33、打ちのめされた夜
「だから、勝手に決めないでって言ってるでしょう!
私は絶対にそんな決定に従うつもりはないわ!」
興奮し過ぎてアリスの叫び声は裏返っていた。
サシャにしてみれば、ほぼアルベールとアリスの婚約は避けられないと判断しての、重い決意表明なのだが――メロディがアルベールの真の相手であることを知るアリスにとっては、サシャとの結婚確定宣告に等しい。
つまりいつだかの鬱憤吐き出し日記に書いたサシャの未来の妻を憐れむ一言が、思いがけず自分の元へ返ってきた形なのだ。
(冗談じゃない!)
大量の汗を噴出させて戦慄するアリスに、
「アリス、悪いが君に拒否権はない」
ぴしゃりとサシャは言い放ち、続けて主張する。
「君も貴族の家に生まれた娘なら、決定権が家長であり後見人である私にあることを理解しているはずだ。
貴族の娘の半数は親が決めた相手と結婚し、残りの者は自由恋愛とは名ばかりの、同じ階級の男性に選ばれる機会と、求婚を受けるかどうかの選択権を与えられるだけ。
あくまでも結婚にたいし女性は受身であり、せいぜい求婚者の中から最も条件の良い相手を選ぶぐらいしかできない――そうしてお互い合意しても、最終的には親もしくは後見人の許可が得られないと結婚許可証を取ることが出来ないのだ。
ゆえに多くの令嬢達が自分の意志や理想とはほど遠い結婚を受け入れている――君だけ例外にして欲しいなどというわがままは通らない。
第一アルベール殿下が結婚を望んだ場合、君にも私にも拒否権はないのだ!
どちらにしても私の決定に逆らう権利は君にはない!」
サシャお得意の正論攻撃を受けて、ぐっと言葉に詰まったアリスは、グレイとの約束と時間的な都合を考え、これ以上の言い合いを断念した。
「――何と言われようと、私は結婚なんてしないんだから!」
最後に悔し紛れに叫び――アリスは扉にぶつかるように執務室を飛び出すと、長い廊下を夢中で駆けだす。
(――サシャなんて大嫌い!)
またしても自分の気持ちを無視されたことと、ロクに言い返せなかったことが口惜しくて涙がこぼれた。
幸い、サシャが追って来る気配はなく、自室へ逃げこんだアリスは、ベッド上にうつ伏せに飛び込み、ぜいぜいと肩で息をする。
やがて呼吸は落ちついても乱れた心は一向におさまらず、先日からしている不吉な予感も合いまり、アリスは最悪な精神状態でカミュの元へ向かうことになった――
「お待たせしました。カミュ様」
「待っていたよ、アリス」
いつものように段取りを終えてNo.9の間の扉経由で直接室内に出ると、本を置いてベッドから立ち上がる白いガウン姿のカミュが見えた。
人払いされているのは承知だが、万が一魔族と会っているのを誰かに見られたらカミュは身の破滅だ。
クィーンは現れるとほぼ同時にアリス姿に戻る。
「さあ、ここに座ってくれ」
さっそく示された窓辺の長椅子に腰かけ、先日の夜と違って実体のせいだろうか、アリスは深夜カミュと密室に二人でいることに、いつにない胸の高鳴りをおぼえた。
「小さい頃はこの長椅子に膝立ちになって、窓に頬杖をつき、飽きずに外を眺めていたものだ」
無駄に意識しているアリスとは違い、カミュはしごくリラックスした態度で同じ椅子に並んで腰を下ろす。
昼間のように怒っている様子はなく、内心ほっとするアリスの肩を、カミュは自然な動作で抱き寄せ、ぴったりと身を寄せてきた。
「ああ、君はいつも通り温かいな」
(温かい?)
初めて聞く形容詞に、アリスは不思議な思いでカミュの顔を見た。
「こうして君の温もりを感じているととても安心する」
つまりカミュがアリスに頻繁に触れるのは、温もりを感じるためだった?
言われてみると、カミュの手はいつも氷のように冷たい。
たいしてアリスは前世の頃は冷え症だったが、生まれ変わってからの手足はいつも温かった。
そんなアリスの思考を遮るように、カミュが謝罪する。
「今日の園遊会では態度が悪くてすまなかったね……」
「……私こそ、お騒がせして申し訳ありませんでした……」
「いや、あれは兄が大げさだったのだ。
いつも冷静な兄が少し姿が見えないぐらいで慌てるなんて、よほど君のことが大切なのだろうね」
言葉とは裏腹に、カミュの美しい口元が皮肉げに歪んでいるのを見て、アリスは大慌てて否定する。
「出会っていくらもたってないのに、そんな訳ありません!」
「そう言うが、アリス、私達だって出会ったばかりだろう? なのに私にとって君は、すでに失うと生きていけないぐらいかけがえのない存在だ。
本来こんなことは有り得ない――だって私は6歳の頃に大切なものは失って以来、二度と同じ思いはしたくないと『愛する』という感情自体を自分に禁じてきたのだから――」
(――ということはカミュ様にはかつて他にも愛する存在がいた?)
表には出していないはずのアリスの興味が伝わったように、カミュが説明し始める。
「――6歳のある日、この窓から外を眺めていると、水色の可愛い小鳥が飛んできてね――腕を差し出すと止まったんだ。
私はそっと逃げないように窓を閉め、そのまま部屋の中で小鳥を放し飼いすることにした」
水色というのはアニメで出てきたカミュが握りつぶしたという小鳥と同じ色だ。
「小鳥は誰かに飼われていたらしく、とても人懐っこく、私の懐に潜り込むのが好きで、とても温かかった――生まれて初めて出来た私の友達だ。
その日から私は毎日小鳥と一緒で、灰色だった日々に色がついたようだった。
――そんなある日、母に呼ばれて部屋を留守にした時。用事を終えて廊下に出ると、両手でくるむようにして何かを持ったダニエラ姉さんがクスクス笑いして立っていた」
いったん言葉を切り、カミュは初めてNo.3の間で挨拶した日のように、暗い瞳で自身の右手をじっと見つめた。
「私は悪い予感がして即座に何を持っているのか尋ね、姉は答えるかわりに手の平を広げて見せた。
――そこには舌を飛び出させて痙攣している、私の可愛い小鳥がいた。飛びつくように奪い取り、様子を確認すると、小鳥はくたっとして羽のいたるところが剥げ、血まみれで虫の息だった。
『トンカチで叩いて遊んでいたらこうなった』という姉の説明通り、小鳥は身体のいたるところが潰され、ショック死していないのが不思議なほどだった。
最早、私が初めての友達にしてあげられることは、一刻も早く苦しみを終わらせることのみ……私は渾身の力を親指にこめ、小鳥の心臓を潰して止めをさした」
痛ましい話を聞き、アリスはようやくアニメで観たシーンの真実の意味と、ダニエラが小鳥の話をした時にカミュが激高した理由を理解することが出来た。
燭台一つだけで照らされた夜の室内は薄暗く、片頬を青白い月光で照らされたカミュの美しい顔は死人のように見える。
「アリス――私はね、酷く心が冷たく頭のおかしい人間なんだ。
それからたくさんの人間の死を目のあたりにしてきたが、ついぞあの小鳥が死んだ時ほど悲しんだことも、胸が痛んだこともない。
実際、それ以来、私は周りの誰が死のうが平気だった――それなのに――私はまた君に出会ってしまった――自分の命より大切だと思える存在を持ってしまったのだ――!
これまで生きてきて苦しいこと辛いことは色々あったが、間違いなく聖剣の餌食になりそうな君の姿を見た瞬間が、私の人生の中で一番最悪な時だったと言いきれる!」
「――!?」
感情の高ぶりを表すようにカミュは一気に声を荒げたのち――ふーっと大きく長い溜め息をつく。
「――アリス、君の戦いぶりを見た私にも分かっている。
君は物凄く強い。たぶん今の魔剣を持つ君ならば、聖なる武器使いでも大幹部でも、まともに戦って勝てる者はほぼいないだろう。
ただし――人の子の王にして聖剣使いである仮面の騎士だけは別だ――君以上に強い。
アリス、私は怖いんだ! 次こそ君が殺されるかもしれないと想像しただけで、恐ろしさに全身が震えてくる。
怖くて怖くてたまらなくてどうしようもないから、君を仮面の騎士の担当から外したのだ――だから再びその役目に戻すことは死んでも出来ない……」
密着しているカミュの身体から、恐怖を示すように、小刻みな震えが伝わってくる。
アリスは今さらながらカミュに与えた苦しみと恐怖の深さを知り、安易に死を受け入れようとした自らの選択を心から悔いた。
しかし出撃許可を却下された今、アリス――クィーンを仮面の騎士の担当に戻さないということは、ドクターを出すということだろうか?
カミュの次の言葉を待つアリスの胸が異様にドキドキと鳴る。
「それにアリス、先日も言ったが、私は兄と一緒にいる君を見て、戦わねばならないと強く思い立った。
――私と違って両親に愛され、つねに人に囲まれて育ってきた兄は天性の人たらしだ。
周囲の誰もが魅了されずにはいられない存在で、アリス、君も例外ではなく、いつか確実に兄を愛するようになるだろう。
現にすでに惹かれ始めているはずだ――」
思わぬ指摘にアリスは驚いて息を飲み、焦って否定した。
「そんなことはありません……!
どちらかというとアルベールは私の最も嫌いなタイプの男性です!」
「――君が自覚してなくても、私には二人の間に流れる吸引力が感じられるのだ。
父の期待と信頼、母親からの愛情、愛されて育ってきたもの特有の朗らかで屈託のない性格――私が決して手に入れることができないものを、当たり前に持っている兄がこれまでずっと妬ましかった。
――このうえ兄が君までも手に入れることだけは、私にはどうしても耐えられない!
君が私以外に恋することは仕方ないが――兄だけは嫌だ!
兄のものになった君を見るぐらいなら、いっそこの目をえぐりだしてしまいたい!
君が兄を愛するようになる前に、自ら心臓を止めてしまいたいほどだ!
こうなったら君を奪われないためには私が死ぬか、兄を殺すしかない――!」
殺すしかないと血を吐くように叫びながら、カミュの瞳には真っ黒な死への憧憬が渦まいているようだった。
最悪な未来が訪れる前に死んでしまいたと願うのは、カミュも一緒なのだと、アリスは悟る。
同時に、出撃許可を却下されてもなお、自ら戦闘に出るカミュの意志が変わっていないことを知り――アリスは激しい衝撃と動揺に襲われた。
だが思いだしてみればそれも道理で、ローズを死なせたことを詫びる際、カミュははっきり『つまらぬ組織の決まりごとより命を優先するべきだった』と悔やんで言っていたのだ――
今度こそ二度と後悔しないために、カミュは組織の規則より、アリスの命を優先するつもりなのだ――
またしても自分が都合の悪い現実から目を反らし、希望的観測を無理矢理抱こうとしていたことに気がつき、アリスは情けなさに涙が溢れてきた――
「……お願いです、カミュ様……そんなこと、言わないで……。
私は本当に、アルベールに惹かれてなどいないし、この先だって……死んでも好きになんてなりません……!
どうか……信じて下さい……!」
「――泣かないでくれアリス――君が理由みたいな言い方をしたが、それがなくても結社に入った時より、私が兄と戦うのは運命づけられていたのだ……。
あるいはこの世に生を受けた時からの、宿命なのかもしれない。
ついにその時が訪れただけで、どのみち支部の壊滅を防ぐためには決して避けられない道だった」
たとえそうであったとしても、カミュの精神状態をここまで追いつめたのは確実に自分だと、アリスは罪悪感で胸が苦しくなって、涙が止まらなかった。
「今夜、君をこの部屋に呼んだのは、私の決意が変わらぬことを君に理解してもらい、納得してもらうためだ」
肩を抱く手に力を込め、カミュがきっぱりと言い放つ。
アリスはがばっとカミュに向き直り、ガウンの襟元を握り締め、ぐいぐいと引っ張って懇願した。
「……納得……なんて無理です……!
カミュ様がいなくなるかもしれないなんて……命賭けで戦うなんて絶対に嫌です! お願いだから思いとどまって……!」
「だけどアリス、君は私が死んでも生きてゆけるだろう?」
――思い切り痛い部分をカミュにつかれ、アリスは口ごもる――
そこで嘘でも『カミュがいないと生きてゆけない』と言えるアリスなら、とっくに説得は成功していたかもしれない――
少なくとも一緒に戦うことぐらい認めてもらえていたはずだ――
しかしミシェルを失って以来、カミュ以上に、致命傷になるほど他人を「深く愛する」ことを己に禁じてきたアリスには、どうしても言えない一言だった。
ガウンの襟元が開き、カミュの真っ白な胸があらわになっても、アリスは手をほどかなかった。
白くなるぐらい強く握る自分の指に嵌められた漆黒の指輪を見つめ、自分の願いが決して聞き届けられないという目の前が真っ暗になるような絶望感に、かつてのローズの気持ちを思い知る――
(ローズ……あなたもこんな気持ちだったの……!?)
心の中で問いかけても、指輪からローズの意識らしきものは、ほんの僅かも伝わってこない。
その理由を思いだしたとたん、アリスはローズへの懺悔の思いに、胸が引き裂かれそうになる――
(――これは何度もあなたの願いを拒絶し続けた私への、当然の罰なんだわ……!?)
謝っても、謝罪の言葉さえ、もうローズに届かない――分かっていても、アリスはどうしてもローズに謝りたかった――剣と一体化したローズがわずかでも意識を取り戻し、アリスの声を認識できるしたら、あの場所しかない――
閃くように思い至った瞬間――アリスは反射的に椅子から立ち、クィーン姿に変化していた――
どうせこれ以上ここで粘っていても、今の感情的な自分では説得どころか、カミュを困らせることしかできない。
「アリス――?」
驚き見上げるカミュを涙に濡れた瞳で見下ろし、クィーンは素早く異界の扉を開いて飛び込んだ――
いったんNo.9の間に出てから、外界の扉をつなぎ、夜闇に包まれる墓場にクィーンは飛び出した。
すみやかに変化を解いてアリス姿で地面に膝をつき、中指から外した指輪を両手の中に握りこんで、ローズの墓の前で瞑目して祈るポーズをする。
「……ローズごめんなさい……」最初に一言呟くと、アリスはドンと握り合わせた両手と頭を地面につき、墓の前で伏せった。
「こんな姿にさせてしまってごめんなさい。あなたの言うことを一つも聞かず、気持ちを考えないでごめんなさい……!
こんな私には……許してという資格さえない!」
地獄でも合わせる顔がない――そうではない――!
知っていたのに認めたくなかっただけ――
地獄の待ち合わせ場所に行っても、二度とローズには会うことが出来ないことを。
分かっていたからこそ、魔剣を得てから、より深い罪悪感がこの胸を苛んでいたのだ。
(私がローズを本当の意味で殺してしまった……!)
なぜならアニメを観ていたアリスは知っていたのだから。
闇属性の魂は、異界から魔界へ行く時は何も影響を受けなくても、魔界から異界へ渡る時に必ず『自我』を失うことを。
武器の中に入っていようとそれは決して避けられない。
それこそが、異界と魔界を隔てるために神が造った『封印の門』の役目の一つであり力なのだから――
アリスがローズの意志を感じられたのは、魔剣ブラック・ローズを受け取った時が最初で最後――たぶんあれはローズの残留思念のようなものだったのだろう――その後は幾ら呼びかけても、剣からローズの気配は伝わってこなかった。
ローズだけではなく、アニメでの解説によると幾人もの魔族が、長い時を隔てて出来た『封印の門』の綻びを通って魔界から異界へやって来ようとしたが――肉体を持ったままそこを通りぬけることは叶わず、例外なく『自我』を失って魔王に吸収されてきたという。
そう、たとえ魔剣ブラックローズが破壊されて魂が開放されても、ローズは失った自分の意識を再び取り戻すことは出来ないのだ。
多くの魔族の魂と同じように自然に魔王の元へ引き寄せられ、混沌とした魂の集合体に飲み込まれ、その一部となるだろう――
(私がローズを肉体的だけではなく、霊的にも殺してしまった!)
一体どうすればこの大きすぎる罪をあがなえるというのだろう。
ローズが『自我』を取り戻す手段はたった一つ。
魔剣ブラックローズを破壊して魂を開放したうえで、この地上で唯一魂を浄化する力を持った聖具、神の涙が放つ聖なる光を浴びることだけ――
つまり未来のメロディにしかローズの魂を救うことは出来ない。
だけどクィーンを守るために自ら剣になったローズが、そんなことを決して望まないのは、誰よりも他ならぬアリスが知っていた。
ローズの気持ちを思えばブラック・ローズを破壊させることなど許されない。
そう思うと胸が瞑れそうなほど痛くて苦しくて、止め処なく涙が溢れてくる。
ローズを失ったのもグレイを止められないのも、全ては周囲の人間の気持ちも考えずに、自分勝手に死を受け入れようとした行為の結果であり、報いなのだ――
アリスは絶望的な思いで指輪を握り締め、手と頭を地面に打ちつけては泣きむせぶ。
――そうして長時間泣いているうちに、やがて東側の空が白み――とうとう明け方近くになった頃――
「アリス……」
背後から唐突に、聞き覚えのある澄んだ声が響いてきた。
それはアリスにとって間違えようもない、一番会いたいのに会えなかった、誰よりも大切な人物の声――
アリスは泣きつかれた肩をびくっと跳ね上げ、地面に腕を突っ張るように上半身を起こし、わななく唇と喉から声を絞り出す。
「……シンシア……」
名前を呼び返し、振り返るのとほぼ同時に――駆け寄ってきたシンシアの腕にアリスは強く抱きしめられていた――




