34、生きる覚悟
「やっと会えたわね、アリス……そんなに泣いて……」
染み入るように優しく澄んだ懐かしい声が耳元で響き――アリスの胸は詰まったようになる。
「……ごめんなさいっ、シンシアっ……私の……私のせいで……テレーズが……!」
泣きじゃくり、謝罪するアリスの言葉を遮って、シンシアがきっぱりと否定した。
「アリス――あなたが私に謝る理由など、何ひとつないわ」
「……いいえ、シンシア! テレーズは……私を助けて死んだの……!
私が……殺したも同然なのよ……!」
叫びながら顔を上げたアリスの涙で滲んだ視界に、薄っすらと明るんできた空を背景に――片側でゆるく編まれた艶やかな亜麻色の長い髪、瞼を閉じた天使像のように美しく整った顔立ち――神に逆らい魔王を信望する秘密結社の一員でありながら、誰よりも清廉な空気を纏った修道女服姿のシンシアの像がぼやけて映る。
「それは違うわアリス」
上から顔を寄せ、なおも訴えるシンシアの顎から、温かい涙がアリスの胸元へと滴り落ちる。
「違わないわ! ――私がもっと違う対応を――判断をしていれば……テレーズは今も生きていたんだもの!
――テレーズはいつだって私に愛情をかけて心配してくれていたのに――私はテレーズの気持ちも考えず……話もロクにしないで……冷たく好意を跳ねのけた……!
挙句……自業自得な命の危機に陥った結果……自分が受けるはずだった聖剣の餌食にして……テレーズを死なせてしまったのよ……!」
張り裂けそうな胸と声で叫ぶアリスを、シンシアは思いをこめるようにきつく抱き締め、諭しつけるように言う。
「いいえ、アリス! 私の知っているテレーズは、どんな場面であっても自分の意志と責任で選択して行動する人よ。
――テレーズが亡くなったのは、本人が選んで取った行動の結果――
あなたのせいなんかであるわけがないし、逆にそんな風に責任を感じていることを亡くなったテレーズはきっと心外に思い、今も悲しんでいるはずよ!」
アリスはそれでもシンシアの意見に逆らって「違うわ!」激しくかぶりを振る。
「そんなわけないわ――だって今のテレーズにはもう何も分からないんだもの!」
ついに決定的な、胸を引き裂くような真実をシンシアに告げ――激痛に耐えるように硬く指輪を握り締めて震えるアリスの身体を、シンシアが地面に膝をつきしっかりと抱きなおす。
アリスは温かいシンシアの胸に顔を埋め子供のように泣きながら、悲しみと苦しみを吐き出すようにことの経緯を語った。
――話している間、慰めるように終始やわらかな手が背中を撫で下ろす――
「……そう、テレーズの魂が封印の門を……」
ひとしきり話を聞き終えたところでシンシアは呟くと、ふっと背中に回していた片腕をほどき、
「アリス、手の中の物を見せてくれる?」
上から指輪を握るアリスの拳をくるむように手を重ね、唐突に要望した。
「……えっ……?」
(どうして指輪を持っていることが分かったの?)
アリスは不思議な思いで手を開く。
シンシアは繊細な指で指輪を取って目の高さまで持ち上げると、集中するように眉根を寄せた。
「……やはり……この指輪からたしかにテレーズの意志を感じるわ……。
今まで言う機会がなかったけど、私には霊感があるの……。
ねぇ、アリス、たぶんだけど、私と違って霊感のないあなたが、魔剣を受け取った時にテレーズの意識を感じられたことの方が、むしろ奇跡だったんじゃないかしら?
証拠に私にはしっかりと今も、指輪からテレーズの感情が伝わってくる……間違いなくテレーズは自我を失っていないわ!」
言われてみるとアルベールも指輪から『守る意志』が感じられると言っていた。
「……テレーズの感情? 本当に?」
信じがたい思いで見上げるアリスに、シンシアはしっかりと頷き返し、
「いいわ、口で言うより証拠を見せてあげる――テレーズ――あなたの真実の形に戻って!」
叫んで指輪を持つ手を振りかざしたとたん――ぶわっと漆黒の花弁が湧き出し――ブラック・ローズが剣の形に変化する。
「――あっ!?」
本来ならば、魔界製の武器が、持ち主以外の命令で形を変えることは有り得ない。
大きな衝撃を受け目を見開くアリスに、シンシアはブラック・ローズ手渡しする。
「ほらね、アリス。テレーズは私の言うこともきちんと分かるのよ」
「……テレーズが自我を失っていない……!」
初めて事実を認めて口にだした瞬間――アリスの胸に大きな安堵と喜びの波が押し寄せてきて――別の意味での熱い涙が噴出してきた。
「そうよアリス。だってよく考えてみて、あなたと私の知っているテレーズは、誰よりも強い意志力を持った人だったでしょう?
他の魔族がどうであれ、絶対に自分の意志を失ったりするわけがないわ」
確信をこめて言い切るシンシアの言葉を聞き、アリスの胸に改めて後悔の念が沸き上がる。
「……シンシアの言う通り……私が馬鹿だったわ……!
テレーズ……ごめんなさい……私は色んな面であなたを見くびっていたのね……!」
魔族としての実力も含め、もっとテレーズの強さを信じるべきだった。
心から詫びる気持ちでブラック・ローズを胸に抱いたアリスの頬にシンシアの手が触れる。
「頬が冷えているわ……それに薄着なんじゃないの……?
風邪をひいてしまうといけないから、ひとまず修道院の建物内へ移動しましょう」
季節は春で朝方はまだ風が涼しい時期だ。
「分かったわシンシア」
素直に同意して、久しぶりにアリスが繋いだシンシアの手は、シモンと同じようにサラサラとしていながらも温かかった――
頻繁に修道院を出入りするシンシアは裏門の鍵を持っていて、おかげでアリスは誰とも顔を合わせずに修道院内に入ることができた。
「この部屋に二人でいるのは久しぶりね」
馴染みのある相部屋に二人で入室すると、並んでいる寝台の上に向かい合って腰を下ろす。
「ええ、そうねシンシア――約1年弱ぶりかしら?
――今さらだけど、いつかは挨拶もしないで急に居なくなってごめんなさいね」
「……いいのよ。こうしてまた三人で会えたのだから……」
三人という言葉にアリスの胸はじんわりと熱くなる。
シンシアはアリスが抱えている魔剣ブラック・ローズを見つめ「テレーズ、あなたのかわりに私からアリスに伝えるわね」一言断わりを入れてから話し始める。
「アリス、今のテレーズは今回のことを含め、あなたにたいして申し訳ない気持ちでいっぱいみたい」
「えっ? 申し訳ない気持ち?」
「――ええ、自分が死ぬことであなたに大きな罪の意識を抱かせ、酷く悲しませてしまったことをね――残される者の辛さを誰よりも知っているテレーズだもの……」
シンシアの言葉を聞きアリスは思いだす。
テレーズもまた、母親やクロエという最愛の者を失って修道院に一人で来たのだと。
「以前からもテレーズはよく私に言っていたわ。
違うと頭で分かっていてもついあなたをクロエに重ねてしまい、迷惑しているのが分かっているのに、おせっかいや干渉が止められないのだと。
自分の価値観や想いを勝手にあなたに押しつけていることを、内心テレーズは悪いと思っていたのよ。
その点では、あなたは私達に謝ってばかりいるけど、怒ってもいい立場なんだわ――たとえ死ぬより辛くてもあなたに生きていて欲しいと願い『生』を強いるのは、私とテレーズの勝手だもの……。
今回のことだって――テレーズはあなたの望みを知っていながら、守りたいという自分の気持ちを優先させたのよ――あなたが自分の命よりテレーズを大切に思っていたことを知っていたのに――」
「――……」
意外なシンシアの発言に、アリスはなんと返していいか分からなかった。
シンシアはベッドから身を乗り出してアリスの片手を取り、気持ちを伝えるように握り締める。
「――だけどねアリス、分かって欲しいの。
人はね、ただ食べて寝て、それだけでは生きてゆけない。
心に生きてゆく意味――原動力が必要なの。
私もこの修道院に来たばかりの時はテレーズと同じで、大切だった人を救うことが出来ず、この世界で一人きり、耐え難い孤独と喪失感を抱えていた――」
アリス同様いっさい自分のことを話さない、シンシアが過去の話をするのは初めてのことだった。
「そんな時に、あなたに出会い――必要とされることで私の心は救われたのよ――それはテレーズも一緒だったと思うわ。
テレーズはいつも『アリスには私がついてないと駄目だ』と言っていたけど、私もあなたには私がいないと駄目だと思っていた。
――あなたを助け見守ることが、私達の生き甲斐だったのよ――」
ずっとアリスはシンシアとテレーズに助けられる一方だと思っていたが、自分の存在が二人の心の支えにもなっていたのだ。
「――特にクロエを失ったテレーズは『今度こそ大切な妹分を守り幸せになるのを見届ける』という悲願を達成するために、並々ならぬ情熱を抱き、努力を重ねていたわ。
今だから言うけどテレーズは修道院に入ってすぐ、あなたのことを私に色々訊いてきたの。
私は修道院に来てからのあなたのことしか知らなかったけど、テレーズの真摯な気持ちを受け止め、知っている限りのことを教えてあげた。
そうして私の話を聞き終わったテレーズはこう言った――『私はアリスの隣に立ちたい』と――」
「私の隣?」
「ええ、そうよ――出会った時のあなたとテレーズには差があった。
あなたのそばにいるためには対等になる必要があると彼女は思ったの。
あなたも知っての通り、この聖ラヴェンナ修道院は、良家の女性結社員の訓練所という面だけではなく、聖乙女騎士団の養成所の一つでもある。
希望者は、教養だけではなく剣術や馬術や戦術など、あらゆる知識と技術を学ぶことが出来るわ」
聖乙女騎士団というのは規模や人数は違うが、聖クラレンス教国の軍隊にあたる聖堂騎士団の女性版のようなものだ。
「――テレーズはあなたとの差を埋めて隣に立つべく、全てを学んでかつ高い成績を修めようと、それは毎日、懸命に頑張っていたわ。
天才的な剣術と体術が際立っているあなたは、いずれ戦闘員として高い地位に上り詰めていくだろうと。
追いつくには、あなたには決して敵わないその二つ以外のすべてで上回らないといけない――そう言って、実際にテレーズは短期間のうちにその目標を成し遂げたのよ」
ずっとアリスは、ローズはカーマインへの恋心だけで頑張っているのだと思いこんでいた。
「……そんな……テレーズは……私のために……!?」
(日々あんなにも人並以上の努力を重ねていたというの?)
「そうね――あなたのためである以上に、自分のためにね――あなたのそばにいて守り続けることが、テレーズにとっての何よりもの願いであり、生きる目的になっていたのだから。
この修道院に来てテレーズがあんなにも頑張れていたのは、アリス、あなたに出会ったおかげなのよ」
たしかにアリスの知る、アニメであっさり死ぬブラック・ローズよりも、この世界の彼女の方がはるかに強い印象だ。
想像以上のテレーズの自分へのひたむきな想いを知り、アリスの胸は熱い感動で震えた。
「当然、修道院で主席になったテレーズには、聖乙女騎士団の幹部候補としての入団の誘いがあったわ。
あなたも気がついていると思うけど、結社の順位には現世の地位がかなり影響する。
ゆくゆくはテレーズの能力なら聖乙女騎士団のトップになることも可能で、結社での地位を上げていくうえでの大きな追い風になったはずよ。
だけどテレーズはあなたのそばにいたいという理由でその勧誘を断ったの」
「――!?」
(知らなかった……!)
「何しろ、テレーズはいつもあなたが死に急いでいることを心配し『私がそばについていないとアリスは死んでしまう』と言うのが口癖だった。
『私が死ぬとアリスも死ぬから、守り抜くためには絶対に死ねないし、生き続けなければいけないんだ』って――」
シンシアが口にしたテレーズの言葉は、とても根本的で簡単な、それでいて、今までのアリスには決して見えなかった真理だった。
「……私を……守るために……生き続ける?」
どこか呆然として呟くアリスに、シンシアは強く頷き。
「そうよアリス。死んで守れるものはこの世に何一つないのだと――
何かを守るには生き続けなくてはいけないのだと、テレーズは知っていたのよ。
――だから死ぬ時はあなたをもう守れないということが、一番心残りだったはずよ――」
――その強い想いがテレーズを――ローズの魂を魔剣に向かわせたのだ――
「でも、こうして奇跡的にテレーズの望みが叶い、今もあなたの傍にいて守っているのだと知れて、私の心も救われたわ――」
言いながら泣き笑いするシンシアの顔を見つめ、アリスは今ようやく、自分の選択の最大の過ちに気がついた――
(そうだ……テレーズやシンシアの言うように……一度守ったぐらいでは何にもならない。
私はあの時、仲間達の命を守るつもりで『死』を選びながら、その実、誰も守ろうとしていなかった――!)
仲間達の破滅する運命を知っていながら死を選ぶという行為は――ローズを含め仲間全員を見捨てたも同然だった――
そのことが一番恥ずべきことだったのに、見当外れな後悔ばかりして――
(仲間を真に守りたいなら、どんな窮地に陥ろうと最期まであがき、生き残る道を探すべきだった――ローズのように一心に『生』だけを見つめるべきだったんだ――
それなのに私は『死』に逃げた――なぜなら心の弱い私にとって、生きていくことは死ぬことよりずっと辛く苦しく怖いことだったから――)
今こそ『お前の心の弱さがローズを殺した』という、カーマインの指摘が重く心に響く。
何より一番の罪は心が弱いことではなく『弱さ』を理由に逃げたことだったのだ。
『私は弱いの!』と認めながら、それでもつねに心を奮い起こし、何からも逃げずに勇気を持って立ち向かっていた――まさにローズの生き様が――『強さ』とは自身の弱さを乗り越えて初めて得られるものだと、アリスに教えてくれるようだった。
(ローズ――前世から逃げるのが癖になっていて、今まで大切な真実が見えていなかった、私は大馬鹿者だったわ――!
だけど……どうかこれからは一番そばで見ていて……――あなたが守ってくれたこの大切な命をもう二度と投げ出したりしない――もう二度と『死』の方向を見つめたりしないから――
今度こそあなたのように真の意味で仲間を守ってみせる!
グレイ様――あなただって絶対に私が死なせない)
胸に起こったアリスの燃えるような決意がうつったように、腕の中の魔剣ブラック・ローズが熱を帯びる。
そこでアリスは思いだす――魔界製の武器は使い手と『同調』する特性があったことを――
アリスはしっかりとローズの意志と勇気を受け取るように、強く剣の柄を握りしめると、初めて運命に立ち向かうべく『生きていく覚悟』を胸に抱いた――




