飛行綺譚
シリーズ物です。上部「オロチ綺譚」より1作目「巡礼綺譚」からお読み戴けるとよりわかりやすいかと思います。
「すごい遠回りになっちゃったね」
「仕方ないよ、菊池」
宇宙貿易船オロチでは分析を担当している宵待は、背後の席にいる航行補佐担当の不満そうな呟きに苦笑した。菊池はあまり感情を隠さない。隠せないほど単純、いや素直なのだと宵待は最近理解した。
「中央管理局の協力要請に否と言えるはずもないし」
なだめてみても、菊池の不機嫌さは変わらない。唇を尖らせて宵待へ振り返る。
「わかってるけど、エンテン星までの距離が3倍になっちゃったじゃん」
自分の席の下方からする不平不満の会話に、船長の南は苦笑じみた表情を作った。
「そう言うな2人とも。新世206号への米の恩返しになったんだからな」
そうなの? と見上げて来る菊池に、南はパネルを操作して正面モニタにニュース記事を表示した。
「見ろ。新世206号はボレー付近の惑星へ移住が決まったそうだ」
「ほう、あの堅物、ずいぶん迅速に約束を守ってくれはったようやな」
医療担当の笹鳴はモニタを見て目を細めた。新世206号とは以前その王女を偶然拾った縁で関わった惑星だった。反政府組織を壊滅させるために手を貸した報酬がお米とは、我が船長ながら無欲だと笹鳴は思う。
ボレーと言えば宇宙の全航路を掌握するSPACE UNIONの中央航路近くにある太陽系だ。交通の便もいいし、近隣に公役所も多い故に警備も厚い。
「あの付近は飛び抜けて豊かという訳ではないが、争いごととは縁遠い地区だ」
菊池は一通り記事を読むと、シートに深く寄りかかった。
「頑張った甲斐があったんならよかったけど、でもこの大荷物をいつまでも抱えているのはちょっとなぁ」
貨物管理も受け持っている菊池としては、スイリスタル太陽系で手に入れた扱いが難しい精密機器や期限を持つ薬の運搬にはどうしても気を使う。
「そうぼやくなよ、朱己」
狙撃担当である柊が明るい笑みを浮かべた。柊はそもそも能天気スレスレの前向きな男だ。
「遠くなったっつっても近江が色々便宜を図ってくれたから、まぁせいぜい1週間ってところだって」
菊池はそれでも面白くなさそうにうなった。
いくら宇宙航法に則ったとはいえ近江こと中央管理局特殊部隊にかかわったせいで、オロチは仕事に影響をきたし、余計な燃料や弾薬を消費してしまった。近江はそのエネルギーの補充と目的地までの単独ワープ使用権をオロチに与えてくれたが、時間のロスだけは如何ともしがたい。
「もしセイラン星の万能薬の期限が売却前に切れたら、中央管理局に買い取ってもらわなきゃ」
「そない期限が短いわけないやろ。なんや朱己、不機嫌やんか。近江が嫌いなん?」
「不機嫌なのは近江さんのせいじゃないくて、さっきからちかちかしてる変な電波のせい」
菊池はそう告げて正面スクリーンに小さなウィンドウを表示した。オロチを中心に半径1光年をモニタリングするそのグラフには、定期的に位置を補足するような発信形跡が見てとれた。
「……菊池、なんだこれは。つけられてるのか?」
南の固い声に、菊池は細い眉を寄せた。
「ううん。相手は一歩も動いてないんだ。俺達がこいつらのテリトリーに入った途端にチェックされてるって感じ」
「この広大な宇宙でこれだけマメにこっちの位置を補足できると言えば、中央管理局か海軍か……UNIONか」
剣呑な表情を作る柊の隣で、パイロットの北斗は帽子のつばを持ち上げた。
「もっとも可能性が高いのはUNIONだろうね。航路のほとんどはUNIONが掌握してんだから」
UNIONがオロチの動きを把握しようとしている。その事実に南は心の中で舌打ちした。オロチはUNIONに所属していない自由貿易船だから直接的な干渉はないが、それでもUNIONの航路を使っている事実はあるのだから言いがかりをつけられる可能性はある。
「……最近、ちょっと目立った行動をしてしまったからな」
「ちょっと? 南、自分の目立つ言うんはどないなレベル分けやねん」
5大海賊の1つを滅ぼし、クーデターに手を貸し、挙げ句に惑星1つを破壊している。それでも南にとっては「ちょっと」なのか。笹鳴はため息を吐いた。
「どういうレベル分けと言われても困る。いいか笹鳴、目立つというのは、こう、華々しく脚光を浴びる行為であって、決して修羅場の大きさじゃないと俺は思うぞ」
「どうでもええけど、この追跡どないすんねん。コンタクト取るんか?」
南は尚も何か言いかけたが、ぐっとこらえてモニタのグラフに視線を移し、きっぱりと言い切った。
「無視だ。ただし常に把握しておいてくれ」
「了解」
南は考え込んだ。柊ほどではないにしても南もUNIONにはそれほど好意を持っていない。というよりできるだけ避けるようにしている。最近の自分達の行動を省みると確かに動向を知りたくなる気持ちもわからないでもないが、かといって監視されるのは気分のいいものではない。
面倒な事になった。南が渋面を作った時、宵待が「ん?」と声を上げた。
「どうした? 宵待」
「あ、うん、船長。今ちょっとニュースを見てたんだけど」
宵待はヒマさえあればニュースか歴史のデータに目を通していた。学校にも行けず、知識といえば逃げ回っていた両親からしか得たものしかない宵待にとって、現代の情報量は圧倒的すぎた。常に情報を仕入れていないと日常会話すらままならない。
「コールドホールって、いったい何?」
見上げて来る宵待に、南は組んでいた両腕を解いて笑みを作った。
「ブラックホールというのは知っているか?」
「ああ、この間柊に教わったよ。掃除機の化け物みたいなものだって」
「掃除機の100億倍は強力で有害だがな。あれの冷気版だと思えばいい」
尚も首を傾げる宵待に、笹鳴が笑った。
「ようするにやな、ブラックホールが重力の塊で何でも吸い込むのに対し、コールドホールは冷気の塊で何でも凍らせるって話や」
「すでにかなり温度の低い宇宙で、更に対象物の温度を下げるって事?」
「どんな物質かて必ず原子と分子がある。その動きを完全に止めてまういう事や。この辺は朱己の方が詳しいやろ」
アイソトープを操れるんやからな、と続けられ、航海中何かとESP能力を駆使している菊池は苦笑して宵待へ振り向いた。
「絶対零度っていうのがあってね。どんな物質もセルシウス温度……セ氏で-273.15℃より下がる事はないんだ。これを絶対温度で0Kって表示する。宇宙は完全な真空ではなくてすんごい希薄だけどガスで満たされているから3K、つまり-270.5度はあるんだ。この動きを完全に止めてしまうホールの事だよ」
宵待はより首を傾げた。そもそも温度の計測に複数の単位がある段階で混乱している。
「ようするに」
困り顔の宵待に菊池は苦笑した。
「巨大冷凍庫みたいなものだよ」
宵待はしばらく考え込んでいたが、やがてのろのろと顔を上げた。
「なんとなくだけど、わかったような気がするよ。でも、だとするとちょっと大変な事になるかもしれない。地方の小さな記事だけど、見て」
宵待はそう言って正面スクリーンに新たにウィンドウを表示した。それはニュースの記事で、移動性のコールドホールが発見されたとの事だった。
「移動性コールドホールって……どんな理屈で存在してるわけ?」
呆れる北斗に菊池がうなった。
「多分だけど……運動を停止した分子と原子の塊を足場にして進んでいるんじゃないかなぁ」
「本物の化け物だな」
柊が記事を見て吐き捨てた。こんなものに接触したらオロチはあっという間に棺桶と化してしまう。
「重要なのはここだよ、見て」
宵待は記事の一部を拡大した。そこには移動性コールドホールの軌道予測が記されていた。
「なになに……“おおよその公役機関・航路等は外れて推進しているものの、徐々に速度と規模を増しつつあるこの移動性コールドホールは、少なくとも近々に消滅の可能性はない。それどころか、このまま推進すれば大規模商業区域であるローレライを直撃するだろう。”……!?」
柊の音読にブリッジは息を呑んだ。
「ローレライって、確か今オロチが向かっている区域だろう? エンテン星のある……」
宵待の声に誰も返答しない。ローレライは巨大な商業区域だ。人口だってスイリスタルを遥かに凌ぐ。
「……どうしてこんな大変な事実がおおっぴらになってないの?」
呆然と呟く菊池に柊が険しい顔で振り向いた。
「大変な事実だからだろ。おそらく中央管理局が握りつぶしてるんだ。パニックになりかねねぇからな」
「じゃあローレライの人達は」
「おそらく、知らないんじゃない?」
北斗の声が冷え冷えとブリッジに響いた。
「せやけどローレライいうたら中央管理局にとっても美味い汁の吸える所やろ。簡単に手放すとは思えへん。どない思う? 南」
南は硬い表情で記事を睨みつけていた。
移住を選択するには、ローレライの人口は多すぎる。そもそも間に合うのか。
「宵待」
「はい、船長」
「大至急移動性コールドホールの情報を集めろ。規模、速度、現在地、その他全てだ。オロチの航行補佐はすべて菊池に移動」
「了解」
菊池と宵待の2人が即座にモニタに向かうのを見て、北斗はちらりと南に視線を向けた。
「船長、機首は?」
南は両腕を組んだ。
「このままローレライだ」
「了解」
これか、と南は深く息を吐いた。自分達がモニタリングされている理由は。
「でも船長、どうするんスか? これから消滅する惑星に荷を売るんスか?」
南はその質問には答えず、固い視線を柊へ向けた。
「柊、ローレライ……正確にはエンテン星までの正確な時間と通信可能区域を教えろ」
「時間はこのままだと180時間っスけど、ワープすれば半分にまで短縮可能っス。通信テリトリーは距離が遠すぎるので対話できるのはまだ全然無理っス。軍部の回線を使用すればなんとかなるかもしれないっスけど……」
ワープしたとしても到着までには約4日。情報を隠蔽したがっている中央管理局と組んでいる軍部が通信回線を貸してくれるとは思えない。
「宵待、移動性コールドホールのエンテン星到着予測時間は?」
「それが……」
宵待は顔を上げた。
「移動性コールホドールはかなりの重力も持っているようで、周囲の物質を吸い込みながら推進しているんです。現在ですら質量は10×40乗、この進路だと無人惑星や流星群を飲み込んでかなりの規模になるだろうから……」
「細かい事はいい。おおよそでかまわん」
宵待は唇を結んだ後、目を伏せた。
「オロチのシステムで出る数字は……10日後です」
10日、と思わず笹鳴が復唱した声を聞き、南は目を閉じた。
エンテン星でフェイクフィルタの試作品をくれた連中は、商魂逞しいが気のいい連中ばかりだった。何も訊かずに譲ってくれた。そのお陰でイザヨイ星というオアシスを守る事ができている。
助けてやりたい。
だが、10日ではあまりにも時間が足りない。
「そ、そんなに目前なの? なんでローレライは気付かないんだ?」
「位置が悪いんだよ、菊池。移動性コールドホールはほとんどUNIONの航路を外して進んでいる。つまり公共衛星に引っかかっていないから情報が入って来ない。おまけにいくつもの流星群や無人惑星を吸収して巨大化、速力増進を繰り返していて、1時間ごとに別物みたいに成長してる。そして最も問題なのは」
宵待は再び正面スクリーンに新しいウィンドウを出した。
「この半径1億キロの電磁波ベルト。これも彗星の一種らしいんだけど、一ヶ月前あたりからローレライを囲むように通過していて、現在ローレライでは2,000キロ以内じゃないと外部との通信が不可能になっているみたいなんだ」
「……なるほど。情報管制に一役買ってるって訳か」
柊がモニタを睨む。
「タンホイザー砲で何とかならねぇかな」
「ダメだね。逆にエネルギーを与えるだけだよ」
柊の提案を北斗がばっさり叩き切り、南へ振り返った。
「どうするの? 船長。顔見知りだけでも連れ出してみる?」
南はまた返答しなかった。オロチ1隻でそんな巨大コールドホールをどうにかできるはずもない。200億を超えるローレライの住民達を連れて逃げる事も不可能だ。
何もできないのか。ただ指を加えて見ている事しか。
「船長」
菊池が顔を上げた。
「通信が入ってます。近隣の衛星オリオンから」
南は一瞬怪訝そうな表情を見せたが、すぐに「繋げ」と告げた。
「こちら自由貿易船オロチ。衛星オリオンどうぞ」
『久しぶりだねぇ、オロチ。UNION通産交渉部門管理官、ウララ・カスガだよ』
ブリッジの全員が顔を引きつらせた。ウララ・カスガと言えば、惑星ヨナガの時に顔を合わせたあの年配の女性だろう。
一瞬で牙を剥いたのは、元UNIONの柊だった。
「UNIONが何の用だ? 無駄に高い税金ならきっちり納めてるぜ」
『お前さんが柊だね。そういきり立つもんじゃないよ。南船長、ちょっと話があるんだがね』
「手短に頼む」
モニタの向こうで、カスガは笑った。
『もちろん、こっちも時間がないからね。実は今、ちょいと深刻な事態に陥っていてね。お前さん達も関わるだろう商業区域、ローレライの事さ』
「コールドホールか?」
カスガは一瞬目を細めた。
『……知っているなら話は早い。あそこを救いたいのさ』
「どうやって?」
カスガは表情を引き締めた。
『いま海軍きっての巡洋艦で中央管理局開発の高性能シールドをこっちに運ばせている。隕石などの障害物はもちろん、コールドホールのような外気からもシールドできる秘蔵のシールドミサイルさ。カバー範囲は約200万キロ。ただし熱圏の内側から外気圏に向かって撃たないとならない』
「ローレライの惑星すべての熱圏からミサイルを撃つ気か? 10や20じゃないだろう」
カスガは首を横に振った。
『ローレライは基本的にエンテン星とコクショ星の連星が中心にあり、その周囲を更に小さな衛星が回っているに過ぎない。そして幸いな事にこの双子星が連星系全体の重心に最も近づいた時にコールドホールが直撃する。だからどちらかの惑星から打ち込めばローレライは守られるって訳さ』
宵待は何を話しているのかわからず首を傾げたが、後で教えるねと菊池に言われたので質問は挟まなかった。
「解決法があるなら何よりだ。さっさとそのシールドミサイルとやらを打ち込んだらどうだ?」
『それができないから、あんたに頼んでるんだよ』
カスガはモニタの端に小さなグラフを提示した。
『いいかい? 南船長。このグラフは今のローレライの電磁波状況、そしてこっちがコールドホール直撃時の電磁波予測状況だ』
2つ並んだグラフを見て、南はため息をついた。
「UNIONのシステムもたいした事ないな。直撃時のグラフが振り切れているじゃないか」
『馬鹿お言いでないよ。最新システムを導入したUNIONの予測測定器を駆使しても、直撃時の電磁波は桁外れって事さ』
カスガは渋面を作った。
『おそらくコールドホールの接近が電磁波ベルトに何かしら影響を与えてるんだろう。海軍や中央管理局のでかいだけの巡洋艦に、こんな電磁波ベルトに突っ込むなんて芸当ができると思うかい?』
「……それで、オロチにやれと?」
カスガはうなずいた。
「ふざけんなよババァ。なんで俺達がてめぇらの命令に従わなきゃならねぇんだよ」
悪態をついたのは柊だった。
『あんたには無理かい? 柊』
「そんな安い挑発に誰が乗るかよ」
『なら、あんたはローレライを救いたくはないのかい? 柊しぐれ』
柊はモニタのカスガを睨みつけた。
『元UNIONの護衛艦隊隊長。あらゆる障害から公役貿易船団を鉄壁の防御で守り抜き、味方からは鋼鉄のヴァンガード、敵からはUNIONの悪魔と恐れられたあんたの腕を持ってしても、ローレライは救えないかい?』
宵待は目を見張った。思いもよらないところで柊の過去を聞いたせいもあるが、そんな経歴があったとは思ってもいなかった。
『海軍にも中央管理局にも、もちろんあたし達UNIONにだってそんな技術を持った人間や船はないよ。あんた達にできないのなら、ローレライは消滅するしかない』
唇を噛んだ柊にちらりと視線を投げてから、南はモニタのカスガを見た。
「俺達が手を貸さなければどのみちローレライは消滅する。成功すればよし、失敗してもたかが自由貿易船1隻失ったところで気にはならんというところか」
『まさか』
カスガは真顔で南に視線を定めた。
『あんた達に無理難題を吹っかけて命を奪ったなんて事がスイリスタルに知られてごらんよ、UNIONは大きな市場を失う事になる。そして何よりあんた、南ゆうなぎをUNIONが死なせたなんて事がエアシーズにバレてごらん。300年前の戦争を繰り返す事になるよ』
南とカスガの間に流れる緊張感がオロチのブリッジを静かに支配した。
『是が非でも成功してもらわなきゃ困る。個人的にはあんた達なら必ず成功すると信じているけどね』
「……あんた個人に成功を保証されてもな」
南はため息を吐いた。
「海軍の巡洋艦はどこまで来ている?」
『ワープ航路を駆使してカッ飛んでるはずだから、おそらく明日にはミサイルを渡せるはずさ』
南は目を伏せた。
ローレライは助けてやりたい。だが失敗すればクルー達全員を死なせる事になる。
今の自分の唯一の財産、やっと手に入れた暖かい仲間達のいる場所。それら全てを賭けるに値する事だろうか。
『頼むよ、南船長。能力的にも位置的にも、もうこの宇宙であんた達以外にローレライを救える者はいやしないんだ』
尚も無言でいる南に、笹鳴がぼそりと呟いた。
「……この先、税金を半分に負けてくれはるんなら、ええんとちゃう?」
「ならワープステーションの使用料も半額ね。ついでに単独ワープを自由に行使する権利もくれるなら考える」
「あ、それなら公役所の空港使用料も半額に負けて欲しい」
「情報管制にもうちょっと食い込めるともっと嬉しいけど」
笹鳴に北斗、菊池、宵待も続き、それを見て南は瞠目した。
「お前達……」
「いいんじゃないの?」
北斗が帽子のつばから南を見上げ、口角を上げた。
「UNIONに貸しを作るのもさ」
気分いいじゃん、と笑う北斗に南は苦笑した。こういう彼らの強さに自分は今まで支えられて来た。これからもきっとそうなのだろう。
南は1度目を閉じ、苦笑を消してモニタのカスガを見上げた。
「税金とワープステーションと公役空港使用料の半額免除、単独ワープの常時許可、中央情報局及びUNION情報部のパスワードをUNION加盟船と同等に。それらを条件にその話を引き受けよう」
モニタの向こうでカスガが苦笑を浮かべた。
『わかった。その条件、あたしの役職にかけて申請を通すよ』
「俺達はこれから単独ワープを使って全力でローレライへ向かう。シールドミサイルの受け渡し場所の指示はこちらからする。ローレライ近辺に補給艦の用意を」
『了解した。頼んだよ、南船長、それにオロチクルー達』
モニタの向こうでカスガが微笑んだ。
オロチは南の宣言通り単独ワープを駆使してローレライへ向かった。
UNIONも頼んだ手前オロチの航路使用を優先的に手配し、軍艦ですらオロチの為に道を譲った。
「ねぇ菊池、もう1回教えて欲しいんだけど、ダメかな」
その合間を縫っての食事の用意の時、宵待がおずおずと菊池へ切り出した。
「え? ああ、うん、約束だもんな、教えるよ。遅くなってごめんな」
菊池はリズムよく食材を切りながら笑った。
「まずは連星についてだな。別名双子星と言って、互いの重力に引かれながら周回する、質量の等しい惑星の事なんだ」
そう言って菊池は楕円に輪切りにしたキュウリを2つ取り出し、3分の1ほど重なるようにしてまな板の上に置いた。
「このキュウリの外周が惑星の軌道だとするだろ? で、この重なってる部分の中心が連星系全体の重心になるわけ。3つ以上で軌道運動しているものもあるんだよ」
「へぇ……そんな惑星があるんだ。よくぶつからないな」
「うん。通常は恒星なんだけどローレライは特別なんだ。で、主星がエンテン、伴星がコクショ。それぞれに衛星が複数あって、それらをまとめてローレライって呼んでる」
宵待はうんうんとうなずきながら使い終わった調理器具を洗った。
「で、熱圏っていうのは大気圏の1番上にある層の事なんだ。地表から10数キロまでが対流圏。雲ができたりするところだよ。その上が成層圏。更にその上の中間圏との境目あたりの温度がすごく高いんだ。俺達が惑星へ着陸する時に、ものすごい摩擦熱が出るだろ? あれだよ。でもその上の熱圏に近づくほどに温度は下がる。地表から80キロ〜500キロくらいかな。オーロラが現れたり、大昔のスペースシャトルが飛んでたのがこの辺りだよ。これらを総称して大気圏って言うんだ」
宵待は再びうんうんとうなずいた。
「その大気圏の1番上から、宇宙に向かってシールドミサイルを撃つって事なんだね」
「うん、そう。熱圏の更に外側を外気圏って言うんだ」
以上、菊池先生の宇宙講座でしたと笑って、菊池は再び包丁をリズミカルに動かし始めた。
「さっき宵待の調べてくれた資料を見たら、双子星が最も近づく時にコールドホールが直撃するみたいなんだ。だからミサイルは1発で済むみたいだね」
「危険……なんだろう?」
菊池はしばし無言になった後、まぁねと小さく呟いた。
「どうしてもコールドホールの正面に回ってからミサイルを撃たなきゃならないから、対応が遅ければ俺達もコールドホールに飲み込まれる。そして多分だけど、完全に運動が停止した分子や原子を動かす事は、俺にはできない」
菊池は難しい表情で食材を鍋に放り込んだ。
「俺の力って言うのは、もともと動いている分子の運動を促進したり遅くしたり変換したりするものなんだ。空間制御能力もちょこっとはあるけど、宵待の声みたいに質量が明確じゃないものならともかく、実体化したオロチほどの大きさの物質を転送させる事はできない」
「じゃあ、コールドホールに飲み込まれたら……」
「うん。多分脱出はできない」
鍋をかき回す菊池は真顔だった。
「燃料だって凍結するだろうし、そうなればオロチは機能を完全に停止する。酸素も止まるだろうから、俺達も生きてはいられない。そもそも0K内では生物は生きていられない」
「Sシールドやステルス機能を使えば?」
「Sシールドは基本的に衝撃を防御したり物質の侵入を遮るものだから、冷気の塊にどこまで通用するか。ステルスは電磁波ベルトに有効かもしれないけど、そもそもその電磁波にステルスシステムが破壊されないとも言えないよ」
「つまり……ローレライと共に助かるか、それとも一緒に滅ぶかのどっちかって事かい?」
菊池は黙ってうなずいた。
「どうする? 宵待。今ならまだ小型戦闘機でオロチから脱出する事ができるけど」
宵待は笑った。
「決まってるだろ。一緒にいる。俺でも何か役に立てる事があるかもしれないからね」
宵待の返答に、菊池も笑った。
「あ、それからもう1つ教えて欲しいんだけど」
「なに?」
「エアシーズって、何?」
南の死がエアシーズに知られたら、とカスガは言っていたが、宵待は初めて聞いた。
「うーん、今はUNIONが宇宙の航路のほとんどを管理してるだろ? でも以前はエアシーズが管理してたんだよ」
「エアシーズはなくなったのかい?」
「ううん、今でもあるよ。でも当時の規模の10,000分の1くらいにまで縮小したみたい。もともとはただの1太陽系だからね、エアシーズは」
菊池はお米を入れた圧力鍋をコンロにかけた。
「エアシーズっていうのは、当時ものすごく権力のあった先進太陽系でね。初めて宇宙航路を整備したのはエアシーズなんだ。スイリスタルなんか足下にも及ばないほど裕福な王政の惑星で、宇宙開発から造船、同盟なんかの政治的統括もやっていて、そりゃあもう宇宙の王様みたいな感じだったんだって」
「それがどうして、今はこんな事に?」
菊池は首を傾げた。
「俺の生まれる前の話だから教科書でしか知らないけど、何でもすごく悪い王様が圧政を敷こうとして反乱が起きたんだって。その反乱を起こしたレジスタンス達が、今のUNIONの母体らしいよ」
「へぇ……そのエアシーズが船長とどんな関係なんだろう」
「さぁ」
菊池はみそ汁作りに取りかかった。
「エアシーズについては教科書にもあまり詳しく書いてなかったんだ。資料もあんまり残ってないみたい」
「でも、今でも存在してるんだろう?」
「みたいだけど、俺はエアシーズ加盟船にはまだ出会った事がないよ。噂もあんまり聞かないなぁ」
お豆腐出して、という菊池に宵待は業務用冷蔵庫を開けた。
「普段もこうだったらいいのに」
海軍すら道を空けてくれる道程に、北斗は小さく呟いた。いつもなら軍艦がすれ違って離れて行くまで動く事すら許されないのに、今は立場が逆だ。
「そうか? 俺は今の状況が気色悪くて仕方ねぇけどな」
カスガとの通信の後から、柊の機嫌はあまりよくなかった。
「UNIONにいいように利用されてるようにしか思えねぇよ」
「何言ってんの。成功したら税金半分で済むんだよ。もっと美味いもんが喰えるし、武器だって搭載できるってのに」
「成功したらだろ?」
「するに決まってんでしょ。俺が操縦してんだから」
柊はケッと悪態をついた。
「そんな事より、ローレライまでの距離とコールドホールの状況はどうなってんの? 柊サン」
「うっせーな。明後日にはローレライに着くっての。ただ、今の速度だと同時到着になりかねねぇけどな」
柊はモニタを立ち上げた。
「コールドホールの巨大化と速度が尋常じゃねぇんだよ。半分ブラックホールだぜ」
「馬鹿海軍のせいでしょ。攻撃するだけ相手に質量を与えるって事に、どうして気付かないんだか。脳みそ筋肉でできてんじゃないの? だから最後には俺達みたいな民間の貿易船に頼る他なくなるんだよ」
元軍人だというのに、北斗の言葉にはまったく容赦がなかった。
「お前……絶対同僚に嫌われてただろ」
「あんたに言われたくないね」
北斗は後方のキャプテンシートを見上げた。
「船長、そろそろ目標地点だけど、ワープしてもいい?」
「ああ。ワープ後に最終補給に入る。菊池、燃料確認」
「22%」
「今回の燃料補給は無料だ。たらふくオロチに喰わせてやれ」
「了解」
まったく、いつもこうだといいのに。そう言って、北斗はワープスイッチに手をかけた。
最終補給を済ませ、オロチは再び全力でローレライへ機首を向けた。
ここから先は海軍も中央管理局もUNIONも侵入を控えている。コールドホールの通過地点と重なるからだ。
コールドホールが48時間内に直撃する局面になって初めて、中央管理局はローレライの主惑星2つに連絡を入れた。
ローレライ首脳陣はパニックに陥った。脱出するにも時間がないし、こんな事を惑星の住民達に知らせたら暴動が起きかねない。何故もっと早く知らせてくれなかったのかというローレライの批難は、残念ながら中央管理局には届かなかった。電磁波ベルトの中心にローレライが突入したからだ。
救援を送ったから必ず助けるという中央管理局の最後の言葉に、ローレライはすがるしかなかった。電磁波ベルトのど真ん中にいるせいで通信もままならなかったが、それでも近隣の衛星を駆使して宇宙の状況を知ろうと手を尽くした。
その甲斐があってやっとコールドホールの位置を確認した時には、すでに直撃まで6時間を切っていた。
コールドホールの質量は今や10の60乗を上回るほど巨大にふくれあがり、6時間では到底逃げ切れるものではない。
ローレライの首脳陣は祈った。この最大の局面に中央管理局が下した策が成功する事を。
その希望の姿であるオロチが衛星の映像に初めて映った時、ローレライ首脳陣は愕然とした。あんな小さな、軍艦ですらない船が、このローレライを救うというのか。
だが絶望する時間すらローレライには与えられていなかった。コールドホールはもう目前までせまっている。しかもオロチはそのわずか先を先行しているに過ぎない。熱圏に突入し方向転換をしてミサイルを撃ち、それが機能する為の時間ギリギリの余裕しかなかった。
「大統領……我々は滅ぶ運命なのかもしれません」
首脳陣の1人がそう呟いた時、エンテン星の大統領サオトメ・エンテンは、モニタを見つめたまま不意に微笑んだ。
「そう簡単に諦めるもんやない。少なくともあの船……オロチの連中は、俺達を救う為に命をかけとんのやで? 信じてやらな悪いやろ」
電磁波ベルトのせいですでにエンテン本星から外部へ向けての通信は不可能な状態になっていた。双子星の片割れであるコクショ星の大統領、ユウダチ・コクショと連絡を取る事もできない。
後は信じる事しかできない。あの小さな白い船、オロチを。
「さて、彼らは俺達の救世主足り得るかな。キンちゃんはどない思う?」
「せやなぁ」
エンテン星の最年少軍事司令官キンギョは、モニタに映る小さな機体を眺めた。破天荒だがずば抜けた戦闘能力を持っており、サオトメが大抜擢したのがキンギョだった。
「もっと美味いもん喰うておけばよかったとか、もっとぎょうさん遊んでおけばよかったとか、思う事は色々あんねんけどな」
そう言って、キンギョはサオトメを見上げた。
「せやけどもう、どうしようもないやんか。それやったらあの小さい船がワイらを上手い事助けてくれた時に中央管理局に言う文句でも考えとった方が気が紛れんで」
サオトメは笑った。自分が選んだだけはある。この後の及んで腹の据わり方が半端ではない。
「せやな。まぁ、ストーブでも用意して熱い茶ぁでもすすりながら、オロチが俺達を救えるかどうか見てようか」
サオトメは再びモニタを見た。オロチは頼りないほど小さい。しかし彼らがあのスイリスタルを救った噂は、このエンテン星にまで届いている。
あのスイリスタルの3惑星が協力開発して造り上げた宇宙一の船、オロチ。
「信じるしかあらへんな」
ローレライが氷漬けになるまであと2時間。サオトメは集まっていた首脳陣へ顔を上げた。
「腹ぁくくっとけ。俺達が生きるも死ぬも、あの船にかけるしかあらへんのや」
まるでローレライへ向けて全力で突っ込んで来るコールドホールを先導するかのように飛ぶオロチの映像に、サオトメは目を細めた。
「コールドホールまでの距離、約2,000キロ!」
「うっそだろ5,000切ってんのかよ……! おい北斗! もっと早く飛べねぇのか!」
「メーター振り切ってんの見えないの!? とっくにコールドホールの重力圏内なんだよ! すごい力で引っ張られてんの!」
「宵待! オロチの機体はどうなってんだ!? 燃料凍結とか笑えねぇんだけど!」
「菊池が全力でオロチ周囲の空間の温度を維持してる! ローレライ熱圏まであと50,000キロ!」
北斗は上唇を舐めた。自分で稼ぐようになってまでこんな壮絶な鬼ごっこをする事になるとは思っていなかった。スイリスタルで手に入れた荷物を貨物部ごとUNIONに預けておいて正解だった。D換装せず飛んでいたら、とっくにコールドホールに飲まれていたところだ。
「菊池のシールド外の気温がマイナス272度に到達!」
「頼むで朱己。自分の能力が切れたら、俺達は氷漬けや」
「わかってる」
菊池とクラゲは瞳を青く輝かせてうなずいた。菊池の作る大気の外はすでに迫り来るコールドホールの冷気に包まれている。まだ2,000キロも先行しているというのに、この冷気の影響は尋常ではない。
「だいたい、このミサイル重いんだよ……!」
北斗はメーターに視線を走らせた。どのメーターもレッドゾーンに突入して悲鳴を上げている。
「ローレライ重力圏内確認! 熱圏まであと49,000キロ!」
「最終ワープに入る! 北斗用意!」
「いつでもどうぞ!」
「ワープブースター全開!」
「ロック解除まで5、4、3、2、ディスチャージ!」
「菊池! 能力解除!」
背中を押されるような感触に、宵待は一瞬目をつむったが、すぐにモニタに視線を落とした。
「ワープアウト秒読み5秒、4、3、2!」
「菊池! シールド発動!」
再び背中から押し出される感触がしたが、今度は宵待は目をつむらなかった。一瞬一瞬の状況報告が命取りになる。
「ローレライエンテン星熱圏まで距離20,000! コールドホールまでの距離、さ、3,000!」
「はぁ!? ワープしたってのにたった1,000キロしか距離空いてねぇのかよ!」
南は奥歯を噛み締めた。ここまで近づいてしまったら、もうワープはできない。あとはもう逃げ切るだけだ。
「エンジンが焼き切れてもかまわん! フルパワー!」
「とっくにやってるっスよ!」
オロチは矢のような勢いでエンテン星に向かっていた。その後ろから凄まじいスピードでコールドホールが大きな口を開けてせまって来ている。
「なんて速度や……バケモンが」
「電磁波ベルト最大影響ポイントに突入します! ジャイロコンパスのオートキャンセル機能オールレッド!」
「各種システムダウン! ここから先は俺達の宇宙船クルーとしての勘勝負だ!」
「了解!」
最小限のシステムを残して、いっせいにオロチの電子機器類が停止した。その途端に菊池が小さく悲鳴を上げた。
「ど、どうした? 菊池!」
「で……電磁波、が」
菊池の顔が険しく歪んだ。
「思った、より、強くて……上手く、分子が、動かせ、な」
一定の距離を置いてオロチをシールドしていた菊池の作る大気の結界が、目に見えて歪み始めた。さっきまではステルス機能が働いていたのである程度の電磁波を遮断できていたが、今は菊池の力1本だ。かかる負担が倍増したのだろう。南は舌打ちした。菊池の能力は本来もっと離れた相手に向けてでなければ最大限に使用する事はできない。それをこんな宇宙船1隻の周囲に力を集結させているのだ。無理がかかって当然だ。
「おおよそでいい! エンテン星までの距離は!?」
「多分……15,000くらいかと!」
電磁波の影響を考慮してほとんどの電子機器は止めてしまっている。熱圏に突入した時の知らせは出るようにしてあるが、そこまでは勘で飛ぶしかない。
「うわっ!」
今度は北斗が声を上げた。
「どうした北斗!」
「推進力が著しく低下! 多分補助エンジンが停止したんだと思う!」
菊池の作る結界にコールドホールの冷気が侵入したのだろう。オロチは急激にスピードを落とした。
「冗談じゃねぇぞ! 朱己頑張ってくれ!」
「頑張ってる、けど……!」
マイナス273.15℃の巨大な化け物は、オロチの機体に手をかけた。そのままオロチを飲み込もうと更に口を大きく開ける。心なしかブリッジの温度も下がっていた。
その時、エンテン星の首脳陣室のモニタにはオロチの機体が今にも飲み込まれそうになっている状況が映し出されていた。コールドホールは百戦錬磨のオロチクルー達の想像より遥かに速くせまっていたのだ。
「メインエンジンに全出力を切り替えろ! ステルス起動!」
「ダメです! ステルス起動しません! エンジン出力60%減少!」
宵待が悲鳴じみた報告を叫ぶ。電磁波ベルトの中心近くでは、電波を発するすべての電子機器が制御不能に陥っていた。
「機体がどんどん重くなってる……! 凍り付いてるんだ……!」
さすがの北斗ですら顔色を変えた。宇宙を漂う希薄なガスの分子が運動を停止し、オロチの機体にしがみついている。菊池のシールドをもってしてもこの影響力。これに飲み込まれたら命はない。
気が付けばブリッジは凍えるほどに冷えており、息が白くなっていた。触れれば計器が皮膚にくっつくほど、ブリッジは極寒の気温になっている。
船内の温度管理はクルーの命に関わるので稼働を継続しているはずだった。そのギリギリのシステムすら、コールドホールは喰い破ろうとしていた。
再び宵待が叫んだ。悲鳴だった。
「推進装置停止! 照明及び空調と酸素供給装置停止! オロチの全システム完全停止します!」
エンテン星のモニタには、コールドホールに飲み込まれるオロチの姿が映った。
「あかんかったか……」
サオトメはモニタを見てため息を吐いた。
オロチはあのスイリスタルが造った最新鋭機だ。あの船より速く飛ぶものなど存在しない。その船ですらコールドホールから逃げ切れなかった。自分達を救う手段は断たれたのだ。
首脳陣室の窓の外は徐々に接近するコールドホールの重力に影響を受け、鳥や小さな草花などが上空に巻き上げられつつあった。電磁波オートキャンセル装置は最大出力で稼働しているので電磁波の影響こそないものの、すでに雲は凍り付いて雪がちらついている。その雪も巻き上げられて空に不吉な渦を作っていた。
「あかんなぁ。俺がエンテン星最後の大統領か」
「歴史に名前が残るで」
隣にいたキンギョは、モニタを見つめたまま小さく笑った。
「結構楽しかったで、ワイは。サオトメとエンテンに生まれてよかったって思ってんで」
「おおきに、キンちゃん」
エンテン星の首脳陣達の中にはサオトメとキンギョ以外に口を利く気力を持った者はいなかった。せまり来るコールドホールを映し出すモニタを呆然と眺めている事しかできない。
「もし生まれ変われるなら、今度は暑い星に生まれたいわぁ。キンちゃんはどないや?」
サオトメの呟きに、キンギョは返事をしなかった。
「キンちゃん?」
「……サオトメ」
キンギョはモニタを凝視していた。
「どないしてん? キンちゃん」
「あれ、なんやと思う?」
モニタには相変わらずローレライへ突進して来るコールドホールしか映っていない。しかしその上部、白くけぶる氷の表面が、一瞬盛り上がった。
サオトメが凝視している間に盛り上がった部分から亀裂が走り、白い氷が粉々になって弾け飛ぶ。
その下から現れたのは、船首と船尾が流線型の、白く美しい機体。
「オロチ……!?」
氷の欠片を振りまきながら、オロチはコールドホールから浮上した。まるで水しぶきのようにオロチの周囲を取り巻く白煙は冷気の塊だろう。
それはまるで神の孵化を見ているような光景で、サオトメは声をなくした。
オロチの機体からは氷が宝石のように砕け散り、最後までへばりついていた氷塊がはがれ落ちたその下から、芸術的に描かれたオロチの船名が現れた。
「そんな、」
コールドホールは絶対零度の彗星だ。捕まれば電子機器はもちろん、燃料だって凍結する。再起動させる為のエネルギーの分子の動きさえ止めてしまうというのに、どうやってあの化け物から脱出したというのか。
「サオトメ……オロチのエンジン、動いてへんで」
慌ててサオトメがモニタを確認すると、確かにさっきまで勢い良く火を吹いていたオロチの後部噴出口から気流の流れはまるで見えなかった。ならばオロチは今どうやって動いているというのか。
白い空気の塊を船体に絡ませたまま、オロチは夢のようにコールドホールから浮かび上がった。
「なんやあの船……!」
驚愕している間にもコールドホールはローレライへせまる。
その時、オロチは目が覚めたように後方から勢いよく火を噴出した。その途端にコールドホールと平行してローレライへ突っ込んで来る。
「あかん! もう逃げや! オロチ!」
サオトメの声など届かないオロチは、コールドホールと共にエンテン星の熱圏に突入した。
一瞬にして陰る空。
丸呑みにする勢いでエンテン星を抱え込もうとしたコールドホールは、あっという間に熱圏を突き抜けて中間圏にまで食い込んだ。
だが、成層圏に近づくにつれて上昇する温度にわずかに速度を落とした。
その隙を、オロチは逃さなかった。
成層圏ギリギリまで突っ込んだオロチは、大気との空力加熱からプラズマ化した空気をまといながら無理やり方向転換し、腹にくくり着けていたミサイルを放った。ウンカイ星のレアメタルでできた機体でなかったら間違いなく真っ二つにへし折れていただろう。
ミサイルはコールドホールの口へ飛び込み、3秒後には青い光を放って皮膜のようにエンテン星を包んだ。その光は電磁波ベルトの壁を突き破り、接近していたコクショ星の大気圏にまで届く。
オロチが命がけで運んだシールドミサイルは、完全にコールドホールの威力を押しとどめた。
熱圏まで押し返されたコールドホールの冷気はエンテン星とコクショ星の大気圏にさほど影響を与えられず、来た時と同じ速度でローレライを通過し、あっけなく去った。
サオトメは凍り付いた成層圏以下の水分が地表に降り注ぐのを呆然と眺めた。
「助かった……んか?」
「そうみたいやな」
キンギョは笑ってサオトメを見上げた。
「すごい船やなぁ、オロチ。どない奴が乗ってんのやろ」
首脳陣室にたくさんの安堵のため息がこぼれた。
助かった。生きながらえた。
その思いが頭をぐるぐると巡り、上手く言葉が出て来ない。
「あ!」
突然キンギョの上げた声に、サオトメは弾かれたように顔を上げた。
「あかん! オロチが墜落する!」
慌ててモニタを見たサオトメは、真っ逆さまに落下するオロチを目にした。よく見れば補助エンジンが脱落し、浮力調整の翼が根元から完全にもげている。オロチのマークが描かれていた垂直尾翼も半分ほど喪失していた。
それでもオロチは毅然と機首を上げた。ボロボロの機体を精一杯地表と平行に保ち、逆噴射を試みる。
「頑張れ! オロチ!」
キンギョが叫んだ。
一瞬、オロチの落下速度が減速した。
「オロチ……!」
首脳陣室の全員が固唾をのんでモニタを凝視する。
しかし減速したのはほんのわずかだった。その上、落下地点は広大な森の一角だ。あの勢いで墜落すれば、機体は粉々に砕け散る。
誰もが惨状を予想したその時、突然落下地点の凍った木々が吹き飛んだ。
オロチからミサイルが投下された訳でもない。レーザーが発射された形跡も見えなかった。それなのに突如地面が爆発し、その気流のお陰でオロチの落下速度は急激に緩和して、かろうじて機体が爆発しない勢いで地面に墜落した。
「……なんだ? いったい何が起こったんだ?」
「そんな事よりクルーやろ!」
キンギョに怒鳴られて、サオトメははっとして通信機を掴んだ。
「こちらローレライエンテン星大統領、サオトメ・エンテン! オロチ! 応答せよ!」
サオトメは叫んだが、オロチからの返答はなかった。
「キンちゃん! 大至急救助に向かえ! 何としてでもオロチクルーを助けるんや! オロチ、こちらサオトメ! 応答せぇ!」
マイクに向かってサオトメは怒鳴った。あの奇跡の船を、こんな形で失ってたまるものか。
「オロチ! オロチ返答せぇ言うとるやろ!」
キンギョが飛び出し、首脳官邸の格納庫からヘリが飛び立ったのが見えた。
「頼む、生きててくれ……っ!」
悲痛なサオトメの呼びかけにも、オロチからの返答はなかった。
いくつものヘリがオロチの墜落地点へ向かう。
5分、10分とサオトメは呼び続けたが、スピーカからの応答はない。
絶望しかけたその時、スピーカに雑音が入った。
「! オロチ? オロチか!?」
『……こちら自由貿易船オロチ。事後承諾で悪いが、着陸許可を願う』
首脳陣室にわっと歓声が上がった。
「オロチ……」
サオトメは安堵のあまり崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。それまで自分が立ち上がっている事にすら気付かなかった。
「こちらローレライエンテン星大統領、サオトメ・エンテン。オロチの来星を心から歓迎する」
『感謝する』
サオトメは沈むようにデスクに上半身を預けた。
コールドホールに飲み込まれた時、オロチのクルー達はそれでも諦めなかった。
菊池の分子制御能力を上回るエネルギーを持つコールドホールから抜け出せた理由は、宵待の力だった。
宵待の持つ低周波の力を、クラゲが増幅させて菊池がオロチの周囲に放ったのだ。
周囲の氷を低周波で砕き、菊池がありったけの集中力でオロチの船体を持ち上げた。
凍り付きかけていた燃料に再び命を吹き込んだのは柊だ。とっさに燃料室付近のシステムに動かせるだけの電流を流したのだ。
だがそのせいで操縦システムのいくつかを破損したオロチが重力に引きずられて落下した時に、その速度を緩和させたのは笹鳴だった。菊池もオロチを持ち上げようとしたがすでに体力が限界を超えており、またエンテン星の重力の影響もあって、わずかにしか減速できなかった。その時にはオロチはすでに対流圏に突入していたので、エンテン星の持つ電磁波オートキャンセル範囲内に侵入しているんじゃないかと思いついた笹鳴が、ステルス機能を一方向へ集中して放ったのだ。強力な対電磁波エネルギーに木々は地面ごと爆発し、オロチの落下衝撃を吸収した。
機首を保って損害を最小限にとどめたのは、もちろん北斗だ。
そしてそれらすべての指揮をとったのが、南だった。
絶対にクルーを死なせはしない。その思いだけで、土壇場であらゆる可能性を一瞬ではじき出したのだ。
補助エンジンと翼の脱落、酸素供給の停止、凍り付きかけた船、そのすべてをはねのけて、オロチは生還を果たした。
オロチクルー達が船から降りた時、着崩した軍服を引っ掛けた野生児のような少年が駆け寄り、真っ先に降り立っていた北斗に思い切り抱きついた。
「お前らすごいな! 命の恩人や!」
疲れ切っていた北斗はそのままひっくり返って凍った地面にしたたかに後頭部を打ち、不機嫌そうにキンギョを払いのけようとしたが、それでもキンギョは離れなかった。
「ホンマにありがとう! オロチ最高や!」
空気を読まずに喜ぶキンギョに、南は疲れた笑みを浮かべた。
「ここにおったんか、南船長」
不意に声をかけられて南が振り向くと、そこにはにこにこと笑みを浮かべたサオトメと、もっとにこにこしたキンギョが立っていた。
「やっぱり船長やな。船が気になるんか」
南がいたのは墜落したオロチを収容したエンテン星の宇宙船格納庫だった。
「まぁ……そうだな、商売道具で、財産で、帰る家だからな」
南はそっとオロチの船体に触れた。
絶対零度から一瞬で1,600度にまで焼かれた機体は、ウンカイ星のレアメタルをもってしても無数のひび割れを起こしていた。脱落した補助エンジンはコールドホールに持って行かれ、ちぎれた部分が無惨に焼けこげて溶解したまま固まっている。両翼も失い、垂直尾翼のオロチのマークは真っ二つだ。
中もひどかった。船内の空気中水分がコントロールシステム内に漏れて氷結し、あらゆるシステムが再起不能、燃料タンクのパイプは破裂寸前にまで膨張していた。
こんな状態になっても、オロチの機体はクルー達を守ってくれた。1度は完全に息の根を止められたのに、それでも息を吹き返してくれた。
「自画自賛で悪いが、この船は最高だ。俺達の自慢の船だったよ」
過去形で語り、南は寂しそうに機体を見上げた。こんな状態になってはもう宇宙を飛ぶ事などできないだろう。白く美しい、たったひとつの帰る場所だった。
「それだけやないやろ」
サオトメもオロチを見上げた。
「この船が性能以上の力を発揮できたんは、お前達っちゅー部品があったからや。他の連中に同じ船を与えたとしても、お前達みたいに飛ばす事はできひんかったて思うで。俺達を救う事ができたんは、この船にお前達が乗ってたからや」
南は小さく笑った。本当にその通りだと思う。あのクルー達だったから、あれだけの窮地を切り抜けられた。
しかし代償は大きかった。
船の全損。スイリスタルの戦争に首を突っ込んだ時でさえ、ここまで破損はしなかった。
寂しそうに船を見上げる南に、サオトメは大きく咳払いをした。
「南、エンテンをなめたらあかんで」
怪訝そうに振り向いた南へ、キンギョも胸を張った。
「スイリスタルにできて、ローレライにできひんわけないやろ。なぁサオトメ」
「せや」
サオトメは挑戦的な笑みを浮かべた。
「この船はエンテン、いやローレライのプライドにかけて、必ず元通りにして返したる」
南はまばたきを繰り返した。ほぼ全損のこの船を直すくらいなら、新しい船をくれてやった方が遥かに安くつくだろう。
「それは無理だろう」
思わす溢れたつぶやきにサオトメは眉を寄せた。
「なんでや? 操船にかけてはちゃうやろうが、造船にかけては俺達はプロやで。それに修理させてくれるんやったら、スイリスタルの技術も盗めるやろうしな」
「スイリスタルがなんぼのもんや。ワイらの技術かて宇宙のトップクラスやで!」
南は困惑した。こんな無惨な状態になったオロチを修理しようと言うのか。スイリスタルへ持ち帰ったって難しいような気がする。
だが、この船でもう1度宇宙を渡れるのであれば、それ以上の喜びは南にはない。
「……直せるのか?」
「直してみせる」
サオトメは不遜に笑った。
「大船に乗った気で待っとったらええ。それまでは商売もできひんやろうから、エンテンでゆっくりしとったらええわ。ホテルも食事もタダにしたるで」
南は正直にほっとした笑みを作った。スイリスタルの王達の感謝がこもった船を、ここで失わずに済む。
「ありがとう。感謝する」
「こっちのセリフや」
サオトメは両腕を組んだ。
「ローレライを救ってくれて心から感謝する。中央管理局なんぞよりよっぽど頼りになるわ」
「ミサイルは中央管理局開発だぞ」
「持って来てくれはったんはオロチやろ。しかもあの連中、ギリギリまで情報流さへんかったんやで。めっちゃ気分悪いわ」
南は困ったような苦笑のような、変な顔で笑った。
「お前達とはこれからもええ商売付き合いできる思うんやけど、どないや? 勉強するで?」
南ははっとして両手をポンと叩いた。
「その言葉が本当なら、実は売りたい荷を持っている。今はUNIONに預けてあるんだが、スイリスタルのヒムロ星のエンジンを500台、ウンカイのレアメタル1,000トンなんだが」
サオトメは両目がこぼれ落ちるほど瞠目した。
「な、なんやて? あのスイリスタルの超目玉商品やんか!」
「他にセイラン星の万能薬もあるが、ローレライではあまり必要ないだろう?」
「アホか! めちゃめちゃ欲しいっちゅーねん! そういう事ははよ言いや!」
「あ、や、エンテン星の大統領には必要ないだろう?」
「大統領とか関係あらへんわ! ええか南、その荷はどこにも売ったらあかんで! コクショにもや!」
「なんでだ? コクショ星は双子星の片割れだろう?」
「ユウダチがいけずやからや! よっしゃ、オロチを完璧に直したるさかい、荷は全部エンテンで降ろしや! 約束やで!」
こうしちゃおれへんわキンちゃん行くで! と叫んで、サオトメはキンギョを引きつれて足音も荒く格納庫を去って行った。
その姿が見えなくなるまで見送った後、南はもう1度オロチを見上げた。
満身創痍のオロチは、それでも威厳を欠片も失う事なく、静かに堂々と眠っている。
「早く元気になってくれよ。どうやら忙しくなりそうだからな」
南が船体を手の甲で弾くと、返事のような振動が響いた。