6、最期の望み
――七年前、ミシェルを失った直後のアリスは、かなり悲惨な状態だった。
最愛の妹を失った痛手はかなり深く、魔王や結社に『希望』を見いだしても到底埋めきれず、日中は頻繁に過呼吸を起こしては倒れ、夜は夜で酷い悪夢にうなされては泣き叫ぶ毎日。
ミシェルの死後一ヶ月たらずで修道院入りが決まっても、致命傷に近い心の傷を抱えた当時のアリスは、『妹の復活』を目指す以前の『使い物にならない』状態であり、他ならぬ本人自身がそのことを一番理解していた。
そんな、どん底だったアリスを救ったのは、修道院で同室になった、シンシアとの出会いだった――
『大丈夫……大丈夫よ……』
それは忘れもしない修道院入りした初日。
いつものようにうなされていた辛く長い夜の始まり――悪夢につかまっているアリスの元に、まるで地獄に差しこむ『光』のように届いた『救いの響き』――
『……私がついているから大丈夫……あなたは一人じゃないわ……』
染み入るような澄んだ声と、温かい身体の感触に導かれて意識を浮上させ、悪夢から目覚めたアリスはベッドの上で抱擁されていた。
涙に濡れた瞳で見上げたシンシアの顔は、淡く柔らかい月光に照らされ、救いの女神のように神々しかった。
美しく澄んだ響きのシンシアの声には、アリスの精神を沈静させる独特の効果があり、その声に慰められながら柔らかく温かい身体に抱擁されると、息も吸えないような心の苦しみ悲しみも、どんな悪夢からもすみやかに抜け出すことが出来る――
幾度も介抱されて身を以てそのことを知ったアリスは、やがてショック状態や悪夢におそわれるたびに自ら助けを求めるようになり、シンシアもそれに応えられるようにと可能な限りそばについて居てくれていた。
最愛のミシェルを失ってボロボロだったアリスが、ここまでやってこれたのも立ち直ったのも、そんな奇跡のように癒し慰めてくれるシンシアの存在あってこそ。
フランシス王国に帰国して一番不安だったことも、シンシアが傍にいないことだった。
――今、アリスは耐え難い事実に苦しみあえぎ、かつてシンシアにすがっていたように、シモンに助けを求めずにはいられなかった――
「……助けて……」
抱き合い、胸に顔を埋め、懇願の言葉が口をつく。
「もちろんだ、アリスさん。これからは僕がテレーズさんのかわりにあなたの傍にいる……」
シモンはサシャが言っていたように繊細なアリスが、テレーズが帰国した悲しみによって取り乱していると思っているようだった。
「……っ!?」
「あなたを決して孤独にはさせないと約束するから、安心して」
(あぁ……駄目……苦しい)
アリスは出会った当初からこれまで、シンシアに似た優しく癒されるシモンの雰囲気から、二人の存在をつねに重ね合わせてきた。
しかし彼の腕に抱かれて慰められている今、初めて、両者の決定的な違いを知る。
シモンの腕の温かさも、声の響きが美しいのもシンシアとそっくりなのに――いつかの公園の時と違って受けたばかりの精神的な傷口が生々しいせいか、アリスの心の動揺も苦しみもなかなか引いていかなかった。
やはりシンシアの慰めの効果は『絶大』だったのだ。
厳しい現実にアリスがシモンの腕の中で苦しい呼吸を繰り返していると、
「何だよ、戻って来ないと思って見に来てみたら、そういうことかよ、シモン」
勘違いしたようなキールの声が横から飛んでくる。
「あぁ、キール、ちょうどいいところに来た。どうやらアリスさんは気分が悪くなったみたいなんだ。
このまま僕の屋敷に連れて行って休ませるから、ノアイユ侯爵夫人にその旨、伝えておいてくれないか?」
シモンは説明しながら、全身を震わせ、足をガクガクさせているアリスの身体に両腕を回し、さっと軽やかに抱き上げる。
「あ……」
必要ないと断わるべきなのに、唇は強張り、喉が詰まったように言葉は出ず……。
理性に逆らって助けを求めるアリスの指は『離れたくない』と言わんばかりに、強くシモンの服の襟元を握りしめた。
「そうか分かった、伝えておくから、せいぜいじっくりと二人きりでアリスさんを慰めるといい!」
冷やかし半分のキールの台詞に見送られ――アリスはそのままさらわれるようにシモンに横抱きにされて馬車へと運ばれていった――
ヴェルヌ伯爵家は王国に古くから続く名門の家系で、王都にあってもその敷地面積は広く、屋敷の外観も格式の高さを感じさせるものだった。
到着した馬車から自然な流れで抱き下ろされ、立派な彫刻が飾られた玄関ホールに入ると、執事らしい初老の男性に出迎えられる。
「唯一の家族の父は領地の屋敷にいてここにはいないから、気兼ねしないでゆっくりしていって欲しい」
アリスを抱いて絵画が並ぶ廊下を移動する途中でシモンが説明する。
個室に入りベッドに下ろされたところで、アリスはようやく握っていたシモンの衣服から指を離した。
シンシアのようにたちどころに、とはいかないまでも、やはりシモンの慰めは有効であり、馬車に乗っている間にアリスの呼吸はかなり落ち着き、全身や足の震えもほぼ止まっている。
二人並んで椅子がわりにベッドの端に座った後、シモンがそっと尋ねてくる。
「手を握ってもいい?」
少しためらったのち、アリスは頷き、上から包み込むようにシモンの繊細な手が重なってきた。
温かいのにサラサラした感触はシンシアとそっくりで――
アリスはふっと、第三支部で再会した時、ローズに『付き合うならシンシアを男性にしたような相手にするように』と、言われたことを思いだし――胸がきゅっと締めつけられたようになって、大粒の涙をハラハラとこぼす。
「アリスさん?」
黄金色の髪がアリスの頬に触れて、シモンの顔が近づき、気遣うような温かな光を浮かべた緑色の瞳が寄せられる。
いまだアリスは頭の中はぐちゃぐちゃなうえ、情緒不安定もいいところで、一度壊れた涙腺は涙の止め方を忘れたように、少しの刺激でゆるむ。
シンシアと違って異性であり、自分に好意を寄せているシモンには、同じように甘えてはいけないと分かっているのに。
アリスは泣き顔を隠すように、シモンの肩に顔を埋め、嗚咽した。
(これじゃあ、シンシアを避けて来た意味がない……)
ローズ亡き後、彼女を死なせた原因である自分は苦しみ続けるべきだと、アリスは自らを罰するためにシンシアに会わないようにしてきた。
会って慰めを受ければきっと心癒されてしまう、そう分かっていたからこそ。
(なのに結局、こうしてシモンをシンシアの身代わりにして救いを求めている……)
魔王に、シンシアに――そして今はシモンに――つねに何かにすがらずにはいられない。
『クィーン、いいか、良く聞け! お前のせいでローズは死んだ! お前の弱さがローズを殺したのだ!』
自分の心の弱さを思うアリスの脳裏に、鞭打つカーマインの言葉が、痛烈に蘇る。
再び気分が一気に沈みかけたアリスは、シモンの肩からがばっと顔を上げて、強く手を握り返し、気を紛らわしたい一心で叫ぶ。
「……お願いシモン、何か話して……何でもいいからっ!」
「……えっ!?」
突然言われて、シモンは一瞬驚きの声を発したものの、特に理由など尋ねずに、考えるような間のあと口を開く。
「――アリスさん。先ほど、教会でテレーズさんの話を聞いていた時、二人の関係は僕とキールの関係にとても似ていると思った。テレーズさんはキールに……アリスさんは僕に似ているとね。
父は次男の僕に将来は騎士で身を立てることをのぞみ、7歳の頃から、王都一の、貴族専門の剣術学校に通わされていた。
母親が親友同士のおさななじみのキールも一緒に行きたがり、僕達は二人で剣術を学ぶことになったんだ……」
懐かしむように語るシモンの話を聞きながら、アリスは自分が父に相手をしてもらい、3歳の頃から剣術のまねごとをしていたことを思いだした。
アニメで両親が亡くなっていた事実を知っていたアリスは、つねに二人を失う恐怖と焦燥感にさいなまれ、無駄だと分かっていても、守るために何かせずにはいられなかったのだ。
やがて家族亡き後、強さ重視の結社で上り詰めるために『戦闘員』を志すしかなかった彼女は、父の教えに助けられることになる。
幼い頃から基礎を身につけていたおかげで、剣術においてはアリスは11歳で修道院のトップになり、以降、誰にも抜かれることがないその実力は、結社での順位を上げるうえでの大きな足掛かりとなった。
「剣術学校には、同年代の貴族の子息がたくさん通っていてね。幼い頃、内気で泣き虫だった僕は、剣を握るのも、戦うのも大嫌いで、練習用の剣での打ち合いでも逃げ回り、見た目が女みたいだったのもあって、よくからかわれては泣いていたんだ……。
家庭でも、母や姉と一緒に針仕事をしたり、植物を写生したり、本を読むのが好きだった僕は、男らしくないと父に叱られ、武芸に秀でていた5歳上の兄とつねに比較され続けていた。
対して、小さい頃からキールの性格は今とほぼ変わらず、いつも強気で堂々とした男気溢れる性格に身体能力も体格も優れ、剣の才能もずば抜けていたことから、すぐに皆に一目置かれる存在になった。
学校では僕が馬鹿にされると、キールがいつも自分のことのように怒って言い返し、家に帰ると、父や兄に否定されるたびに母や姉が僕を擁護する。
正直言うと、僕は自分が誰かに何かを言われることより、キールや母や姉に庇われることのほうが情けなくて辛かった……」
シモンの言葉に、アリスも他人に悪口を言われることより、テレーズに庇われることがわずらわしかった事実を思う。
「そうして内に溜め込む性質だった僕は、9歳のある日、とうとう限界を迎えて爆発してね――以来、馬鹿にされるたびに火のように怒って相手に噛みつくようになり――父のお望み通りの男らしさかは分からないが、学校では喧嘩に明け暮れるようになった。
おかげでからかわれることは無くなったけれど、今でもその頃の名残で、女みたいだと言われると、ついカッとしてしまう癖が抜けないんだ……」
シモンは自嘲気に笑って言ったが、こうして話を聞いてみると、似ているどころか現実はアリスと大違いだ。
記憶にある限りお茶会や教会で見たシモンの態度は、そつがないうえに人当たりが良く、内気とはほど遠い堂々としたものだった――つまり大人になったシモンは幼い頃とはすっかり変わっているのだ。
『入れ物だけ綺麗で、中身が陰気臭い、亡霊みたいなあなたのことは哀れんですらいたわ。
きっとロクでもない生い立ちのかわいそうな女なんだって思ってね』
突き刺さるようなアリアの言葉を思い浮かべ、シモンに比べて、前世の頃から成長も進歩もしない、変わりばえしない自分をアリスは情けなく思う。
恵まれた境遇に生まれ変わっても中身は蛆虫のまま。
『すべてを持っている癖に、何も持っていないような不幸ぶった陰気面したあなたが、大、大、大嫌い!』
だからアリアにそう言われても、何も分かっていない癖にという怒りは一切沸かなかった。
むしろ言われたことはまったくその通りだと思ったし、何より、誰かに自分を分かってもらおうなどとは、夢にも期待したことのないアリスなのだ。
『あなたはいつだって私達を完全に無視していたものね』
アリアとリリアだけではなく、無視しようとしてなかろうと、アリスは極力他人と関わることを避けてきた。
そのツケが今回テレーズの死となって跳ね返ってきたのだ。
正反対に、いつだって他人に真剣に関わってきたテレーズの気持ちは、天敵であるアリアの心にすら届いていた。
『私がずっと見てきたテレーズはどんな状況だろうと、自分の命を投げだすような、そんな程度の女じゃないわっ』
ずっと近くにいたのに、その実、テレーズのことをあまり理解していなかったアリスには、このアリアの発言が真実なのかすら分からない。
ただ完璧以上の演技をやり遂げたアリアは、アリスよりテレーズを理解していたように思える。
(テレーズがどんな覚悟で仮面の騎士と私の間に飛び込んできたのか……)
テレーズの――ローズの最期の気持ちに考えを巡らせたアリスは――
『ねぇ、あんたが叶えて……私の夢……約束よ……』
「っ……!?」
閃くようにローズの今際の際の台詞を思いだし、勢い良くベッドから立ち上がる。
シモンが驚いたように叫ぶ。
「アリスさん!?」
アリスは、ミシェルの死によって身につけた技術。辛い記憶に蓋をすることによって、ローズの死に際を思いださないようにしていた、見下げ果てた自分に気がつき愕然とする。
(ローズが最期の願いは、彼女を死なせた罪を償ううえで決して無視できるものではないのに――
生きている間も、死んでからもローズの気持ちをないがしろにし続けるなんて……私は最低だ……!?)
病的な逃避癖のある意気地のないアリスと違い、真に勇気があるローズは、死ぬ瞬間でさえ、自分が死にゆくことからも、夢が叶わないという現実からも目を反らさなかった。
最後の機会だとアリスに『愛』を伝えて、その幸せを願い、自身の夢を託していったのでは無かったか――
とはいえ、心が弱く、誰かを愛する勇気のないアリスには、ローズの『結婚して幸せになる』という夢だけは、別人にでもならない限り実現は無理なのだ。
(……私ではローズの一番の夢を代わりに叶えることはできない!
シモンと違い、一度死んでも、転生しても変わらなかった私の性質は、今さらどうあがいても変わりようがない……!)
だけど、ローズの代わりに生き残った自分には、彼女の出来なかったことを実現する義務がある。
恋愛や結婚は無理でも、他の叶えられる悲願は可能な限り肩代わりしたい。
心底そう思ったものの、またしてもここでローズと向き合ってこなかったことがネックになる。
何一つとして、他に彼女が望んでいたことが思い浮かばないのだ。
(他に……他にローズはいったい何を望んでいたの?)
物言わなくなったローズの魂が篭った指輪を見つめ、途方にくれていたアリスの脳内に、その時ふと、昨日のヘイゼルとの会話が蘇ってくる。
(そうだ、ヘイゼルなら知っているはず!)
昨日の彼との険悪なやり取りを思い出せば、どの面を下げてもローズが抱いていた願いを教えて欲しいなどと頼めないアリスなのだが。
このままローズの想いをまったく無視して、平然と生きてゆくことなど出来そうにない。
それに、もう一つ、どうしても確認したいことがあった。
(そうと決まれば、グレイ様にも呼ばれていることだし、一刻も早く侯爵家に帰り、自室で休むふりをして、第三支部に行こう……)
「私、もう帰るわ!」
アリスが決然と告げると、隣に寄り添って立っていたシモンが、軽い驚きの表情を浮かべる。
「今、お茶を運ばせるから……もう少しゆっくり休んで行って欲しいな」
「ノアイユ夫人が心配していると思うし、急ぎの用事を思いだしたの」
「そうか……」
シモンは非常に残念そうに溜め息をつき、召し使いを呼ぶためにベルを鳴らした――




