40、ブラック・ローズ
「……あ……!?」
動揺のあまり言葉を失い、顔から血の気を引かせて固まるアリスを見た二人は、大笑いしながらはやし立てるように言う。
「きゃははっ! アリスったら、凄い間抜け面!」
「ほんと、ほんと――傑作な顔!」
口調から、二人が修道院でアリスとテレーズの天敵だった『顔無し姉妹』と呼ばれる、No.55とNo.56のアリアとリリアであることが分かる。
双子である二人は、他人の姿に変身できる『映し身の能力』という特異な異能を買われ、第二支部から栄転して今は本部付のはずだ。
「ねえ、ねえ、アリスどうだった? 私のテレーズの演技はなかなかのものだったでしょう? 何しろ、ずっと二人のことを見ていたもの」
「そうね、そうね、アリア、目触りだからついいつも見ちゃっていたのよね。かくいう私もアリスの演技をするのにはかなり自信があるわ」
「うん、うん、リリア。だからアリス、後始末は私たちに任せて、安心して、ドジ踏んだテレーズを見送りに行きなさいね」
「きゃははっ! 貴族の令嬢役って一度やってみたかったのよね。楽しみ!」
テレーズが死んだ事実を語っていながら、二人ははしゃいでとても楽しそうな様子だった。
「そう、そう、テレーズの遺体は修道院の地下にあるわよ、はい、これ」
思い出したように言うと、テレーズの姿をしたアリアが、アリスにNo.9の鍵を渡してくる。
魔族姿で意識を失ったり死んだ場合、個人差があるが、数時間から一日ほどで自然に変化が解ける。その際、手と一体化していた鍵も分離するのだ。
アリスは二人の態度に怒る気力すらなく――震えた手で鍵を受け取り、ベッドから床へと降り立つ。
そして周囲の確認もせずに、変化して異空間への扉を開いた――
テレーズの遺体が安置されている修道院の地下は、無人で水を打ったように静まり返っていた。
外界への扉を経由して到着すると、アリスは変化を解いて棺に近づき、上から中を覗き込む。
棺に詰められた色とりどりの薔薇の花が、眠るように横たわるテレーズの美しい姿を彩っていた。
不思議なことにいざテレーズの亡骸を目前にすると――ショックや悲しみを感じる前に、アリスの頭は酷くぼうっとしてきて――呆然とするばかりで涙も出ない。
ふと胸の上で重なるテレーズの手に触れてみると、硬く冷えた感触が伝わってきて、合わせてアリスの心と身体も凍っていくようだった。
こんなに静かなテレーズは、出会って以来、初めて見る気がする。
物言わぬ彼女の姿を見つめているうちに、アリスはなんだか頭がふわふわしてきて――ここが現実なのか夢なのか、自分が生きているのか死んでいるのかという境界が曖昧になっていった。
やがて静寂に飲み込まれるように意識が遠のき―視界が真っ暗闇へと落ちていく――
深く深くへと暗闇を沈んでゆきながら、アリスはひたすら願う。
夢じゃなく、全てが現実なら、もう二度と目を開きたくない――永遠に眠っていたいと――
しかしテレーズと違い生きているアリスは、眠り続けることなど許されない。
再び、残酷な意識の浮上を迎え、虚ろにまぶたを開くと、長い時間寝ていたらしく、異常なほどの頭の重さと脱力感がアリスを襲う。
「やっと起きたのね、アリス……! 丸二日も眠っていたから、とても心配したのよ」
横から馴染みのある声がして、ゆるゆると無気力な瞳を向けると、修道女服を着た40がらみの女性――修道女長のセシルの姿があった。
「……地下で倒れているあなたを見つけた時は、本当に驚いたわ。
シンシアも酷く心配して、ずっと付添っていたのよ……今呼んでくるから、顔を見せて安心させてあげて……」
「……待って下さい……」
歩きかけたセシルをアリスは制止する。
「……アリス?」
「シンシアは……呼ばないで……」
自分のせいでテレーズが死んだ今、とてもじゃないがシンシアに会わせる顔などない。
ガタガタと身を震わせるアリスの様子を見て、セシルは重い溜め息をつく。
「……分かったわ」
その後、吐き気を理由に運ばれてきた食事を下げて貰い、シンシアの訪れを恐れたアリスは、セシルが止めるのも聞かずベッドから這いだす。
そんなアリスの腕を掴み、セシルはテレーズが今朝埋葬されたことを告げると、強引に墓地へと案内し始めた。
アリスはまるで悪夢の中にいるような心地で、手を引かれるままに、修道院を出て坂道を上っていく。
ふらつき、おぼつかない足取りのアリスの身体を支えつつ、案内する道すがら、セシルは生前のテレーズとの想い出話を語って聞かせた。
「今でも最初にテレーズが修道院へ来た時のことを思い出すわ。
後にも先にも、手荷物に大量の骨を入れてやってきたのなんて、あの娘だけですからね。
こんなことを言うのは、あなた達がお互い正体を明かし合っていることを、テレーズから聞いて知っているからなのだけれど……。
あの娘は幹部になって、権限を得ると真っ先に、母親の墓をこの国の墓地へと移送したの。
この地に永住するつもりだと言ってね。
故郷に未練がないのかと私が尋ねると、あの娘は笑って言ったわ。
家族がいる場所が……あなたやシンシアがいる、この聖クラレンス教国が、自分にとって故郷だって……。
それともしも死んだら、母親と、持ってきた骨を埋葬した墓の間に、自分の墓を作って欲しいとね……。
ほら、あそこよ、見えてきたわ」
鮮やかな緑に囲まれた坂をのぼりながら、セシルが丘の上を指差した。
気持ちの良い風が吹く景色の美しい墓地には、地面に埋められた灰色の墓石が整然と並んでいる。
テレーズの墓は、周りに野ばらが咲く、特に見晴らしのいい小高い場所にあった。
アリスはセシルに頼んで一人だけにしてもらうと、墓の前に跪き、短く刻まれた墓碑銘を指でなぞる。
『美しく香り高い一輪の薔薇、ここに永久に眠る』
それから、母親とクロエのものらしい両脇の墓を少し見つめたあと――脱力したようにテレーズの墓の上に覆い被さり、うつぶせに身を横たえ、力なく呟く。
「嘘つき……」
――帰国するいいきっかけだなんて――
母親の墓まで移したのだから、帰国する予定などなかったのだ。
最初からアリスを守る、ただそれだけのために、テレーズはフランシス王国へ来た。
アリスは魂が抜けたように身動きせず、ただ冷たい墓石の上に横たわり続ける。
そうして一時間ほど経過した頃、誰かが近づいてくる足音がした。
シンシアかと思い一瞬どきっとして顔を上げると、瞳に映ったのはミシェルと同じ、金髪碧眼の6、7歳ぐらいの少女だった。
不思議といつものように動揺せずに、アリスは近づいてくる手に野花を持った少女を静かに眺める。
少女はアリスの前まで来ると、ぴたりと足を止めて、不思議そうに尋ねてきた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 具合が悪いの」
「……」
アリスは無言で首を左右に振る。
すると少女は訊いてもいないのに、勝手に語り始めた。
「私ね、近くに住んでて、寂しい時は、ここにいるお父さんに会いに来るの。
お姉ちゃんも、大切な人がそこに眠っているの?」
無邪気な質問に、突如、アリスの胸を、心臓をうがたれたような、強烈な痛みが襲う。
激痛を堪え、墓石に爪を立てたアリスの口から、無意識の言葉が漏れた。
「……姉が……」
一言言うと、アリスは喉が詰まって、それ以上何も言えなくなる。
顔を下ろして、再びじっと横たわっていると、やがて少女が立ち去って行く気配がした。
――それから数時間後の、夕闇が迫る頃――
力尽きるように墓の上で意識を失っているアリスの身体を、静かに抱き上げる影があった。
次に目を覚ましたとき、アリスはクィーン姿になっていて、No.2の間で逆さまに吊るされていた。
両足首は金属の金具がついた革ベルトで巻かれ、金具の先に通された鎖が天井から垂れ下がっている。
強制的にアリスをクィーンに変化させる能力がある者は、魔王か、あるいは血を吸った相手を意識のない状態でも思い通り操ることが出きる――異名『深紅の吸血鬼』カーマインだけだった。
「目を覚ましたか、クィーン」
クィーンの覚醒を待ちかねていたような声がした。
予想通り、彼女の前に鞭を手にして立っていたのは――水のように腰まで流れる赤銅色の美しい髪と、魂が吸い込まれるような金色の瞳をした、出会った女性をことごとく虜にする魔性の美貌の持ち主――第二支部のトップにして組織のNo.2カーマインだった。
深紅のたっぷりとしたマント纏った彼は、黒と金色が混ざった長衣の胸元をややはだけて着崩し、魔族でありながら白皙の肌と、血に染んだように赤く艶っぽい唇をして、全身から男性特有の強烈な色香を発散させている。
「……カー…マイン……さま……」
「すっかり腑抜けた顔になったな、クィーン――まるで亡霊ではないか」
「……」
「そんな死人みたいな姿のお前を生かすためにローズは死んだのか? 答えろクィーン!」
声を張りあげ、カーマインは構えた鞭を一気に振り下ろし、クィーンの下半身を激しく打つ。
「……!」
「ふん、悲鳴すら上げぬか、可愛気のない!
クィーン、いいか、良く聞け! お前のせいでローズは死んだ! お前の弱さがローズを殺したのだ!」
ビシッ、ビシッと、カーマインは続けざまに手加減なしに鞭を奮い、打たれた箇所のクィーンの衣装が破け、裂けた皮膚が露出する。
「誰よりも強くなる素質を持ちながら、お前がいつまでもそんなにも弱いのはどうしてだと思う?
心も意志も弱く、精神力が足り無いからだ! お前ならば、もっともっと、高みにいけるものを! 情けない!
ローズさえ守りきれなかった己を不甲斐なく思え、クィーン!」
「……」
カーマインはまるで鞭だけでは足りないというように、言葉でもクィーンを激しく攻め立てる。
やがて打たれて傷ついたクィーンの肌から滴り落ちた血が、No.2の間の大理石の床に血溜りを形成していった。
クィーンは鞭打たれても苦痛に顔を歪ませるだけで、一切、悲鳴をあげない。
それどころか全身に激痛が走るたびに自分が生きていることを思いだし、もっと強く打たれて、このまま血を流して死んで、ローズに会いに行きたいとさえ願う。
そんな甘えたクィーンの心を見透かし戒めるように、カーマインが、さらに激しく鞭打っていると――
「No.2! 止めて下さい! このままではクィーンが死んでしまう……!」
唐突に、鞭音と罵倒の言葉を割るように、第三者の声がNo.2の間に響き渡った。
カーマインは手を止め、苛ついた眼差しを声のした方向へと向けて、苦みばしった口調で言う。
「勝手に、この部屋に入ってくるとはどういう了見だ? No.3?」
No.2の間に現れたのは、裾を引きずる長さの灰色のローブに、青白い月光を映したような淡い蒼灰の肌と銀糸の髪、燐火のごとき瞳をした氷のような美貌の魔族――組織のNo.3であるグレイだった。
「どうかクィーンをもう許して頂きたい! ブラック・ローズが死んだ原因はこの私の采配ミス――すべての責は私にある――罰するなら、どうか、クィーンではなく、私を――!」
グレイの切実な訴えをカーマインは一笑に付す。
「はっ――よくもそんな下らぬ戯言を! 悪いが、No.3、あなたの侘びなど一切いらぬし、同じ四天王を罰する権利など私は持たぬ。
このクィーンはまだ第二支部所属で、懲罰を与える権限は私にある――だからこうして鞭打ってるまでだ。
さあ、よけいな邪魔をしないで、即刻、この部屋から立ち去ってくれ。
下手に長居して私をこれ以上苛つかせたら、クィーンを誤って殺してしまうかもしれぬ――」
「――!?」
カーマインの脅しにグレイは息を飲み、苦し気な溜息をついた。
「分かりました……ですが、お願いします……どうか……これ以上は――」
「くどい!」
カーマインななおも言い募ろうとするグレイを一喝した。
「……」
「No.3、あなたのそういうところが私は子供だと言うのだ――物事の本質が何も見えていない。
今のクィーンには、鞭で打たれる身体の痛みなど、苦痛のうちに入っていないのが分からないのか!」
グレイはカーマインの激しい剣幕にはっとしたように口ごもり、
「……申し訳ありません」
一言だけ謝罪の言葉を残し――No.2の間に入ってきた時と同じよう、スーッと影のように部屋を出ていった。
その後も引き続き、カーマインによるクィーンへの責め苦は続く……。
――深夜――カーマインはいったん姿を消し、何かを持ってNo.2の間に舞い戻ってきた。
「クィーン……これが何だか分かるか?」
「……」
訊かれても、クィーンはカーマインの手にある剣には一瞥もくれず、血を全身から垂れ流しながら、虚ろな表情で吊るされ続けていた。
「ふん、まるで興味が無さそうな顔だが、教えてやろう、これはお前が待ちかねていた魔界製の剣だ。
予定より早く仕上がり、今日の一日の終わりの刻、つまり先ほど、魔王様よりお前の代わりに私が受け取ってきたのだ」
カーマインは剣を真横に持ってクィーンに近づき、見せつけるようにしながら言葉を続ける。
「お前が聞きたくなくてもあえて説明してやろう――この剣が予定より早く仕上がった理由を――
魔王様づてに聞いた話では、最後の工程、魂を込める作業が、一瞬で終わったそうだ。
なんでも剣が打ちあがると同時に、勝手に魂が、向こうからやってきたらしい。
こんなことは本来有り得ないことだと、職人が言っていたという……」
カーマインが言うように、魔界製の武器の最後の仕上げは魂を込める作業だ。
たとえばアニメのクィーンの蝶の鞭は、魔界に生息する千匹の巨大蝶の魂を封じ込めたもの。
グレイが持つ、魔剣『ファントム』には現世をさまよう99の亡霊の魂が籠められている。
一体どんな魂がクィーンのために打たれた剣に自ら宿ったというのか。
わずかに興味を引かれ、のろのろと瞳を向けたクィーンの目前で、カーマインは、スラリ、鞘から剣を抜く。
そしていきなり長い赤銅色の髪を舞い上げて高く飛び、切れ味をたしかめるようにシュンと振って、クィーンを吊るしている鎖を断ち切ってみせる。
頭が下になった状態から身を反転し、腰と背中を床に打ちつけてクィーンは落下した。
そこへすかさずカーマインがすっと剣を差し出してくる。
クィーンは震える手で受け取ると同時に、みる間に瞳に涙を溢れさせた――
握って間近で見た瞬間、彼女にはそこに宿っている魂の正体が分かったのだ。
その剣は血の色にも何色にも染まらぬ、漆黒の剣身をしていた。
美しい刃の輝きから伝わってくるのは、死してもなおクィーンを守ろうとする、ローズの魂と強い意志。
剣の名前など考える必要はなかった。
ブラック・ローズ。
伝わってくる魂の熱が、凍っていたクィーンの心を一気に溶かす。
クィーンはNo.2の間で、ローズの魂が入った剣を胸にしっかりと抱きしめ、ひたすら涙を流し、泣いて、泣き続けた――
<第二章『地獄の底で待っていて』、完>




