41、天使のいた頃
「何の真似なの? サシャ」
けげんに思って見下ろすアリスに、
「君がつねに私は上から見下ろしていると言ったから……」
長い睫毛を伏せてそう返すと、サシャは懐からスッと手紙を取りだした。
「……えっ?」
(まさかこれって……!?)
「昨日書いた手紙はこの通り、いまだにこうして手元にある。
私なりに今日一日持ち歩きながら、昨夜君に言われた言葉の意味を考えていた……」
「……私の……言葉……?」
「ああ、そうだ……君の気持ちを全く汲まず、勝手に何でも独断で決める傲慢な人間だと言われ、私は今までの自身の行いを振り返り、反省した。
大嫌いだと言われたことも相当ショックだったが、何よりも君の涙が一番堪えてね……。
ミシェルが亡くなったあの日から私は、二度と君を悲しませないように守ると心に誓ってきたのに……!」
ミシェルの名を耳にした刹那、アリスの胸に心臓に杭を打ち込まれたような痛みが走る。
サシャは潤んだサファイア色の瞳で見上げ、下から訴えかけてきた。
「アリス……分かって欲しい。見下すどころか君は私にとって崇拝せずにはいられない、特別な存在であると――
かつて両親を失った幼い君は、一日の全ての時間を妹に捧げ……そのけなげな姿は私の瞳に『奇跡の天使』に映った。
光溢れる庭ではメロディや他の子供達が走り回っているのに、君は部屋で寝ている妹のミシェルのそばから決して離れなかった。
そしてまた今も、自分の人生の楽しみや喜びを捨てて、生涯を神に捧げたいと願っている。
いつだって私は君の魂の献身的な美しさや清らかさに心打たれてきた……」
心揺さぶるサシャの告白は、アリスの中に、ミシェルを失った辛い記憶と、ずっと心の奥に押し込めていた「ある感情」を呼び覚ます。
「そんな君だからこそ誰よりも幸せになるべきだと、灰色の修道院ではなく色彩ある世界で生きて欲しいと、どうしても私は願わずにはいられない!
子供らしい楽しみを捨て妹に尽くし続けた君は、辛く悲しい思いをした分も報われるべきだと。
――だから私はこの数年間というもの、君の修道院行きを止められなかったことを後悔し続け……侯爵家の当主になると真っ先に君を連れ戻した……!
今度こそ、尽くすばかりで自分の人生の楽しみも喜びも放棄しようとする君に、強引にでも、女性として考えられる限りの最高の幸福を与えようと、決意して……!」
サシャの言葉はアリスに、いつかのお茶会でローズであるテレーズが言った台詞を思い起こさせる。
『ノアイユ侯爵はそのことを踏まえて、心を鬼にして、判断してくださっているのよ!』
『本人の気持ちや好みを優先することが、必ずしも一番良い選択ではなく、時に、幸福から遠ざかる結果になることもあるのだと、分かって欲しいの』
アリスは言われなくても、ローズがそうであるように、サシャがいつも彼女のために心を砕いてくれていることはきちんと認識していた。
気づいていながら、あえて無視して、ことさら彼の嫌な部分を探していたのだ。
(アルベールが指摘した通り……私はずっと自分の心にサシャなんか好きではないと言い聞かせていた……。
幼い頃から抱き続けてきたサシャへの愛情が、今も胸に残っていることを否定したかったから……)
かつて結社に入る窓口にカーマインを選んだのも、グレイの勧誘を待てないという以上に、侯爵家に止まることが恐ろしかったからだ。
サシャのそばに居れば、いつか幼い初恋が本物の恋になると分かっていた――
最愛のミシェルを失った地獄の苦しみに、その復活を望み、もう二度と他人を深く愛さないと心に誓ったアリスは、絶対にサシャを愛するわけにはいかなかったのだ。
侯爵家に戻った後も無意識に、以前の自分に心を引き戻され、サシャに惹かれることを一番恐れていた。
浅く呼吸を繰り返しながらアリスはついに、たびたび意識に上りながらも直視することを避けていた、自分の心の真実を見つめた。
サシャは彫刻のように整った顔に真剣な表情を浮かべ、なおもひたむきな想いを吐露する。
「君を連れ戻してからは結婚相手についてひたすら悩み続けてきた。いかなる時も君を愛し守り、幸せにしてくれる伴侶を選ぼうと……。
しかし色んな候補はいても、君を安心して任せられると確信できるような相手はおらず……。
ヴェルヌ卿についても、嫉妬したというのもあるが、ああいう女性に囲まれがちな男性の元へ嫁がせることなど考えられなかった。
万が一にも君を泣かせる可能性のある相手は選びたくないと……私なら絶対に君を泣かせたりしないと、今までそう思ってきたのに、その私自身が君を傷つけ悲しませてしまうなんて!
全ては君のためを思ってのことだったとはいえ……許してくれ……アリス!」
聞いているうちにどんどん呼吸が苦しくなり、立っているのが辛くなって、とうとうアリスは床に膝を落とした。
「どうした? 大丈夫か、アリス!?」
すぐさま彼女の両肩を掴んで心配そうに顔を覗き込んでくる――そこには幼い頃に憧れ慕っていた、優しい王子様のようだったサシャがいた。
だけど彼が愛した『天使』のような少女は、もうどこにもいないのだ……。
アリスは切ない胸の痛みを堪え、呼吸をどうにか落ち着かせると、言い訳をするために口を開く。
「……あなたの私を想う気持ちが嬉しくて、思わず足から力が抜けちゃったみたい……」
「そうか、それならいいが……」
なおも何か言いかけるサシャの言葉を遮るようにアリスは謝罪する。
「思えばサシャには幼い頃から散々心配をかけて、お世話になってきたのに、昨日は大嫌いなんて心にもないことを言って、ごめんなさい……」
「いいんだ……アリス……元はといえば私の君への気遣いが足りなかったんだ。
これからは、極力君を傷つけないように、何かを決める前には必ず相談して意見を聞くと約束する」
誓いの印にサシャはさっそく、手元にある手紙をビリビリと破いてみせた。
「そのかわりアリス、君も二度と私やアルベール殿下をやきもきさせないと誓って欲しい。
殿下も私も大切な君のことになると、どうしても心配症になってしまうんだ」
「ええ、約束するわ……」
しっかりと頷くとアリスは溜息をついて、サシャの肩に掴まって立ち上がる。
「なんだかほっとしたら眠くなってきたみたい」
「もうこんな時間か……遅い時間にすまなかった」
サシャも謝罪しながら立ち上がり、アリスの身体を支えてベッドまで付きそうと、最後に手を握って挨拶してから部屋を出ていった。
扉が閉じるのを見届けたアリスは、くるりと身を返してベッドにうつ伏せになり、堪えていた感情と涙を吐き出す。
(……ごめんなさい、サシャ! 私はもう天使なんかじゃないの)
胸が潰れるような悲しみに泣きむせぶアリスの脳裏に『貴様のような害虫は恋愛対象外だ』という昨日のアルベールの言葉が蘇る。
幼い頃、一目その姿を見た瞬間から、サシャこそがアリスにとって、遠く手の届かない天上の存在、まばゆい『天使』そのものだった。
そうして魔王の手先となった今の彼女にとって、神に選ばれし英雄の一人であるサシャは、いずれ戦わなければいけない相手。
アリスは絶望的なまで遠く隔たった二人の距離を思いながら――初恋への決別の涙を流し続けた――
「――グレイ様! 先にいらしていたんですね」
深夜、待ち合わせ時刻の10分前にクィーンがNo.3の間に入室すると、すでにグレイが玉座風の椅子に座って待ち構えていた。
「待ちきれなくてね」
笑顔で返事をしながら、グレイが瞬間移動でクィーンの元へと跳んでくる。
「それでこれからどこへ行くんだい?」
「はい、昼間話した病床の伯母を訪ねるために、グレイ様に私の案内人役を勤めて頂きたいんです」
「案内人役か、初めての経験だ」
結社には組織員を現地に運ぶ専門の「案内人」と呼ばれる役目が、本部や支部ごとに必ず一名いて、通常、魔族に変化できる百番以内の者の末席が勤める。
外界への扉は各大幹部の個室と黄昏城のエントランス部分にあり、案内人や必要のある魔族には「エントランスの鍵」が与えられて利用が認められるのだ。
たたき上げであるクィーンも短期間のみ案内人を勤めたことがあるが、結社入信後いきなり大幹部に抜擢されたグレイが未経験なのは当然だった。
クィーンは病床の伯母に会いに行くのに、自分が結社員であることを知られても、魔族に変化できることは秘密にしておきたかった。
その関係で案内人役が必要であり、頼む候補には彼女の正体を知るヘイゼルやシャドウという選択肢もあったが、少しでも自分のことを知って貰いたいという気持ちから今回はグレイを選んだ。
ついでに万が一出くわすと面倒そうだったので、ジュールが領地へ帰る前に伯母に会いに行くことにした。
「クィーン、何かあったのか?」
「え?」
外界への扉の前に移動する途中、グレイが氷の美貌を曇らせ、鋭く訊いてくる。
「泣いていたような瞳をしている……」
「それは……仮眠した寝起きで、欠伸をしたせいかもしれません」
「……そうか」
「まずは偵察してみますね」
クィーンは誤魔化すように言って扉に向き直り、幼い頃の記憶を頼りにノブを掴む。
最初は辺境の領地にあるレニエ家の屋敷上空に扉を繋ぎ、蝿を飛ばして、伯母の寝室の位置と状況を確認しにいく。
現在は小康状態だというジュールの話から、深夜の時間帯なら付き添いもおらず、部屋で一人で休んでいるだろうと予想していた。
ほどなく屋敷の一階部分のある一室で、見覚えのある伯母らしき女性が一人で寝ているのを見つけると、クィーンは外界への扉を繋ぎなおし、変化を解いてアリス姿に戻った。
「では、グレイ様、行きましょう」
「ああ」
頷いて先に虹色の出口に入ったグレイに続き、アリスも伯母の寝室へと移動した。
燭台一つのみで照らされた薄暗い室内に出ると、しきりにうわ言を言って寝ている伯母の枕元へ近づき、そっと肩を掴んで揺り起こす。
「マルタ伯母様……」
アリスの呼びかけに反応して、マルタがゆっくりと瞼を開く。
「……っ……シャルル様……?」
「いいえ、娘のアリスです」
伯母はやつれ果てた顔に驚きの表情を浮かべ、枯れ木のような手を伸ばして問いかける。
「ああ、アリス……本当に、本当にあなたなの?」
アリスはマルタの手を掴んでしっかりと握る。
「はい、夢ではなく、あなたに会いに来ました」
そこでマルタはハッとしたように、アリスの背後にいるグレイへと視線を向け、一瞬で状況を悟ったような深刻な表情になった
「アリス……まさかあなたも結社に……?」
アリスは即座に肯定した。
「ええ、そうです。園遊会でジュールより渡された伯母様からの手紙を読んだのですが、距離が遠いのと後見人の許可が得られない都合で、結社で属している階層の管理者に相談しました。
その結果、伯母様も結社員であるという事実を知らされたうえで、それならばと案内人を手配して貰え、こうして会いにくることができました」
正しくは階層の管理者ではなく支部のトップのグレイに相談したのだが、伯母にシングルNo.であることを明かす気はなかった。
「……ああっ……なんてことなの……あなたのような若く美しい娘が……結社に入るなんて……!?
私のせいなのね……私のせいで……あなた達一家がこの領地を追い出されたから……!」
悲痛な声をあげて起き上がり、動揺に呼吸を乱したマルタは、口元を押さえて激しく咳き込む。
「大丈夫ですか? マルタ伯母様!」
「…………大丈夫よ……」
弱弱しく言いながら、開いた伯母の手にはべっとりと血が付着していた。
アリスがマルタの背中をさすっていると、グレイがベッド脇の台に置かれた布を取って差し出す。
「ありがとうございます……」
布を受け取ったマルタが手の血を拭うのを待ってから、アリスは疑問を口にした。
「ところで伯母様のせいだというのはどういう意味ですか?
私達が領地を追い出されたのは伯父様の酷い誤解が原因だと、私は聞いておりますが」
実際は聞いたのではなく憶えていたのだが、3歳時の記憶がはっきりあるのはおかしいのであえてそう言った。
「……いいえ、誤解などではないわ……ヴィクトールは神経質で、勘の鋭い人だった……」
「どういうことですか?」
(まさかお父様とマルタ伯母様が本当に関係していたというの? ううん、そんなことは絶対にお父様に限って有り得ない!)
緊張した思いでアリスが見つめていると、マルタはふっと視線を遠くさせ、静かに語り始めた。




