42、破滅の恋
「ヴィクトールと初めて会ったのは、私が社交界デビューした16歳の春、王都での宮廷舞踏会だったわ。
長身で端正な顔立ちに艶やかな栗色の髪とサファイア色の瞳をしたヴィクトールは、会場でも一際目を引く貴公子で、母の知人に紹介されてダンスに誘われた時はまるで夢のようだった」
16歳と22歳といえばちょうど今のアリスとサシャと同じ年齢だ。
「当事、結婚相手を探していた彼は色んな貴族の集まりに参加していて、子爵家の嫡男という身分と優れた容姿から令嬢達の人気の的だった。
人一倍夢みがちで恋に恋していた私にとっても彼は憧れの存在で、会うたびに素敵な人だとうっとりと見とれていたわ。
そんな私をなぜかヴィクトールは口説いてきて、他に美しい令嬢がたくさんいるのにどうしてなのかと尋ねると『他の誰よりも俺を熱心に見つめる、君の潤んだつぶらな瞳が好きだから』と答えたわ……」
懐かしそうに語る伯母の瞳は心なしか輝いていた。
「そしてある夜会の晩、二人きりで話をしたいと誘われたテラスで、ついに私は彼に告白されたの。
求婚の前置きに、ヴィクトールには2歳年下の天使のように美しい弟がいて、幼い頃から両親や周囲の愛情を独占されて孤独だったこと。
ゆえに妻に一番求めるのは愛情深さと一途さで、私こそが求めていた女性ではないかと期待している。もしも生涯、一番に彼を愛し続けると誓えるならば、結婚を申し込みたいと言われたわ――私は迷わず『誓う』と返事した――まさかその誓いを破る日が来るとは夢にも思わずに……」
伯母は時々咳ごみながらも気丈に話し続けた。
「――それからの王都での婚約生活は人生で最も幸福な期間で、パーティーに、観劇に、音楽会、馬での遠乗りやピクニックと、ヴィクトールはあちこちに私を連れ出してくれたわ。
けれど婚約から半年後のその年の冬、結婚式のためにヴィクトールに伴われてレニエ家の領地へ訪れた私は、光り輝くような20歳のシャルル様に出会ってしまった……。
夢のように淡く煌く金髪に際立った長身、神が造った芸術品のような完璧な容姿。
加えてヴィクトールとは正反対の、明るく屈託のないほがらかな性格で、いつも陽の光のような笑顔で周囲を照らしていた。
アリス……あなたのお父様は、女性なら誰もが一目で恋せずにはいられないような、抗いがたい魅力を持った男性だったの」
伯母が言うように表情豊かで温かな性格の父は、アリスと同じ冷たいほど整った容姿でありながら、他人に与える印象がまったく違っていた。
「それでも私は惹かれないように必死に抵抗したわ……なるべくシャルル様の姿を見ないよう、そばに近づかず会話しないように心がけた。
なのにこの瞳は勝手にシャルル様の姿を盗み見てしまう。
同じ空間にいるだけで、声を聞くだけで、甘く胸がときめいてしまうの。
意識すれば意識するほど私の態度は不自然になっていき、勘の鋭い夫がそれに気づかないわけがなかった。
口には出さなくても夫の私への失望は冷たい態度となって現れ、やがて些細なことでも癇癪を起こして当たってくるようになった。
私は罪悪感からどんな仕打ちにも耐え続け、それを見た思いやり深いシャルル様はヴィクトールを非難しては庇ってくれて――ますます悪循環に嵌っていった――」
幼いアリスが、伯父は陰湿で伯母は内気だという印象を受けたのは、そのやり取りを見ていたせいだった。
「そしてお義父様が亡くなると、いよいよヴィクトールは溜まっていた負の感情を爆発させるように、シャルル様に辛く当たって冷遇するようになった。挙句に私とシャルル様が不倫関係でジュールは自分の子供ではないと告発して……。
私が懸命に無実を訴えると、『いっそ、肉体の裏切りの方がどんなにマシか』と、ヴィクトールは冷たく突き放した。
その台詞と絶望に染まった暗い瞳が、不貞の事実がないと知っていながら私達に濡れ衣を着せたことと、彼の最後の希望を私が壊したという事実を物語っていた。
ヴィクトールはシャルル様への逆恨みと、誓いを破った私を罰するために、あなた達家族を領地から追い出したのよ……!」
ようやく伯母の口から13年前の真相を聞いたアリスは、あまりに理不尽な内容に言葉を失う。
(やはりお父様には何一つ非がなかった……なのに領地を追われたんだ……!)
伯母は続けて、父を追い出しても伯父の気は晴れるどころか、ますます荒れて酒びたりの日々を送るようになり、領地の統治や経営をおろそかにしたこと。
その影響もあって、先代と父を慕っていた優秀な騎士達のほとんどが、隣の辺境伯の領地へと引き抜かれていったこと。
砦の守りが薄くなって治安が乱れ、財政も逼迫し、堕落した生活を送っていた伯父が病に伏せって亡くなった頃には、取り返しがつかないほど領地が荒れ果てていたことを語った。
「夫が亡くなったあとはいよいよ借金で首が回らなくなり、領地を手放す寸前まで追い詰められていた。友人のナタリーから結社に勧誘されたとき、私はそれに縋るしか手段がなかった……」
ナタリーというのはマラン伯爵夫人のことだろう。
「できれば息子だけは悪魔の手先にしたくなかった。けれど、父親譲りの勘の鋭さを持つジュールに、結社に入信したことを隠し通すのは不可能だった……。
結局、私がシャルル様に惹かれてヴィクトールとの誓いを破ったばかりに……皆不幸になってしまったわ……!
許してアリス……すべての元凶はこの私……私さえ、あなたのお父様に恋しなければ……!
でも、これだけは分かって欲しいの。私は夫以外に恋することも……恋の成就も望まなかった……!
幾ら心に言い聞かせても、自分ではどうすることもできなかったの……どうしてもシャルル様への恋心の火を消すことができなかった……!」
涙ながらに父への想いを吐露する伯母の姿が、その時、アリスの瞳にいまわの際の母の姿と重なって映る。
『お母様、死なないで!』
悪夢のような夜、アリスは母の手を握り、必死にこの世に引き止めようと呼び続けたのに――
『……シャルル……シャルル……!』
最期まで母の瞳に映っていたのは、向こう側にいる父の姿だけ――
「アリス許して……!!」
――と、突然、叫び声と一緒に手を引かれ、アリスは短い追憶からハッと覚めた。
救いを求めるように自分に向けられている伯母の鳶色の瞳を見て、動揺に震える唇を開き、言うべき言葉を伝える。
「許すも何もマルタ伯母様のせいではありません。どうかご自分を責めるのはもうお止めになって下さい……」
「アリス……!」
伯母が感激したように喉を詰まらせたところで、グレイに肩を掴まれ、振り返ったアリスの瞳に、開かれた異界への扉が映る。
「行こう、アリス。廊下から人が近づいてくる気配がする」
グレイと違って感知能力の低いアリスには分からなかったが、誰かが伯母の泣き叫ぶ声に気づき、様子を見に向かって来ているのだろう。
無言で頷いたアリスは虹色の入り口へと飛び込み、続いてNo.3の間に出たグレイがすかさず扉を閉じる――
「大丈夫か?」
一呼吸置いたのち、グレイがアリスの肩を抱き、心配そうに問いかけた。
いまだショックから覚めやらぬアリスは呆然として、燐火のような瞳を見上げて呟く。
「……まさか父が領地を追い出された原因が……たかが伯母の片想いだったなんて……」
前世も今世も恋愛とは無縁で、他人を妬む感情からもほど遠いアリスには到底理解できなかった。
「……たしかに他人には理解しがたい下らない動機に思えるだろうね……しかし、長年、兄を妬み続けていた私には弟を恨む君の伯父さんの気持ちがよく分かる……。
私だって唯一愛し求める君の心まで兄に奪われたら、正気を保っていられる自信がないからね」
グレイの台詞にアリスはぞっとして叫ぶ。
「お願いだからそんなこと言わないで下さい、グレイ様!
何度も言っているように私がアルベールに心を奪われるなんて有り得ないし、今も自ら望んで近づいているわけではありません!」
「分かっている。No.2の命令なんだろう?」
「ええ、そうです! 私だってできれば女の武器など使いたくない……ですがカーマイン様は『いつか』『そのうち』などという甘い言い訳が通用するような相手ではない! 現時点で実力で勝てないなら、言いつけに従うしかないんです」
「アリス……私とて君の苦しい立場については理解しているつもりだ。
それでも兄と寄り添う君の姿を見るのはどうしても耐えられない……!
これは君の伯父さんと同じように、理屈ではなく感情の問題なんだ」
感情論と言われてしまえば、もはや説得のしようもない。
「この想いを消そうにも、君の伯母さんと一緒で、自分ではどうすることもできない。
実際、君に出会うまで知らなかった……恋がこんなにも心を支配する、激しい感情だったとは……!」
グレイは切なげに溜め息をつくと、アリスの両肩を掴んで硬質の美貌の顔を寄せ、青白く燃えるような瞳を向けた。
「それまでの私の関心はまったく別のところにあった――醜く恐ろしい心を持つのは母や姉だけではなく、世界中どこにいっても人は欲望と血にまみれ、殺し合い、奪い合い、富める者はほんの一握りで、多くの者は貧しさと飢えと苦しみの中でもがきながら生きていた。
塔から抜け出してこの残酷な世界を見て回った私は、地獄とは地上にあるものだということを嫌というほど思い知らされた。
アリス、私は君に会うまでずっと、この呪わしい世界を焼き尽くすことばかり考えていたのだ……!
だが、今の私は世界のことなどどうでもいい、君のことだけで頭がいっぱいだ!
何よりも、自分自身よりも、君を愛している!」
「グレイ様……!」
熱くひたむきな愛の告白を受けたアリスの脳裏に、いつだかグレイが口にした『君は、一体、私の、何なのだろうね?』という問いの答えが閃く。
アニメではただ一人最期までクィーンの味方をし、その愛に殉じて破滅した。
グレイであるカミュにとって、クィーンであるアリス・レニエは、愛することを決定された『運命の女性』なのだと――
そして自分にとってもグレイはかけがえのない大切な存在。これまであえて恋愛感情について考えるのを避けていたのも、想いを返せないことが辛かったからだ。
アリスは切なく胸を痛ませながら、グレイの顔を見上げて正直な想いを打ち明けた。
「……グレイ様……聞いて下さい! 私はあなただけではなく、誰にも恋するわけにはいかないのです。
私にはすでに何よりも優先するべき最愛の存在がいて、それ以外の誰も深く愛さないと心に決めています!」
「最愛の存在?」
グレイの瞳に動揺が走る。
アリスは深く頷き、今まで誰にも話したことがない、心の奥深くにある、今生の母への想いを初めて明かした。
「――私は、毎日寝つくまで子守歌を歌い、可愛い服を着せてこの髪を結い、いつも温かい胸に抱きしめてくれた、優しく愛情深い母が大好きでした。
だからこそ、母が父の名前だけを呼んで息を引き取った時、見捨てられたと思ったんです……!」
アリスの両瞳から涙が毀れ落ちる。
「母にとって最愛の相手が亡くなった父であることは分かっていました。それでも、ほんの少しでも私と妹のことを考えて、生きようとして欲しかった……!
動かなくなった母を見つめながらそんなどうしようもないことを考え、悲しみと絶望で心が染まっていたとき――私の手を、小さな妹の指がぎゅっと握り返したんです。
とたん私は、自分よりも、生まれたばかりで母に見捨てられた妹を憐れに思いました。
そしてその時心に誓ったんです!
私だけは絶対に妹を見捨てないと、誰よりも一番に愛し続けると――!」
その誓いに賭けてアリスはミシェル以上に誰かを愛するわけにも、グレイや伯母や母のように、自己制御できない恋に落ちるわけにもいかないのだ。
蘇る愛しいミシェルの記憶に激しい喪失感と悲しみが溢れ出し、胸が潰れるような苦痛がアリスを襲う。
胸元を押さえ、足下から崩れかけたアリスの身体を、グレイの両腕がさっと支えた。
「大丈夫か、アリス!?」
取り乱した顔で見下ろすグレイをただ安心させたくて、アリスはがくがくと首を縦に振った。
「大丈夫」と答えたくても喉がひくつき、返事どころか呼吸すらままならず、今にも窒息してしまいそうだ。
それでもどうにか気を落ち着かせようと、いつかのシンシアの呼びかけと、シモンのアドバイスを思い出す。
しばらくして呼吸が安定してくると、グレイはほっとしたように息をつき、アリスを横向きに抱きかかえて立ち上がった。
「今夜はもう休んだほうがいい……たしか明日というか今日、君は兄と会う約束をしていたが、この状態だと無理をしないほうがいいだろう」
園遊会からの去り際アルベールとした会話を、カミュもその場にいて聞いていたのだ。
アリスとて自分を害虫扱いした相手と逢引するのは気がすすまない。
しかし地獄耳のカーマインに、万が一でもアルベールと会う機会を避けたという情報が伝われば、お仕置き必至だろう。
たとえ命令が達成できなかったとしても、保身のために努力の痕跡として、会った回数だけでも稼いでおきたい。
――グレイに自室のベッドまで運んで貰ったアリスは、深く考えながら眠りに落ちていった――
翌朝、身支度を終えたアリスは、寝不足で貧血気味の自らの頬を平手で打ち、赤みをささせてから朝食室へと向かう。
テーブルについて料理を食べ始めているとすぐにサシャがやって来て、グレイ同様、今日のアルベールとの逢引の延期をすすめてきた。
「今日は私は王宮外での任務があって付き添えないし、君は虚弱だから、もう少し元気になってから会いに行ったほうがいいだろう。
アルベール殿下も、君の体調を一番優先するようにおっしゃっているからね」
アリスはサシャの提案にたいし、できるだけ明るい笑顔と声を作って却下した。
「サシャ、あなたも知っているように、私はここ数日、気分が悪かっただけで身体はいたって元気だから心配無用よ」
約一時間後、予定通りアリスが王宮を訪ねると、毎度門番から知らせでも受けているのか、今日もアルベールは馬車の到着にあわせて表に立っていた。
「今日は温室で、君の好きな植物を見ながらゆっくり二人で過ごそう。
実は君に会う時間を作るために公務に追われて疲れているのと、数日前に少し落ち込むことがあってね……非常に今の僕は癒されたい気分なんだ」
冗談めかした口調だが、弱音を吐くほどアリスに心を許しているというのは良い兆候だ。
とはいえ、昨夜、グレイに『どうしても耐えられない』とまで言われたアリスは、夜伽や順位戦のことを考えても、積極的に色じかけをする気は起きなかった。
元々、カーマインに義理は感じていても忠誠心は薄く、力をつけて正面からアルベールを倒したい気持ちもあって、命令よりもカミュの気持ちを優先したい心境だった。
案内された温室は、先日立ち寄った王妃の庭からほど近い、天井も壁もガラス張りの光溢れる空間だった。
たぶん南国の植物なのだろう、国内では見かけない珍しくも色彩豊かな花や植物がたくさん植えてある。
温室内にはベンチもあるのになぜか中央には大きな布が敷いてあり、アルベールは当然のようにそこに腰を下ろした。
アリスも並んでドレスの裾を広げて座ると、いきなり横から思いも寄らぬ要望が飛んでくる。
「膝枕をして貰ってもいい?」
「……!?」
アリスは思わず目を丸くして、絶句した。
どうやら今日はサシャがいない分、アルベールはいつもより遠慮がないらしい。
アニメでの回想シーンと、いつかの『感情を波立たせて兄に気配を気づかれた』という発言から、カミュはアルベールに気づかれないよう気配を消して監視できるはずだ。
つまりこうしている今もどこかで見ている可能性があるので、アルベールに膝枕なんかして、カミュを刺激するわけにはいかない。
そう判断して断ろうと思ったのに、アルベールの真っ青な瞳を見返したアリスは、まるで抗いがたい力に動かされるように直後、コクン、と首を縦に振っていた。
(――えっ!?)
身体が意志を無視するこの感覚は、以前にもおぼえがある。
つい先日も、庭園のベンチでキスされそうになって頭では拒否しているのに、アルベールの瞳の魔力に掴まったように身動きできなくなったことがあった。
しかしあの時は動けなくなっただけで、今みたいに言いなりに頷いたりはしなかった。
(まさか、アルベールの瞳には強制力があり、私への影響力が増している?)
そんな馬鹿なことがあるわけがない、と、浮かんだ考えを焦って否定したものの――
「ありがとう、アリス」
嬉しそうに顔をほころばせたアルベールが、さっそく横になって膝の上に頭を乗せてきた刹那――鼓動が急に跳ね上がり、全身がカッと燃えるよう熱くなって、あやうくアリスは悲鳴をあげそうになった。
「……っ!?」
(一体どうして!? 毎回、こんな風に過剰に意識して身体が反応してしまうの?
絶対にアルベールに恋なんてしていないと言いきれるのに!)
頭では否定しながらも、初恋相手がサシャであるという一致と、初めて夜会でアルベールと出会った時の衝撃が、アリスの胸に不吉な予感を起こさせる。
なぜならアリスは知っていた。恋ゆえに破滅したのが伯父夫婦や母、カミュだけではないことを。
アニメのアリスが二番目に恋した相手はアルベールであり、それゆえに身を滅ぼしたという、恐ろしい事実を――
<第三章『亡霊は死なない』、完>
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