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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第三章、『亡霊は死なない』
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32、愛の重み

 瞬きする間にアルベールの顔が数センチの距離まで迫り、「口づけされる」という危機感が脳内を駆け巡る。

 心は拒否して絶叫しているのに、イレギュラーに弱い性質と激しい動揺のせいか、身体が固まり、微動だにすらできない。 


「……あっ!?」


 すっと、唇に触れたのは、予想に反してアルベールの指先だった。

 親指の腹で下唇を優しくなぞられたアリスは、背筋に電流が走ったようになる。


「唇に血がにじんでいる……わずかに切れているみたいだね」


 既視感のある台詞を口にして、アルベールは自身が痛みを受けたように眉根を寄せ、間近からアリスの唇を食い入るように見つめる。

 夜会の晩のように、先刻、キールと一緒に皆に囲まれた時に、強く唇を噛み締め過ぎたらしい。

 アリスは全身から盛大に緊張感が抜けるとともに、見当外れの指摘と紛らわしい行動をしたアルベールに強く苛立ちを感じた。


(私が死神アルベールに惹かれているなんて、サシャをいまだに好きだという以上に有り得ない……!)


 大きく肩を震わせ溜息をつくアリスの様子に、アルベールは状況を察したらしい。

 くすくすと楽しげに笑ってから、顔を寄せたままささやく。


「ひょっとして……キスすると思って驚かせてしまったかな? 

 まさかサシャが見ている前でそんなことは出来ないし、するなら、きちんと君の同意を得てからにするので安心して」


 アリスは顔の熱さにムカつきも手伝い、これ以上至近距離で触れられていることに耐えられず、アルベールの両手を掴んで引き剥がし、胸を押しやりながら理由づけに抗議する。


「……笑うなんて……あんまりです、殿下……!」


「すまない、アリス、たしかに意地悪だったね」


 素直なアルベールの謝罪の言葉を無視して、アリスは粟立った肌と乱れた心を落ちつかせるため、そっぽを向いて呼吸を整えた。

 小刻みな震えが止まらない身体の状態に、ブルーに引き続き、口づけしそうになったぐらいでかなり精神的なダメージを受けていることを認識し、致命的に自分には色じかけが向かないことを思い知る。


(こんなんじゃ、メロディがアニメ通り、あと十日や二週間そこらで聖乙女として覚醒するとして、それまでに女の武器を使って神の涙を入手するなんて到底無理だ――!)


 しかし達成出来なければ、今度こそカーマインによるベッド上での指導が入る恐れと、順位戦に参加するように言い渡される可能性があった。

 アリスの脳裏に、No.13――キングの――人懐っこい笑顔と、怪我を治してくれたNo.4の姿が浮かぶ。


(夜伽以上に、同じ結社員同士で殺し合うなんて絶対にごめんだわ!)


 それが嫌なら出来なくても「やらねばいけない」のだ。

 アリスは唇を噛みしめ、決意を固めるように拳を握りしめる。


「お願いだから機嫌を直してこっちを見てアリス、君と二人でいられる貴重な時間を無駄にしたくない……」


 懇願するように語りかけてくる、アルベールの熱い息が首もとにかかる。

 過剰反応気味に肩を跳ね上げ、アリスが背けていた顔をゆっくりと向き直らせると、目の前に熱っぽく輝く青き双眸があった。

 再びアリスの片頬にアルベールの手が触れてきて――とたん、高鳴りだす鼓動と上昇する体温に、嫌でも自分がアルベールを異性として強く意識していることを自覚させられる。


「……アルベール様……」


 情けないうわずった声しか出なかった。


「よく見るとアリスは化粧をしていないんだね……君を探している途中で会ったメロディでさえ、今日はしっかりと化粧をしていたのに……」


 今まではメロディもアリス同よう全然化粧っ気がなかったのに、カミュに出会い、恋に目覚めたせいだろうか。


「……私は……顔に何か塗るのが苦手なんです……」


 加えてより美しく見られたいという願望がないのと、根っこには厚化粧だった前世の母親への嫌悪感があるのかもしれない。


「そうか、だからこそ君はこんなにも清らかで透明感のある美しさを持っているのかな……。

 まるで足元から爪先まで清純な光のベールを纏っているようだ」


(清らか?清純?)


 魔王に魂を売り渡し、闇の裏の顔を持つアリスだというのに。


「特にこの青い宝石をはめこんだような美しい瞳は、見つめているだけで思わず魂を奪われてしまいそうだ。

 サシャが君は無欲で慎ましやかで敬虔深いといつも自慢していたが、きっと内面の美しさが現れているのだろうね」


(相変わらず、私の内面のことなど何一つ知らない癖に分かったような口をきく)


 初対面時といいアルベールの言動には、妙にアリスの神経を逆なでする部分があった。

 やはり真の運命の相手であるメロディと違って相性が悪いのか。


(――なんて現在の状況を思えば、ここはムカついている場面ではない……。

 むしろ勝手な幻想を抱いてくれていることを幸いとして、利用しなくては――)


 そして神の涙を入手するという大きな功績をあげ、無血で四天王になり、一気にミシェルの復活に近づくのだ。

 そのためには個人的感情を一切殺して、アリスがアルベールに惹かれ始めているなどという、忌々しい戯言すら肯定してみせよう。

 たとえそのあと勇気を得たアルベールが、アリスにたいして今までより積極的な態度を取るようになったとしても。


「アルベール様……私は……」


 意を決し――アリスがアルベールの瞳を見据えて、好意を肯定する言葉を言いかけたときだった――


「――兄上――」


 その場の熱い空気を冷やすような冷たく硬い声が響く――


「カミュ」


 アリスはなぜかギクリとして、アルベールははっとした表情で、会場側から歩いてくるカミュへと目を向けた。


「いつまで席を離れていらっしゃるんですか? 父上があなたが戻ってくるのが遅いと、気にされていましたよ……」


「――そうか……わざわざ知らせに来てくれてありがとう、カミュ」


 弟に礼を言い、アルベールは名残惜しそうにアリスの顔を見つめ、頬から手を引いて立ち上がる。


「アリス、もっと君と二人でいたいが、どうやら今日はもう時間切れのようだ。

 明日明後日は忙しいのでまた三日後に会えるかな?」


 アリスにとっては願ってもない誘いだった。


「はい、殿下」

「――良かった。ではその時に今日の続きの話をしよう」


 アルベールは愛おしそうな眼差しでアリスの顔を見下ろし言うと、最後にカミュを一瞥し、颯爽とマントを翻し歩き去っていった。


 残されたアリスは妙に緊張した心地で、ベンチのそばまで歩いて来たカミュの美しい顔を見上げる。


「カミュ様……」

「今日の私は君の邪魔をしてばかりのようだね」


 口元を自嘲げに歪ませてカミュは言い、続けて苛立ったように吐き捨てる。


「神の涙を入手するために君が兄上に近づいていることは、私にも分かっている――分かっていても、どうしても私には耐えられないのだ……!」


 銀灰色の瞳を切なげに揺らして身を屈ませると、カミュはアリスの頬の、ちょうどアルベールが触れていた箇所に手を当てた。


「……!?」


「いっそ君のこの顔が醜ければ良かったんだ、この私しか愛せないぐらい!」


 まさにアルベールに容姿を賞賛された直後の、感情的なカミュによる否定の言葉だった。

 絶句するアリスを見下ろし、カミュは気を落ちつかせるように大きく溜め息をつく。


「すまない、アリス……今の冷静さを失った私の口からは、どうにも酷い言葉しか出てきそうにない。

 ――いずれにしても母がうるさいのですぐに戻らねばならず、今は話している余裕がない――改めて今夜ゆっくり話そう。

 アリス、晩になったらアジトではなく、私の部屋に実体で会いに来てくれるか?」


「……はい、カミュ様」


 立ち上がって答えるアリスの手首を、凍るように冷たいカミュの手が掴んで引き寄せ、背中に片腕を回して軽く抱擁する。


「君が来るまでずっと寝ないで待っている……。

 ――愛しているよ――アリス」


 耳元でささやかれたカミュの愛の言葉は、アルベールの愛の告白よりずっと重たくアリスの胸に響く。

 約束の言葉と気持ちを告げるとカミュは素早く身を離し、真白き髪と法衣の裾を揺らして風のように去って行った。


 そこに入れ違うように、庭園の緑に映える緋色の軍服を着たサシャがやってくる。


「アリス、今馬車を近くに回すように手配した。今日はもう屋敷に戻って休んでいなさい」


 有無を言わさぬ命令口調だったが、ここに止まったところでアルベールやカミュともう話せる機会は得られそうにないので構わなかった。


「分かったわ……サシャ」


 やや呆然としながらもあっさり頷くと、さっそくアリスはサシャに手を取られ、一緒に庭園を通る太い道へと移動した。


 ほどなく回されてきた馬車に乗り込み座席に座ったアリスに、外からサシャが深刻な表情で話しかける。


「――アリス、帰ったら大事な話がある」


 思い詰めたような蒼ざめた美しい白皙の顔を見返し、アリスは今夜カミュとの話し合いに辿りつくまで、まだまだ長そうだと確信した――



 その晩の夕食時間は、アリスから目を離したノアイユ夫人へのサシャによる糾弾に終始した。

 食事を終えたあとは執務室へ場所を移して今度はアリスが絞られる番だ。

 机を挟んで二人向かい合って着席したタイミングで、サシャが前置きもなしに強い口調で語り始める。


初心(うぶ)で穢れをまったく知らない君は、デュラン卿のような享楽的な男性の危険さを全く分かっていないのだ。

 彼みたいな放蕩者と親しくするだけでも、君の品位までもが下がるというのに――」


 最初のテーマはキールと二人で、人目につかない場所で会話していたことにたいする苦言だった。

 調子のいい言葉に誘われての軽い気持ちの行動が、取り返しのつかない、一生の汚点になることを、サシャはくどくどとアリスに語って聞かせた。


(――今夜の話は特に長そうね……。

 これは具合悪いフリしてでも、早めに話を切り上げさせなくては――)


 カミュに一刻も早く会いたいアリスは、サシャに気づかれないように話の合間に置き時計を見る。


「いいか、アリス、あのような人物と親しくつきあって、もしも君の純潔が疑われるような、未婚の貴族令嬢としてあるまじき評判が立った場合は、王家どころか、どこの家にも嫁がせることができなくなる。

 ――その際は、分かっているだろうね?」


 アリスはサシャが言わんとしていることを考え、結論を口にする。


「ええ、一生、修道院へ篭っていることにするわ」


「違う――そうじゃない!」


 バン――と、サシャは直情的に机を叩いて立ち上がり、ツカツカと歩み寄ってくると、いきなりアリスの両手を持ち上げて強く握る。


「そうなった場合、君は私と結婚するのだ!」


 サシャの口から放たれた驚愕の答えにアリスは度肝を抜かれ、しばし言葉を失う。


(――さ――サシャと、結婚!?)


 話しの流れや今までの関係性など、どれを取っても、なぜそういう話になるのか皆目意味が分からなかった。


「なんで、そうなるの……!?」


 びっくりして大声で叫ぶアリスにサシャは、


「なんでもなにも、他家に嫁がせるわけにはいかないのだから、そうするしかないんだ」


 言い切ったかと思うと「――いいや、違う!」と即座に否定し、淡い金髪の前髪を掻き上げ、熱っぽく潤んだサファイア色の瞳を向けてくる。


「評判やデュラン卿など関係ない! 私がそう、望んでいるからだ――もう二度と自分の気持ちを誤魔化し、決断を先送りするなどという愚行を犯しはしない!

 アリス、もしもアルベール殿下と婚約が成立しなかった場合、私は最短の婚約期間で可能な限り速やかに君と結婚する!」


「……可能な限りって……私達が結婚なんて……冗談でしょう……!?」


 アリスの予想を越えて、突然、話がとんでもなく恐ろしい方向へ向かいだした。


「私が今まで一度でも冗談を言ったことがあるか?」


 真顔で言うサシャの手を力いっぱい振り解き、アリスは逆上の叫びをあげる。


「冗談でも、あなたと結婚するなんて絶対に嫌だわ! 

 いつもいつも、私の気持ちを無視して勝手に何でも決めないでよ!」


 『冗談でも嫌』という文句に、サシャは一瞬、顔をぴくっと引きつらせたが、すぐに気を取り直したように、決然と言う。


「アリス、いつかも言ったが、私は何よりも君の幸せを優先するつもりだ。

 そしてどう考えてもこの私以上に、君のすべてを理解して受け止め、かつ生涯変わらぬ愛を捧げ続け、守護できる者は他にいないと自負している。

 とはいえアルベール殿下はこうと決めたら絶対に意志を曲げないお方だから、最早、私が何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 もちろん君との結婚を思い止まって頂くように、ぎりぎりまで全力で説得を試みるつもりだが……。

 ――ともかく、私はここ二日ほど悩みに悩んだが、今ようやく決意と覚悟を固めることができた。

 たとえ君が王室に嫁いだとしても、私はつねに傍に居て一生守り抜いてみせるとね!」


(……一生とか勝手に迷惑な決意をしないで欲しいんだけど……!)


 誇り高いサシャの宣言だが、アリスは感動ではなく不愉快さと腹立ちしか感じなかった。

 サシャはもう一度、決定事項を確認するようにアリスに告げる。


「つまりアリス、今後の君の運命は、アルベール殿下と結婚して王太子妃になるか、さもなくば私の妻となり侯爵夫人になるかのどちらかだ!」



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