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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第三章、『亡霊は死なない』
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28、宮廷園遊会へ

(結局、グレイ様のことが気になってあまり眠れなかった……)


 数時間後、アリスは出発前からぐったりした状態で馬車に乗っていた。


「目が赤いけど大丈夫か? アリス」 


 隣に座ったサシャが手を握りながら心配そうに尋ねてくる。


「ええ、少し寝不足だけど大丈夫よ」アリスは頷いてから、言い訳のようにつけ足す。「初めての宮廷園遊会で緊張してなかなか寝つけなかったの」


「そうか、かわいそうに……」


 サシャは眉間に皺を寄せてアリスの手をぎゅっと握り、そのまま重く黙り込む。

 ここ二日でいくぶんやつれてシャープさを増した彼の美しい横顔には、深い懊悩の色が浮かんでいた。


 珍しく支度が長いノアイユ夫人を待つ二人きりの馬車内に、しばし重苦しい沈黙が満ちたあと――サシャがためらいがちに言葉を吐き出す。


「――アリス……君を辛い立場に追い込んで……済まないと思っている……」


「……え?」


 アリスはけげんな思いでサシャの顔を見た。


「私も一族を背負っている責任ある身でなければ……殿下に逆らってでも君と一緒になるところなのだが……」


「……!?」


 苦渋に満ちたサシャの斜め上の発言に、アリスは仰天して口をあんぐりと開き、絶句する。


(一緒になるって、私、そんなこと望んでいないんだけど!)


 一昨日言われてその場で否定したはずの勘違いが続行されているうえ、悪い方向でサシャの中で深まっているらしい。

 たぶん、泣きながら叫ぶという感情的なアリスの態度が、曲解を生んだのだろう。


(冗談じゃない!)


 不愉快過ぎるし、そもそもあの時、サシャがアリスの自分への恋心を指摘した根拠からして、まるっきり見当外れなのだ。

 百歩譲って9歳まではアリスがサシャの言っていたようないかにも『彼に恋している』ような態度だったとしても、15歳以降の帰国後については、断じて違うと言い切れる。

 たとえサシャの顔を頻繁に見ていたとしても、それはかつてのような憧れや恋慕が理由ではなく、強引に修道院から連れ帰られたことと、彼の横暴で独善的な態度への、恨みつらみと不満からだ。


 証拠にアリスのうっぷん吐き出し用の日記には恋心のこの字もなく、サシャへの文句と不満しか書き連ねられていない。


(大体、なんで6年も経過しているのに、子供の頃と気持ちが変わらないと思い込んでいるわけ?)


 どれだけ自惚れているのだろうと考えると、無性にアリスはムカついてきて、はっきりガツンと言ってやりたくなる。

 

 しかしちょうどそのタイミングで、


「二人ともお待たせしたわね」


 馬車内に弾んだ高い声が響き、ノアイユ夫人が乗り込んできた。


 アリスは叫びかけた言葉をぐっと飲み込み、ひとまずこの場は我慢して、向かいの席に座るノアイユ夫人のいでたちに目を向けた。

 いつもは地味な色合いを着ていることが多い夫人なのに、今日は明るいサーモンピンクのドレスと、クリーム色の飾りが多く乗ったツバ広の帽子に、濃い化粧をして、瞳は恋している乙女のように潤んで輝いている。


(この様子を見ると――間違いなく今日の園遊会に、シモンが来る……!)


 確信を抱きつつ、アリスは園遊会後に、必ずサシャの誤解を解くことを固く心に誓った。




 三人が王宮の敷地内へ到着した時、すでに衛兵によって周囲を固められた庭園の一角は、多くの招待客でごった返していた。

 王族の警護責任者でもあるサシャと一緒なので、招待状の提示を省かれ、すんなり受付を通されて入場したアリスは、早くも人いきれに酔いそうになる。


 宮廷の園遊会は年3回、冬を抜かした季節ごとにしか行われないので、国中の貴族や要人がこぞって参加しているのだろう。

 膨大な参加人数のせいかパーティーは立食形式のようで、庭園のあちこちに軽食やお菓子、飲み物が乗せられたテーブルや休憩用のベンチが配されている。


(……ざっと軽く見積もって千人以上はいるわね……こんなに人の多い集まりに参加するのは、聖地の広場で群衆の中、教皇の演説を生で聞いて以来かも……)


 比較対象が間違っているような気もするが、どこを見ても人、人、人だらけで、知人を探すにも一苦労しそうだ。


「陛下がいらっしゃる前に着いたみたいで良かったわ」


 時間ぎりぎりになった原因であるノアイユ夫人が、呑気なおっとり口調で言う。

 サシャは人ゴミではぐれないよう、左手でアリス、右手で母親の手を取り、会場の上座の方へと進んでいく。


 ――と、歩いている途中――

 にわかに進行方向から人々の大きな歓声が起こり、人波が左右に割れていくのが見えた。


 何ごとかと思ってアリスも注目すると、宮殿側から護衛の騎士に囲まれた、宝石を散りばめた豪華な冠と朱色のビロードのマントを羽織った国王フランシス7世と、光沢のあるクリーム色のドレスを纏った黒髪の美しい女性――第一王妃イレーネが並んで姿を現す。

 アニメでしか二人を見たことが無かったアリスは、遠目にも伝わる王の威厳と王妃の美貌に思わず目を奪われる。


 そのすぐ後ろには、白の軍服を着て紺色のマントを靡かせた王太子にして第一王子のアルベールが歩き、黙する王の近くで、王妃と一緒に周囲の人々に愛想良く声をかけては手を振り、会場の上座にある王族席へと移動していく。


 アルベールはちょうど近くに差し掛かかった時、前から四列目ぐらいにいたアリスを目ざとく見つけてウィンクして――瞬間、自分に向けられたと勘違いした女性達の黄色い声がまき起こる――



(次は、カミュ様かしら?)


 やや恥じいりつつも、アリスが引き続き期待して眺めていると、少し遅れて大量の取り巻きを引き連れたオルガ妃がダニエラとカミュを伴いやってきた。

 今日のオルガ妃は顔が負けるような鮮やかな青のドレス、ダニエラは着る人が着れば妖艶な紫色のドレスを着て、親子仲良く腕を組んで芝生を進んでくる。


 カミュはといえば、二人の数歩ほど離れた後ろを、純白の髪と同色の法衣にたっぷりしたマントを揺らして歩いている。


(カミュ様!)


 高い感知能力ゆえか、カミュは即座に遠くにいるアリスの視線に気がついたように見返し――前を通り過ぎるまでの間じっと愛情の篭った視線を向けてきた。

 それだけでアリスの胸はカミュへの想いが溢れて熱くなり、泣きそうになる。



 ――どうやらその王族の入場が、園遊会の開始の合図も兼ねていたようで、次はいよいよ王族との謁見時間だった――


「社交界デビューした令嬢は、必ず王と王妃にご挨拶に伺うことになっている」


 アリスの手を引いて王族席へと向かいながらサシャが説明する。

 挨拶を希望する招待客が多いので、基本的に王の御前では手短に、一言二言の言葉を交すことに止めることが基本だということも、合わせて教えてくれた。


 目通りの時間の間、王族は会場を見渡すように、真横に椅子を並べて一列に座っており、王の左側に第一王妃とアルベール、右側に第二王妃、カミュ、ダニエラの順で座っている。 

 王と王妃の御前に立つと、愛国心の薄いアリスでも異様に鼓動が高鳴り、カミュやアルベールの顔を見る余裕さえないほど緊張した――


 臣下のサシャは脇に控え、ノアイユ夫人が見本をみせるようにアリスの先に立って、正面、左右の順でお辞儀をする。


「ノアイユ侯爵夫人、お久しぶりです。

 息子のアルベール共々、サシャにはいつも世話になっています」


 夫人に声をかけたのは寡黙な王ではなく、隣の第一王妃イレーネだった。


「勿体ないお言葉でございます――」


 ノアイユ夫人は恐縮したように腰をやや落としたまま受け答えする。

 ふとイレーネ妃の視線が、紹介を促すように後方のアリスへと向けられた。


「ところで、そちらの美しい娘さんは?」


「はい、今月社交会デビューしたばかりの親戚の娘のアリスです。さあ、アリス、前へ出て陛下達にご挨拶なさい」


 アリスは前に進み出ると、先ほどのノアイユ夫人がしたようにお辞儀し「お目にかかれて光栄です。アリス・レニエと申します」と硬い調子で名乗る。


 ――改めて近くで見た第一王妃はより一層美しく、内臓を悪くしているとのことで肌が極端に白く痩せ気味ではあったが、王が一目惚れするのも納得出きる、白百合のようにたおやかな美女だった。

 王者の回廊で王の肖像画を見た時はアルベールは父親に似ている印象だったが、こうして間近で見ると母親にそっくりなことが分かる。


「アリスですね。憶えておきましょう」


 美貌だけではなく、そう言って微笑むイレーネ妃の柔和な表情は、王を挟んで無言でしかめ面で座るオルガ妃とは正反対の、人柄の良さが滲むものだった。



 アリスは作法通り再びノアイユ夫人とお辞儀してその場を離れると、アルベールから個人的に両親に紹介されたりせず、無難に挨拶を終えたことに心からほっとする。


「母上、アリス!」


 気が抜けたところで、サシャが二人を呼びながら近づいてきた。


「母上、私はこのまま殿下の護衛をするので、あとはアリスと二人で会場を見回って下さい。

 いいですか? くれぐれもアリスを一人にしないように、つねに付き添っていて下さいね」


「分かっているわよ、サシャ」


「必ずですよ?」


 強調して母親に念押ししたあと、サシャはアリスの手を取って顔を見下ろし、


「では、アリス、また後で……」


 短く別れを告げ、緋色の軍服の裾を翻し、足早に王族席へと戻って行った。


 息子がいなくなると、ノアイユ夫人はさっそく周囲を見回し、


「さて、アリス、シモンさんを探しに行きましょうか!」


 力を込めて宣言し、庭園内を移動し始める。


(ノアイユ夫人は園遊会に、シモンに会うためだけにやって来たのだろうか?)


 密かに疑問を抱きつつ、アリスがノアイユ夫人に付き従っていると、


「もしかして、アリスか?」


 前方から歩いてきた、どこか嫌な感じで見覚えのある、茶色の髪とサファイア色の瞳をした少年に突然呼び止められる。


「……そうですが、あなたは?」


「ああ、やはり! 屋敷にある肖像画に描かれた祖母と顔がそっくりなので、そうだと思ったよ。

 俺は君の従兄弟のジュール・レニエだ――父が亡くなり、3年前にレニエ子爵になった……」


 ノアイユ夫人も二人がやり取りを始めたのに気がついて立ち止まる。


「ジュール――」


 それはアリスに暗い過去の記憶を呼び覚まさせる不吉な名前だった。


 ――ジュール・レニエ――たしかにアリスにはその名前を持つ同じ年の従兄弟がいて、3歳までは近くに住み、たまに一緒に遊ばされたりもしたが……。


「本当にジュールなの? 髪の色が違う気がするけど……」


 アリスの記憶の中のジュールは金髪だった。


「ああ、成長するにしたがって、色が変わってしまったんだ。

 しかし、アリス、君、三歳の頃の記憶があるなんて凄いな。

 俺は何も覚えていないよ」


 年齢は三歳でも生まれた時から前世の記憶を持ち、中身は14歳以上だったので、憶えているのは当然のことだ。

 当時、アリスの一家はレニエ子爵領に住んでおり、父であるシャルル・レニエは領地内の砦を任されて、辺境警備の指揮を取っていた。


 忘れもしない――すべてが一変したのは子爵だったアリスの祖父が亡くなった時――


 爵位を継いだシャルルの兄ヴィクトールは、以前から母親譲りの美貌と人好きする性格をした弟を疎ましく思っていたのだろう。とんでもない言いがかりをつけて絶縁を言い渡し、一家を領地から追い出したのだ。

 いわく、ジュールは自分の息子ではなく、彼の妻と不倫したシャルルの子供なのだと――


『生まれた時から息子が俺のような茶髪ではなく、金髪であることをおかしいと思っていた! 

 そして3歳になった今では、アリスと並べるとまるで双子のようじゃないか? 最早言い逃れ出来ないほど、シャルル、お前に生きうつしだ!』


 今でもアリスは、夜分、屋敷に乗り込んできて父を断罪した時の、狂熱を浮かべて異様にギラついた伯父の爬虫類じみた瞳を思い出すとぞっとする。


(――そうよ、父様が職を失い、領地を追われたのは、3歳だったジュールの容姿が父様にそっくりだという理由だったのに――)


 今、目の前にいるジュールは髪色だけではなく、神経質そうな細く尖った顎に、落ち窪んだ大きな瞳――顔立ちまでもが記憶にある伯父のヴィクトールそっくりだった。


(一体、父様は何のために侮辱され、貶められたのか……)


 決まっていた運命とはいえ、もしもあのとき領地を追い出されなければ、両親は死なず、今でもミシェルは生きていたのだ。

 そう思うとアリスは口惜しく、たとえ亡くなっていたとしても伯父を恨まずにはいられなかった。

 苦々しい思いで唇を噛み締めるアリスに、ジュールが尋ねる。


「ところでアリス、毎回、贈り物が戻ってくるが、手紙の方は読んで貰えているのだろうか?」


「……手紙?」


「やはり手元にすら渡っていなんだな……返事が来ないので、そうだと思ってた。

 君が修道院から戻って来たのを知ってから、何通も出しているのだが……。

 ――おもな内容は母の見舞いをかねた領地への招待と、君への求婚だ」


「求婚?」


 アリスは驚いて聞き返した。


「私も知らなかったわ……届いた贈りものや手紙は、すべてサシャが管理しているものだから……」


 ノアイユ夫人も横でびっくりしたように言う。

 サシャはアリスへの問い合わせや求婚がひきもきらず有ると言っていたが、その中にジュールのことも含まれていたのだろう。


「本来なら君の両親が亡くなった時に、一番近親である我が子爵家が世話をするのが筋だったのに――折り悪くその頃、父が病床に伏せっていてね。

 母も君達の一家が領地を出てから急激に精神を病んでいて、俺もまだ幼かったので、どうすることも出来なかった……。

 だから罪ほろぼしの意味で、君が16歳になるのに合わせて結婚を前提として領地に迎え入れたい旨を手紙に書き、ノアイユ侯爵に送ったのだ――」


(……全然、罪滅ぼしになってないし、むしろ大迷惑なんだけど……)


「すると侯爵から『一家共々に絶縁を言い渡したのは子爵家であり、アリスの後見は侯爵家が任されている。面会も訪問も一切断る――』という何とも手厳しいお断りの手紙が即届いたのさ。

 直談判したくても一昨年の冬あたりから母は精神だけじゃなく身体も病み、しばらく俺は領地を離れることが出来なかった。

 今回は母が少し持ち直したのと、きっと君も園遊会に来るはずだと思い、直接会って見舞いにだけでも来てくれるよう頼もうと、こうして辺境から遠路はるばる王都までやって来たんだ」


「まあ、そうでしたの!」


 ノアイユ夫人は同情的な声をあげたが、当のアリスは、不快さに吐きそうになっていた。

 どんな理由であろうと追い出された土地になど今さら行きたくないし、父に絶縁を言い渡したレニエ子爵家にも、一切関わり合いたくない。

 もっとも、そうでなくとも遠い地に他人を見舞いに行くような余裕は、今のアリスにはなかったが……。


「申し訳ないけど、サシャの許可が得られないなら、訪問は無理だわ……」


「そこをなんとかしてくれないか? 頼む!」


 伯父にそっくりなギラついた瞳を向けて、食い下がってくるジュールの姿に生理的な嫌悪感を抱き、アリスが逃げ出したい衝動に駆られた時――ノアイユ夫人が遠くを見て叫ぶ。


「アリス、見て、あそこにデュラン子爵夫人がいるわ! シモンさんを見かけなかったか、私、聞きに行くわね!

 ――それではレニエ子爵、ごきげんよう」


 早口でまくし立て、あたふたと去っていくノアイユ夫人を見て、アリスも逃げる好機だとすかさず挨拶をする。


「ごめんなさい、今日はサシャにずっと夫人と一緒にいるように言い含められているので、私も行きます! ――待って下さい、ノアイユ夫人!」


「あっ、アリス、待て――!」


 人を避けながら足早に進むアリスの背後から「待て、待つんだ!」と叫んで、諦めきれないらしいジュールが追いすがってくる。


(くそっ、しつこいっ!)


 距離を開けたくても、衆目のある場でドレス姿ではしたなく走るわけにもいかず、本気で追ってくるジュールを撒くのは至難の技に思える。

 かなり面倒くさい展開に、アリスが内心、舌打ちしていると――


「アリスさん! 大丈夫ですか?」


 救いの主のように、背後から聞きおぼえのある声が響き――反射的に振り返ったアリスの瞳に、黄金色の髪を揺らして庇うようにジュールとの間に割り込む、長身のシモンの背中が映った――



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