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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第三章、『亡霊は死なない』
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19、神の涙

 緊張感を煽るように、アルベールが熱い呼吸と告白の言葉を吐き出す。


「――僕では駄目か? 

 誰よりも君を愛して大切にしてみせる」


 鼓動の高鳴りに拍車がかかり、まるで抱擁されている身体全体が心臓になったみたいだった。 

 背中に意識を向けながら、アリスは呼吸困難ぎみに声を絞り出す。


「……アルベール様……!?」


 全身が熱く、頭が沸騰したようになっているうえ、『神の涙』のことが気になって返答どころではなかった。


 

 短剣『神の涙』は、魂から邪悪さや汚れなどの闇を払い、浄化して清める力がある特別な聖具。

 放たれた聖なる光が、魔族だけではなく人の目をも焼くのも、必ず心に闇の部分があるから。

 その特性により、巨大な闇と混沌の念で形成された霊体の今の魔王に最大の威力を発揮する、最弱にして最強の『対・魔王用』と呼ぶのに相応しい、結社にとって最も脅威となる武器なのだ。


 極端な話、大幹部や構成員が全滅しても、心臓部である魔王さえ生きていれば、黄昏城(アジト)は崩壊しないし、組織も滅びず、その逆のこともいえる。

 ゆえに神の涙を破壊することは、結社にとって大きな不安の種を取りのぞくことになり、入手して魔王に差し出すことが出来ればかなりの大きな功績となる。


 達成すればアリスも妹の復活に一気に近づけ、順位戦でNo.13やNo.4と戦わずして四天王入り確実だ。

 まさに今の彼女にとって、喉から手が出るほど欲しい『神の涙』が、すぐ後ろにあるのかもしれないのだ――舞い上がってしまっても仕方がない。


(――背中の感触だけでは分からない――馬から降りた時に再度確かめよう……)


 心に決め、緊張して身を硬くさせるアリスの様子に、アルベールの両腕の力がふっと弛む。


「……困らせてすまない……」


 溜息まじりに謝罪して、アルベールはアリスの腹部から腕を解き、再び手綱を握りなおす。

 庭園の景色と一緒に、気まずい沈黙が二人の間を流れていく。

 動悸や体温を上昇させたまま、アリスが呼吸を落ちつけている間に、馬は横道に入り、肩越しにアルベールが前方を指差した。


「ほら、アリス。あそこに見えてきたのが、カミュの住む離宮の尖塔だ」


 見ると木立の上から数本の尖塔が伸びている。


 目的の神の噴水は離宮を背景にした泉にあり、到着したほとりからは、宮殿というよりは城と呼んだ方がしっくりくる建物の全貌を望むことが出来た。


「同じ敷地内とはいえ両端にあるので遠いだろう? おかげで小さな頃から僕とカミュは、ほとんど顔を合わせることも無く育ったんだ」


 懐かしそうな声で語り、先にアルベールは軽やかに馬から降りると、スッと両腕を差しだしてくる。

 アリスは一瞬息を飲み、思い切ってアルベールの腕の中に飛び降りると、破裂しそうな心臓の鼓動に耐えて胸元にしがみつき、先ほどの感触を指先で確認する。


(やはりここに何か入っている……!?)


 胸の中央よりのやや左寄、心臓の上、布の厚みから、上衣のすぐ下ではなく、中衣、あるいは下着の下にあるようだ。

 ただ、これが神の涙なのだとしても、身体の中央、しかも衣服の底では、スリの技術を使ってもどうにもならない。

 それこそ、カーマインの言うように色仕掛けをして、服を脱ぐような状況にならないと盗むのは無理だろう。


 アリスはアルベールと密着しているうちに身体中の血が煮え立つようになり、熱さにたえきれなくなってがばっと身を離した。

 この大事な局面で彼女の欠点――男性に免疫が無く苦手な面が確実に足を引っ張っている。


「申し訳ありません……!」


 恥じらいいっぱいに抱きついたことを詫び、アリスは逃げるように泉に駆け寄って、噴水を眺め、いったん熱を冷やすことにした。


 神と天使の噴水は、緑色の水をたたえた泉の中央部分にあり、高い円筒系の台座を上下に二段重ねた構造だった。

 水を噴き上げる台座のてっぺんには主神の像、二段目に三体の天使像が立ち、四体目の天使だけがなぜか落とされたように、水面から上半身と翼だけを出している。

 位置もそうだがその天使だけ角があり、一つだけ姿形が悪魔的だ。


 聖書の「創世の書」には四大天使の一位の天使が、神に背いて魔族に組し、闇堕ちして魔王になったとある。


(――この天使像は魔王様のかつての姿……)


 今は真っ黒で巨大な渦状の意識体となっているが、魔王はかつては神に最も寵愛されし麗しい天使だったのだ。


「この噴水の彫像は王国一の彫刻家が作ったものなんだ。

 なかなか素晴らしいだろう?」


 誇らしげに言いながら、アルベールがアリスの隣に並び自然な仕草で肩を抱いてくる。


「……はい、見事です」


 アリスは身を硬くしないように気をつけ、ゆっくり頷く。

 勝負は、メロディとアルベールが惹かれ合う前まで――時間を無駄に出来ないことを思えば、ここでアルベールに拒否反応は示せない。

 日数がはっきりしないとはいえ、アニメでは園遊会後にメロディの転落が始まり、物語の展開の早さから、神の涙の使い手として目覚めたのは、長くても今から2〜3週間以内だろう。


(アニメと覚醒時期が同じとは限らないけど……短めに見積もって一週間から10日……)


 前世でも今生でも男性経験のないアリスが、一週間やそこらでアルベールと服を脱ぐような関係にまで発展するのは至難の技といえよう。


 しかし上の者の命令が絶対の組織において、カーマインに厳命されている以上、アリスには選ぶ権利も拒否権もない。

 他に良い方法も思いつかないし、色じかけをするしかないのだ――


 やり方自体はアニメのアリスと前世の母から学んで知っている。

 特にアニメのアリスと自分は性格は違えども同一人物。甘い蜜は無理でも、同じ甘ったるい裏声が出せるはず。


(手始めにアルベールの腕に手を絡ませて身をくっつけ、この気まずい空気を払拭すべく、先ほどの告白が嬉しかったと告げなくては……)


 アリスはゴクリと唾を飲み込み、チラリと、離れた位置からこちらを遠巻きに監視している、サシャを含めた騎上の従者達の様子を伺った。

 お互い遠くて会話が聞こえないのはもちろんのこと、表情も見えないので、後でサシャに追求されても何とでも誤魔化せる。

 あとは、この生理的な嫌悪感を乗り越えるだけだ――それが一番、困難なことだとしても――


 色じかけもそうだが、アリスには男性に媚びること自体に極端な抵抗感がある。

 原因は前世で記憶に刻みつけられた男性へのトラウマと、男好きの母親への根深い嫌悪感のせいだった。


(任務のためだもの、仕方ない……あの女とは違う……)


 前世の頃は、ずっと母のような女になるぐらいなら、死んだ方がマシだと思って生きてきた。

 かつて長い前髪で顔を覆っていたのは、残酷な世界や周囲の人間と、自分の顔を見たくなかったから。

 大きな薄茶の瞳、色素の薄い肌と髪――鏡に映った自分の姿が、年を追うごとに一番嫌いな『あの女』に似てくるのが嫌で嫌でたまらなくて――


 だから人生最期の『あの時も』必死でカッターを振り回したのだ。

 命がけで抵抗しても守りたかったのは、肉体の純潔ではない――自分の魂だった。


 なのに、今からあれほど嫌悪していた母のように、男に媚びなくてはいけないのだ。

 自分に罵声を浴びせるのと同じ口で猫のように甘い声を出し、娘を抱きしめたことのない腕を男性の身体に絡ませて抱き合う、生々しい母の姿を思い浮べ、アリスは胸にムカつきをおぼえる。


(キモチワルイ……)


「うっ……!?」


 不快さに喉元まで胃液が込み上げてきて、アリスはとっさに口元を手で押さえた。

 気がついたアルベールが、肩を抱き寄せて真剣な顔を近づけてくる。


「大丈夫か? アリス」


 答えるかわりにしゃがみこんで、アリスは荒い呼吸を繰り返し懸命に吐き気を堪える。


「……うっ……はぁっ……はぁっ……」


 アルベールはマントを広げて屈みこむと、心配そうに見下ろし、優しい手つきでアリスの背中を撫でさすった。


「久しぶりに馬に乗ったせいで、気分が悪くなったのかな……?

 庭園のあちこちを周ろうと思って馬にしたんだが、太い道だけにして、馬車にした方が良かったようだね。

 僕の選択ミスだ……すまないアリス」


 謝る必要はないとアリスは言いたかったが、気持ち悪くて返事が出来ない。

 そのまましゃがみこんで吐き気と戦っていると「どうしたんだ、アリス!?」慌てふためいたサシャの叫び声と、複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。

 どうやら異変に気がついて従者達が駆けつけて来たらしい。


 アルベールは手短にサシャに状況を説明したあと、従者の一人に馬車を呼ぶように指示を下した。

 それからアリスの両脇をサシャと一緒に抱えて、泉の脇の草地まで移動すると、マントを外して敷物のように下に敷く。


「さあ、座ってアリス」


 そっと肩を掴んで座らせてから、アルベールは再びアリスの背中をさすり始め、サシャが励ますように手を握る。


「馬に乗せたこともそうだし、君が虚弱だとサシャから聞いていたのに、二日連続で野外に連れ出して済まなかった……」


 アリスは精神は弱いが身体は丈夫な方だから、とんだ誤情報だった。


「申し訳ありません殿下、昨夜からアリスは調子が悪そうだったのに、私が伝えなかったばかりに……」


 この情報も間違っている。昨夜は単に疲れてサシャの長話が辛かっただけなのだ。


「とにかく今日はもう帰って休んだ方がいいね」


「はい、そうさせます」


 勝手に二人で庭園デートをお開きにしようと話しているのを聞き、アリスは慌てて横から口を挟める。


「ま、待って下さい! もう気分が良くなったので、大丈夫です!」


 アルベールは漆黒の髪を揺らしてかぶりを振った。


「アリス、無理は禁物だ。残念だけど、今日は帰って休んだ方がいい。

 庭園の案内は後日、改めてにしよう」


「殿下のおっしゃる通りだ、アリス。

 君は特別か弱いのだから」


(そんなっ……アルベールとの関係がまったく、何も、進展していないのにっ……!?)



 その後もアリスが何を言っても二人は譲らず、やり取りしている間にとうとう迎えの馬車が来てしまった。

 アルベールは自分の馬を従者に任せてアリスと一緒に馬車に乗り込み、長い足を折って隣の席に座る。

 サシャは他の従者と一緒に馬に乗って、後からついてくるようだった。


 動き出す馬車の中、ショックで呆然としていたアリスはハッと気がつく。

 この馬車が宮殿前に着くまでが、今日、アリスがアルベールと二人で過ごす最後の時間なのだと。


 落ち込んでいる場合ではないと、情けなさに潤んだ瞳を上げて、アリスは横に座るアルベールの端正な顔を見た。


「殿下、今日は本当に申し訳ありませんでした……」


「気にすることはない」


 アルベールは優しく言って、濃く鮮やかな青い瞳を向けて、温かな大きな手でアリスの手を握りこんでくる。

 認めたくはないが、昨日今日の態度を見る分には「悪魔」に容赦のないこの男も、女性への態度は寛容の一語に尽きる。


「また、誘って下さいますか?」


 せめて次回へ繋げるべくすがる思いで言うアリスに、アルベールは形の良い唇を綻ばして甘やかに微笑む。


「当然だ、アリス。君の体調と時間の許す限り、今後も、出来るだけ二人で会って一緒に過ごそう。

 本当は明日も誘いたいんだが――園遊会まで体調を回復して欲しいから我慢するよ。

 しっかり休んで、明後日また元気な顔を見せてくれるか?」


「はい、殿下……」


 問題は、明後日会うまでに、この前世から染みついた根深い「女の武器」を使うことにたいする抵抗感を、アリスが克服できるかということだ。

 アリスは今日の体たらくぶりを思い、毎度、自分の精神的な繊細さにうんざりして、暗い気分でうつむいた。 

 そんなアリスの右手を、ふとアルベールが持ち上げて興味深そうに眺めだす。


「そういえば、昨日もこの黒い指輪をしていたけど、何の石で出来ているんだ?」長い指先で指輪をなぞって呟く。「なぜか、不思議な力みたいなものを感じる……」


 アリスはギョッとして、勘の鋭いアルベールの前で、指輪型のブラック・ローズを外しておかなかったうかつさを激しく後悔した。

 彼女には分からなくても、アルベールならばこの指輪に篭った強い魔力を感じ取れてもおかしくない。

 思わぬ正体がバレそうな危機に直面し、動揺しながら、アリスはつとめて平静を装い説明する。


「これは……親友から貰った指輪ですが、何の石かは私は知りません……」


「親友……ああ、それでか……」


「え?」


「君を守るみたいな、温かい波動を感じたのは……きっとお守りの石なんだね」


 不意打ちで言われ、アリスは、ぶわっと瞳に涙が盛り上がってくるのを止められなかった。


「どうした? アリス……?」


「すみません……親友が最近、別の国に行ったのを……思いだしてしまって……」


 後ろ向きになっていた心を、ローズに引き戻された気がした。


「そうか、それは寂しいな」


 アルベールが目を細めて呟いたところで、馬車が減速を始めて、今日の庭園デートの終了を告げた――



 そのままアリスは、アルベールと仕事が残っていたサシャに見送られ、一人で馬車に乗って侯爵家に戻ってきた。

 時刻はまだ昼過ぎでノアイユ夫人も出かけていたので、夕食まで自由時間がたっぷりある。

 アリスはとりあえず次の行動に移る前に、精神的な疲れを癒すため、ベッドに横になって休むことにした。

 倒れこむように、ドサッと、ベッドに仰向けに寝転がったアリスの視界に――突如、何の前触れもなく白い二つ折りのカードが出現する――


「――!?」


 アリスは反射的に跳ね起き、落ちてくる結社のメッセージ・カードを空中でとらえる。

 素早くひっくり返して表裏を確かめてみると、裏に炎マークの透かし模様がある、開いたあと自動で燃えてなくなる種類のものだった。


(誰からだろう?)


 アリスは緊張しながら指でカードを開き、書いてある文字の上に目を走らせた。




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