしてこれまで姫が寝所に連れ込んだことのある侍女たち、なかには小間使いのマリーンの姿も見える。
姫の細い両腕で抱えるにはいささか多すぎる人数にルシエラは開いた口が塞がらなかった。
(まったくこの姫様は)
このお方には敵わないな、とルシエラは息をこぼした。
前途は多難だ。しかし今は不安よりも楽しみの方が勝っている。早くも姫に感化されつつある自分にルシエラは苦笑した。
『生きたいように生き、愛したい人を愛す』
姫に言われた言葉を思い返しながら、ルシエラは自分の最も愛しい人の体を抱き締め返した。
ルシエラ自身がこれからどう生きていくのかをこの世界に見せつけるように。
ある国の国境沿いの森の奥に小さな村がありました。
その村は女性しかいないという変わった村でしたが、村人たちはいつも笑顔で暮らしていました。
何もない村ではありましたが、村の唯一の名物は花畑でした。そこでは一年を通して様々な花が咲き、景色を鮮やかに彩っていました。
もしもあなたがその村に行く機会があるのなら初夏に行くことをおすすめします。
一面に咲き誇った朱色のヒメユリがあなたを出迎えてくれるでしょう。
終




