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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第三章、『亡霊は死なない』
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7、贖罪への道

(急がなければ)


 差し出されたシモンの手を断わり、アリスは大急ぎで馬車まで自力で向かって乗り込んだ。

 礼拝の終了時間は過ぎていたが、頼んで、行き先を教会にしてもらう。

 いつも通りなら、ノアイユ夫人はまだ聖堂内で知人と長話している頃。

 サシャにより独身男性接近禁止令を下されている今、出来れば、ヴェルヌ家の馬車で直接ノアイユ侯爵家に送って貰うことは避けたい。


(まだノアイユ夫人が教会に居ますように!)


 祈る思いで馬車で移動するかたわら、今さらながら隣に座って労るように手を握るシモンの存在を意識する。

 アリスにとって、父とシンシア以外の胸で泣いたのも、助けを求めたのも、生まれて初めての経験だった。

 改めて自らシモンに抱きついたり、肩に顔を埋めてもたれかかった自分の行動を思うと、恥ずかしさに死にそうになる。

 アリスは自分の頬が上気するのを感じながら、シモンに今日のお詫びを言うことにした。


「シモンさん、今日は迷惑をかけてしまってごめんなさい!」


「迷惑だなんて……」


 答えるシモンの声は、アリスへの愛しさと優しさが滲むようだった。


「あなたが僕の胸で泣いてくれて、どんなに嬉しかったことか……。

 僕はこう見えても狭小な性格で、白状すると、最初にお宅に伺った時やマラン伯爵邸でのお茶会の時に、あなたの身体に当然のように触れるノアイユ侯爵を見て、内心、嫉妬で胸が焦げるようだった」


「……!?」


 アリスは今までシモンがサシャに嫉妬しているなんて考えてみたこともなかった。


「兄妹のようだと言われても、全然納得できずに……今夜、あなたがテレーズさんがいなくなった悲しみをノアイユ侯爵の胸で癒すのかもしれないと、想像するだけで耐えられなくて……。

 半ば強引に僕があなたを自分の屋敷へ連れ帰ったのも――誰にも、特にノアイユ侯爵に、この役目を譲りたくない――出来れば僕以外の胸で泣いて欲しくないという強い想いがあったから……。

 謝って貰うどころか、むしろこちらからお礼を言わせて欲しいな……」


 冗談とも本気ともつかない口調から、シモンがアリスの気持ちを軽くしようとして言ってくれているのが分かる。


「……シモンさん……」


 アリスのことを最愛の存在と呼び、嫉妬もあらわにシモンを目の敵にするサシャの言動を思えば、兄妹のような関係だと言われても納得できないのは無理もない。

 シモンの切なる想いを聞かされ、恥じらう気持ちを誤魔化すように車窓を眺めていると、見慣れた教会近くの景色が見えてくる。


 少しだけ窓から顔を出し、教会前の小道の脇にノアイユ侯爵家の馬車が停まっているのを無事に確認した。


(良かった!)


 ほっと安堵に胸を撫で下ろし、アリスは最後にシモンにお礼の言葉を言う。


「シモンさん、今日は本当にありがとう。あなたがいて助かったわ」


 社交辞令ではなく、シンシアを頼れない今、シモンの存在がなければアリスの精神状態はいまだにどん底だったことだろう。


「アリスさんの役に立てて良かった……これからも何かあったら、まっさきに僕を頼ってくれると嬉しいな……何を置いても駆けつけるから」


「……ええ、シモンさん」


 頷いてみたものの、シモンに頼るのはこれを最後にしようと心に決めていた。


 ――今日、シモンは慰めている間、アリスが話すことを求めたとき以外は基本的に言葉少なく、心が自然に落ちつくのを待つように、ただ静かに温かな眼差しで見守り寄り添ってくれていた。

 癒される雰囲気だけではなく、その押しつけがましくない優しさすらシモンはシンシアとそっくりで、別人だと分かっていても、つい離れがたいと思ってしまう。

 しかしシンシアを遠ざけてかわりにシモンに甘えるのでは本末転倒なうえ、異性として好意を抱かれていることを思えば、なお悪い。

 

 救いを求めるなら、かつてミシェルを失ったあとに『復活』という目的を見出したように、ローズへの『贖罪』を目指すべきだ。

 そのためには第三支部へ行き、ヘイゼルに会って二つのことを確かめなくてはいけない。


 一つめは、ローズが遺言で残した『一番の願い』を叶えられないかわりの埋め合わせ――他に強く願っていたことを知って、かわりに実行すること。

 たとえば、ローズが第二支部にいた頃よく口走っていたように、死ぬ時まで最愛のカーマインのために役立ちたいと願っていたなら、これからはアリスがかわりとなって彼の手足となり尽していこうと思っていたし、他のことでも、自分が出来ることなら何でもするつもりだった。


 二つめはローズは仮面の騎士の前に飛び込んだ瞬間、『死』の覚悟をしていたのかということ。

 今さら知ってもどうにもなるものではないが、もしもアリアの言っていた通り、ローズにとってあれが『不慮の死』なのであれば。

 死ぬ可能性があると分かっていれば――聖剣が荊の防御を突き抜けることを知っていた場合、あの場に飛び込んでいなかったのだとしたら――知っててその事実を告げなかったアリスの罪は二重に重くなる。 


(その場合は、生きていたならローズが出来ていたはずのことを、全て肩代わりしてもまだ足りない……)


 それこそ、どうやって罪を償っていいか分からないほど――


 知るのが怖いが、自分の罪を正しく認識してからではないと、真のローズへの償いは始まらないので、確かめなければ。

 半ば強迫観念のように決意しながら、アリスは馬車から降ろして貰い、教会から出てきたノアイユ夫人と合流した――



 

 侯爵家の馬車に乗って帰宅したアリスは、さっそく先週の安息日と同じように自室に篭り、精神体を第三支部へと飛ばした。


 蝿姿で機密室に入っていくと、ちょうど室内にいたのはヘイゼル一人のみ。まさにローズのことを聞きだすのに絶好の機会。 

 アリスはさっと死角になっている幹部室の扉の前でクィーン姿を取り、あたかも隣室から現れたようにヘイゼルに挨拶した。


「こんにちは、ヘイゼル」


「こんにちはクィーン。グレイ様は、あと一時間ぐらいしたら、いらっしゃるかと……」


 グレイに呼ばれていることを知っているらしい。ヘイゼルは無表情な顔を上げ、何も訊かないのにそう答えた。

 クィーンは彼の傍まで歩み寄ると思い切って切りだす。


「ヘイゼル、実は折り入って、あなたに訊きたいことがあるの」


「……私にですか?」


 無駄話が嫌いなクィーンは単刀直入に言う。


「――えぇ、昨日あなたは、ローズの脳を『閲覧』したと言っていたわよね?

 それでローズのことでどうしても教えて欲しいことがあるの」


 二人の間に数瞬間ほど沈黙が流れ、クィーンは彼の線の細い整い過ぎているほど端正な顔を見下ろし、返事を待つ。

 魔族特有の浅黒い肌に眼鏡をかけた彼は、涼しげで知的な瞳でクィーンを見つめ、神経質そうな薄い唇を開く。


「お断りします」


 予想していたが、ヘイゼルの答えはクィーンに向けられる視線同様、冷淡なものだった。


「……」


「脳を閲覧して知りえたブラック・ローズの個人情報は、幾ら親しい間柄のあなたであっても、教えられません」


 だが思い詰めているクィーンは、断られても簡単には引き下がるつもりなどない。


「でも故人の遺志を尊重するために脳を読み取ったのよね?

 私は罪を償うためにどうしても、亡くなる瞬間のローズの気持ちと、生前の望みを知らなければならないの!

 死んだローズのかわりにその遺志を実行したいの!」


「ブラック・ローズの生前の望みなら、あなたは直接彼女の口から聞いているはずですが?」


 ヘイゼルは痛いところをついてきた。


「……一つだけしか聞けなかったから、他の望みも知りたいの。

 私のせいで死んだローズのかわりに出来るだけのことをして、罪ほろぼしをしたいと思う気持ちは当然でしょう?」


「罪ほろぼし? あなたのせいで……死んだ?」


「そうよ、ローズがあの場に来なければ、死んだのは私の筈だった」


「違いますね。ローズがあの場に行かなければ、グレイ様が行ったことでしょう。

 ――あなたはどっちみち、死ななかった――」


「――!?」


「とにかく、なんと言われても、絶対に、教えられません」


 取りつく島もないヘイゼルに対し、クィーンは懸命に食い下がった。

 他にローズの最期の気持ちを知りようもない今、簡単に諦めるわけにはいかない。


「ヘイゼル、そこをなんとかお願い! 私にはあなたに頼るしかないの……ローズはどんな気持ちで仮面の騎士の前に飛び込んだの?

 どんなことが心残りだったの? 教えてヘイゼル……もしも教えてくれたら、お礼に、あなたの言うことを何でも聞いてみせるから」


 そこで初めてヘイゼル眉毛がぴくっと動いた。


「何でも?」


「えぇ、何でも!」


 希望を抱いて頷くクィーンに、ヘイゼルが冷然と告げる。


「グレイ様ならともかく、残念ながらこの私には、あなたに望むことなど、何一つありません。

 ――ブラック・ローズの望みにしたってそうだ。

 あなたにして欲しいことをきちんと彼女は伝えていた――そもそも、言わなかったことは、あなたにやって欲しいと思わなかったこと――それを実行されたところで、ブラック・ローズが喜ぶわけがない。

 同ように亡くなった時の気持ちだって、全部、彼女の口から吐かれていたはずだ。あえて言わずに心にとどめたことを、わざわざあなたが掘り返して知る必要はない。

 あなたは昨日、ブラック・ローズの脳を私が勝手に読み取ったことに怒りを感じていた。それはブラック・ローズが他人に知られたくないと思っていた、個人的なことまで、暴く行為だったからではないですか?

 あなたが今行っていることも同じことだ。真にブラック・ローズの気持ちを尊重したいと思っているなら、彼女が語らなかったことまで知るべきではない――」


「……」


 ヘイゼルが言うことは正論過ぎて、クィーンは何一つ言い返せなかった。


(私はローズの気持ちを尊重するどころか、結局、自己満足のために無視しようとしている……?)


 クィーンは呆然としながら、それでも最後に一つだけ、ヘイゼルに問いかけた。


「……ねぇ、ヘイゼル、ローズは、もしも死ぬと分かっていたら、あの場へ飛び込んだと思う?

 ローズの気持ちではなく、あなたの正直な感想を教えて……それならいいでしょう?」


 我ながらずるい質問の仕方だとアリスも分かっていた。

 ローズの頭の中を覗いたヘイゼルの感想は、純粋に個人的なものにはなり得ないのだから。

 ヘイゼルは長い溜め息をついた。


「生憎、私は、その日、No.3の間にいませんでしたし、ブラック・ローズとのつきあいもほとんど無かったので、答えかねます。

 その問いは、ブラック・ローズのことをよく知っている人物にすべきだ」


 ヘイゼルに言われてクィーンが真っ先に思いついたのはシンシアの顔だった。

 誰よりもローズであるテレーズと親しくつきあい、一番理解していたはずの彼女なら、頭の中を覗かなくても、その心理を正しく言い当てることが出来るかもしれない。

 

「少なくとも私より、当日その場にいたグレイ様や、螺旋で一緒に過ごすことが多かったシャドウに訊いた方がいいでしょう」


 言いながら、ヘイゼルは席を立った。


「申し訳ありませんが、私用があるので、私はいったん帰らせていただきます――では、失礼します」


 早口で挨拶を終えると、ヘイゼルは振り返りもせず廊下へと出て行った。

 ぼんやりと背を見送たまま立ち尽くすクィーンに、入れかわるように入室してきたシャドウが声をかける。


「クィーン、どうかしたんですか?」


 クィーンは虚ろに返事する。


「……何でもないわ……シャドウ……」


「本当に?」


 心配気に問う、シャドウの表情が暗くかげり、痛みに満ちた言葉が口から出る。


「……ブラック・ローズのことは本当に残念だった……彼女がいなくなって、螺旋からも灯が消えたようだ。

 美しく華やかで明るい彼女がいるだけで、その場に大輪の花が咲いているようだった」


「……」


 彼の言う通り、ローズはいつも周囲を明るくさせる存在だった。


「短い付き合いだが、俺はブラック・ローズと話す機会が多かったから、彼女がどれほどあなたのことを大切に思っていたか、二人が親しい間柄だったかを知っている。

 だから今のあなたがとても心配だ。昨日、第二支部から戻ってきた話は聞いていたが、昨日の今日で、まさか早くもこうして仕事に出てきているとは思わなかった。

 姉妹同然のブラック・ローズを失ったばかりのあなたにはまだ休養が必要なのに――グレイ様はあまりにも人使いが荒すぎる!」


 台詞の最後の部分には個人的な怒りが含まれているようだった。

 クィーンはグレイへの敵意みなぎらせるシャドウに向かって慌てて否定する。


「シャドウ、違うの……仕事はまだ休んでいいことになっていて……今日は話しをするためにグレイ様に呼ばれているだけなの……」


「話ってグレイ様と二人っきりでか?」


「えぇ」


 そこでただでさえ怖いシャドウの顔がよけいに険しくなっていく。


「俺は長くグレイ様の下で働いているが、大概ヘイゼルも同席していて、二人きりで話したことなどほとんどない。

 ブラック・ローズも心配だとよく言っていたが、あきらかに、グレイ様はあなたと親密になりたがっている!」


 まさかローズがシャドウにそんな話までしていたとは――

 クィーンは思わずすがりつくようにシャドウの腕を掴む。


「シャドウ、他には? ローズはどんな話をしていたの?」


 シャドウは言い淀む。


「……他にもって……ブラック・ローズは会話好きで、螺旋の業務の引継ぎでこの数日間というもの、俺はほぼつきっきりで、その間に色んな話をしたから……全部話すとなると長くなる」


「長くなってもいいわ! 私にローズの言ったことを全部聞かせて」


「もちろん、構わないが……俺はこの書類を今から螺旋に届けなくてはいけないので、その後でもいいだろうか?」


 シャドウは書類棚から手に取ったばかりの紙束を、クィーンに見せるように持ち上げて言った。


「だったら、私も一緒に螺旋について行く」


「螺旋に? グレイ様を待たなくて大丈夫なのか?」


 ヘイゼルに冷たくあしらわれたばかりのクィーンは、かなり焦った気持ちになっていた。

 あと数十分で戻るはずのグレイを待つより、生前ローズがシャドウに語っていたことを一早く知りたい気持ちの方が勝っている。


「大丈夫、グレイ様にはまた後で会いに来るから」


「そうか、じゃあ、行きましょう」


 頷き、先に立って歩き始めるシャドウのあとにクィーンも続き、漆黒の衣装をまとった二人は連れ立って、螺旋へと繋がる扉をくぐった――




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