4、危険な出会い
「上から様子を見ていたが、どうやら給仕の者が粗相をしたようだね。すまなかった」
台詞は違えども、現れ方はアニメのアルベールと同じだった。
周囲の人々の視線が一斉に、王太子である彼の元へと注がれる。
サシャ以上の抜群の注目度だ。
アルベールは一階へ到着すると、まずはメイドに下がるように優しく声をかけ、ゆっくりと歩み寄ってエリザの前に立つ。
サシャに加えて、この国の世継ぎの王子にまで謝罪させてしまい、エリザはすっかり恐縮して固まっている。
アリスにとってもアルベールの登場は緊張すべきものだった。
目の前に立つのは前世の頃、テレビ画面の前で少女の自分の胸をときめかせた、架空の世界の理想の王子様。
そうして、アニメの中でメロディを守るため『クィーン』の前に幾度も立ちふさがる、仮面の騎士の正体だった。
アニメでヤラレ役だった自分は、彼にとって好敵手ですらなかったのだが――
アルベールは蒼ざめ小鳥のように震えるエリザに同情したのか、助け舟を出すように言った。
「エリザ嬢、大丈夫か? 顔色が悪い。向こうへ行って休んでいたほうがいいのでは?」
「はっ、はい! も、申し訳ありません……殿下! では、下がらせて頂きます」
促されたエリザは鶏が絞め殺されるような声で謝罪とお辞儀をしたあと、あたふたとその場から逃げ去っていった。
アリスはといえば、無事に脱出できた彼女の背中を羨ましく思って見送る。
アルベールの視線が次に自分に向けられたのを感じ取ったからだ。
アニメの中のアリスにとってはアルベールは死神に近い。
最終回近くで彼女が破滅するのは、メロディというより、彼の働きゆえだったからだ。
しかし怯んではいけない。
何より勘の鋭い王子であるから挙動不審は禁物。
アリスは平静を装うため、王子など恐れる必要などないのだと、自分の心に言い聞かせた。
今のアリスはアニメとは違う。
前世の記憶という武器を持ち、同じ『女王』を名乗ってはいても、目指すものも、異名も、歩んできた人生も違う。
――かわりにアニメの自分にはなかった男性が大の苦手だという欠点と、加えてもう一つ『致命的』とも言える『弱点』を抱えることになったが――
ここではとりあえずそれは置いておく。
ある意味、夜会のここまでの流れがアニメの第1話と異なっていることさえ、その証明と言える。
メロディに執着し、彼女を追い詰めることが生きがいだったアニメのクィーンと、ひたすら愛する妹の復活だけを願う、今の自分はまったくの別人なのだ。
そう思い、強い気持ちでアルベールの顔を見返したものの、エリザに対していたときの冷静な表情から一転。好意が溢れ出るような笑顔を向けられたアリスは、鼓動が大きく跳ね上がる。
アニメ知識によるとアルベールは彼女より2歳上の18歳。背丈はサシャとさほど変わらないが、面差しにはまだ少年の面影が残っている。
人生経験30年の自分が胸をときめかせるような相手ではないのに、宮廷へ向かう馬車内といい、男性に免疫がないというのはつくづく恐ろしい!
「君がサシャがよく自慢している、親戚のアリスだね」
アリスはドレスの裾を掴み、深く腰を落としてお辞儀をした。
「はい、アリス・レニエと申します。お目にかかれて光栄です殿下」
この段にきてやっとサシャはメロディがいない事実に気がついたようだ。
あたりを見回しながらアリスにたずねる。
「ところでアリス、メロディはどこに行ったんだ?」
「……それが、いつの間にか姿が見えなくなっていて……」
むしろこっちが聞きたいぐらいだ。
「はぁ、まったく! メロディときたら……。
殿下、先ほどお話した、私の幼馴染の公爵令嬢メロディを、急ぎここに呼んで参りますので、少しお待ち頂けますか?」
「もちろんだともサシャ。メロディとは幼い頃に何度か顔を合わせたことがある。最後に会話したのはたしか7年ぐらい前だったかな。
当時はとてもお転婆で自由な少女だったが、きっと彼女も年頃になって落ち着いたことだろうね。
会うのがとても楽しみだ」
懐かしそうに目を細めるアルベールに対し、サシャはあえて今もメロディが全然変わっていないことを言わず、一礼してから素早くその場を離れた。
王子と二人きりで残されたアリスは、ハイヒールをはいた自分より頭半個分ほど背が高い彼と向かい合う格好で、一緒に待つことになった。
――頃合を見計らったようにアルベールが口を開く。
「アリス、給仕の者をかばってくれて、ありがとう」
聞き覚えのある台詞に、アリスは一瞬、絶句した。
それはアニメの中でメロディが言われていたお礼の言葉だった。
しかし、正面きってエリザに注意したメロディとは違い、アリスはあくまでも偶然を装ったのに、王子の目は誤魔化せなかったらしい。
「申し訳ありませんが……いったい何のことだか……先ほどは、つまずいただけですし……」
それでもとぼけるアリスに向かって、アルベールは形の良い唇をほころばせてみせた。
「……ふふ、君がそう言うなら、そういう事にしておこう。
実は、今夜、サシャがとても綺麗な女性をエスコートして現れたという噂を耳にしたとき、正直、僕はあまり興味を抱かなかった。
周りを見ての通り、宮廷に出入りしている女性は見目麗しい令嬢やご夫人方が多いからね。
しかし先ほどのご令嬢のように幾ら外面を飾り立てても、その内面は腐り、瞳は濁りきっている」
アルベールはそこでいったん言葉を切ると、真っ青な瞳を向け、心のうちまで見透かすようにじっとアリスの瞳を直視した。
「瞳は内面を映す鏡――アリス、君の瞳は今まで僕が見た誰よりも、美しく澄んでいる」
既視感のある台詞を言われた瞬間、アリスは胸の鼓動が跳ね上がった。
それは本来ならアニメの中でメロディに捧げられる賛辞だった。
会話する相手が変わったせいで、台詞を言う相手まで変わっている?
しかも皮肉なことに『内面を映した美しく澄んだ瞳』という言葉は、純粋無垢なメロディとは違い、悪魔に魂を売り渡したアリスからは最もほど遠いものだった。
真に内面を映しているなら、自分の瞳は間違いなく闇で濁っており、歪な輝きを放っているであろう。
自嘲的に思いつつ、魂の清廉さを示すようなアルベールの澄みきった青い瞳を見返したアリスの胸に、不思議な痛みが走る。
甘い沈黙が二人の間に満ち、アリスは強い危機感を覚えた。
(最初の曲が流れ出す前に、メロディがこの場に戻って来なければ、ダンス相手の代役までつとめなけばいけないのでは……?)
記憶によればアニメだと、メロディとアルベールは1曲目から立て続けにダンスを3曲踊り、すっかり周囲が色めきたつ。
年頃の王太子の婚約相手はなかなか決まらず、ダンスを同じ令嬢と一曲以上踊るのもそれが初めてのことだった。
ついに意中の相手が見つかったのかと、会場中の関心が踊っている二人に向けられるのだ――
アリスは恋の噂になる相手の代役だけは絶対にごめんだった。
だからこの流れはどうしても止めなければいけない。
「……内面が美しいという表現は、メロディにこそ相応しいものです。私にはおよそ当てはまりはません……」
否定するアリスへとアルベールはさらに顔を寄せ、深く瞳を見通すようにしてから、頷いた。
「たしかにアリスの言う通り……。『美しく澄んでいる』だけでは表現が足りなかった。君の瞳の奥には純粋で痛いほどの悲しみが見える」
『悲しみ』というアルベールの言葉は、アリスの心の古傷を抉る、鋭い刃物の切っ先になった。
おおかた彼は彼女の不幸な境遇をサシャにでも聞いて、そう言っているのだろう。
誰も、あの傲慢なサシャでさえ、触れようとしなかった傷を、こんな無神経にえぐられるなんて……。
――アリスの胸に吐きそうなほどのイラ立ちと憤りが沸き起こってきた。
前世の頃から、こういう何も分かっていない癖に、知った風な口をきく、思い上がった人間が彼女は大嫌いだった。
実際アルベールは何も分かっていない。
この苦しみを語るのは『悲しみ』なんて生易しい表現ではまるで足りない。
瞳の奥に見えるものがあるとしたらそれは無間地獄だ。
今でも傷口はぱっくりと開き、少しつついただけでどくどくと鮮血が溢れ出す。
前世の辛い日々でさえ、ひたすら心を凍らせ、感情を殺せば、どんな痛みでも耐えられたのに、これだけは駄目だった――
妹のことだけは辛すぎて、思い出せば、平常心どころか正気すら危うくなる。
いいや、それは正しい表現ではないと、アリスは歯を食いしばって心の中で訂正する。
7年前に自分の心はとっくに壊れ、狂っているのだ。
狂気と絶望の底まで落ちそうな心を、妹を復活させる、という希望の呪文だけが浮上させることができる。
アリスはそこで、普段は滅多に動かない感情の大きな波が起こったことを自覚し、はっとした。
やはりアルベール王子は危険過ぎる。
会ったばかりで誰よりも深く、自分の内面に斬りこんでくるのだから――
おかげで動揺させられた彼女は、すっかりダンスから逃げるタイミングを失していた。
そうしてついに広間に演奏の音――最初のダンス曲が流れ始めたことに気がつき、アリスはうろたえてしまう。
焦って素早く走らせた視線が、ちょうどこちらに戻ってくるサシャとメロディの姿を捉えた。
ところが、アリス自身の行動と判断だけではなく、彼らの到着もまた遅かったのだ。
「一曲、踊って頂けますか?」
耳に響いてきた誘い文句に、恐る、恐る、視線を戻すと、こちらに向けてアルベールが手を差し出していた。
近づいて来たサシャにも予想外の出来事だったらしく、サファイア色の瞳を大きく見張り、驚きの表情を浮かべている。
恐れていた事態に直面したアリスは、嫌な汗をかきつつ必死に考えを巡らせる。
誘われた以上は速やかに返事をしなければならず、恐れ多くも王太子様からのダンスの誘いを断わるなどという無礼は許されない。
(……こうなってしまった以上は、踊る以外の選択肢はない……!?)
この段階に至ってしまっては、もはやダンスを回避することなど不可能に思えた。