16、説得の行方
「お待ちなさいよ、カミュ! アリスがあのかわいそうな小鳥のようにならないように、あなたの本性を教えてあげたいだけなんだからっ――
気をつけて、アリス。カミュは頭がおかしいうえ、呪われているのよ!」
呪詛のような言葉にぞっとして振り返ったアリスの瞳に、狂気すら感じるギラついた目と、悪意に醜く歪んだ顔が映る。
(どう見ても頭がおかしいのはこの人だわ)
性質の悪い人間に絡まれた場合は、下手に相手をしないで、その場を逃げ出す方がいい。
いじめを受けていた前世でアリスが得た教訓の一つだ。
宮殿近くの庭は不審者を見つけやすいようにか、目線より高い植木などがなく、立った状態で身を隠せるものがない。
建物に逃げ込むか、単純に距離を離すしかないが、今向かっているのは宮殿とは反対方向だ。
アリスは少しでも早くダニエラから遠ざかりたくて、ドレスを掴んで裾を上げ、小走りにカミュの前へ出る。
庭園を歩くことを想定していたアリスの靴はかかとの太いものだったが、貴族令嬢の装いは走りやすさとは対極にある。
それでも結社のトップ戦闘員として足の速さには自信があるし、少なくとも王族の姫君であるダニエラより劣っているわけがない。
「待ちなさいよ!」
予想通り、あっという間に、背後で叫ぶダニエラの声が遠ざかって、小さくなっていく。
出来るだけ離れたいという思いから、声が聞こえなくなってもアリスは足を止めず、合わせてカミュも横についてくる。
宮殿から離れた木立の中の散歩道まで来ると、ようやく二人は立ち止まった。
先に乱れた呼吸をおさめたカミュが口を開く。
「……姉とは幼い頃から仲が悪くてね。私の巻き添えで君にも不快な思いをさせて、すまなかった……」
神秘的な白い髪は乱れ、銀灰の瞳は暗く沈んで、美しい頬は引きつり、唇が小刻みに震えていた。
辛そうなカミュの様子に、アリスの胸も傷んだ。
「カミュ様が謝るようなことではありません!」
仲が悪いというよりダニエラが一方的に絡んで、嫌がらせをしていたようにしか見えなかった。
アリスの中で、母親のストレス解消のサンドバッグだった前世の自分と、目の前の痛々しいカミュの姿が重なる。
慰めも詮索の言葉も今は口にすべきではないと思い、アリスは何も言わずに、自分の温もりを伝えるように、ただカミュに身を寄り添わせ続けた。
――しばし二人の間に沈黙が流れた後――カミュは懐から金銀細工の懐中時計を取り出して開き、
「もう、こんな時間か……宮殿へ戻らなくては……せっかく、君と二人きりでいられる貴重な時間だったのに、とんだ邪魔が入った……」
アリスの細い腰に腕をまわし、ダニエラがいる方向を避けて迂回するようにメイン宮殿に戻りだす。
「――カミュ様。出来れば、夜にまたお話できませんか?」
カミュは真っ白な睫毛をさっと伏せた。
「申し訳ないが、今夜は会食に出なくていけないんだ」
「遅い時間でもいいので、会いたいです」
「すまない、アリス、明日の日中は大切な客人が来る予定があるから、備えて今夜は早く休みたいのだ。
実は明日の晩も母が開くサロンに顔を出さねばならないので、大幹部会議の夜まで黄昏城には行く予定がない」
それでは話をする機会がほとんど無いではないか――アリスは焦ってカミュの腕を掴んだ。
「そんなっ……カミュ様っ!? どうにかして会う時間を作って頂けませんか? どこへでも会いに行きますから!」
「無理だ。時間に余裕がない」
頑ななカミュの態度に、時間が無いのではなく、作る気が無いのだとアリスは確信する。
ならば会いたいとこれ以上粘って貴重な時間を無駄にするより、宮殿へ戻るこの間も惜しんで説得するべきだ。
「お願いします! どうしても、カミュ様に分かって頂きたいんです。仮面の騎士の相手は私の方が適任であると。
もしも担当を戻して頂けないなら、せめて私も一緒に、戦わせて下さい!」
アリスの必死な訴えに、カミュは重く返す。
「アリス、そういう問題じゃないことは、君も分かっているだろう?
私は君と仮面の騎士を二度と対峙させる気はないのだ」
「あなたと私とソードの三人で戦えば、仮面の騎士に勝てるかもしれないのに?」
カミュは深く溜め息をつき、「この話はもう終了だ、アリス――」アリスの唇にまた冷たい指を当てる。「ほら、向こう側から兄上達が来る」
促されて視線を流すと、芝生を歩いて最短距離でこちらに向かってくる、アルベールとメロディの姿が見える。
アリスは与えられた説得時間が終了したことを悟って、がっくりとうなだれた――
帰りの馬車。説得失敗のショックを引きずった状態のアリスは、口をきく気力もなく、脱力して席に座り、今日カミュとしたやり取りを暗く思いだしていた。
サシャもすこぶる機嫌が悪くほとんど口をきかず、メロディ一人だけが陽気におしゃべりしている。
「それでね、アルベール様ったら、水鳥に向かって鳴きまねをしてみせたのよ! おかしかったわ」
カミュが好きなはずなのに、先刻から、メロディはずっとアルベールの話しかしていない。
おまけに行きと違って笑うときも口元を扇でおおわないし、瞳のきらきら度も増していた。
――しかし今のアリスはカミュのことで頭がいっぱいで、メロディの変化について考える余裕がない。
(このままただ大人しく大幹部会議の夜まで待つわけにはいかない。
侯爵家に帰ったら、出来るだけ早くベッドに入り、王宮へ意識を飛ばしてカミュ様に張りつき、話す機会を伺わなくては……!?)
たとえしつこいとうんざりされて、呆れられてもいい。
無駄だと言われても、説得を諦めるわけにはいかないのだ。
相手を失いたくないからこそ、絶対に引けない――ローズもきっとこんな気持ちだったのだろうと、アリスは切なく思った。
すぐにカミュの元へ向かいたいという、焦燥感とは裏腹に、侯爵家に戻ったアリスを待ち受けていたのは、『説教部屋』こと執務室での、サシャからの厳しい尋問だった。
アリスは一刻も早くこの部屋から脱出するべく、机を挟んで向かい合って座るサシャの気を静めるため、真っ先に、結婚話や園遊会で両親に紹介するという発言がアルベールの冗談であったことを告げた。
「そうか、あれで殿下にはお人が悪いところがあるからね。君に想い人がいることをそれとなく、何度も伝えておいたのに変だと思ったよ!」
サシャは心から安堵したように大きな溜め息をつき、続けて例の作戦の確認に移った。
予想していた流れゆえ、アリスは余裕をもって答える。
「えぇ、きちんと、私に想い人がいることは告げたわ――相手の名前については言うのを許して貰ったけど――しっかり信じて頂けたようだから、安心してね」ついでにお礼もつけ足す。「約束通り、名前を言わないでおいてくれたのね、ありがとうサシャ」
「君の信用を失いたくないからね、愛しいアリス」
サシャは嬉しそうに微笑んでから、ふっと眉根を寄せ、長い指を顎に絡めて考えこむような仕草をした。
「だけど、アルベール王子が明日もまた誘ってきたということは、やはりはっきり相手の名前を出さないと、諦めきれないのかもしれないね。
お茶の席での会話の印象では、私が思っているより王子は君に執心のようだったし」
ここで間違ってもキールの名前を出したことだけは言ってはいけない。
口に出したが最後、この部屋からいつ解放して貰えるか分からなくなる――なんとかうまくこじつけなくては――
「でも、サシャ、あなたの名前を出せば、引っ込みがつかなくなるわ」
「私は構わないよ、アリス」
まるで結婚しても構わないと言うような口ぶりに、アリスは内心苛立ったが、ぐっと堪えて作り笑いする。
「お願い、サシャ。もう少しだけ私を信じて黙って見守っていてくれない? アルベール様には絶対に諦めて貰うから」
「アルベール様だけではない、カミュ様にもだ」
嫌なことでも思いだしたように、サシャは彫刻のように美しい顔を歪めて、わざわざつけ足す。
話し合いの早期終了を目指すアリスは、彼の言うことは全肯定することにした。
「そうね、必要があれば、カミュ様にも……」
アリスのそんな返事では安心出来なかったのか、唐突にサシャは王国史を絡め、毒と陰謀が渦巻く宮廷の恐ろしさ、王族に嫁ぐことの大変さを熱心に語り始めた。
また長そうな話が始まったと、アリスは気が遠くなる。
いっそ、この口に石でもつっこんでやりたい。
「……ごめんなさい、サシャ。今日はもう疲れたから、話はもうこれぐらいにしてくれない?」
途中でアリスは疲労感を滲ませ弱った風に懇願したが、
「駄目だ、アリス。大事なことだ。明日もアルベール様と会うのだから、今夜のうちに君にはしっかり理解して貰わねばならない」
サシャは強く訴え、強引に話を戻した。
「王族の生活がいかに制限が多く、不自由で、気苦労が多いものであるか――今の第一王妃が病弱なのもすべて心労のせいに違いない。
王家に嫁がれてからしばらくお子に恵まれず、周囲からの重圧が相当で――特に教会が執拗に出しゃばって来て、教義に逆らい王に離縁するように勧告し、はね除けられると、これまた教義に絡めて推し進めていた一夫一婦制を覆し、聖書に出てくる聖人達が多婦だったことをあげて、王となる者ならば特例であると――」
今日は色々あって疲労困憊だったアリスは、いつにも増して、サシャの長話が辛かった。
しばらく終わりそうもない話を聞いているうちに、激しい眠気に襲われ、いつしかサシャの声が子守唄に聞こえてくる。
霞んでいくサシャの顔を見つめて、夢うつつに声を聞きながら、アリスの心は遠く、カミュの元へ飛んでいった。
(――どうしたらカミュ様の気持ちを変えられるの……? 私達の仲がアニメほど親密だったら、もっと簡単に聞き届けられたのかしら……?)
やがて遠ざかる意識に合わせて、幕が閉じるように瞼が落ちていき、視界が暗闇に閉ざされる。
――そうして気がつくと、アリスはいつの間にか一人、夜闇に覆われる墓場に立っていた――




