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前編

 西条(さいじょう)智巳(ともみ)。私が勤める呉服屋の、今年度就任したての若社長。

 スーツも着物も似合う長身で、顔立ちも整っていて、くっきりした二重瞼と長い睫毛、少し厚めの唇が今人気の俳優さんにちょっと似ている。そのアンニュイな雰囲気は確かに素敵で、秘書の私から見ても魅力的な男性だと思う。

 おまけに三十五歳独身、彼女なし、仕事もできる敏腕社長。普通なら、社内の女子社員から熱い視線を向けられていてもおかしくないはずだ。

 だけどうちの社長に限っては、全くもってそんなことない。


 割と毎日のように聞かれる。

「春野さんって、社長と働くの辛くない?」

 今朝は総務の槇さんが、出勤してきた私を見るなり言った。

 私が言葉に詰まると、

「辛いだろ。今の社長、物言いきついもんなあ」

 今度は営業の真田さんが頷く。

 二人とも私より数年先輩で、先代の社長のこともよく知っている。今の社長が先代と比べて、手厳しい人であることも。

「こないだもホテルの手配で怒られてたじゃない」

「あ、あれは私のミスですから……」

 出張で社長の部屋を取る際に、気を利かせてダブルにした。その方がゆっくりお休みになれると思ったからだ。

 ところが社長はとても怒った。

『経費の無駄だ。一人で泊まるんだからシングルでいい』

 確かに、仰ることはもっともなんだけど。

「あと、弔事用のネクタイ間違えた時もさ。あんなに怒らなくてもいいのにな」

 それだって私のミスだ。無地でなければいけないのに、慌てていたせいでうっすらと柄に入ったネクタイを手渡してしまった。

 社長はそれを結ぶ前に気づいてくれて、葬儀の場で恥をかくことはなかった。それでも当然ながら叱られた。

『こういうミスが会社の評判に響く。二度とやるな』

 本当に、社長の言う通りなんだけど――。

「春野さんが若い子だから厳しく言うんだよ、きっと」

「な、見ててかわいそうだよ。先代に言いつけちゃえ」

 槇さんも真田さんも、そう言ってはくれる。心配してくれているのもわかっている。若い子、と言われるほど若くはないけど――奇しくも今日で二十八だ。

 さておき私は秘書として、やっぱり社長を悪くは言えない。

「社長も就任したてでピリピリしてるんですよ。私のミスなのは事実ですから、叱られないよう気をつけます」

 そう答えた途端、二人にはぶんぶん首を振られた。

「いや絶対わざと叱ってるよ。ほぼ毎日でしょ?」

「社長の目、『いつか殺ってやる』って目だよな」

「愛想笑いすらしないよね。いるだけで室温下がるわあ」

「あれでも得意先からは評判いいのが理解不能だよ」

 次々と投げかけられる言葉を、私はやんわり否定しようとして、

「でも、まだ三ヶ月目ですし――」

 と言いかけたところで、背後から声がした。

「――おはようございます」

 それはそれは低くて冷たい声だった。


 たちまち場が静まり返り、槇さんと真田さんの顔が凍りつく。

 私も恐ろしい予感に身震いしながら、ゆっくりゆっくり振り返る。

 そこにいたのはやはり社長だ。二重の瞳を冷ややかに眇め、私を見るなり眉間に皺を寄せてみせた。『相手を蔑む表情で』と演技指導を受けたような表情と、ネイビーのストライプスーツ姿は完璧なのに、私はその場で竦み上がった。

「おはようございます」

 声も出せずにいると、社長は言い聞かせるように再度繰り返す。

「お、おはようございます、社長」

 私がたどたどしく挨拶を返せば、槇さん、真田さんも後に続いた。

 社長はそれに軽く頷いて、そのまま社長室へと歩き出す。

「行こう、春野さん。今日も忙しくなる」

「はい……」

 促されて社長を追い駆ける私に、槇さんたちは申し訳なさそうに手を合わせてきた。これから怒られるであろう私を憐れんでいるんだろう。憐れむくらいなら、もっと会話に気をつけてくれてもいいのに。

 社長は一切振り向かない。

 さっきのやり取り、多分聞こえてたんだろうな……。


 うちの会社は江戸時代に創業した小さな呉服屋だ。

 細々とやってきた会社を大きくしたのが先代の社長で、若者向けのブランドラインやネットショッピングなどに対応して更なる販路拡大に尽くした。

 私はそんな先代の頃から社長秘書を務めている。正直、入社四年目で異動の話が来た時は何かの間違いではと思った。先代の社長も、私のような若い秘書を持ったことを得意先の人たちから随分からかわれたようだ。それでも丁寧に仕事を教えてくれて、私も二年間でどうにか秘書の業務を覚えてきたつもりだった。

 だけどそれは、先代が計画していた引退への準備だった。

 足腰が悪く、デスクワークさえ堪えるようになった先代は、五十代のうちに経営から身を引くことを決めた。そして後継者に指名されたのが、先代の甥に当たる今の社長だ。先代にはお子さんがいなかったし、西条さんはその当時専務だったけど、やはりとても優秀な人だったからだ。

 そして私は今の社長の秘書として、そのまま働くことになった。先代の仕事を傍で見てきた私なら、よりきめ細かい補佐ができるだろう、という判断からだ。

 だけど先代の気遣いも空しく、私と社長の関係は険悪だった。


 社長室に入ると、社長は何事もなかったように口を開いた。

「早速だが、来月の展示会の招待状は?」

 始業前だというのにもう仕事の話だ。私は急いで手帳を開く。

「昨日全て発送いたしました」

「パンフレットの作成状況はどうなってる?」

「レイアウトは昨夜完成させました」

「あとでサンプルを見せてくれ。それと早いうちに備品の確認を頼む」

「かしこまりました」

 矢継ぎ早の質問攻めはいつものことだ。社長はとても仕事熱心な人だった。

 まして呉服屋にとって展示会は、売り上げを左右し顧客の心を掴む大切なイベントだ。熱が入るのも当然だし、私も社長のペースについていこうと必死だった。

 だけど、

「新作のデザインは見てくれたか? ファイルで送っていたはずだけど」

 社長がそう続けた時、悪寒が背筋を走り抜けた。

「あ……す、すみません、まだ確認していなくて……」

 仕方なく正直に答えれば、社長の顔にみるみる失望の色が広がる。

「まだ? 昨日の夕方送ったのにか?」

「すみません、朝のうちに確認しておきます」

「展示会に出す大事な作品だ。自信作だから、君にも見てもらいたかったんだけどな」


 そう、新作反物のうち一つは社長直々のデザインだった。

 だけど昨日は展示会の準備と通常業務とでとても忙しくて――いや、そんなの言い訳にもならない。

 昨日のうちにどうにか見ておくんだった。


「すみません……」

 私は平謝りしかない。

 社長が代わってからというもの、仕事における私のミスは増大した。冷たい目で見られる、叱られるという重圧が私を縛っているのかもしれない。社長からすればそれだって言い訳なんだろうけど。

「もういい」

 あくまでも冷ややかに、社長は言った。

「でも――」

「もういい、と言った」

 更なる謝罪を遮ったかと思うと、深く溜息をつく。

「人の悪口を言う暇はあるのに、ファイル一つ確認する暇もないのか。面白いな」

 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

 やっぱりさっきの、聞こえていたみたいだ。

 社長は刺々しい目つきで私を見下ろしている。『いつか殺ってやる』ってこういう目だろうか。私は縮み上がったけど、これには言い訳したかった。

「わ、私は、悪口なんて言ってません!」

 言い訳だけど、でも事実だ。

 言ってないどころか、私は社長を庇う気でいたのに。

「……確かに、言ったところは聞いてないな」

 社長が心のこもらない声を発する。

 ということは、槇さんたちの会話は聞こえていたんだろうか――それならさっきの言い方はまずかった。保身を図ったと思われたのかもしれない。

「違うんです! 私も社長を悪くは言ってませんけど、槇さんたちだって……」

 私は慌てて訴える。

 あの二人があんなことを言い出したのも、代わったばかりの体制に気持ちがついていってないせいだと思う。

「皆、不安なんです。社長が厳し過ぎやしないかって」

「俺のせいだって言いたいのか?」

「せい、ではないですけど、もっと優しくてもいいと思います」

 十分に言葉を選んだつもりだった。

 でも社長は、この上なく不愉快そうに眉を顰めた。

「仕事でやってるんだぞ。甘えたことを言うな」

 そして一蹴された私も、思わず反論してしまう。

「そうじゃないです! 社長は確かに正しいことを仰ってますけど、でもあまりにも言い方が冷たすぎます!」

 皆の心が揺れている今こそ、温かい気配りが必要だ。そう思うからこそさっきは社長を庇ったのに。

 私だって、もう少し優しくしてもらえたらと思ってるのに――。

 だから、つい口をついて出た。

「今日は私の誕生日なんです。一日くらい、優しくしてください!」


 その瞬間、社長は目を剥いた。

 どう見ても好意的な表情ではなかった。

 私も言った後で悔やんだ。私が誕生日であることはこの件に全く関係がないし、それこそ『仕事でやってるんだぞ』と突っぱねられそうな言い分だ。これで社長の機嫌をもっと損ねたら、今日は地獄の誕生日になることだろう……。

 でもそう言いたくなるくらいには、私にとっても社長の冷たさは辛かった。


 社長室は水を打ったように静まり返り、私と社長はしばらくの間、睨み合っていた。

 いや、私の方は上手く睨めていたかどうかも怪しい。勢いで言ってしまったことを後悔しているくらいだ。社長が何と答えるか、とても怖かった。

 そして社長は、肩をゆっくり落としながら息をついた。

「……わかった、そうしよう」

「え」

 私は固まるしかない。

 そうしようって、何が。

「今日一日、俺は君に優しくする」

 社長は信じがたい言葉を私に告げ、それからにっこり微笑んだ。

 この三ヶ月、客先や展示会の場でしか見たことがなかった、非の打ちどころのない笑顔だった。

 とは言えその笑顔と、そして先の発言は私をうろたえさせるに十分だった。優しくするって――どういうこと?

「実を言えば、君の働きぶりには助かっているんだ。いつもありがとう、春野さん」

 社長は笑顔のまま、更に信じがたいことを言う。

 その後は少し困ったような顔で続けた。

「さっきは済まなかった。どうしても君に見てもらいたくてつい、かっとなってしまった」

「い……いえ、こちらこそ……」

 展開が呑み込めない。

 社長の口から聞いたことのない言葉がどしどし出てくるのが、何だか信じがたくて。

「君が俺の悪口を言ってないこともわかってる」

「えっ、そ、そうなんですか?」

「ああ。君はそういう人じゃないからな」

「そんな……」

 社長、そんなに私のこと信じてくれてましたっけ。

 ――なんてツッコミを入れる余裕すらない。自分で頼んでおいて何だけど、この人本当にうちの社長?

「さ、仕事を始めようか。今日は忙しくなりそうけど、よろしく頼むよ」

 さもいつもそうしているというように、社長は朗らかにそう言った。

 戸惑う私がぎくしゃく頷き、改めて手帳を開いたところで、

「春野さん」

 優しく微笑む社長が、私に言う。

「言い忘れてた。――お誕生日おめでとう」

「あ……ありがとう、ございます……」

 不意を打った祝福の言葉に、相手が社長だとわかっていても、不覚にもときめく私がいた。


 今日は地獄の誕生日かもしれないと思っていたけど、違ったようだ。

 これは天変地異の前触れで、今日は地球最後の日かもしれない!

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