21、愛の響き
人前にもかかわらず堂々たる態度で求婚の意志を述べたあと、シモンのエメラルド色の瞳はまっすぐアリスに向けられた。
「アリスさん、今のあなたにとって、僕の気持ちなど迷惑なだけかもしれない――それでも、どうか言わせて欲しい。
一目その姿を見た瞬間から、僕の頭の中はあなたでいっぱいになり、ひとたび会って話をしてからは、いよいよ焦がれる想いが止まらなくなった。
今日もただあなたの美しい姿が見たくて、少しでいいから言葉を交わしたくて、ここへとやって来た。
――あなたを愛している。
この先もあなたを崇拝し、妻にと望み続けることをどうか許して欲しい――!」
それは後見人に縁談自体を一蹴され、本人にも結婚する意志がないことを知ったうえでの、ひたむきで劇的な求婚と愛の告白だった。
発言の余韻でお茶会の場は水を打ったように静かになり、テレーズとアリス以外の女性陣達は、うっとりと貴公子然としたシモンの姿に見惚れている。
アリスも彼の真摯な言葉に、何かしら誠意を返さなければいけないと焦った気持ちで口を開いた。
「シモンさん……私は……」
言いかけたものの、焼けた石でも飲み込んだように胸が熱く苦しく、続きの台詞がなかなか出てこない。
困っているアリスの表情を見上げたシモンは、ふっと優しい笑みを唇にはき、ゆっくりと小さく首を振る。
「待って、アリスさん……今はまだ返事はいらない。気持ちを知って貰えるだけでいいんだ。
どのみちここでなんと言われても、あなたを諦めるつもりはない」
きっぱりと言い切られ、アリスは思い知る。
(――ああ、なんてことだ。私は思い違いをしていたんだ――)
今までずっとアリスはシモンのことを見た目そのままに、内面も女性のように繊細で優しいだけの男性だと思っていた。
けれど、今こうして彼の言動を目の当たりにすることで、初めてそれが大間違いだと気づく。
――シモンの内面はとても男らしいのだと――
愕然とする思いのアリスの隣で、渋面のサシャが深い溜息をつく。
「ヴェルヌ卿、私も同じように君に何を言われても気持ちが変わることはない。
勝手に想い続けることは自由だが、今後は気やすく触れたり、二人きりになるなどの、アリスの評判を貶める行為はいっさい止めて欲しい」
つまりアリスに言い寄るなとサシャはシモンに釘をさしているのだ。
そもそもサシャが今回のお茶会に参加したのは、最初からそれを言うのが目的だったとアリスには感じられた。
「……ノアイユ侯爵閣下。僕はアリスさんに対し、いかなる無責任な行為もしないと誓います。
だからどうか、ご安心ください」
含みのある言い方をするとシモンはすっと立ち上がり、アリスの顔をもう一度想いを込めるように見つめたあと、自分の席へ戻っていった。
親友が隣の席に戻ってくるの待ってから、刃物みたいなキールの青灰色の瞳がアリスに向けられた。
「アリスさん、あなたに結婚する意志はなく、修道院に帰りたがっていると理解したうえで聞きたいんだが……勝手に結婚相手を後見人に決められることについて、あなた本人はどう思っているんだ?」
また面倒くさい話題を振ってきたなと、うんざりしつつ。
相変わらずキールの顔を直視できないアリスは、彼の胸元あたりを見つめながら答える。
「キールさん。申し訳ないけどそのことは、私と後見人であるサシャが二人で話し合うべきことです。
あなたには関係ないし、ここではその話をしたくありません」
「関係ないだって? 俺はそうは思わないね。親友の恋の行方に深く関わることだ。
そう冷たいことを言わずに、ぜひとも答えてくれないか?」
「キール……お願いだ、止めてくれ!」
シモンはキールを制止するように肩を掴み、強く揺する。
しかしキールは一歩も引かず、今度はサシャに鋭い視線を向けた。
「ノアイユ侯爵、そもそも本人より、あなたの意志を優先して、結婚相手を決めるということ自体間違いではありませんか?」
サシャは冷笑した。
「アリスの意志を優先したら、そもそも結婚話の前に、今この場にいないではないか。
私にこの愛しいアリスを修道院へ戻せというのか?」
「俺が言いたいのは、アリスさんにも男性の好みがあるのではないかと言うことだ。
女性というものは、自分が好ましいと感じる相手と結婚したほうが、より幸福になるものです。
まずはそこを考慮した上で、相手選びをするべきでは?」
「キールさん。悪いけど、私はその意見に反対だわ。
あなたはアリスのことを何も分かっていないからそうおっしゃるのよ!」
と、そこで黙っていられないとでもいうように、テレーズが強い口調で意見を挟める。
「そりゃあ、ほぼ初対面だからそうかもしれないが、だったら分かるように説明して欲しいね」
「ええ、いいわ!
アリス、この娘はね、好み以前に、そもそも男性自体にまったく興味がないのよ。
異性や結婚はもちろんのこと、自分の幸福についても一切関心がなく、放っておいたら間違いなく、干からびた孤独な人生を歩むような娘なの。
そんなこの娘が強いて言われ、無理矢理に相手を選んだとしても、見る目がないからろくな選択をするわけがない。
家族であるノアイユ侯爵はそのことを踏まえ、心を鬼にして判断して下さっているのよ!」
(ろくな選択って……テレーズったらまだグレイ様のことを言ってるわけ?)
アリスはテレーズによる先日の『グレイは相手を不幸にするタイプ』『あんたは男を見る目がない』発言を、嫌な気分で思いだした。
いったん、言葉を切ると、テレーズはサシャに向き直る。
「ノアイユ侯爵、本当にあなたのような人がアリスの家族で良かったです。
この娘は容姿と性格がかなりかけ離れているから、どうか伴侶を選ぶなら、内面からきちんと見て愛してくれるような人にして下さい。
外側だけに惹かれた男性と結婚したら、きっと期待外れだとガッカリされてしまうわ」
「テレーズさん。君の言う通り、アリスは見た目の印象と違い、幼い頃からとても恥ずかしがり屋で、内気で他人と接するのが苦手だ。
私はもちろんそのようなところも非常に可愛いと思っているが、大抵の男性にははにかみ屋で控えめ過ぎる性格が、物足りなく感じるかもしれないね」
二人ともガッカリとか、物足りないとか、酷い言いようだとアリスは思った。
「それはシモンのことを言ってるのか?」
むっとしたように訊いてくるキールに対し、テレーズはかぶりを振る。
「別に具体的に誰かを指して言っているわけではないわ!
私はただ本人の気持ちや好みを優先することが、必ずしも一番良い選択ではなく、時に幸福から遠ざかる結果になることもあるのだと分かって欲しいの」
「テレーズさん、俺にはどうにも分からないな。
普通あんたぐらいの年頃の娘は、もっと恋や結婚に夢を見るものだろう?」
「キールさん、私はね、恋に盲目になって、ただ感情だけで相手を選び、不幸になった例を知っているの。
一時的に燃え上がる感情より、私はもっと深く育む愛を、それに相応しい伴侶を望むわ」
(テレーズがそんなことを考えていたなんて……)
恋については縁が無さすぎてさっぱりイメージが沸かないものの……。
テレーズの口にする『愛』という言葉の響きは、酷くアリスの心を不安な気分にさせる。
アリスにとっての『愛』は、自分を弱くし、心を引き裂くだけのもの。
思えば誰にも愛されず、愛することもなかった前世の彼女は、ある意味で無敵だった。
何も持たない者ゆえの強さがあったのだ。
ところが生まれ変わった彼女は、両親の愛にくるまれて育ち、まっすぐ愛情を向けてくる幼い妹を得たがゆえ、脆く弱くなった。
それなしでは生きていけないぐらい、心を依存させてしまったのだ。
おかげですべて失った今は致命傷で息も絶え絶え。
今では自分を苦しめるためだけに一時期だけ『愛』を与え、容赦なく奪った神を、何よりも恨んで呪っている。
いわば現在の彼女は、神への復讐心と、その決定した運命に逆らい、もう一度最愛の妹を取り戻すという執念だけで生き長らえている状態だ。
そんな自身を理解しているからこそ、アリスには分かる。
もしもまた誰かを心から愛し、失うことがあったとしたら、その時こそ完全に自分は『終わる』のだと――
今度こそこの心は完全に粉々に砕け散り、再起不能になるだろう。
(私の心は、もう一度誰かを愛することに、そのプレッシャーに耐えられるほどには強くない)
想像するだけで、まるで闇底に飲み込まれるような不安と恐怖をおぼえる。
だから今まで決して誰にも心の深い部分には立ち入らせないようにしてきた。
高い防壁を築き上げるように心を鎧い、いっさい他人と心を通わせることを拒否し、深く関わり合うことを避けてきたのだ。
そしてこの先も決してその姿勢を崩すつもりなどない。
生涯もう誰も愛するつもりなどないのだ。
たとえテレーズの言うように孤独で干からびた一生を送るのだとしても。
(私のすべての愛はすでにミシェルに捧げられているのだから)
とたん脳裏に浮かんできた愛しいミシェルの面影に、深く心臓がえぐられるような痛みが胸に走る。
とっさにアリスは震える片手を庇うように、両手でティーカップを持ち直した。
「アリスさん……顔色が悪い……大丈夫ですか?」
斜め向かいの席から、目ざとくアリスの様子に気がついたシモンが、心配そうに声をかけてくる。
「……ええ、大丈夫です……」
頷いて、気を落ち着かせるために紅茶を一口飲み下したとき――
「テレーズ!」
前触れもなく恫喝するような声が背後で起こり、思わずアリスはびくっと身をこわばらせた。
反射的に振り返った瞳に映ったのは、庭の向こう側からこちらへと歩いて来る、体格の良いブルネットの髪の男性の姿――
マラン伯爵夫人が席から立ち、驚きの声を上げる。
「オーレリー! あなたは今日屋敷に呼んでないはずよ! どうしてきたの?」
「クララから、テレーズがあなたのお屋敷で世話になっていると聞き、急いでやって来たのです!」
その台詞から、知り合いだと判断して視線を送ると、テレーズは凍りついて蒼ざめた顔で唇を噛みしめている。
「なぜそれで急いでやってくる必要があるの? お客様がいる前で不作法だし、とにかく今日は帰ってちょうだい」
オーレリーと呼ばれた男性は頭に血が上っているらしく、マラン伯爵夫人の言葉を無視して構わずテレーズを怒鳴りつける。
「無視しないでこちらを見て返事をしろテレーズ!
お前はなぜ修道院から帰ってきて、うちではなく俺の妻の実家なんぞの世話になっている?
兄である俺に恥をかかせるつもりなのか!」
(兄?)
アリスはそこで初めて彼がテレーズの兄だと悟り、修道院時代に聞いた話を思いだす。
『うちの家族はみんな最低だけど、中でも特に兄が最悪。暴言は酷いし、実の妹の身体を触ってくる変態なのよ!』
他人にまったく興味がなく、テレーズの身の上話もつねに聞き流していたアリスでも、その話だけは印象深く記憶に残っている。
理由は、聞きながら前世のときの、母親の恋人によって与えられた自身のトラウマを思い浮かべたからだ。
(つまりこの男が、暴言が酷い変態の兄!)
いずれにしてもテレーズみたいに気丈な女性が、こんな引きつった顔をするなんてよほどのことだ。
再び不快な前世での記憶が蘇り、アリスは苛立ち半分にカップを置いて、素早く席を立つ。
「アリス?」
気がついて声をかけるサシャを無視して、静かでありながら押さえがたい怒りに瞳を燃やし、アリスはオーレリーに歩み寄っていった。
「申し訳ないけど、テレーズはあなたと話をしたくないと思うわ。
マラン伯爵夫人の言う通り、どうぞ、今日は帰ってくださらない?」
「誰だか知らないが家族の問題だ。そこをどいて通してくれ」
行く手を阻むように庭の小道に立ちふさがるアリスに向かって、ぶつかりそうな勢いでオーレリーがずんずん近づいてくる。
それでも引く気のないアリスの目前に、いつかのように颯爽と長身の背中が盾のように現れた。
「悪いがアリスさんの意志に反して、ここを通すわけにはいかない」
断言するシモンの硬い声が庭に響き渡る。
驚いて黄金色の後頭部を見上げたとき、後ろから誰かの腕に抱き寄せられ、横を別の誰かが通り過ぎて行く気配がした。
「アリス、君は危ないから出てはいけない」
彼女を守るように腕に抱いたのはサシャだった。
「ほら、お帰りはこちらだ。俺が連れて行ってやろう!」
「痛っ! 離せっ!」
そして前方から聞こえてきたのは、キールの楽しそうな声と、オーレリーのうめき声。
アリスはそこでようやく、自分が三人の男性に庇われている状態であることに気がついた――




