22、生者と亡霊
蝿姿のアリスは飛び回るのを止めて、いったんカミュのほぼ真上にあるシャンデリアの最下部、垂れ下がるガラス飾りの先端に止まっているフリをすることにした。
焦って取り乱しても、カミュが一人にならないことには今はどうすることもできない。
彼が退席するか、最悪サロンが終了するまで待つしかないのだ。
分かっていてもいてもたってもいられず、時折、発作のように飛び立っては同じ場所に戻るのを繰り返してしまう。
(お願い、カミュ様。もう一度だけ話をさせて!)
祈るように見つめるアリスの眼下では、おもに今夜の主役であるラザルが周囲の者からの質問を受け、本国の様子や教会の情勢を饒舌に語っている。
アリスと一緒で他人の話を聞く専門らしいカミュは、意見を求められた時以外は一貫して無言の態度だった。
氷の美貌のカミュはアリスと一緒で、他者から話しかけにくい雰囲気をかもしだしており、今のところ家族とラザル以外に話しかける者はいない。
サロン開始から一時間弱経過した頃。
話題にでた教皇の近況を語るついでに、その甥であるカミュがいかに期待されているかをラザルは熱心に一同に語って聞かせた。
兄と息子が大嫌いなオルガは不愉快そうに顔を歪め、弟に悪意を持っているダニエラは意地悪そうな口をきく。
「でも猊下、いかに伯父様に期待されていても、今のカミュは聖職者になりたくないと思いますわ――何しろ、とても美しい令嬢にご執心ですもの。ねぇ、カミュ? 」
「……」
黙秘するカミュに、ラザルが意外そうに鳶色の瞳を向ける。
「へぇ、君も隅に置けないね」
オルガが純白の羽で出来た扇で口元を隠して悲鳴のような声をあげる。
「おぉ、止めてちょうだい、カミュ! 昨日ダニエラから話を聞いて確認してみれば、ノアイユ侯爵の妹というならまだしも、その娘はただの親戚の娘だそうじゃないの。まるっきりお話にならないわ!
だいたい、私はロード公爵令嬢と近づくように言ったはずよ! お前は言いつけ一つ満足に守れないの?」
母の非難にたいし、カミュは表情を変えることもなく、しごく冷静な調子で返す。
「誤解です、母上。私はメロディ嬢に近づくのを一番に優先しておりますし、いかに見目麗しかろうと、ただの侯爵家の親戚の娘になどは興味を抱きません。
近づくに値すると思ったのは、彼女が正式な養女となり、侯爵の妹になる予定があると知ったからです」
ラザルが納得したように頷く。
「なるほど、ノアイユ侯爵家といえば、先代夫人は熱心な教会信者であるし、親戚関係になれば取り込む余地は充分にある」
「現ノアイユ侯爵は第一王子の側近中の側近。こちらの陣営に引き込むことが出来れば、向こうはかなりの痛手でしょうな。
オルガ妃殿下、カミュ様の婚約者候補の一人に加えてもよろしいのでは?」
ロシニョール大司教も同意し、周囲も関心を示す。
(婚約者候補? 私がカミュ様の?)
思いも寄らぬ話の流れにアリスが驚いて見ていると、初めてそこでカミュがまぶしそうにシャンデリアを見上げ、二人の視線がかち合う。
蝿のアリスと見つめ合うカミュに、ダニエラが嫌味たらしく言う。
「でもお母様、私の聞いた話では、アルベールもそのノアイユ家の親戚の娘に入れあげているみたいなの! 兄弟で女性を取り合うなんてみっともないと思わなくて? それに相手は、人前で両王子とベタベタするような、下品でふしだらな女なのよ!」
毒づくダニエラに、さっとカミュが口を挟める。
「取り合うことで相手はよけいに熱くなるものですよ、姉上。
それと彼女からではなく私と兄上がお互いに見せつけるために強引に身を寄せたのです」
「獲物を狙う前に邪魔者を廃するというのは定石。
競い合うことでアルベール王子を熱くさせ、その娘との婚約へと一気に向かわせれば、ロード公爵令嬢との縁談の可能性を完全に潰せる。
なかなかの策士じゃないか、カミュ?」
感心するラザルを横目に、娘と一卵性親子のようなオルガは、鼻に皺を寄せ、不快さを顕わにして吐き捨てた。
「あぁ、汚らわしい! 相手を煽るにしても他にやり方があるでしょうに! あまり品性の卑しい、恥知らずなまねをして、私の顔に泥を塗るのは止めてちょうだい、カミュ!」
カミュは神妙に頷く。
「分かっております、母上」
(カミュ様はメロディとの婚約は考えていないとおっしゃっていたから、今のは第二王妃の攻撃をかわすための口実よね……)
アリスが考えている間に、ラザルがうまく話題に絡めて東モルキア帝国の皇室スキャンダル話を持ちだし、いつの世もゴシップ好きらしい人々の関心をさらって、あっという間に場の空気をぬり変えた。
――そうして談笑のうちにサロンの夜はますます深まっていき、一日の終了まで残り一時間弱を切った頃――
諦めかけていたアリスの瞳に、ようやく席を立ち上がるカミュの姿が映る。
「猊下、皆さん、申し訳ありません。私は明日早いため、今夜はこれにて失礼させて頂きます」
丁寧に挨拶して退出していくカミュの後に、すかさずダニエラが立って続く。
アリスも慌てて飛び立ち、廊下へ出ると、見張りに立つ者達の目も気にせず、ダニエラがカミュに追いすがり、いたぶるような声を響かせる。
「いつもは無口なお前が、今日は珍しく饒舌だったじゃないの、カミュ? 色気づいて妙な自信でもついたのかしら?」
「……ついて来ないで下さい、姉上」
素っ気なく言いながらカミュは足早に廊下を進み、重い鉄の扉を開けて階段場に出た。
ダニエラは素早く足を挟めて扉が閉じるのを防ぎ、急いでカミュを追って階段を駆け上がる。
「本当にずいぶん生意気になったものよね、カミュ! 小さい頃はあんなに可愛かったのに!
赤ちゃんの頃は私が痕が残らない程度に針で刺したりつねってあげると、それは泣いて泣いて、こんな癇癪もちの子供はいないとお母様を嘆かせたものよ。
私はお前の泣く姿や辛そうな顔が大好きなのに、この頃は全然見れなくなって寂しくてたまらないわ。
――だから、昨日は、久しぶりに動揺したお前の姿を見れて、かなり嬉しかったのよ――」
「いい加減にして下さい」
「今日もお母様の前でかばっていたわね? あの逃げ足の速いアリスがそんなに大事なの?
あの娘を傷つけたら、昔のように、お前は私に許しを乞うて泣くかしら?」
『アリス』の名に反応するようにカミュはビクリと立ち止まり、バッと白髪をふり乱し振り返って叫ぶ。
「いい加減にしろと言っている……!」
「……っ……あっ!」
氷の刃のような鋭い眼光を向けられた瞬間、ダニエラは全身を硬直させ、まるでその場に足を縫い付けられたように動けなくなった。
前方に視線を戻したカミュは、何事もなかったかのように再び階段を上っていく。
「悪魔!」
悔し紛れの罵倒が遅れて背後から響いたものの、ダニエラが追ってくる気配はなかった。
引き続き階段を上る途中、カミュが今日初めてアリスに声をかける。
「見苦しい姿を見せたね――あまりにしつこいから、初めて姉に金縛り技を使ってしまったよ」
上りきった先の扉を開くと、探索中にアリスも見た、立派な調度が置かれた室内が現れる。
ここは離宮で一番高い、中央にある尖塔内部のようだ。
「誰も来ないから、アリス姿になってくれるか? 蝿相手だと話しにくい」
カミュは溜め息まじりに言って、疲れたきったように部屋の中央にある椅子に身を沈めた。
人間姿に形を変えたアリスは疑問を口にする。
「魔族に変化しなくても、能力が使えるんですね……」
「ああ……私は生まれつき霊能力を持っていてね。そら、君には見えるかな、あそこにいる亡霊が」
カミュが指差す方向には書き物机があるだけだった。
「いいえ、何も見えません」
「そこにはこの部屋の先住人である、6代前の兄王から王位を簒奪し損ねて幽閉された、私と似たような立場だった王弟の霊がいる。
この離宮の複数の塔は、時代によっては幽閉用に使われていたので、そこかしこに亡霊がいるんだ」
「――亡霊?」
「と、言っても別に怖がる必要はない。霊というものは基本的に生者の世界をさまよい傍観するだけの、何も出来ない『無害』な存在なのだから。
その点では、今夜、客間に集まっている客人たちの方がよほど有害といえる。
私の母は王宮の夜会に対抗して、聖職者や教会と繋がりの深い貴族を招き、今日のようなサロンを頻繁にこの離宮で開いているのだが、常連メンバーは金と欲にまみれた血なまぐさい、およそぞっとするような人物揃いだ……」
語りながらカミュはアリスを呼ぶようにすっと手を差し伸ばす。
近づき、カミュの白く繊細な指に触れた刹那、軽い電器のような反応が起こってアリスの手の像が揺らいだ。
「――あっ!?」
驚愕するアリスにカミュが解説する。
「私の異能はいわばこの霊能力が増幅されたもののようでね。
魔王様がおっしゃるには、私はこの生まれつきの能力により、他の異名者に比べて大きな魔力を得ることになったらしい」
カーマインもその魔力差を感じて、カミュであるグレイに順位戦では勝てないと言い切ったのだろう。
カミュはまるでアリスに発言の機会を与えぬように淀みなく話しを続ける。
「ほんの小さい頃は、霊感のある私に引き寄せられてくる霊達が怖くてたまらず、母に訴えては虚言を吐くなと折檻され、人目から隠されるようにこの塔の部屋に閉じ込められた。
恐怖や痛みで失神することが多かったおかげで、早くに肉体から魂を抜けだす術もおぼえた。
母は色んな理由で私を鞭打ちしたから、痛みから逃れるのに、しょっちゅう身体から魂を抜けださせたものだ。
魂の状態でいると、自分も亡霊の仲間になったようで、しだいに彼らが怖くなくなっていき、むしろ一緒にいると安らぎすら感じるようになった。
私に痛みを与え、残酷な言葉を吐く、母や姉に比べて、彼らはずっと優しかったからね」
幽体離脱に関しては、アニメでも思い当たる箇所があった。
子供時代のアルベールが父王と一緒にいる姿を、幼いカミュがはるか木の上方や高い窓の陰から眺めている回想シーンがあったのだ。
恐らく父に会いたくて、魂を飛ばしていたのだろう。
アリスは一瞬説得することも忘れ、幼い頃のカミュの孤独に思いを馳せた。
「母は特に怖い人だった――あれは私が3歳のある日、姉に地下室に閉じ込められて泣いていた時、美しい女の亡霊が現れ、慰めるように『宝物』をあげると囁いた。
女性が示した石壁の一部が外れ、中から出てきたのは一冊の本だった。
まだ幼かった私は誉められたい一心で、貴重な本だという亡霊の言葉を信じて、その本を迷わず母に届けたんだ。
それが3代前の王の公妾で、この離宮に住む権利を与えられていた、有名な毒殺魔が書いた毒の研究書だとも知らずにね。
公妾とその毒物学者の愛人により、かつてこの離宮は毒の研究所にされていたらしく、本に書かれていた詳細な実験結果は、とても母の役に立ったようだった。
手始めに公女時代から第一王妃に付き添っている侍女を抱きこみ、病死に見せかけるべく王妃用の飲食物にごく少量ずつ毒を混ぜさせた。期間は一年弱ほどだったらしい」
「――!?」
「幸い、わずか6歳かそこらの幼い兄上が、侍女を疑って罪を暴いたおかげで、第一王妃は命を失わずに済んだが、毒の後遺症でいまだに内蔵を悪くしたままのようだ。
この話を教えてくれたのは、母の背後に立つ侍女当人の亡霊でね。
母が人を使って口封じのために彼女に毒を飲ませ、自殺に見せかけて殺したのだと、恨みのこもった目で私に真実を訴えた。
そうやって年々、母は周囲を取り巻く亡霊の数を増やしていき、彼らは必ずと言っていいほど私に恨み言を言った。
そんな母や姉の行いと、塔に軟禁されている日々の暇つぶしに、魂を飛ばして恐ろしいこの世のあちこちをさまよい歩いた影響で――私は亡霊が怖くなくなったかわりに、長じるごとに生きている人間、とりわけ女性が怖くなっていった――
いつしか怖すぎて、いっそ死んで、向こう側、本当に亡霊たちの仲間になれたらいいのにと思うようになるほどね……。
――私が結社に入った動機も、その怖さを克服するために、自分が一番怖い者になろうと思ったからだ」
衝撃的な事実の連続に言葉を失うアリスを、冷たく澄んだカミュの銀灰色がじっと見つめる。
「君との初対面が遅くなったのもそのせいだ。
いくら他の支部所属でも、本来なら上位幹部である君がこの国に来た時点で、挨拶に呼び出すべきなのは分かっていた。
No.2の側近の任をとかれ鍵を持たなかった君は、自分から黄昏城には来れなかったのだから。
だけど女性嫌いである私は君に会いたくなくてシャドウに丸投げしたんだ。
第三支部に正式異動してきたローズも同じ理由で『螺旋』勤務にした。あの生き生きとした瞳が苦手で、出来るだけ同じ空間にいたくなかった……」
そんな理由だったなんて知らなかった。
「ローズとは違って君に初めて夜会で会った時、私は産まれて初めて生きている女性の姿を見て怖くないと感じた――
空気に溶け込みそうなほど儚い雰囲気の君を見て、まるで自分の半身に会ったような感覚がして……。
君の静かな澄んだ瞳を見つめているだけで、なんともいえない、安らいで落ちついた気分になり、ずっと傍にいたいと感じる自分が不思議でたまらなかった」
アリスにはカミュがそう感じた理由がなんとなく分かった。
それはきっと、先日アリアが『亡霊みたいだ』と言ったように、アリスが『死んだ者』のようだったから。
死に安らぎを見出し、死ぬのが怖くなくなった時点で、アリスは本当の意味では生きているとは言えなくなった。
亡霊と同じ瞳をしていたアリスだからこそ、カミュは怖くなかったのだろう。
「もっと早く君に会えば良かったと後悔したよ。
自分でもこんな短期間で、他人、しかも女性に、ここまで惹かれるとは思わなかった。
今では失うぐらいなら、いっそ自分が死んだ方がマシだと思えるぐらい、君は誰よりも愛しく大切な存在だ――」
熱い想いを伝えるカミュの台詞に、やっとアリスは説得のきっかけを得る。
「私だって同じ気持ちです、カミュ様! あなたを失うぐらいなら、自分が死んだ方がうんとマシです。
他ならぬあなたが一番私の気持ちを知っていながら、なぜ、一緒に戦うことすらお認め下さらないのですか?」
アリスの問いに、硬く暗い瞳を向けてカミュが答える。
「アリス、この私にも、男としての誇り、意地があるのだ。
――二対一で兄と戦うことなどできない」
「誇り?」
「まったく、私と君の気持ちが一緒だったなら、どんなに良かっただろうと思うよ。
今日も兄上と逢引している様子を遠巻きに眺めながら、私がどんな気持ちだったかなんて、君には想像もできないだろうね。
改めて、兄と戦う決意を強めたことを――」
「……えっ?」
とまどうアリスに、カミュが突き放すように再度言い放つ。
「同じじゃない。アリス、私達の気持ちは同じじゃないんだ」
一呼吸置いて、最後通告に近い言葉をつきつけた。
「今日、離宮を飛び回っていた君が、なかなか私を見つけられなかったのも偶然じゃない。
私には君の気配が分かるんだ。
だから他の人間と一緒にいる時以外は、完全に会わないように避けることが出来る。
そして私は明日の夜の大幹部会議まで、君と会って話すつもりはない。
この言葉の意味は分かるだろう?」
(明日の夜まで……会えない?)
取りつくしまもないカミュの様子に、アリスはようやく「もう一人の自分のような相手が欲しい」という前世の夢を引きずり、無意識に「自分が見たい」勝手なイメージを彼に重ねていたことに気がついた。
そもそも、お互いが相手に見たものも、心を開いた理由も違ったのだ。
アリスが見たのは鏡の中の自分で、カミュが見たのは生きながら向こう側にいる『亡霊』だった。
「……たしかに同じではないですね……」
気が遠くなる思いで、今さらながらの発言をするアリスを、カミュが不思議そうに見る。
「アリス……?」
とうに一日の終わりの時刻を過ぎている壁時計を見上げ、二重にがっくりと気力を失ったアリスは、最後にカミュの冷たく美しい顔を見つめ、虚ろにつぶやく。
「……分かりました……今日はもう消えますね……さようなら、カミュ様」
別れの言葉に唐突さを感じたのか、カミュが手を差し伸べて呼び止める。
「待ってくれ、アリス」
アリスは返事をせず、その場から溶けるように消えて、意識を侯爵家の本体へと戻した。
ベッドの上でむっくりと起き上がった彼女の瞳からは、いつの間にか溢れていた涙がこぼれ落ちる。
施錠とカーテンの確認をしてから魔族姿に変化すると、クィーンはカーマインの罰を受けるために、取り出したNo.9の鍵を使って異界への扉を開いた――




