29、幸福な一時
「誰だ、あんたは?」
進行方向を塞がれたジュールは不愉快げに尋ね、シモンが堂々とした態度で答える。
「僕はアリスさんの友人のシモン・ヴェルヌだ。
人の名前を訊く時は自分から名乗るのが礼儀ではないか?」
「シモンさん……」
(このパターンは何度目だったかしら?)
アリスは考えつつも数歩戻り、ジュールの視線から逃れるようにシモンの背中の陰に隠れる。
「俺はアリスの従兄弟のジュール・レニエだ。
悪いが、アリスに大事な話をしている途中なので邪魔しないでくれないか?」
「邪魔もなにも、アリスさんはその大事な話とやらを拒否して、あなたから逃げていたようだが?
アリスさんが嫌がることをすることは、何人だろうと、決して、この僕が許さない!」
「……!」
毅然と告げるシモンの言葉に、アリスは衝撃とともに感動をおぼえる。
他の誰か――たとえばサシャに同じことを言われたら反感を抱いただろうし、アルベールに言われても微妙な気持ちになっただろう。
こうして庇われて素直に嬉しく感じるのはグレイ同様、自分がシモンに好意を抱いているからなのだと意識する。
「待て、俺とてアリスの嫌がることをする気など毛頭ない。
ただ、せめて母から託された、この手紙だけでも読んでくれるように、アリスに頼みたかっただけなんだ」
(手紙?)
ジュールは懐から取り出した手紙を見せながら、シモンの背後から顔を覗かせたアリスに強く訴える。
「母は現在一時的に持ち直しているとはいえ小康状態だ――病の進行具合から、もうそんなに長くはないだろう……!
アリス、君に欠片でも憐れみの情があるなら、死にゆく母の心残りを最期に取り除いてやってくれないか?」
「心残り?」
アリスが問うと、ジュールの大きなサファイア色の瞳が暗く翳る。
「君に一言謝ることだ。
君達一家が領地を出てからというもの、母は毎日、贖罪の日々を送っている。
今も意識を失うたびに、うわごとで君の父親の名を呼んでは、何もかも自分のせいだと謝罪の言葉を口にしているんだ……」
「マルタ伯母様が……」
アリスの記憶では、伯父のヴィクトールの妻のマルタは、控えめで大人しい内気な人だった。
よくよく考えてみれば、不貞の容疑をかけられたのはアリスの父だけではなく、彼女も一緒だったのだ。
領地に残された伯母があの偏執的で陰湿な性格の伯父に、その後、どんな酷い扱いを受けたのかと想像すると、アリスの胸にも自然に同情心が起こる。
「この手紙には、最期にアリスに会って直接謝罪したいと言う、母の切なる願いが綴られている。
これを読めばきっと君も気を変えてくれるはずだ」
アリスも鬼ではない。死にゆく者の最期の願いだと言われれば、一目会って話を聞いてあげたい気持ちもあるのだが……。
(――問題は国境近くにあるレニエ子爵領が、絶望的に遠すぎることだわ。
異界経由で行けば一瞬で着くけど、ジュールに正体を明かせない以上、そういう訳にもいかないし……)
取りあえずアリスは手を伸ばしてシモンの肩越しに手紙を受け取り、心苦しくも辛い現実をジュールに伝える。
「この手紙は必ず読むし、返事を書く約束はできるけど……やはり、レニエ子爵領まで伯母様に会いに行くのは無理だわ」
「……どうしても、どうしても駄目なのか?」
問いかけるジュールの声音に苛立ちが篭る。
アリスは受け取った手紙を見つめ、重く謝罪する。
「ごめんなさい、ジュール」
「……随分冷たいんだな……!」
ジュールの非難の言葉をアリスはその通りだと受け止める。
死が間近に迫っている近親者の最期の願いを、無情にも跳ね除けたのだ。
傍で聞いているシモンの瞳にもさぞや自分は心の冷たい人間に映ったことだろう。
暗く落ち込むアリスの考えを打ち消すように、その時、シモンが怒りの滲んだ声でジュールに言い返す。
「無理なことを正直に無理だと言う、アリスさんのどこが冷たいというんだ?
僕には出来ないことを出来ると言ったり、考えておくと言って無責任に相手に希望を持たせるより、ずっと誠意ある態度だと思える。
大体、レニエ子爵領は王国の端にあり、行くのに日数がかかるうえ、ここ数年ほど山賊が多く治安が悪いときく。
たとえ本人が行きたいと願っても、アリスさんを溺愛している後見人であるノアイユ侯爵が、決して行かせはしないだろう!」
シモンの擁護の言葉にアリスは心が救われる一方、
(……山賊が? 父様が砦を任されていた時は治安の良い土地だったのに――)
かつて住んでいた頃の平和だった故郷を思って、軽くショックを受ける。
ジュールは薄茶色の長い前髪の間から底光りする瞳を覗かせ、整った唇の端を吊り上げて不気味に笑う。
「そのことなら大丈夫だ。出発前に山賊は討伐済みだし、俺と一緒に領地へ帰るのなら、身の安全は必ず保証する。護衛は充分連れて来ているし、この俺自身も腕にはおぼえがある。
レニエ子爵家は元は戦乱期に武功を上げて爵位を賜った武人の家系だ。
その誇りにかけても絶対に、未来の俺の妻であるアリスに、傷一つ負わせはしない――」
「妻?」
ぴくっと顔を引きつらせるシモンの横に、並ぶようにアリスは進み出て、この話題を終わらせるべくはっきりとジュールに宣言することにした。
「悪いけど、私の後見は父が残した遺言書によりノアイユ侯爵家に一任されている――そして現ノアイユ侯爵であるサシャは、私の縁談相手については厳選を重ねると言っていた。
過保護な彼は間違っても、ジュール、あなたを婚約相手に選ぶことはないし、自分の目の届かないような遠方に私を行かせることはしないわ!」
きっぱりと言い切るアリスに、それでも納得しない表情のジュールが、さらに何か言い募ろうと口を開きかけた時――
「どうしたの? シモンさん、アリス」
突然、割って入る声がして、品の良い薄茶色のドレスを纏ったマラン伯爵夫人が、日傘をさして近づいてくるのが見えた。
「マラン……伯爵夫人……!」
衝撃を受けたようにジュールが名を叫び、その場で固まる。
(……?)
「お久しぶりです、レニエ卿。会うのは一昨年の夏以来かしら?」
マラン伯爵夫人はシモンとジュールの間で立ち止まり、双方に紹介する。
「シモンさん、アリス、私はこのレニエ卿のお母様のマルタとは古くからの友人なの。
レニエ卿、こちらのシモンさんとあなたの従兄弟のアリスは、普段から親しくしている、私の大切なお友達なのよ」
「ご友人……そうなのですか……」
ジュールは先刻までの勢いはどこへやら、急にトーンダウンして呟く。
「――ところで、何か言い合いをしていたように聞こえたけど、私の気のせいかしら?」
夫人がジュールをじっと見つめて低めの声で尋ねる。
「……いやいや、言い合いなんてとんでもない――アリスに母の見舞いに領地まで来て欲しいとお願いしていただけなんです……」
「――そう、お見舞いに……マルタはもう二年ぐらい病に伏せっているのでしたね……。
でも、アリスは後見人のノアイユ侯爵に箱入り状態で大切にされているから、遠方には出して貰えないと思うわ」
「僕もそのことを説明したのですが、レニエ卿は納得できないみたいで……」
シモンの台詞をジュールが慌てた様子で否定する。
「そんなことはない。母からの手紙を手渡しするという目的を果たしたので、実はもう立ち去りかけていたところです」
マラン伯爵夫人はにっこりと笑顔を作る。
「そうね、レニエ卿は久しぶりに王都に出て来て、挨拶しなければいけない面々がたくさんいてお忙しいですものね。
そういえばバロー伯爵もあなたはどうしているかと気にしていらっしゃいましたわ――向こうにいらっしゃるので、挨拶してきてはいかがかしら?」
「はい、マラン伯爵夫人……さっそくご挨拶に伺います」
直立不動の姿勢でマラン伯爵夫人に同意すると、ジュールはアリスに向き直って、慌しく別れの言葉を伝える。
「では、アリス、俺は、王都にあるレニエ子爵家の屋敷に明後日までは滞在している予定なので、気が変わったらいつでも訪ねて来てくれ」
「……」
一転して速やかに去って行くジュールの背中を無言で見送り――アリスはマラン伯爵夫人の前で彼の態度が豹変した理由を考えた。
(まるで目上の者を恐れるようなあの態度……もしかしてジュールは結社員じゃないのかしら?)
――他の構成員の名前や個人情報をバラすことは厳罰の対象なので、マラン伯爵夫人に訊いても無駄だろう。
(支部に行って名簿を見れば分かるわね……)
大幹部以上の者に限っては、管理している支部の結社員名簿を常時自由に閲覧する権限がある。
アリスも正式に異動してはいないものの管理に加わっているので、第三支部の名簿を好きに見ることが出来た。
名簿には膨大な構成員の情報が載っているが、貴族は第三層以上からのスタートなので、名前を捜すのはそんなに手間ではないだろう。
思考を巡らしながら、アリスはマラン伯爵夫人にお礼を言う。
「ありがとうございます。助かりましたマラン伯爵夫人」
「いいのよ、アリス――さてと、私もまだ方々に挨拶回りしないといけないのでもう行かないと。
シモンさんとは来週のデュラン家のお茶会で、アリスともまた近いうちにレース編みを一緒にする予定だから、改めてその時にゆっくりお話しをしましょうね」
マラン伯爵夫人は二人に気を利かせるように言い、優雅に人ごみの中へと消えていった。
――残されたアリスが少しぼーっとしていると、並んで立つシモンが興味深そうに質問してくる。
「アリスさんはレース編みをするんですか?」
「……するというか、まだ始めたばかりで、マラン伯爵夫人に一回教えて貰っただけなの……」
話しながらアリスは思いだし、ポケットから先日マラン伯爵邸で作った、縁編みしたハンカチを取り出した。
「これが私のレース編みの初作品です……あまり上手ではないけれど」
シモンはアリスの手からハンカチを受け取り、熱心に見つめた。
「そんなことはない。網目が均一で、とても初めて編んだとは思えない。売っていたら買いたいぐらいの美しい仕上がりだ。アリスさんはとても器用なんだね!」
大げさなほど誉められたアリスは、なんだかこそばゆいような、妙に嬉しい気持ちになってしまい、
「気に入って頂けたなら、そのハンカチはシモンさんに差しあげます」
ついそう口走っていた。
「本当に? とても嬉しいな。大切にします」
幸せそうに笑うシモンの顔を見て、初めて好きな手芸の話をしたのもあり、アリスの胸にも春の木漏れ日のような優しい温かさ――幸福感が広がる。
相変わらず一緒にいるとシンシアといるような心癒される感覚がして、アリスはこのままアルベールと距離を縮めることは忘れ、園遊会の間中、ずっとシモンと二人で会話していたいような願望に襲われる。
――と、同時に初めてそこで、今日はシモンの傍にキールがいないことに気がついた。
「そういえば、シモンさん。今日はキールさんと一緒ではないんですか?」
「――ああ、会場には一緒に来たけれど、キールはアルベール殿下の元へ挨拶に向かったんだ。
なんでも一昨日、王宮からわざわざキールの元へ使いがやってきて、園遊会へ必ず出席することと、来た際は忘れず挨拶に寄るようにとの、アルベール殿下から伝言を受け取ったらしい。
――キールはなぜ自分が殿下に呼び出されたのかという疑問をしきりに口にしながら、数十分ほど前に、重い足取りで王族席へと向かったよ……」
(……それって間違いなく、私がアルベールに、キールを好きって言ったせいだ……!)
シモンの話を聞いたアリスは、とたんに落ち着かない気分になって、居てもたってもいられなくなる。
「キールさんは殿下との話が終わったら、シモンさんの元へ戻ってくるの?」
「どうかな? 一応、別れた場所はあそこにある木の下で、キールの好きな高級酒が乗ったテーブルが近くにあるので、戻ってくるようなことは口にしていたが」
シモンが指差したのは会場の端にある一本の太い木だった。
「だったら、同じ場所で待っていましょう。
ノアイユ夫人とはぐれた私も、動き回るよりじっとしていた方が早く会えそうだし」
「そうだね……、キールが戻って来るかどうかはともかく、木陰に移動しようか……。
アリスさんのそのきめ細やかで真っ白な美しい肌が、強い太陽の光の下に晒されているのを見るのはしのびない」
美容に一切興味がないアリスは、今日も日傘を携帯せず、帽子をかぶっただけだった。
「では行きましょうシモンさん」
進みかけたアリスを「待って、アリスさん」とシモンが制止する。
「声が掠れているし、喉が乾いているのでは?
僕が向こうのテーブルからアルコール以外の飲み物を取って来るので、先に木陰に行って待っていて下さい」
シモンは断わりを入れるとアリスの返事を待たず、黄金色の髪と貴族服の裾を翻して去っていく。
(さすがニードル、気が利くわね)
どうやらシモンはお茶会の時にアリスが話した、アルコール類を一切口にしないという話をおぼえいたらしい。
関心しながら、アリスが木陰まで移動して立ち止まった瞬間――いきなり背後から誰かに腕をつかまれ、木の幹の後ろ側へ力づくで引っぱりこまれた――
「――!?」
「大丈夫――俺だ!」
悲鳴を上げそうになったアリスの耳に鋭い声が響き、目の前に銀髪と青灰色の瞳をした精悍なキールの顔が映る。
「キールさん……!」
(戻っていたのか……!)
「――おい、アリス、少しあんたに聞きたいことがある!」
興奮しているらしいキールは、初めてアリスをさんづけではなく呼び捨てにして、おだやかではない口調で話を切り出す。
(何だか、怒っている……?)
理由は大体想像出来たし、話の内容の見当もついていたが、
「――聞きたいことって?」
アリスはゴクリとツバを飲み込み、恐る恐るキールに問い返した――




