18、二人の距離
アルベールは今日も、馬車が宮殿前に到着するのに合わせて出迎えに来た。
「アリス!」
サシャに手を取られ下車したアリスの元へ、白い軍服にロングブーツ、装飾の施された金鞘の剣を腰から下げ、漆黒の髪と濃紺色のマントを靡かせたアルベールが颯爽と歩いてくる。
鮮やかな青い瞳を細めて、近くまでやってくると、アルベールはアリスの二の腕に両手をかけ、軽く抱擁して挨拶した。
「今日も来てくれて嬉しいよ。アリス」
耳元で言われて、アリスはぞわっとする。
寄せられた身体の感触に、鼓動が一気に高鳴り、緊張して声がうわずった。
「こちらこそ、二日続けてお招き頂き、光栄です、殿下」
「そんなに硬くならなくていい」
アルベールはくすっと笑って、指先で愛しそうにアリスの頬を撫でたあと、後方を振り返り、引かれてやってくる数頭の馬に視線を流す。
「時間が惜しいからこのまま馬に乗って出発しようか?」
促すように肩を抱かれて、アリスはビクッと身を硬くした。
男性に触れられるのが大の苦手なのに、今日のアルベールは昨日よりも距離感が近く、いちいち気安く触ってくる。
うるさく鳴る心臓の音と、汗ばんでくる肌に、アリスは昨日に引き続き、ローズの仇相手に、小娘のように動揺している自分に憤りを感じる。
(駄目だ。このままではいけない――今だって、抱きしめられた時に、身体を探るべきだったのに――ぼーっとしてしまった。
目的を達成するためには、もっとしっかりしなきゃ!)
浅く呼吸して自分に言い聞かせ、目の前まで引かれて来た見事な馬体の黒馬に視線を移す。
(これは、女性用の鞍だ……)
馬の背には、足を横に流して胴体は正面向きに乗るスタイルの、横乗り専用鞍が乗せられていた。
(アルベールの身体を探るためには、ぜひとも後ろに乗せてもらわなくては……)
アリスは意を決して、口を開く。
「案内して下さる殿下が手綱をお持ちになりますよね? 私は馬の後ろ側に乗せて頂いてもいいでしょうか?」
「――いや、馬の後ろ側は揺れるからね。ぜひアリスには乗り心地のいい、前側に乗って欲しい。
サシャから君は小さい頃、いつも父親に馬の前側に乗せられて、移動していたと聞いている。慣れているから大丈夫だろう?」
ついでに言うと前に乗せてもらっていただけではなく、4歳頃には手綱を任せてもらえるようになっていた。
父に連れられ頻繁にノアイユ家を訪れていた関係で、サシャに何度も馬を操る姿を見られている。
(くっ――サシャの奴、よけいなことを……!?)
「乗り心地など気にしません。
実はお恥ずかしながら、しばらく馬に乗っていないので、手綱を握るのが不安なんです」
「大丈夫だ。これは僕の愛馬で賢いうえに信頼関係がある。決して君を振り落としたりしないから安心して欲しい。
手綱の補助も僕がしっかり後ろからするので心配はいらない」
涙が出るほどお優しい心遣いだ。
(ここまで言われては止むを得ない)
計画を変更し、アリスは先に騎乗したアルベールに手を引っ張られ、サシャに腰を支えられて、馬の前側に乗り込む。
その際、さり気なく、アルベールの左腰に掴まるようにして手をまわし、短剣がないか探ってみた。
(こっちには無いわね)
鞍に臀部を落ちつけたアリスの後ろから手が伸びてきて、アルベールが手綱を掴む。
「さあ、アリスも掴まって」
手綱を一緒に握ると、自然にアルベールに両腕で身体を囲い込まれる体勢になり、うなじにかかる息に、アリスの全身がカッと熱くなった。
(この状態で一日案内されるわけ?)
男性嫌いのアリスには限りなく拷問に近い状態だ。
固まっているアリスのかわりに、アルベールが馬の横腹を軽く蹴って出発の指示をする。
二人を乗せた馬がゆっくりと前進を始め、庭園の景色が流れだした。
「こちらが母が住んでいる西棟になる。反対側が東棟で、僕と父の居住区域になっている。中央棟は執務関係の部屋ばかりだ」
馬を宮殿の裏手にまわしながら、案内を始めるアルベールの声を聞き、アリスはちょうどいい機会だと思って質問する。
「カミュ様はどちらに住んでいらっしゃるんですか?」
「第2王妃とカミュはここではなく、裏門側にある離宮に住んでいる。昨日僕が言った神と天使の噴水もそちら方面なので、最初に回ってみようか?」
「はい、ぜひ、離宮も見てみたいです」
場所が分かればカミュに会う時にすんなり行ける。
「アリスはカミュが気になるんだね」
アルベールは手綱を操りながら、背後からドキッとするような指摘をした。
馬は両脇に木々が植えらている整備された太い道に入り、会話のためにかゆっくりと宮殿を背に直進していく。
「……それは……」
「カミュも最初に会った時から君に興味があるようだし……どうも兄弟揃って女性の好みが一緒らしい」
「カミュ様は別に私になど……」
「そうかな? 僕は夜会の日、弟が自分から女性に触れるのを初めて見た。
あいつは僕に弱味をみせたくないから普段は取り繕っているが、あきらかに女性が苦手なんだ。つねに接触しないように避けている。
昨日だって、メロディの手を決して取らなかっただろう?
ところが僕達が合流した時、カミュの手は君の腰をしっかりと抱いていた」
アルベールは目ざというえ、何でもお見通しらしい。
「よりにもよって、最も信頼出来る臣下と、たった一人の弟と女性を取り合わないといけないなんて、本当に困った事態になったものだ」
冗談口調なので全然困っているように聞こえない。
ムキになって否定するのも変なので、アリスは黙って聞いていることにした。
「かと言って、大人しく二人に君を譲る気もしない……。かくなる上はアリス、君に選択を一任するしかない――君が選んだとなれば、お互い恨みっこなしだ。
――今のところは、初恋相手のサシャがリードしているのかな?」
名前が出てきたので、アリスは今朝のサシャとのやり取りを思いだし、先手を打つなら今だと思った。
「アルベール様。昨日申し上げたように、私のサシャへの想いは、所詮、子供の頃の憧れでしかありませんでした。今は、正直、サシャの干渉には困っております……」
「……かなり君は箱入り状態のようだね」
「はい、二週間ほど前のお茶会を最後に、独身男性のいる集まりに出るのを一切禁じられるようになりました……」
「――失礼だけど、そのお茶会で何かあったのか?」
「……マラン伯爵家で行われたお茶会だったのですが、そこにはキール様と彼の親友もいらっしゃっていて、サシャは、私が他の独身男性と会話するのが面白くなかったみたいです。
話題が結婚の話になった時も、二人を過剰に牽制して、その流れでキール様は、死んでも私と結婚する気はないと……」
アリスはあえてシモンに求婚されたことは省略することにした。
「君はショックだっただろうね……」
「はい、見込みがないとはっきり言われ、目の前が真っ暗になる思いでした。
その席でサシャは結婚相手は私の意志などまったく関係なく、自分が選ぶと宣言して……。
サシャは今までも、私の気持ちを無視してきて、何度も修道院へ帰りたいと訴えても、聞く耳さえ持ちませんでした。
このままでは私は……サシャの選んだ相手と無理矢理結婚させられてしまいます……!」
アルベールの声が同情的なものから、真剣味を帯びた硬いものになる。
「僕にも君のことを牽制していたから、サシャが案外嫉妬深いのは気がついていたよ。だけど君は彼の所有物ではない」
「ですが、サシャは、そう思っていないようです。
彼はとても過保護で、心身ともに弱い私には、緊張の多い王室の生活は無理であると……このように殿下と親しくなるのも反対みたいで……。
今朝も、サシャと私は婚約する予定であると殿下に告げて、諦めてもらうつもりだと言っておりました……!」
アルベールの深い溜め息がアリスの首元にかかる。
「選んだ相手というより、サシャ本人と結婚させられそうだね」
「ですが、彼は私の後見人です……」
アリスの中では、サシャが自分と結婚する気であると、断定出来ない面があった。
アニメであれば夜会で踊るアルベールとメロディを見て、初めてサシャは胸に痛みをおぼえ、自分の思いを自覚する。
しかし彼はその後、男らしく身を引き、二人の婚約を祝福するのだ。
客観的にみて後見人の立場を抜かしても、サシャの結婚相手にアリスが相応しいと思えないし、婚姻によって得られるメリットもない。
彼も将来王国の武官のトップとなる身。アルベールの結婚についても王位の安定を優先すべきと考える彼が、果たして私情だけで自分の結婚相手を選ぶだろうか?
「サシャの場合、後見人といっても父親から自動的に立場を引き継いだだけで、君との年齢の釣り合いも取れているし、貴族では親戚間の婚姻はよくあることだ。
愛する女性を諦めるほどの理由にはならないだろう」
言われてみるとそう思える部分もある。
身を引いたと言っても、アニメのサシャは今のアリスに対するような、過剰な愛情表現をメロディにはしていなかった。
そもそも公爵令嬢で宰相の娘であるメロディは、アリスと違ってサシャが自由にどうこう出来る立場の相手ではなく、色々事情が異なっているのだ。
(どっちにしても、アルベールはサシャに意見できる唯一の人間といってもいい存在。
万が一のために、もっと心情に訴えておこう……)
「殿下にわがままだと思われても仕方がありませんが、私は、お慕いしている方と結ばれるのが無理なのであれば、修道院へ戻り、神に生涯祈って生きたく思います!」
「……わがままだとは思わないが、愛し愛される相手と生涯共にすることは、最高の贅沢なのかもしれないとは思う――僕の両親のようにね……」
アルベールの両親の婚姻は、スライン公国に公務で訪れた当時は王太子だった王が、公女だった第一王妃に一目惚れしたのがきっかけだと、アリスも耳にしたことがある。
「寡黙な父が僕が小さい頃に、一度だけ、母との出会いを話してくれたことがある。
父いわく、出会った瞬間、母の周囲だけが特別まぶしく光輝いて見えたそうだ。
僕は君と出会って、初めて父のその言葉が真実なのだと理解することが出来た。
夜会で君の美しく澄んだ瞳を見て衝撃に打たれたあと――急に君が光のベールをまとったようにまぶしく映り、自分の瞳がどうにかなってしまったのかと思ったぐらいだ」
運命の相手のメロディではなくアリスがそのように見えたのだとしたら、本当にアルベールの目はどうにかなっていたに違いない。
「僕はね、アリス。カミュの考えと逆で、一目惚れしたという事実こそが重要だと思う。運命の相手ならば、会って必ず感じるものがあるはずだからだ。
父が母に――僕が君に――感じたようにね――」
アリスの脳裏に、初めてサシャの姿を見た時や、シモンとキール、アルベールやカミュに出会った時に感じた、大きな衝撃が蘇る。
アルベールは、ふと、興味深そうに訊いてきた。
「君は、デュラン卿には一目で惹かれたの?」
アリスはキールとの初対面時のことを思い浮かべる。
「私は男性が苦手なので、夜会でキール様に初めて声をかけられた時は、鋭い目付きと危険な雰囲気が、とても怖く感じられました……」
「初印象は悪かったのか……それがどうして恋心にまで発展したんだい?」
「次に会った時に実際に話してみて、キール様がとても友人思いで、情に厚く、まっすぐな方だと分かったからです」
語っている途中で、アリスの脳裏に、『寒くないか?』と訊いてきた、ソードの温もりが蘇ってくる。
「その落差に心が掴まれたということかな?」
「……かもしれません……以来、彼のことを思いだすたびに、異様に胸が高鳴り、恥ずかしくてたまらない気持ちになり、これが恋なのだと、自覚するようになりました」
現実は、恋心ではなく、人工呼吸と一晩中ベッドで抱きしめられていた記憶を思い出すことで、羞恥心で死にたくなるのだが。
「つまり異性として意識する気持ちが止まらなくなったんだね――自分から聞いといて何だが、非常にデュラン卿が妬けてくるよ」
「申し訳ありません」
「謝らないでくれ……アリス」
切なげに耳元でささやくと、アルベールは手綱を離し、後ろから両腕でアリスの身体を捉えて覆うように抱きしめた。
「……っ……!?」
アリスは呼吸が止まりそうなぐらい衝撃を受けながらも、背中に密着したアルベールの胸元に硬い感触を感じる。
(――左胸のあたり? もしかして神の涙……!?)




