20、後見人の一存
キールは論外だがノアイユ夫人は、いくらシモンと身内になりたいとはいえ、焦り過ぎのようにアリスには思えた。
(こんな事態になるなら、早めにシモンと婚約する気がないことを夫人に告げておけば良かった。
いずれにしてもこのままでは、私のせいでシモンが晒し者になってしまう――)
今までのサシャの態度からして、自分とシモンとの婚約を認めることは絶対に有り得ないと、アリスには断言できる。
シモンの好意に気がつきつつも受け入れる気がないアリスは、できるだけ早めに自分には気がないことを示して諦めてもらうつもりだった。
しかし、事態はすでにその段階をとっくの昔に過ぎてしまっている。
もちろん、名誉挽回を掲げている今回のサシャは、先日のような無礼な行為や侮辱発言はすまい。
しかし前回のような感情的な言動が特別で、本来の彼はいかにもな正論を吐いて相手を追い詰めるタイプ。
一見正しい指摘なので言い返せないぶん、言われている相手はよけいにきついのだ。
ここまできてしまった以上は不本意だが、やんわり断るようにお願いするしかない――
素早く考えをまとめたアリスは、決意をこめて隣の席を見やった。
キールとノアイユ夫人、二人から返事を求められているサシャは、勿体ぶった態度でティー・カップを口元で傾けている。
たぶんこのカップを口から離した瞬間、いつもの歯に衣着せぬ物言いが始まるはず。
そうはさせるものかと、アリスはサッとサシャの耳元に唇を寄せた。
「……お願い、シモンを傷つけないように言葉を選んで」
切羽つまったような囁きを受けたサシャは、彫刻のように整った白皙の顔に、ゆらっ、と苛立ちのような表情を浮かべる。
彼は紅茶を飲み下し、アリスの耳に触れるぐらい唇を寄せて囁き返した。
「……ああ、もちろんだ。私のアリス」
(――!?)
耳にかかる息と、例の『私の』もの認定に、アリスは二重の意味で背筋に冷たいものが走った。
約束したサシャは静かに受け皿にカップを置き、まずは答えを待つ母親に釘を刺す。
「母上、アリスの結婚に関しては、よけいな口出しをしないようにお願いしたはずですが?」
「だけどサシャ、こんないいお話、断る理由はないでしょう!」
感情的に訴える母親の言葉を受け流し、サシャは一同を見渡すと、宣言するように言い放った。
「――デュラン卿、ヴェルヌ卿、他の皆さんもアリスも、どうか聞いて理解して欲しい。
私はこの世にいる他の誰よりも、アリスを愛し、その幸福を願っているということを――!」
「……!?」
(――いきなりサシャは何を言い出すの?)
恥ずかしさで一気に体温が上がるアリスをよそに、臆面もなくサシャは言葉を続ける。
「ゆえにアリスの将来や結婚相手についても、本人の意志よりも幸せを優先し、最良の選択をしたいと思っている。
しかし現状、アリスはいまだ修道院へ帰りたいという願いを捨てきれず、結婚自体を望んでいないのだ」
「まあ! アリス、まだあなたはそんなことを言っていたの!」
ノアイユ夫人が驚き呆れる。
サシャは普段従順な者が、たまに言い返したり意見してくると、目に見えて機嫌が悪くなる。
そのことに気がついていたアリスは、夫人のためにも自分の味方につけようとはせず、サシャがいる時しか『修道院へ帰りたい』と言わないようにしていた。
加えてその主張も最近は控えていたのだから、今さらだと思われても仕方がない。
「私は何といっても女性として一番の幸福は、妻となり母となって女性としての喜びを知り、夫や子供などの家族の愛に包まれた人生を送ることだと信じている。
ところがアリスは生涯を神に尽くしたいと思うような、天使のように清らかにして無垢、硝子細工のように繊細な心を持った女性なのだ」
(が、硝子細工……!?)
口をあんぐりと開けるアリスと並び、テレーズが必死に噴出すのを堪え、両手で口を抑えて小刻みに身を震わせだす。
「そんな壊れ物のようなアリスだからこそ、結婚相手を選ぶ基準として、万に一つでも傷つけられる可能性のある相手は避けたいのだ。
――失礼だがヴェルヌ卿、君は非常に女性の扱いに長けた男性だね。
今までも、今も、さぞや女性達に囲まれてきたことだろう」
「そんなことは……」
突然の指摘にシモンの表情が曇る。
「シモンが女性に囲まれるのは本人のせいじゃない。
この甘いマスクと人当たりのせいで向こうから勝手に寄ってくるんだ!」
すかさず入れたキールのフォローは、残念ながらまったくシモンの助けにはなっていなかった。
サシャは金色の長い睫毛を伏せ、憂いに満ちた表情でなおも続ける。
「私はこの通り武骨な人間なものでね。
女性慣れしている男性を見るとどうしても危惧してしまうのだ。
婚約者や妻の立場にある女性は気が気じゃないのではなかろうかとね。
できればアリスの夫となる人物は、そのような面でも一切心配をかけない、異性に関して不器用なぐらいの男性が望ましい」
シモンは眉根を寄せ、どこか必死な様子で訴える。
「僕は決してそのようなことで、婚約者や妻に心配をかけたりしません!」
「私もその言葉を信用したいのだが、出会ったその日にアリスの手を握り、言い寄っている姿を見てしまった後ではね。
もちろんそれが過剰な反応であり、君のせいではなく私が古い価値観をもった、潔癖過ぎる人間なのだろう。
ただ、申し訳ないが、アリスの結婚相手を決める選択権があり、基準になるのはこの後見人の私なのだ。
ヴェルヌ卿。君ほどの男性ならば、それこそ女性などより取りみどりだろう?
――どうかここは、巡り会わせが悪かったと思って、アリスのことはきっぱり諦め、忘れて欲しい」
いかにもこじつけ的な理由ではあるものの、あくまでも自分の基準が厳しいだけで、シモンの人格を否定するものではないと一応サシャは説明している。
彼にしては至極論調が穏やかであり、言葉使いに気を使っているほうだとアリスは感心した。
「ちょっと待ってくれよ、ノアイユ侯爵。シモンは誠実な男だし、今まで自分から女性に言い寄っている場面など一度も見たことがない。
今回が特別であり、運命の相手のアリスさんだからこそ迫ってしまったんだ!
だから女性面で心配する余地なんかないし、そんな理由でお断りされるなんて納得できない!」
「デュラン卿。真実、ヴェルヌ卿が親友の君の言う通りの人物なのだとしても、人生というものは、たった一度のうかつな行動やミスが、その後の全てに影響してしまうものなのだよ。
一度事実を眼のあたりにし、こうして胸に刻まれてしまった印象は、完全に消し去ることなど不可能だ。
少しでも疑念のある相手にはアリスは任せられない――すまない」
謝罪つきで諦めるように勧告されたシモンは、引きつった表情で、薔薇の花弁のような唇をきゅっと引き結び、押し黙る。
いまだ納得していないノアイユ夫人が息子に食い下がる。
「サシャ、そんなのは言いがかりだわ! そんな細かいことを言って選り好みしていては、アリスはあっという間に婚期を逃してしまいます!」
「その点に関しては心配には及びませんよ母上。アリスはこの容姿に侯爵家の後ろ盾。
あなたが想像しているより、ずっと引く手あまただし、現にすでに王国屈指の高い身分の方からのお誘いもある――
何より他ならぬこの私がアリスの幸せのために最善を尽くし、どうなろうとも生涯保護するので問題ない」
確信と自信を込めて言い切ったサシャの姿に、先ほどまで失笑をこらえていたはずのテレーズの瞳が、いつの間にか感動したように潤みだしている。
「閣下は本当にアリスのことを考えてくださっているんですね!」
(テレーズ、なぜここでその反応と台詞!?)
「当然だ。アリスのことは小さい頃から可愛く思い、今では私の最愛の存在だからね」
人前で『可愛い』とか『最愛』とか言われたアリスは羞恥心で身体が熱くなり、全身から嫌な汗が噴出すのを禁じえなかった。
(これは何の罰ゲーム!?)
――と、いったん会話が途切れ、サシャの独断場のまま、この話題も終わりだろうかとアリスが思いかけた頃。
刃物みたいな目に不満の色を浮かべるキールが、皮肉気な口調で鋭い切り返しを始める。
「侯爵閣下、ひとつ大切なことを確認しておきたいのだが、あなたは本当にアリスさんを嫁がせる気があるんですよね?
生涯保護するという言い回しも引っ掛かるし、どうも、愛しているとか最愛とか言う台詞が、俺の耳には他の男には渡したくないと聞こえてしまう。
――まさか、最後は任せられる相手が誰もいないので、あなた自身がアリスさんと結婚するというオチではないですよね?」
恐るべきキールの禁断の指摘に、アリスは一気に全身から血の気が引く思いがした。
(まずい……!? キールったら、なぜ一番触れちゃいけないそこをつっこむのよ!)
このまま兄妹路線を貫くならば、間違ってもサシャに、その可能性を匂わせる発言をさせてはいけないのに。
可能性すら完全に潰しておくべき忌まわしきフラグであるがゆえ、即行でアリスは潰しにかかった。
「デュラン卿、それは絶対に有り得ないわ!
彼と私は実の兄妹同然。間違っても結婚対象にはならないし、夫婦になるなんて生理的にも無理だわ!」
「ええ、アリスの言う通りです。
何しろ二人は6歳も年が離れ、サシャはアリスが3歳の頃から接してきたんですもの。
幼い頃にアリスを屋敷に引き取り、修道院に入るまでは家族として一緒に暮らしてきましたから、本当の兄妹そのものですわ。
とても色恋や婚姻関係に発展する要素などありません――ねぇ、サシャ」
ノアイユ夫人が話を振ると、重い沈黙のあと、サシャが紙のように白い顔で頷く。
「……その通りだ……」
テレーズはその返事を聞いたとたん、とうとう堪えきれなくなったように、目頭をハンカチで押さえだした。
「アリス、あなたはこんなにも良い家族に囲まれて幸せに暮らしていたのね! 良かった」
どこが良くて感激ポイントなのかアリスにはまったく理解できない。
要するに、結婚相手は自分の意志をいっさい無視され、サシャの価値観および一存のみで決まるという話ではないか。
この場ではこれ以上話が長引くのが嫌なので、あえて反抗はしないが、絶対にそのような傲慢な意見に従うわけにはいかない。
(……全力で抵抗してやる……)
アリスが内心むかつきながら心に誓っていると、斜め向かいの席に座るシモンが、不意にすくっと席から立ち上がった。
二人を見つめる澄んだエメラルド色の瞳には、強い決意が見てとれる。
「ノアイユ侯爵閣下……あなたのお考えはよく分かりました。
ですが、僕にも一言言わせていだたけませんか?
このまま引き下がってしまっては、本来自分で言うべきことを友に代弁させた、情けない男のままになってしまう」
「……手短にたのむ」
あれだけ自分は長台詞をしゃべっておいて、サシャの返事はずいぶん狭量に感じられるものだった。
もしかしたら、シモンが自分にとって好ましくない発言を始めるという匂いを察知したのかもしれない。
ともかく了承を得たシモンは、黄金色の髪を靡かせ、テーブルを回って二人の近くまで来ると――流れるような動作で地面に片膝をついた。
(シモン、いったい何を言うつもりなの?)
アリスは緊張の思いで、シモンを見下ろし言葉を待つ。
シモンは女性のように綺麗な面を上げ、切々と訴えかけるように語り始めた。
「――キールの言う通り、僕は先日の夜会の晩、アリスさんに出会い、生まれて初めて一目惚れをしました。
そして公園で再会した時はひたすら舞い上がり、玄関先で言い寄ったりもして――今では、アリスさんが他の男性と結婚することを想像しただけで耐え切れない想いがする。
ノアイユ侯爵閣下! あなたの許可は得られず、アリスさんも結婚自体を望まず、今は一つも見込みがないことは分かっている。
けれど今あなたに諦めるように言われ、初めて僕は自分がどれほど、アリスさんとの結婚を望んでいたのかを思い知りました。
どうか、この場で改めて、正式にアリスさんへの求婚者として名乗りをあげさせて下さい!」




