39、叶わぬ夢を抱いて……
グレイが遣わしたのか、はたまたNo.9の間にソードが置きっぱなしにした任務書を読んで自己判断でやって来たかは不明だが――今はニードルにそれを問いかけている暇はない。
我に返ったクィーンは焦って床を蹴り、飛んで行きながら必死に叫ぶ。
「ニードル! 今すぐ帰還して!」
クィーンは結社のNo.2であるカーマインに、『組織一』と評されているほどの素早さの持ち主。
聖なる武器使い最強と言われる仮面の騎士の攻撃を避け続けることが可能だったのも、そんな彼女だからこそであり、他の者にはまず無理な芸当なのだ。
攻撃を受ける武器か防具がなければ、ニードルも第三支部の多くの異名者たちと同じように、即死の運命をたどる確率が高い。
けれど唯一彼の手持ちの武器で、聖剣を受けられる可能性があった『巨大鋏』は、今、目の前で壊れてしまった。
そこへきてクィーンに残されているのは、先ほど壊れた右側より、防御に使う頻度が高く、さらに傷みが激しい、左側のフライ・ソードのみ。
この剣ではニードルを庇いながら逃げ切るのはまず不可能――聖剣を持った仮面の騎士に追われ、異界への扉が閉じてしまえば、再び開く隙を得ることは難しい――
つまり、異界への扉が開いていてかつ、仮面の騎士の手から聖剣が離れている今の機会を逃すと、ニードルを無事に逃がすことは困難になる――
なのに生真面目なニードルは配下の立場から、
「クィーンが先です!」
よりにもよってこの大事な一刻に、クィーンを待ち、一向に扉をくぐらない!
そうこうしている間に、シュン、と空を飛んで、聖剣がクィーンの横を通り、背後を走る仮面の騎士の手元に自ら戻っていく。
自分一人ならば、いかようにも逃げられるというのに――結局これではソードがニードルと入れ替わっただけではないか――!?
「くっ!?」
最早、ニードルを説得する間もなく、かといって先に扉をくぐる訳にもいかない。
取るべき道は三つ、一か八かでニードルを抱えて異界への扉の中に逃げ込むか、あるいは空中へ飛ぶか。
もしくは振り返って仮面の騎士と刃を交えながら、ニードルを説得するかだ――
だがぴったりとくっついてくる仮面の騎士との間合いから、異界への扉と空中のどちらを選ぼうとも、ニードルを両腕に抱えている間に二人いっぺんに聖剣に串刺しにされる可能性が高い。
刃を交えようにも、注意がクィーンではなくニードルに向かった際に、この左の剣では聖剣の攻撃を阻止しきれず、先ほど壊れた右側の剣と同じようになるだろう。
八方塞がりですでに詰みかけたこの局面に、クィーンの胸を苦い絶望感が覆い始めた時――
「逃がすか、悪魔!」
ふいにニードルから十歩ほど離れた位置にある聖堂の両扉が勢い良く開き、飛び出してくる人影があった。
扉の外側から聖堂内部の様子を伺っていたらしいサシャが、槍を構えて飛び出してきたのだ――
対するニードルの反応は素早く、目にも止まらぬ動きの速さで数本の中針を指の間に挟むと、瞬時にサシャの首めがけて投げつける。
ニードルは大きさが異なる数種類の鋏と針を使い分ける、まさに針に糸を通すような繊細で正確無比な攻撃を得意とする魔族なのだ。
向かうサシャは飛んでくる針すべての軌道を一瞬にして読みとり、神がかった反射神経で身をかわす。
――ところがニードルの放った針には、糸のかわりに丈夫な彼の髪の毛が通されていたのだ。
自在に動く数本の針が周囲を旋回して、サシャの足を止め、髪の毛を何重にも首に巻きつけたあと、四散して床へと突き刺さる。
四方の床へとピーンと張った髪の毛を断ち切ろうと、槍を手にしたサシャが身動きした瞬間――首から鮮血が流れだした。
「動くと首が飛びますよ?」
親切なニードルの忠言に、サシャの美しい顔が悔し気に歪む。
「くっ!?」
「サシャ!!」
動揺した声をあげた仮面の騎士が、背後を離れニードルの右前方、クィーンから見て左側のサシャの方向へと走って行く気配がする。
この隙が最後のチャンスだとばかりに、ニードルの前方へと駆け込みながらも、クィーンの口に浮かんだのは苦笑いだった。
まったく誰も彼も大幹部である彼女の言うことをききやしない。
ローズやソードばかりか、極めつけに従順だと思っていたニードルまで命令無視して、おかげでこの通り、絶対絶命の死の窮地に陥っている……。
怒っていい最悪な状況なのに、なぜかクィーンの胸には、今温かい気持ちが溢れていた。
――出会ったばかりの頃は、おせっかいで、無駄に関わってくるローズのことがとてもうざったかった。
構わずに放って欲しいとばかり思っていたのに、いつからだろう、近くにいるのが当たり前になって、軽口を叩いたり、時に言い合いをしたり。
大切な仲間だと、友人だと思うようになってしまったのは……。
ソードも初印象は最悪で、関わり合いになりたくないほど苦手意識があったのに、その後、意外と優しく素直なところがあるのを知り、どんどん憎めない存在になってしまった。
ニードルは二人とは逆で、初めからシンシアと同じような優しく穏やかな気質に好意を感じ、短い間に何度か助けられ癒されているうちに、すっかり好きになった。
今では三人ともクィーンには大切な仲間――誰にも死んで欲しくないし、死ぬのを見たくない。
――先ほどローズが聖剣の餌食になりそうな時は、まさに心臓が凍る思いだった。
任務に失敗したうえ、この体たらくでは、ローズが側近になることはすでに避けられない。
今回やり過ごしたとしても、幾度も仮面の騎士と出会うことになれば、いつか必ずローズの『死』を回避できない日がくる。
何より、自分がいる限り、ローズは第三支部を離れられないだろうとクィーンには思えるのだ。
だったら、簡単なことだ。ニードルを確実に逃し、ローズを第三支部から、仮面の騎士から遠ざけ、この先、他の誰の死も見ないで済む唯一の方法は……。
今ここで自分が、ニードルの盾になればいい――
ただし問題は、魔族も人間と同じで、男性のほうがより力が強いこと――かわりに身軽さは女性の方が上だが。
とにかく力づくではニードルを異界への扉の中に押し込むのは難しい――ならば――命令無視をした配下なのだからこうすればいいと、右拳を繰り出し――クィーンの口をついたのは、なぜかお礼の言葉だった――
「ありがとう……」
「ぐっ……!?」
拳で腹を殴り、ニードルの呼吸と動きが一瞬止まった隙に、両腕で思い切り異界への扉へと向かって突き飛ばす。
それからニードルが扉を通り抜ける間の、瞬きするより短い時間のうちに、クィーンは聖剣の攻撃を受けるために左側のフライ・ソードを右手に持ちかえ――仮面の騎士がいる左背後へと身体を回していく。
きっと、仮面の騎士はクィーンがニードルに当て身を食らわせている間に、サシャの周りの糸を断ち切り、すぐさま身を反転させてこちらに向かって来ているだろう。
やすやすと逃してくれるような仮面の騎士ではないのだから、投げつけてでも聖剣を突き刺しにくるはず。
分かっていても、ニードルの姿が完全に向こう側へ消えるまでは、ここを動くわけにはいかない――最低一度は攻撃を避けずに受けるしかないのだ――
たとえ高確率でこの左側のフライ・ソードも右側と同じように壊れ、この身が聖剣の餌食になると悟っていても――
自らの『死』ぬ運命が見えていながら――クィーンの心は前世とは違い、少しも動揺していなかった。
『――あんたはいつもそうね、無言で暗い瞳で私を見上げるだけ――
そういう意気地のない、陰気くさいところが蛆虫だっていうのよ!』
前世の頃、母親に言われた言葉が脳裏に閃く。
いつも嵐が過ぎ去るのを待っていた。母の怒りが冷めるのを、攻撃してくるクラスメイトの気が済むのを――
戦いもせず――向き合いもせず――ただ残酷な時間が過ぎ去っていくのを待っていたのだ。
抵抗しても無駄なのだと――もっと酷くやられて、状況が悪くなるだけなのだと――諦め、無気力に――母を――クラスメイトを――世界を恨むだけ――立ち向かう強い意志も持たず――
そうして生まれ変わっても――神を呪い、運命を呪い――その癖、絶望的な運命から目を反らし、現実を、これから起こる未来のことを考えないようにして、一つも問題を解決しようとしない。
挙句に『死』が迫りくる今、恐怖を感じるどころか、不安に張り詰めていた心の緊張が、ほっと弛む気がするのだから、生まれ変わる前より始末が悪い。
アリスはミシェルが亡くなったあの日から、ずっと生きているのが辛かった――崩壊することが分かっている組織に入ったこと自体、破滅願望の現れといえよう。
ローズが先日言った『自分の命にさえ無頓着』という言葉も、たぶんそれが透けて見えていたからだ。
妹の復活と神への復讐を口にしながら、心の底では――叶わぬ夢を抱いて、仲間たちの死を見送り、このまま生き長らえるより、いっそ誰よりも早く死にたいと強く望んでいた。
こうして今生も不甲斐ないまま生を終えようとしている、相変わらず蛆虫のままの自身のことを思いながらも、今、胸を包むのは、強烈な安堵感。
(ああ……やっと楽になれる)
そして、あたかも救い主の姿でも求めるように、仮面の騎士を振り返ったクィーンの瞳は――視界に広がる漆黒の影を見て、一瞬で失望の色に染まる。
さらに首を巡らし見えたのは、彼女が今、一番そこにいて欲しくなかった人物――黒い巻き髪とドレスを広げた、ブラック・ローズの姿――
ニードルが繋げた異界への扉にのみ注意を向けていたクィーンは、完全に虚をつかれた。
違う扉が開いたということは、ニードルは自主的にここに来たということ。
そうすべてに及んでクィーンの考えは足りなかった。
監視は続行されており、仮面の騎士同様、簡単にクィーンが死ぬのを見逃してくれるようなグレイでは無かったのに――
絶妙の位置にローズが出現した事実に、厳しい現実を知る――
仮面の騎士の姿を隠すように荊のガードを発動しながら、ローズは物凄い勢いでクィーンの身体に突進して抱きつき――ニードルの背中にぶつかるように、異界への扉へと飛び込んだ――
二人がNo.9の間になだれ込むのとほぼ同時に、腹を押さえたニ-ドルが、とびつくように手をかざして扉を閉じる。
――数瞬の間、嵐が過ぎ去ったような静寂がNo.9の間を通り過ぎた。
「お二人とも……大丈夫ですか?」
腹部の痛みを堪えるように乱れた声で問うニードルに、ローズは答えず、ふっと荊のガードを解除して、震える声で言う。
「間に合って……良かった」
「ローズ……」
抱き合った身体から、どちらのものともつかない、異様にドキマギと打つ鼓動の響きを感じる。
呆然とし過ぎてすぐには言葉が出ないクィーンに抱きついたまま、首に顔を埋めたローズが唐突に語り始める。
「……再会した時……あんた訊いたわね……なんで来たのって……」
「……」
今さらの話題と、肩をぜいぜいさせるローズの様子に、クィーンは不吉な思いがして息を飲む。
ローズは熱い呼吸とともに言葉を吐き出した。
「……愛しているからよ……!
あんたが否定しても……私にとってはあんたは大事な妹……。
姉が……妹を守りたいと思うのは…当然のこと……!
……それに……あんたにいつか言われた通り……魅了スキルにやられているんだったら……どんなにいいかと思って……あの方から離れたかった……。
……恋心が薄らぐことを……期待したのに……結局、どれほどあの方を愛してるか……思い知っただけ……」
自嘲気に笑うローズに、クィーンは焦った気持ちで問いかける。
喉がカラカラだった。
「なんで、今そんな話をするの?」
答えのように、密着したローズの身体からこぼれだす温かい液体の感触が伝わってくる。
「私のかわりにあの方に伝えて……永遠にお慕いしてますって……」
「あっ……」
足元の床を見下ろすと、赤い血溜りが床に出来、みるみる面積を広げていた。
ローズの背中に触れると、ぬるっとした感触がして、手に鮮血が付着した。
「……馬鹿よね私……母みたいなりたくなかったのに……結局……母娘して……死ぬまで一人の人を……愛し続ける運命……みたい。
……知っていたのに……カーマイン様は……相手を不幸にする人……」
「もう話さないで……!」
大声で叫び、クィーンはローズの身体を抱き上げる――
「扉を医術室に繋げました!」
ニードルの言葉に、クィーンはローズを抱えて、虹色の空間へと飛び込み、必死な声をあげる。
「お願い、ローズを! ローズを助けて!」
「ねぇ、あんたが叶えて……私の夢……約束よ……絶対に死なないで……長生きして……。
……あんたを幸せにしてくれる人と……家族に囲まれ……ずっと……幸福に……。
……それからじゃないと……地獄に来たら……許さない……」
消える寸前の炎が最後に一瞬燃え立つように、ローズの瞳に強い激情の光が浮かんだ。
「何言ってるの、ローズ!? 夢なんて自分で叶えなさいよ!」
「ブラック・ローズ大丈夫か!?」
医術室に出ると、アニメで観たことがある、波打つ黒髪に片眼鏡――No.10ドクターが駆け寄ってきた。
がっくりと、腕の中のローズの全身から力が抜けるのを感じて、クィーンは凍りつく。
ドクターは、ローズの腕をとって脈を診たあと、沈痛な面持ちで告げた。
「残念ながら、もう、死んでいる……」
「嘘だ!」
クィーンは唸るように叫び、ローズの唇と鼻の近くに顔を寄せ、胸元に耳を押し当てたが……すでに呼吸も心臓も止まっていた。
「……嘘じゃない……ブラック・ローズは死んでいる……」
確認してもなお、現実を否定するようにクィーンはぶるぶると激しくかぶりを振る。
「早く! ローズの治療をして!!」
「失血死の場合は、蘇生を試みても無駄だ……」
止めをさすようにドクターの宣告が響き――クィーンは絶望で目の前が真っ暗になり――失神した――
(……嘘だ……ローズが死ぬわけなんてない)
暗い意識の底で、アリスは自分に言い聞かせる。
すべては悪い夢。
きっと目覚めれば、いつものように侯爵家のベッドに寝ているはず――
「アリス、良かった――意識を取り戻したのね……」
そんな彼女の願いが通じたように、再び開けた視界に映ったのは、見慣れた侯爵家の自室の天井と、それを背景にほっとした表情でアリスを見下ろしている、テレーズの顔だった――
「……テレーズ」
「凄くうなされてたけど、悪い夢でも見てたの?」
異様に頭が重く、ズキズキと痛む。
アリスは大きく安堵の息をつき、頭を押さえて半身を起こすと、おもむろに状況の確認をする。
「……それよりテレーズ……どうして……ここに……?」
「憶えてないの? 夕方屋敷を訪ねたら、偶然、廊下を歩いていたあんたが玄関で出迎えてくれて、部屋に招き入れてくれたんじゃないの」
「……私が?」
まったく身に覚えのないことを言われ、頭痛に耐えながら、懸命に記憶を探るアリスの耳に、その時、背後からクスクス笑いの声が聞こえてきた。
「当然でしょう、テレーズ? だって、あなたを部屋に招き入れたのは、こっちの私だもの」
「ああ、そうだったわね」
ごく聞き覚えのある声と、それに合わせるように笑うテレーズの姿に、アリスは突如ギクリとして、背筋が寒くなる。
恐る恐る背後を振り返ると――おかしそうに口を押さえて、そこに立っていたのは、寸分たがわぬ自分と同じ容姿をした、もう一人のアリスだった――




