3、運命の改変
何事かと思い、アリスが手すりの陰から覗いてみると、
「ちょっと、あなた、どうしてくれるの!? 飲み物がドレスや靴にかかってしまったじゃないの!」
「もっ、申し訳ありません!」
階段の前で、どこぞの令嬢が飲み物が乗ったトレイを持つメイドを怒鳴りつけているところだった。
既視感のある光景と見覚えのある意地悪そうな顔。
間違いない。あのブルネットの髪の令嬢は、アニメでアリスと共闘して陰でメロディをいびっていた、エリザ・コルノー伯爵令嬢だ。
高慢でわがままにしてサシャの追っかけでもある。
たしかこのシーンもアニメで観たおぼえがある。
メイドが階段から降りてきた人を避けた拍子に、手に持っていたトレイに乗った飲み物が『ほんの少し』跳ねて、エリザ嬢にかかってしまう。
今夜の彼女は、他の女性をエスコートして会場入りするサシャの姿を目撃したせいで、とっても機嫌が悪い。
そのおかげでメイドは思い切りやつ当たりされてしまうのだ。
思い出しつつアリスが事の成り行きを見守っていると、メイドはアニメと同じように大慌てでトレイを近くの台に置いて、ポケットから布を取り出してドレスに手をかけようとした。
「ドレスより靴にたくさんかかりましてよ!」
「は、はい!」
恫喝の声にびくっとしてから、メイドはエリザの足元に屈み込む。
ここまではまったくアニメ通り。
第1話のエピソードではいよいよこの辺で正義感の強い我らが主人公の出番。
偶然近くで様子を見ていたメロディが『全然かかってなんていなかったし、濡れてない靴を拭く必要ないわ』と二人の間に割って入るのだ。
その流れを知っているアリスは、
(メロディ、今だ!)
と、心の中で掛け声をあげた。
ところが期待を裏切ってメロディは姿を現さず、メイドはエリザの靴を拭き始めてしまう。
(あれ? アニメより行動が遅れている?)
不思議に思ったアリスは、メロディをいるはずの場所を振り返って、驚愕した。
(あれ? いない? というか、影も形も見えない!)
少なくとも見える範囲にメロディはいなかった。
サシャに階段の近くで待っているように言われたのに……。
(アニメではあそこにいたはずのに、なぜ?)
アリスは首をひねった。
そういえばここに来る流れもアニメとは少しだけ違っていた。
さほど重要なことだとも思わず、気にもとめなかったが……。
アニメの第一話のストーリーに忠実に従うなら、メロディはアリスと共にサシャに手を引かれ、三人で夜会会場に入るはずだった。
ノアイユ侯爵家とロード公爵家の王都にある屋敷は隣同士で、両家は古くから家族ぐるみの付き合いをしている。
ここからはアリスの推測になるが、アニメのサシャはメロディのエスコート役を買って出て、馬車を公爵家に回してからここへやって来たのだ。
アニメの第一話の冒頭は、サシャと並んでメロディが目を輝かせながら会場へ入るシーンだった。
ちなみに三人で来たのに、サシャはメロディばかり気にかけ、夜会の間中アリスは苦々しい思いで、横から二人の掛け合いを眺めていた。
とにかく、そういう違いが影響しているとしか思えなかった。
そうなってくると、性格的にも立場的にも目立つことを嫌う自分は出しゃばる気などないし……。
(ということは、助けが来ない?)
そもそもかかった液体はごく僅かで、靴は濡れていない。
つまり、エリザの気が済むまでこの靴磨きは終わらないのだ。
気がつくとともに憂鬱になったアリスは、エリザの足下に跪いているメイドを眺めているうちに、前世の嫌な記憶を思い出した。
アパートの階段下で地面に絵を描いていた時、いつの間にか二階から降りてきていた母親に、思い切りピンヒールで蹴り飛ばされたことを――
『邪魔よ!』
幼い彼女は蹴られた腹を抱えて転がったまま、痛みよりショックでしばらく起き上がれなかった。
カッカッと靴音を響かせて立ち去っていく母は、蝿の住処のような汚部屋から出てきた癖に、蝶のようにけばけばしかった。
(まったく胸糞が悪い……)
自分をサンドバッグ扱いした母やクラスメイト、このエリザ嬢みたいな人種は、どうして揃いも揃って下らない理由で他人を痛めつけることができるのか。
前世では、何かにつけて因縁をつけられては、突き飛ばされたり、押さえつけられたりして、頻繁に床や地面に這いつくばらされたものだ。
そんなかつての自分とメイドの姿が重なり、アリスは心底気分が悪くなった。
とはいえ、アリスは面倒ごともごめんだが、おせっかいや正義感を振りかざすのも趣味じゃない。
いじめられていた時に寄せられた多くの偽善的な言動や同情は、彼女の心を救うどころかよけい惨めで嫌な気持ちにさせたから。
だからその動作を目にするまで、アリスは介入するつもりなど微塵もなかった。
エリザがメイドの頭の上で、飲み物がまだ残っている自分のグラスを傾けるのを見るまでは――
アリスにはどうしても理解できなかった。
通り道に座る子供をどかすために思い切り蹴り飛ばす。
言いがかりをつけて靴を拭かせたうえに飲み物までかける。
そこまでする必要がいったいどこにあるのか。
だからアリスがとっさに飛び出して、つまづいたフリをしてエリザを突き飛ばしたのは、決してメイドを憐れんだからではない。
理解できない不愉快な行為を見せられることを、心が全力で拒否したからなのだ。
「きゃっ!」
ドンと押されたエリザはアリスの狙い通り、よろめいて階段の手すりに掴まった。
アリスは彼女の手からグラスが滑り落ちる前にさりげなく掴み、割れないように床に置くためにわざと転んでみせた。
このような素早い身のこなしが会得できたのも、ひとえに組織の養成所をかねた修道院での6年間の訓練の賜物である。
「……っ!?」
アリスが床に手を突いてうずくまっていると、すぐにエリザの叱責が飛んできた。
「危ないじゃない!」
「ご、ごめんなさい! 慣れないハイヒールでうまく歩けなくて……!?」
跳ね上がるように立って大げさに謝るアリスの顔を見たとたん、エリザの顔に驚愕の表情が広がる。
「……って、あなた、サシャ様にエスコートされていた……!?」
「アリス……!?」
まさに名前が出たタイミングだった。
サシャの慌てた声が上から響いてきて、アリスはいたずらが見つかった子供のようにドキッとした。
ふり仰いだ視界に、金髪と緋色の軍服の長い裾を靡かせ、数段抜かしで階段を一気に降りてくるサシャの姿が映った。
大広間は吹き抜けになっていて、二階の通路から一階を見下ろせるのだ。
どうやら転んだ現場をサシャに見られていたらしい。
メロディに走るなと注意した彼が、全速力で駆けてきているのだから、相当な慌てようだ。
「大丈夫か!」
すっ飛んで来たサシャはアリスの両肩に手をかけ、真剣な表情で訊いてきた。
「ええ、大丈夫よサシャ」
「まったく、君らしくないそそっかしさだ! 転んでいるのを見た時は心臓が止まりそうになった」
そこまで言うのは大げさだと思いつつ、
「ごめんなさい……」
今夜帰ったあとはお説教コースだなとアリスは確信し、神妙な表情を浮かべた。
サシャははーっと長い溜息をつき、反省した様子のアリスから手を離してエリザに向き直ると、流れるような動作でその手を取った。
「エリザ嬢。アリスが迷惑をかけて申し訳なかった」
憧れの君であるサシャに手を握られて謝罪され、まばゆい美貌を真近で眺めたエリザの顔は紅潮し、魂を抜かれたようにぽーっとなった。
そんな様子をアリスがぼんやり眺めていると、
「エリザ嬢、僕のほうからも謝罪させて欲しい」
重ねて詫びる声が上から降ってきた。
反射的にアリスの瞳に、緋色のマントを揺らしながらゆっくりと階段を降りてくる白い軍服を着た男性の姿が映った。
漆黒の髪に濃い鮮やかなブルーの瞳をした目の覚めるような美形。
異様なまでの存在感を放つ彼を目の当たりにした瞬間、アリスはキールやシモンを見た時とは違う種類の激しい衝撃を受けた。
「アルベール殿下!」
エリザが悲鳴のような声でその名を呼ぶ。
そう、彼こそは『燃える髪のメロディ』のヒーローでありメロディの運命の相手――フランシス王国の第一王子にして王太子アルベールだった――